弟がいた時間(きせつ)

川本明青

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5 知らない誰か

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数日後、まだ明るいうちに勇樹が帰ってきた。玄関の鍵を開けて入って来る音はしたものの、なかなか上がってこない。いつもみたいに「ただいま」も言わない。気になって玄関を覗いてみると、靴を履いたまま荷物の隣に仰向けに寝転んでいた。

「どうしたの?」

「ちょっと熱っぽくて」

額に手を当ててみると、明らかに高熱が出ているのがわかった。

「ちょっとどころじゃないって。すごい熱じゃない。いつから?」

「昨夜から」

「それで仕事してきたの?」

「どうにかね。でももうここまで来れば大丈夫。後は家でやるから」

勇樹はうわ言のように、よくわからない専門用語だとか、納品がどうだとかぶつぶつ言っている。

「明日は家にいられるの?」

勇樹はうなずいた。

「そっか。とにかく病院行こう」

「やだ」

「やだじゃない」

「動きたくない」

「そんなこと言ったってしょうがないでしょ。病院に行かなかったら結局長引いちゃうよ。今頑張って動いた方が絶対いいって。ね」

タクシーを呼んで近くの内科に連れて行き、薬を出してもらった。四十度近い熱だったけれど、今流行りの風邪でしょうということだった。


家に戻ると、勇樹は玄関に入るなり腰を下ろした。

「ちょっと。部屋まで頑張ってよ。もう少しなんだから」

勇樹はうなだれたまま辛そうにため息を吐いてから、奈瑠に向かってゆっくりと左腕を差し出した。

「手貸して」

「まったくもう」

腕を掴み、引っ張り上げるつもりで力を入れたものの、おそらく勇樹が立ち上がるのにあまり役には立たなかった。

ふらふらしている勇樹と一緒に部屋まで行き、ふすまを開けて先に入った。寝やすいようにと掛布団をめくる。

「まずは着替えなきゃね。きゃっ‼」

ふり向いた途端、ベッドの上に押し倒された。思わずジタバタする。

「ちょっと勇樹!?」

勇樹はどっかりと覆いかぶさったまま動かない。うーんと唸るだけだ。

「重いってば! どいてよもう」

だがどこうとしない。全身で勇樹の体重と体温を感じる。

「バカ! 重いってば!」

勇樹がようやくのっそりと体をどかすと、奈瑠は慌ててべッドから起き上がった。

「薬準備してくるから。着替えといてよ。まったくもう」

台所でコップに水を注ぐ。心臓がドキドキ言っていた。首筋には勇樹の少し伸びた髭の刺激がまだ残っている。勇樹に薬を飲ませるための水だったのに、自分で飲み干した。一度コップをすすいでまだ水を注ぎ、さっきもらって来た薬を指示通りの数袋から出した。だが空きっ腹に薬もよくないだろうと、何なら食べられそうか聞くためにまた勇樹の部屋に戻った。

「ちょっと着替えなさいってば。そんな格好じゃ寝心地悪いでしょ。ねえ、薬飲む前にちょっとでも何か胃に入れた方がいいんじゃない? おかゆ作ろうか?」

勇樹は微動だにせず「いらない」とつぶやいた。

「とにかく着替えよう。ね。ほら頑張って」

奈瑠は横たわった勇樹の脚をぽんと叩いた。

「着替えどこに入ってるの?」

「そこ」

「そこじゃわかんないよ。適当に開けるよ」

押入れを開け、中に入っているプラスチックの衣装ケースを順番に引き出してみる。勇樹がよく家で着ているTシャツやスウェットなどを見つけて取り出し、ベッドの端に置いた。

「ほら起きて。勇樹くんはやればできる子でしょ」

奈瑠に急き立てられ、勇樹はようやく体を起こしてベッドに腰掛けた。上気した顔で、のろのろとシャツのボタンに手をかける。けれど端から外す気もないのか一向に外れない。

「もう何やってるの。ちょっと貸して」

奈瑠は勇樹の前にかがんでシャツのボタンを外し、脱がせた。

「これも汗かいてるでしょ。はい、バンザイ」

中に来ていたTシャツをはぎ取ると、ほどよく筋肉のついた上半身が露わになった。一緒に暮らしてはいるが、勇樹の裸を見るのは初めてだ。治まりかけていた胸のドキドキがまた少し加速した。弟の裸を見てドキドキするなんて、と思いつつ、衣装ケースから取り出したTシャツを頭からかぶせる。

「はい腕。そう。今度はこっち。よし。ほら、後は自分でやって。パンツまで脱がされたくないでしょ。薬持ってくるから。ね」

奈瑠は部屋を出た。まだ胸が騒いでいた。

 

翌朝、額に手を当ててみると昨日ほどの熱はないようだった。勇樹がゆっくりと目を開ける。

「気分はどう? 大丈夫?」

「大丈夫じゃない」

「でも熱は昨日より下がってるっぽいよ。計ってみて」

勇樹が熱を計っている間に台所に行き、水を持って戻ってくると、体温計の数字は三十七度五分だった。

「まだちょっと熱あるね」

「でもホント言うと、わりと気分爽快なんだけど」

「そりゃあ昨日は四十度近くあったわけだから、二度も下がればずいぶん楽だよね。でも寝てなきゃダメだよ。今日は仕事ないんでしょ? 昨日言ってたよね? 今日は家にいられるって」

「家にはいられるけど、パソコン作業が残ってる」

「どうしても急ぎじゃないなら体やすめて。かなりの高熱で体力消耗しちゃってるんだから、無理したら治るものも治らないよ。でもあれで仕事こなして来たんだからエラいよね。さすがはプロ」

「出来栄えがかなり怖いんだけど」

「ま、そこはお楽しみってことで。とりあえず朝の薬飲まなきゃ。何か食べられる?」

「あんまり食欲ないなあ」

「おかゆ作ってあげるよ。少しでもいいから食べなきゃ」

「なんか、昔あったね。こういうの」

勇樹が言った。そう言えばつい先日、勇樹が知世に話して聞かせていたのを思い出した。

(おでこ冷やしたり、おかゆ作ってくれたり、ゼリーとかプリンとか買って来てくれたり)

(遠足の弁当とかも姉ちゃん作ってくれたし。姉ちゃんであり、母親みたいでもあったかな)

「何急にムッとした顔してんの?」

勇樹が不思議そうに奈瑠の顔を見ている。

「してません。おかゆ作ってくるから」

たった四つしか歳が違わないのに母親呼ばわりされてたまるか。そんなことを思いながら台所に立った。ここのところ、人の看病ばかりしている気がする。

でき上がった卵がゆを部屋に運ぶと、勇樹は思ったよりもたくさん食べてくれた。

「ところで姉ちゃん、この前面接受けてたとこどうなったの?」

ミュージアムショップのオープニングスタッフのことだ。

「落ちた」

一縷の望みにかけていたのだったが、やはり一縷くらいではダメだったようだ。興味があった分、ショックではあった。

「わたし、いつここ出て行けるのかなあ」

「早く出て行きたいわけ?」

「早く出て行ってほしいでしょ?」

「そんなことひとことも言ってないじゃん。姉ちゃんいてくれて助かってる面もあるし。昨日や今日だって……」

「母親みたいだから? それともあれかな。家政婦的な」

「何だよそれ」

自分でも卑屈になっているのがわかって、話を変えた。

「ねえ、風邪引いて寝込んでること知世ちゃんに早めに知らせた方がいいんじゃない?」

「なんで?」

「弱ってるときは彼女にそばにいてほしいでしょ? 早く知らせとかないと、知世ちゃん忙しいから来られないかもよ。来るときは、わたし、出かけててもいいし」

「どういう気の遣い方だよ。あいつ今、新しい案件に取りかかったばっかりで相当忙しいみたいなんだ。それにもうだいたい治ったし」

「まだ治ってません」

「じゃあ姉ちゃんが看病してくれよ」

「そりゃあ、するけど」

おかゆの鍋や食器を洗いながら、なぜか少しいそいそとしていた。もう少しの間、勇樹が風邪をひいていてくれてもいいかなと思った。


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