弟がいた時間(きせつ)

川本明青

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6 バレてしまった嘘

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 三日後の土曜日も、物件を見に行くために朝洗面所で髪を整えていると、休みだという勇樹が起きて来た。

「姉ちゃんどっか行くの?」

まだ半分寝ぼけた顔で鏡越しに話しかける。伸びた前髪が眼鏡にかかっている。

「ちょっとね」

「ちょっとか」

勇樹も奈瑠の後ろで左右に頭を動かしながら、自分の髪のはね具合を見ている。

「部屋探し。ネットで良さそうな物件見つけたから見に行こうと思って」

動きを止めた勇樹と、鏡越しに目が合った。

「でもまだ決まったわけじゃないからちょっと待っててね。できるだけ早く見つけるつもりだけど」

「仕事が決まってから部屋探すんじゃなかったのかよ」

「だってそんなのいつになるかわからないし、これ以上迷惑かけられないじゃない。知世ちゃんにも悪いもん」

「だから、それはちゃんと話してわかってもらったって言ったじゃん」

「そうだけど、いつまでも甘えてるわけにいかないでしょ。それにわたしが知世ちゃんの立場だったらやっぱり嫌だもん。自分の彼氏の家に、他人の女が一緒に住んでるなんて」

「他人とかさ……」

「とにかく、どうなるかわかんないけど一応行ってくる」

「一人で?」

「そうだよ」

奈瑠が洗面所を離れても勇樹は後をついてきた。

「何も今日一人で行かなくてもよくない? 今度俺もつき合うからさ」

「じゃあ今日つき合ってよ。いい物件なんてタッチの差で決まっちゃうんだから」

「今日はダメなんだ。俺も出かけなきゃいけない。姉ちゃん何時ごろ帰って来んの?」

「どうかな。そんなに遅くはならないと思うけど」

「知世と三人で晩飯食わない? 知世がさ、姉ちゃんに謝りたいからって」

奈瑠は一瞬、支度する手を止めた。

「謝るだなんて、知世ちゃん何も悪いことしてないのに。今日出かけるのって知世ちゃんとなんだ?」

「とにかくさ、いいだろ?」

「……そうだね。いつかは誘ってくれたのに、わたしが台無しにしちゃったしね。夕方までには戻るから」

いつもそうだ。断る理由が見つからない。「そんなに遅くはならない」なんて言わなければよかった。ただ、一度ちゃんと謝らなければいけないのはこっちの方だ。それはわかっているけれど、どうしても気は進まなかった。


当てにしていた物件の一方はすでにネット上で契約が決まったと言われた。もう一方はまだ空いていたが、部屋自体は悪くないものの、どうしても人通りの少ない一本道を通らなければならないので、女性の一人暮らしにはあまり向かないと言われた。他にも二つほどおすすめの物件を見せてもらったけれど、どちらも今イチ気に入らなかった。
なんだか疲れてしまって他の不動産屋を回ってみる気にもなれず、かと言ってまっすぐ帰るのも何となく嫌で、ふらりとカフェに入った。

店を出た後も適当に街をぶらついた。

ショーウィンドウの涼しげなワンピースが目に留まり、ふと足を止める。落ち着いたサックスブルーのシンプルなノースリーブ。羽織るものによって着回しがききそうだし、これからやって来る夏に活躍しそうだ。下の方に表示してある値段を見ると、二万八千円。無職で居候の身である奈瑠にとっては決して安い金額ではない。それに第一、買ったところで今は着る機会さえない。自分には縁のない代物だ。奈瑠は店の中に入ることなく通り過ぎた。


家に戻ったのは四時頃だったが、勇樹はもう帰って来ていた。戸を開け放った縁側で一人、煙草を吸っていた。

「知世ちゃんと一緒じゃなかったの?」

奈瑠は居間の畳の上に腰を下ろした。

「一緒だったんだけど、仕事で呼び出されちゃったんだ。現場で何かトラブってるみたいで」

気をつかってか、勇樹はまだ長さのある煙草を灰皿に押し付けた。

「土曜なのに大変だね」

「忙しいときは休日も何もないみたいだよ」

「今夜ご飯行けるの?」

「後で連絡するって言ってたけど」

そのとき、玄関の呼び鈴が鳴った。昨日修理を終えたばかりだ。知世だろうか。

「現場ちょっと遠いから少し遅くなるって言ってたんだけどな……」

勇樹は立ち上がって玄関へと向かった。

少しして気がつくと、灰皿からはまだ細く煙が上がっている。煙草の火が完全には消えていなかったらしい。奈瑠が四つん這いで灰皿の所へ行き、吸い殻をつまんで念入りにぎゅっぎゅっと押し付けていると、勇樹たちが入って来た。

「ちょっと、火の始末ちゃんとしてよ。火事になったらどうする……」

見上げると、勇樹の後ろに立っていたのは知世ではなく、初めて見る中年の女性だった。

「姉です」

なぜか勇樹は、訪問客であるその女性に奈瑠のことをそう紹介した。奈瑠は慌てて居住まいを正し、戸惑いながらも
「勇樹がお世話になっています」と挨拶した。

「突然お伺いしてすみません。笹野と申します」

丁寧に頭を下げたその人の年齢は、五十代半ばくらいといったところか。物腰がやわらかで、何とかいう女優に感じが似ていると思った。いったい誰なのか、どんな用があってやって来たのか、勇樹はなぜ自分を姉だと紹介したのか、見当もつかない奈瑠は、正座したまま勇樹を見上げた。だが勇樹は目を合わせようとはしなかった。

「どうぞ」

勇樹は笹野さんを居間へ案内した。本当は隣の仏間が客間でもあるのだが、奈瑠の荷物が詰め込んであってお客さんを通せたものではない。

「お茶、淹れてきますね」

状況がよくわからないまま立ち上がった奈瑠に、笹野さんは「どうぞお構いなく。すぐに失礼しますので」と恐縮したように言った。

台所へ行き、緑茶を淹れようとして茶葉がないことに気づく。普段お茶はペットボトルで買っているのだが、こんなときに限って中身はほぼ空だ。冷蔵庫にあるのは缶ビールとミネラルウォーターと牛乳。コーヒーのドリップバッグも切れている。仕方がないので戸棚からインスタントコーヒーを取り出した。やかんを火にかけ、コーヒーカップを用意する。そうこうしている間も、居間の二人の会話は聞こえていた。

「元気だった?」

「はい」

「お花、勇樹君でしょう? ありがとうね」

「いえ」

「そう言えばこの前見たわよ。勇樹君の撮った写真。何て言う雑誌だったかな。とても素敵な写真だった」

「ありがとうございます」

「写真を初めてもう六年になるのね」

「はい」

勇樹はぼそりぼそりと短い言葉を返しているだけだ。

笹野さんとはいったいどういう関係なのだろう。学生時代の恩師と教え子? それとも仕事の繋がりだろうか。

「お花ありがとう」ということは、勇樹が笹野さんに花を贈ったということだ。気になるけれど、いつまでも台所にいて立ち聞きするわけにもいかない。お湯が沸くとすぐにコーヒーを淹れ、「すみません、インスタントコーヒーしかなくて」と言って出したあとは、自分の部屋へと引っ込んだ。


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