弟がいた時間(きせつ)

川本明青

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8 奈留の役割

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翌日の午後四時半、待ち合わせの喫茶店に行くと、知世はもう来ていた。

奈瑠が席に着くと同時にやって来た店員に、二人ともアイスコーヒーを注文した。

「すみません奈瑠さん。こんな夕方の中途半端な時間に」

「いいのいいの。どうせ暇なんだから」

知世は相変わらず忙しいようだ。

「本当に、嫌になるくらい暑いですよね」

季節は夏本番だ。

「奈瑠さん、実家に帰ったんですってね」

「いつまでも甘えてるわけにもいかないからね。知世ちゃんにもホント、いろいろ大変な思いをさせちゃって……」

「奈瑠さんって多分、そういう役割だったんじゃないでしょうか」

「役割?」

「神様か、もしかしたら隆治が、奈瑠さんにお願いしたんじゃないのかな。勇ちゃんとわたしに、いい加減目を覚ますように言ってやってほしいって」

「…………」

「でも正直、あの話を聞いたときはショックでした。勇ちゃんが、本当は隆治のことが好きだったって……。全部ぶっ壊れればいいと思って、わたしを誘ったって……。わたしは隆治とつき合ってたけど、あのときは本当に勇ちゃんに惹かれてたから。奈瑠さん、あの日勇ちゃんに聞いたでしょう? 勇ちゃんがわたしといることは『愛情なの? それとも償いのつもり?』って。そしたら勇ちゃん、黙り込んじゃって……。でもわたしも人のこと言えないんです。わたしはやっぱり、隆治のことが忘れられなかった。どうして人って、失ってみないと本当に大事なものに気づかないんでしょうね。そういうのよく聞くセリフだし、わかってたつもりでも、全然わかってなかった。しかも隆治は永遠に帰ってこない。いくら自分を責めても、どうすることもできない。本当に、あの頃は死にたいと思ってました。でも生きていられたのは、やっぱり勇ちゃんがいたからだと思うんです。二人して隆治を裏切って、同じ罪を背負った勇ちゃんが」

奈瑠が口を開こうとしたとき、注文したアイスコーヒーが運ばれてきた。

テーブルの上に二つのグラスが置かれ、店員が行ってしまうのを待って、奈瑠は再び口を開いた。

「知世ちゃんは、勇樹のことが好きでつき合ってきたわけじゃないってこと?」

「好きでしたよ」

知世は迷いもなく答えるとストローを袋から取り出し、グラスに差した。

「でも口で説明できるような単純な感情じゃないんです。きっと勇ちゃんも同じだったんじゃないのかな」

そしてグラスを口に運び、一口飲んでから続けた。

「勇ちゃんはわたしにとって大切な人だし、なくてはならない存在でした。だから奈瑠さんが現れたとき、本当は怖かった。お姉さんなのに、『取られる』って思ったんです」

知世は少し笑って見せた。

「だから、本当はお姉さんでも何でもないってわかったときは、もっとショックでした。勇ちゃん、奈瑠さんと暮らしてて楽しそうだったし。でも勇ちゃんがいろいろと、弁解? みたいな感じで、『俺たちは本当に姉弟以外の何者でもない。俺には知世しかいない』って言ってくれて、一応納得したふりをしてたんですけど、本当はどこかで、もうダメなのかなって思ってたんです。だって勇ちゃん、まるで自分に言い聞かせてるみたいだったから」

知世は一度窓の外に目を遣り、軽くため息を吐いた。

「隆治のお母さんが言ってたこと、その通りなんです。勇ちゃんは隆治の人生を生きようとしてるって。カメラマンになったってだけじゃなくて、他にもいろいろ。例えば服とか、隆治が好きだったブランドのものを着るようになったり、煙草なんて吸わなかったのに、隆治が吸ってたのと同じ銘柄のを吸うようになったり。あと、隆治は釣りが好きだったんですけど、勇ちゃんも始めてみたり……。バカですよね。でもわたしも止めなかった。わたしはわたしで、隆治を求めていたから……。本当にバカだったと思います。いくらそんなことしたって隆治になれるわけじゃないのに」

痛々しい愛おしさが込み上げる。

「でも勇ちゃん、バイクにだけは絶対に乗らなかったんです。隆治はバイクが好きだったけど、その事故で死んじゃったから」

奈瑠は息苦しく感じて、思わず細く深いため息を漏らした。

「ごめんなさい奈瑠さん。今日は奈瑠さんにそんな顔をさせるつもりじゃなかったのに。奈瑠さんも言ってたじゃないですか。いくら楽しい思い出も悲しい思い出も、所詮過ぎ去ったことだって」

奈瑠がそっと上げた視線を、知世の目が捉える。

「奈瑠さんが現れなかったら、わたしも勇ちゃんもいつまでもあのままだったかもしれない。でもこれからは、ちゃんと前を向いて生きていこうと思います。お互い、自分らしく」

「そっか……。よかった。ずっと心配してたの。勇樹と知世ちゃん、どうなっちゃうんだろうって。でもちゃんとわかり合えてよかった。これからは本当の意味で、二人で生きていくってことだね」

知世はきょとんとした顔をした。

「勇ちゃんから何も聞いてないんですか?」

「へ?」

「わたしたち別れたんです。勇ちゃんからは、これからも一緒にいようって言われました。でも断ったんです。だってそれは勇ちゃんの本心じゃないってわかってるから。そんなこと言ってるうちはまだ目が覚めてないってことですよ。今までの六年間、わたしたちはお互いに必要だったんだと思います。お互いの存在のおかげで、たとえ後ろ向きだったとしても立っていられた。だけど今はもうそうじゃない。気づこうとしなかっただけで、それぞれ一人で立ってたんだと思います。もちろん、勇ちゃんはわたしにとって、これからだって大切な人に変わりはないですよ。でもこの先の人生を一緒に歩いて行く人がいるとすれば、それぞれ違う人なんだと思います。今はただ、勇ちゃんに感謝かな。隆治もホッとしてるはずです。六年っていう時間が長いのか短いのかわからないけど、少なくとも、わたしたちには必要な時間だったんだと思います」
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