殺人鬼の住まう街

真夜中の抹茶ラテ

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第一章:For the beautiful world

To love is to suffer. To avoid suffering one must not love.

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 To love is to suffer. To avoid suffering one must not love. But then one suffers from not loving.

-恋をすることは苦しむことだ。苦しみたくないなら、恋をしてはいけない。でも、そうすると、恋をしていないということでまた苦しむことになる。-

Woody Allen(ウディ・アレン)



***



 落ち着いたジャズのBGMをかけながら、大通りに面した小さな茶屋で温い暖色の光が揺れていた。その元に茶色い影を落とすのは、この店の女店主。切りそろえられた若草色の短い髪は、春の新緑よりも黄色をはらんでいる。織部色の瞳は、一点の曇りもない茶器を映しており、もう直にその日の仕事も終わりそうな雰囲気だ。
 ふいに顔を上げれば、時計は二十二時少し前を指し示しながら、徐々に近づいてくる軽い足音と歩幅を合わせるように秒針を刻んでいた。
「お疲れさま、夜のティータイムにご一緒しても?」
立ち止まった足音に続き、裏方からひょっこりと顔を出したのは、ここの三階に引きこもってばかりの画家。
 「お疲れ様です、えぇぜひ」
店主は疲労の滲んでいた顔を穏やかに綻ばせ、調理台を譲り渡す。さながら新婚の夫婦のように。店主はカウンター側に回り込み、同居人の画家がこなれた手つきで美しくお茶を入れるのを見つめている。

 ここはとある街のとある店(と言っても、もちろんこの店にも店名はある)先ほど”新婚の夫婦”などと比喩したが、それは半分正しくて半分間違っているようなものだ。女主人は頬杖を突きながらそんなことを考えていた。
 見つめる先で手を動かす相手は、淡い桃色の長い髪を揺らして、赤と青のオッドアイの瞳で微笑みを向ける。その頭の上で揺れるのは猫やオオカミのそれに似た三角の耳。頭の左側からかけられた青いリボンは右耳の下で結ばれ、その対となるように頭の右側からかけられた赤いリボンは左耳の下で結ばれている。どこからどう見ても、まだ幼さの残る十代半ばの少女だ。
 単刀直入に言うならば、その同居人とほぼ同い年の女店主は、その同居人を好いていた。おそらくは愛と呼んで差し支えないだろう。傍から見れば、仲の良い友人かあるいは恋人のようにも見えるが、この二人の関係はそれでは説明できないほどに複雑なものだった。
 コトリ…と軽い音を響かせて、店主の眼下に置かれたカップには残念なことに紅茶は入っていない。湯気の立つ甘いミルクティーを片手に、隣に腰を下ろす同居人へ
「冷蔵庫にプリンがありますよ」
なんて、右の口角だけ釣り上げて笑ってみせる。
 同居人は小さなため息とともにカップを置いて席を立った。全く、座る前に言ってくれればいいのに。
 そんな可愛らしい姿を横目に、女店主はいたずらっぽい笑みを零す。目の前に置かれたカップを傾ければ、彼女の愛する冷たい緑茶が口内を満して、やはり紅茶なんてこじゃれたものよりも、慣れ親しんだ緑茶のほうが自分には合っている……なんて自嘲した。もちろんそれを淹れた同居人も、彼女の好みを知っている。故にこうして、紅茶を淹れてはくれないのだが。

 「……で、今日の収穫は?」
ようやくプリンとスプーンを二つずつ持って戻ってきた同居人の口から吐き出されたのは、愛の言葉なんてものからは到底かけ離れた定型文。
 「特にありませんよ。いつも通りでした」
「その、を聞いてるんだよ。わかってるでしょ」
ほとんど毎日と言っていいほどに繰り返す同じやり取り。飽きないのかと聞かれれば、とっくに呆れたと返そう。
 席に着いた同居人に行かせたプリンを口に運べば、ああ、なるほど。やはり自分の作るお菓子は美味しいと、店主は胸中で独り言ちた。
 「本当にいつも通りですよ。何気ない、他愛もない噂話。その大半は根も葉もないただの噂でしかありませんよ。ユウさんだってわかっているでしょう?」
ユウと呼ばれた同居人は温かい紅茶をすすり、短い沈黙を返す。沈黙は肯定だ。しかし今返したいのは沈黙ではない。
 「『Where there's smoke, there's fire火のないところに煙は立たぬ』」
咄嗟に口を着いたのは、日本人にしてはあまりにも綺麗で、店を満たす音楽によく馴染んだ異国の言葉。きっと、もっと良い返しはあっただろうが、残念ながら疲労した脳には酷な話だったらしい。
 「ごもっとも。しかし、『根が無くとも花は咲く』ものですよ。それに今日は本当にこれといった情報が得られなかったのです。もとより、そんなことを聞きたいのならば、私ではなく情報屋を訪ねた方が良いでしょうけれど」
たった一言に長文を以て答える彼女はその素っ気ない。この二人のどこを見て、彼らを恋人と称そうか……。
 「はぁ……じゃあ、明日は僕が行ってくるよ。どうせ、そろそろ絵を売りに行きたいとも思ってたし」
「はい、いってらっしゃい」
二つ返事で彼女は頷いて、さも当然のごとく口にした。しかしそれは、同居人たる画家にとっては好ましくないものだった。
 「そこは”私もいっしょに行きます”じゃないの?」
そう不満げに口にすれば、
「店もありますから」
と間髪入れずに返す彼女。
「店と僕、どっちが大事?」
「どっちもです」
画家のわざとらしいため息が、室内の音楽に混ざって溶けた。
 背筋を丸めてカウンターに突っ伏する。どうしてこうもこの恋人は釣れないものか……。思えば、付き合い始めてずいぶん経つ上に、同じ家に暮らし始めてからもそれなりに過ごしているはずだ。
 にもかかわらず、恋人らしいことなんて大してやっていない。デートに誘えば買い出しに付き合わされ、家に居れば別々の趣味に打ち込む。
 強いて言うなら、家事は当番制だとか、お茶を入れるのは自分でお菓子を作るのは彼女だとか……そのくらいだ。否、それはむしろ同居人としてであって、とてもでは無いが恋人と言うにはあまりに寂しすぎる関係だった。
 「ねぇエル?」
「何ですか?」
顔を上げれば織部色と目が合う。エルと呼ばれた店主に悪びれる様子はなく、むしろ純粋な好意が滲んでいる織部色。なのにどうしてだろう。酷く心が虚しいのは。
 「エルは僕のこと好きなんだよね?」
「はい、間違いありません」
「僕ら付き合って結構経つよね?」
「そうですね。一昨日が400日目でした」
その答えに先ほどよりも大きな息を吐き出す。一年も経っているのに、何も進展していない恋とは……。これでは、付き合うより前のほうがよっぽど恋人らしかったのではないか。
 両の足を椅子から放り出し、まるで可笑しくてたまらないとでも言いたげな彼女の目から逃げるように、ふらふらと視線を彷徨わせる。いつからこうなってしまったんだ。自問するような、あるいは自分たちの過去を責めるような、そんな声が声が脳裏を反響した。
 凝り固まった思考が陰鬱なのは、きっと夜で頭がつかれているからだ。あぁ、きっとそうに違いない。自分に言い聞かせれば、悩み事なんて馬鹿馬鹿しい。
 酒でも煽るかのようにティーカップを傾ければ、ツンと茶葉の香りが吹き抜けた。もう寝ると素っ気なく言い放ってみても、返ってくるのは、歯を磨いてから寝るようになんて言葉。
 もしかすると、付き合っていると思っているのは自分だけなのではないか。そんな杞憂な想いさえ込み上げて、最愛の恋人へおやすみの一声もかけずに席を立った。





**Flowers bloom without roots.根が無くとも花は咲く**


 この街にも朝はやってくる。まるで他の普通の町と何ら変わらない様子で。
 大きく伸びをして厚手のカーテンを勢いよく開けば、通りを行きかう人の姿が目に入った。ありきたりな、忙しなく賑やかな朝。きっと昨日の夜は何もなかったに違いない。そうでもなければ、街がこれほどまでにはずがない。

 店主・エルの朝は早い。ほとんど日が昇るのと同時に目を覚まし、同居人・ユウの朝食の準備から始まる。店を開けるのは午前十時。二番地の大通りに面したこの店は、ほとんど常連のたまり場になっていた。
 二階の寝室を出て一階の店へ下りれば、日中は常に活気と賑わいで満たされている店内だが、当然のことながら明かりの一つも灯っていない。そのがらんとした様子には、どことなく冷たささえ感じられた。
 大きく伸びをして顔を洗い、店の制服に着替えて、軽い掃除と朝食の準備を済ませる。まだ眠い頭を動かして、今日が月曜日だとか、確か昨晩ユウが絵を売りに行くと言っていただとか、そんなどうでもいいことを思い出していく。
 二つのトースト、一枚にはバターをたっぷり。もう一枚にはピーナッツクリームを薄めに塗って、コーヒーと牛乳。ベーコンエッグは二つ準備して、イチゴを洗って皿に盛る。
 そうすればほら、ほぼ完璧なタイミングで
「おはよう」
との声がかかるから。
 今日も時間通りだと自慢気な笑みを浮かべ、最愛の友人に
「おはようございます」
と返す。これがエルの日課だ。
 何でもないこんな日課を、エルは心の底から大切にしている。もちろん、昨晩ユウが言わんとしていたについてはノーコメントを決め込んでいるが……。
 ユウがどこまでわかっているのかエルは知らない。けれどエルにとっては、“恋人らしさ”なんて必要ないものだから。出会いは不思議だったし、付き合うまでユウとの淡い恋路を楽しんだことも事実。今、エルがユウに寄せている感情が好意であり、恋愛感情であることも確かだ。
 しかしもう、淡い恋路に戻れないことも、二人の間に、愛や恋という言葉だけでは埋まらない深すぎる溝が横たわっていることも、また事実なのだ。
 エルが思うに、ユウはその溝を溝とも思ってないのだろう。そして、いつかのような淡い恋を求めているのだろう……。その思いに答えたいのは本音だが、答えられないのも本音だ。あぁなんて複雑な、なんて思ってみても、結局現実は何も変わらない。



 穏やかで忙しない朝から約三時間後に、エルの店『ル・ティアーズ』は開店を迎える。大通りに面したこの店には、毎朝眩しすぎる光が降り注いでくるけれど、残念なことに、開店前から長蛇の列が……なんてことは、開店以来一度もない。
 ちらほらと通りを横切る人影を見つめながら、カウンター横の椅子に体を委ね、膝の上に開いた本へ視線を落とす。もう何度読み返したことか……。おかげで多くのページは、摩擦の熱と風化で文字が薄くなっている。しかし、何度も読み返したおかげで、内容はほぼ覚えているから問題ない。

 午前十一時前後、徐々に店は賑わい始める。お客の顔ぶれは曜日ごとで大体同じだ。誰がいつ来るのかくらいの大雑把な部分は何となく知っているからと、適当な世間話に揉まれつつ、調理台に立ち注文をこなす。
 ほぼ作業になる程体に馴染んだ動作には、ほとんど意識も向くことはない。その代わり、終始流れ込んでくる噂話……。それへ神経を集中させていた。
 何気ない、他愛もない話。その大半は根も葉もないただの噂。しかし、『Where there's smoke, there's fire.火のない所に煙は立たぬ』。全てがそうとは限らない。
 だからこそ、情報収集なんて表現を使うし、こじゃれた英語なんて使う同居人からすれば、それは立派な収穫なのだろう。

 かの有名な聖徳太子は、十人の話を一度に聞けたという。もちろんエルにそんな特技はないし、誰がいつ何を話していたかを覚えていられる記憶力もない。
 彼女はあくまで凡庸であり、彼女が理解でき、彼女が想像しうることの大半は、凡人ならば理解でき、想像しうることだ。ただ、流れ込んでくる情報の量が少し多いというだけで。
 正午に近くと、お客の流れは一旦途絶える。午前と午後ではお客の顔ぶれが変わる、いつも通りの光景だ。午後は午前よりもおしゃべりなお客が多く、店内の騒がしさは三割増し。エルの忙しさも同じく三割増しになる。
 そんなこんなでようやく休憩が取れるのは午後五時前後。きっと今日はユウが疲れて帰ってくるだろうから、それまでに夕餉の支度をしなければ……なんて考えながら店を閉める。月曜日は夜間の営業を行わないのも、常連の間では常識だ。
 その理由は単純明快。月曜日の午後六時から、エルはとある人のもとを訪れる。それは毎週のことで、もはや日課の一部だ。二番地から少し離れたその場所に行っていては、夜のバーの営業に間に合わない。故に仕方なく、時短営業という苦肉の選択をしている。



 店から大通りに沿って北へ十分。『二番地北』なんていう、何のひねりもない立て札が一つ。この街の移動手段の四分の一を担っている路面電車の停留所だ。
 毎週月曜日のこの時間に、同じ停留所から同じ停留所まで、愛想の良い笑顔と愛想の良い挨拶をする常連。路面電車の車掌の中では、エルは喫茶店の店主と言うよりも、むしろ一お客としてよく知られていた。
 『二番地北』から『一番地央』まで、窓際のいつもの席にゆったりを腰を下ろす。退屈な時間と言えば間違いないが、電車の揺れに身を任せながらぼんやりと外を眺める以外にやることはない。忙しなく働いてばかりなのだから、こんな休息くらい許されるだろう。
 そうこうすること約四十分。日中活気に湧き、雑踏の絶えない飲食店街の二番地と、閑散とした家々立ち並ぶ住宅街一番地。二つの区画が面している東の大通りは、まるでそこで境界線を引いたかのような、アンバランスさで共存していた。
 そこで列車を下り、日陰の多い細く曲がりくねった路地を進む。迷宮のようにも思えるが、何度も通った道を迷うこともない。店から離れ早一時間も経とうかという頃に、ようやく目的地が目に入った。
 酷く古びた家賃の安そうな、何の変哲もない二階建てのアパート。むき出しの鉄格子と、簡素な階段に下駄の音を打ち鳴らして上り、右から四番目、左から二番目の部屋のドアの前で足を止める。懐から取り出した銀色の小さな鍵を回せば、若干のつっかえと共にぴったりとはまり、施錠が外れた。

 目を焼くような夕日色の世界から一変、部屋の中は薄暗く、カーテンだけが夕日で赤く燃えている。
「……目を悪くしますよ」
勝手に踏み入り、後ろ手に入口の鍵を閉めれば、静かな部屋にカチャンと小さな音が響いた。
 部屋の中央で青く光るディスプレイ、それにくぎ付けになっている黒い頭。その横には吸い殻が無造作に放られた灰皿が置かれている。わずかに煙臭さが残るところを見ると、つい先ほどまでその口には燃えるタバコが咥えられていたのだろう。
 いつも通り返答のない家主にため息を吐き、いつも通り勝手に電気をつける。突如として明るさを取り戻した部屋の中で、家主は不機嫌そうに目を細めた。
 「何の用だ」
低く唸るような声。女性にしては低いが、声変りを終えた男性とは違う質感を持った声に、
「言う必要ありますか? いつもと同じですよ」
からかうように頬を釣り上げて、笑いを含んで返す。
 奥へ進めば、壁に掛けられたコルクボードが一つ。そこには何枚かの写真が貼られている。ボードの下には家主愛用のカメラ……。何の変哲もない写真家のシェルフに飾られた写真をざっと見渡し、直観に導かれるようにそのうちの一枚の写真を剥がす。
 「勝手に触るな」
不機嫌さを隠そうとしない声が響き、ほぼ同時に黒い頭がようやく振り返る。その細く短い髪の下からのぞくのは、髪と同じ黒い瞳。まるでそこだけ夜がやってきたかのような、あるいは黒目の部分だけ空洞になっているかのような、一寸の光も映さない深く暗い闇色の目。
 一方でエルは、それを一切介すつもりもないというように、部屋の黒に侵された青漆の色の目で無視し、もぎ取った写真に目を落とす。写真に写った男性に見覚えはない。
「雪のように白い髪に、うさぎのような大きな耳。金縁のモノクルに反射するのは紫色の瞳……。そうまるでその姿は、おとぎ話の時計ウサギのようで……」
僅かに声を、読み上げるのは何の変哲もないただの写真について。まるで物語のようにも聞こえるが、彼女の視界に映るのは文字がつらつらと並ぶ書籍ではなく、いくつかの色で構成された一枚の写真に過ぎなかった。
 「どこからどう見てもただの時計屋。そんな彼の写真を、こんなところに飾っている理由をうかがっても?」
釣り上げた口角も、含まれた笑みもそのままに顔を上げ、黒色と対峙する。少しでも会話を止めれば、空気諸共凍りついてしまいそうだ。
 「……先に見解を聞こうか」
「あなたの考えが、私に理解できるはずないでしょう。見たものを写真のようにそっくりそのまま記憶できてしまうあなたが、未だカメラに頼っているのも不思議な限りです」
俗に言う完全記憶能力とやらなど持っていないし、彼女はあくまで汎用なただの喫茶店の店主。探偵紛いな謎解きなんてできないし、警察紛いな心理戦も不可能だ。まぁそんなこと、言わなくても部屋の主は理解しているだろうが……。
 「……しかし、そうですねぇ……。強いて言うならば……恋にでも落ちた、なんていかがです?」
「……気持ち悪いこと言うな」
「あら残念。ならば正解をお聞きしても?」
「……なんとなくだ」
わずかな沈黙の後に、眉根に深い皺を刻んで家主はため息と共に言葉を吐いた。
 それと同時に、エルは胸元めがけて飛んできたA4サイズの封筒を受け止め、満足げに目を細める。
「どうも。では私はこれで。恋のご相談ならいつでもどうぞ」
クスクスと乾いた笑いを吐きながら踵を返す背中に、誰がお前なんかにと言う声が放たれたせいで、エルは一度笑うことを止め、振り返らなくてはいけなかった。
 表情から笑みが消えれば、柔らかな彼女の雰囲気は一変。まるで冬場の空気か、あるいは凍てついた氷水のような、そんな冷たい空気が室内を満たす。
「……おや、ご存知だったとは」
吐き出した音と、言葉を口ずさむためにつり上がった口角は不釣り合いで、あぁコイツはこういうやつだっただなんて、家主は胸中で小さく吐き出した。
 「……まあ、な。……どうして、お前らはそうなったんだ」
前置きなく、まるで呟くかのように。まるで答えなんて求めていないかのように、音が滑っていく。
 別に調べたかった訳では無い。別に知りたかった訳では無い。何か特別な方法で調べた訳では無い……。並べ始めたらキリがないが、そう、これはただの副次的情報に過ぎなかったのだ。別の一件を調べている時に、偶然手に入れた縺れ解れた恋人関係なんて。そもそも、誰かの恋路に口を挟むつもりなんて毛頭なかったし。
 普段、どんな言葉にも即座に皮肉ぎみな返答をする彼女には似合わず、その時ばかりは息を止めたような数秒の長い沈黙があった。仕方ない。答えようの無い問いというものも、この世には存在しているのだから。
 冷たい空気をまとったまま、どことなく憂うように言葉を探る彼女に、やはりという言葉が一番良く似合う。その瞳の奥は深い悲しみに沈んでいるのに、口元と頬には穏やかな笑みを貼り付けて、纏う空気を凍てつかせるだなんて、般若と呼ぶのが相応しいように思われたから……。
 無駄に長く重たい沈黙の後、そして、ようやく開かれた口から発せられたのは、
「ハンプティ・ダンプティは元に戻せないのですよ」
という、物語をなぞる言葉だった。きっとそれが浮かんだのは、先刻目に付いた白髪の青年の写真が、当の物語のニベンズによく似ていたからだろう。
 ある種意味深で、脈絡のないその発言に、彼女は家主がその言葉の意味をくみ取らないことを願っていたが、凡庸である彼女と違い、言葉の真意を理解することに長けていた家主は抑揚のない声で、嘲笑うように息を吸った。
「だが、On ne fait pas d’omelette sans casser des œufs.卵を割らずにオムレツは作れないだろ」
 全く以て物語など好かない。事実に基づかず、何の役にも立たない連綿の字面が一体何になろうことか。そんな堅苦しい思考故に、返す言葉は慣用句。
 しかしまあ、相対する少女は真逆の様相で、
「ならばとて、もし……それがハンプティ・ダンプティですらなく、白い殻に覆われたパンドラの箱だったのなら?」
お気に召さないならばと別の話を題にあげた。そういう話ではないのだが……こういう輩は乗るまで下りる気はないのだろう。
 「それでも、には希望が残るだろ」
完璧な返しだと、感嘆した。堅苦しい書類ばかりに目を向けているくせに、話してみればなんだ。話の内容は知っているのではないか。
 再び訪れた静寂と、部屋に満ちる薄い煙の臭いに息が詰まる。完璧故に、反論の言葉が浮かばないのだ。もういっそ黙って出て行ってしまおうか……。いやしかし、毎週の日課とは言えどアポイントメントもなく訪れた手前、さすがにそれは不躾か……。
 「『もしそうだったら、そうかもしれないし、そうなんだったら、そうなるかもだ』」
静寂を切ったのは家主の呟き。その一言だけを切り取ったのならば半ば意味不明だが、先の言葉に対してエルの真意を家主が汲んだように、エルもまた家主の真意を理解できた。
 「……『でもそうじゃないんだから、そうではない』」
エルは返す。理解できたということはそれ即ち、完璧なる回答がわかったとも言える。……否、正しくは理解出来たのではなく、理解させられたの間違いだろうが……。
 その答えに家主は満足そうに、口元を釣り上げた。あぁなんだ、いつも仏頂面だから表情筋というものが備わっていないのかと思っていたが、些か違ったらしい。
「認めたくはないが、LとRは似ている。だから理解不能だ、全くもって」
 そう笑った家主へ、今度はわずかな静寂さえもなく
「いいえ、似てなどいませんよ。異国のことわざを持ち出すあなたには、わからないかもしれませんがね」
そう返す。家主・アールに。そしてもうこれ以上用もないだろうと、エルは薄ら暗い部屋を後にした。





**Where there's smoke, there's fire.火のない所に煙は立たぬ**


 二番地よりも人通りが多く、三番地よりも活気のない場所……現在、五番地の一角にユウはいた。水路が張り巡らされた商業区。それはこの街の交通手段の四分の一を占めいる。
 平穏で穏やかな空気の流れる五番地の一角などで、一体何をしているのかと言えば……でさながら露天商のように、描き上げた幾枚もの絵を展示して、その傍らでさらに新しい絵を描いていた。
 名の売れた画家でもなく、事前に販売のチラシを配っていたわけでもない。故に絵が飛ぶように売れるなんてこともない。いつも通り、ゆったりと流れる雲を見ながら、美しい五番地の街並みを描いていく。
 時折 通行人が物珍しそうに寄って来たり、ショッピングを楽しむ若者たちが気まぐれに絵を買っていったり……趣味で絵を描き、小遣いの足しにする程度の浅い覚悟ではあるが、今日持ってきた絵くらいは完売してから帰りたいと思いつつ、大きなあくびを吸い込んだ。
 昨日エルがいつも通りだと言っていた通り、本当に特に何も変わったとこは見受けられなかった。これでも観察眼には自信がある。エルとは違い、情報さえ揃っていれば、ある程度の事象は予測できるとも自負している。
 ユウは分かっていた。エルがこんな何でもない日常を大切にしていることくらい。ただ、昨晩言わんとしたについて、エルに伝わっているかはいまいち押し量れていないが……。ユウにとっては必要なものだった。
 出会いは不思議だったし、付き合うまでエルとの淡い恋路を楽しんだことも事実だ。今、エルが自分に寄せている感情が好意であり、恋愛感情であることも知っているし、エルがもう、そんな淡い恋路に戻れないと思っていることも……。
 確かに、普通の恋人同士とはだいぶズレてはいるが、お互いがお互いを好いていて、それを愛や恋と呼ぶならば、わざわざ無理矢理にでもそれを避ける必要はないと思うのだ。
 ……しかし、いつかのように、また純粋な好意だけの関係に戻りたいと思うと同時に、今のままでも悪くないと思っている自分がいる。自分だけの、自分たちだけの……そんなな関係であり続けたいと……。

 「お姉さん、かわいいね。一枚買ってもいい?」
ふいにかけられた声に、意識は現実へと引き戻される。
 描きかけの絵から顔を上げれば、爽やかでいて胡散臭い笑顔の似合う青年が三人、こちらを見下ろしていた。ナンパだろうか……。全く、物好きもいたものだ。
 死に急ぎたくないなら、そんな命知らずなことはやめておけ。あるいは、声をかける人物は慎重に見定めるべきだ、などと胸中で呟きつつ、
「ありがとうございます。どれが欲しいですか?」
と相性の良い笑顔を返す。
 「う~ん……お姉さんが欲しいかな♪ このあと暇?」
あぁやはりナンパだったか。しかしせめて、もう少し捻った口説き文句を言えるようになってから出直して欲しいものだ。あの淡白な恋人でさえ、もう少し歯の浮くセリフが言えるであろうに……。
 警戒の意図も込めて、ゆっくりと視線を撫で回す。上から下へ、まるで品定めをするかのように。派手なドクロのTシャツ、ダメージジーンズにピアス、両手はポケット、チェーンで財布をつっているのは流行りなのだろうか……ダメだ、全く自分の好みと合わない。
 一昔前のチャラ男なんて、今どきモテるのだろうか……。いや、きっと否だ。全くもって好みでは無いし、何が良いのか分からないし、正直ダサいと思ってしまう。
「冷やかしなら結構ですよ」
故に、吐き出される音にはトゲが籠って、必然的に冷たくなってしまう。あぁ、せっかくならもっと自分好みの素敵な人に声をかけられたかったものだ。そう、例えばそれこそ緑の髪と和服の美麗な少女とか。
 「そんな釣れないこと言わずにさぁ?」
ナンパ男が頬を釣り上げるが、ユウの評価は一切変わらない。何も買わないなら、潔くどこかへ行ってくれ。
 しかしまぁ、釣れないこと……か。そのセリフを昨日のエルに言えたなら、今頃一緒に来てくれていただろうか……。今度、遊園地にも誘いたい。……まだまだ先は長そうだが……。
 とはいえ、現状自分は商人だ。ナンパ者に構っている暇は無いし、釣れる釣れないでやっていける問題でもない。そもそも、自分には家で待っていてくれる恋人がいる。
 ……そこでふと、
「……あぁ、そっか。そうすればいいのか……」
小さな呟きが空を揺らした。赤い唇の端は力無く落ちて、桃色の髪が目元を薄く覆う。赤と青の対色の双眼は鈍い光を宿し、遠くでなにかの鳥の羽音がした。
 最悪で最良の考えが過ぎったからだ。そして、実行にさえ移せば、自分はきっと望みの全てを叶えることが出来る……。ふとこぼれた笑みと言葉に、眼前の青年の顔が怪訝に歪むのをその目に捉え、手にしていた筆を置いた。
 天才的で、最もばかげていて、そして何より簡単なひらめき。釣れない恋人を釣り上げるための特大の釣り針。自分にも若干のリスクこそあるが、言葉で釣れない彼女のためならば、少しくらいの賭けは痛くもない。
 「いくらで買ってくれますか? のこと?」
口角を釣り上げ、上目遣いで目を細める。まるで子猫のように。まるで、純粋なるのように……。
 「それはうれしいねぇ」
たいそう嬉しそうに男は笑い、ユウに財布を投げる。中身を開けば、なんだ、たった七万ぽっちか……。どうせならもっと羽振りの良い者を狙えばよかった。否、ナンパ男が羽振りなど良いはずもないか……。脳裏の会話を自嘲して、札を全て抜き取った。
 「では、片づけるので少し待ってください」
一枚一枚丹精込めて描き上げた絵たちを、丁重に布にくるみ、持ってきたときと同じように傷がつかないように細心の注意を払う。もう少し名が売れたら、どこかの画商にでも売ってしまいたいと思う程度には、自分でも力作だった。
 そして、わずか数十分のうちに片づけをすますと、彼らに従う従順な猫のような笑顔をつくる。準備は整った。
「ねぇ、エル?できるだけ、待たせないでね?」
虚空につぶやいた画家の独り言は、青年たちにくみ取られることもなく、午後の五番地を流れていった。





**The greatest hate springs from the greatest love.最大の憎悪は、最大の愛から生まれる** 


 落ち着いたジャズのBGMをかけながら、大通りに面した小さな茶屋で温い暖色の光が揺れていた。その元に茶色い影を落とすのは、この店の女店主・エルだ。店に戻ってきて、店内の清掃を行い、その日の仕事もほとんど終わってしまっている。
 顔を上げれば、時計は二十時少し前。カウンターに置かれた夕食の肉じゃがは、残念なことにすでに冷めてしまっている。大きなため息を落とし、手元の携帯電話を開いてみれば、八件目の留守電を入れてからまだ三分しかたっていなかったことに気づく。
 同居人のユウは、珍しく外出している。絵を売りに行くと言っていたから、きっと行先は五番地だろう。ユウの不思議なこだわりとして、持って行った絵が全て売れるまで帰ってこないという、どうにもやっかいなものがある。
 ……が、それでも、普段なら電話には一コールも待たずに出てくれるのに……。そして、どれだけ遅くても日が暮れる前には帰ってくるのに……。
 それなのに、どうしてだろう。今日、この日に限っては、日が落ちてすでに一時間半が経とうというのに、電話にすらも出てくれない。何かあったのではないかという胸騒ぎが、秒針の音と重なって響いた。
 意味もなく店内を行ったり来たりしながら、意味もなく机を指で叩いてみる。心臓の音がやけに煩く、飲み込んだ冷たいお茶の味さえ分からない。
 「……もしも…………もしも、ここまで読めていたのなら……それはむしろ、怖いですけれど……」
自分を落ち着かせるために、静けさを自身の声で打ち消す。女性らしい高い声が空気を振動させ、手の震えなど全て気の所為と錯覚させた。
 カウンターの裏、エルの私物をしまうための鍵のかかった引き出しから、A4サイズの茶色い封筒を取り出す。つい数十分前に受け取ったばかりの品物。同居人のユウにさえ話していない、そんな関係の者から受け取った依頼の品……。
 わざとらしく大きなため息をついて、わざとらしく封を切る。糊付けされた紙の破ける音がやけに大きく聞こえ、緊張さえをもかき消した。
 中に入っているのは、数十枚の紙切れ。彼女はこれらの紙束を受け取るためだけに、毎週アールの元へ足蹴く通っている。
 そんなA4の紙には、プリントアウトされたデジタルの文字で埋め尽くされていて、全てを読むには時間がかかりそうだ。ざっと目を通してみるが……内容はいつも通り。名前、顔写真、住所、日課、勤務先、周囲との関係……など、数十人分の個人情報が事細かに記されている。
 到底、個人が所有して許されるものでは無いし、一個人が作成して良いものでもない。もちろんエルもアールも、そんなことは知っている。しかし、知っているからと言って行いを改めるつもりなど毛頭ないが。
 個人情報流出にもほどがある。いつも通り皮肉気な笑みをこぼしてみても、普段のものと何も変わったところはないし、今すぐに対処しなくてはいけない案件もなさそうに思えた。
 「さすがに無理ですよねぇ……」
信じていないとはいえ、古馴染みである引きこもりの情報屋を、少しばかり過大評価していたことに気づき、再びため息を漏らす。むしろ、帰ってこない恋人を心配しているという状況を、あの時あの場の一体誰が予測できただろうか。そんな現状に、打開案があるとも思えなかった。
 仕方なしにと書類を戻し、再度引き出しへ戻そうと封筒を開き、
「……ん?」
まだ何か、封筒の中に残っていることに気がついた。
 袋へ手を入れ、奥にあったものをつまみ上げる。出してみればそれはA4紙ではなく、B6のメモ用紙のようだ。肝心の内容はと言うと……乱雑に書き殴られた、何かの地図らしい。筆跡から考えるに、これを渡してきた情報屋が書き殴ったことは確かだ。
 もちろん、自分の目の前でそんなことをしていた様子はないし、がさつに見えて変なところに几帳面なアールなら、資料に関しては明確な裏付けをとってから、デジタルの文章として渡すだろう。どうせ来週も行くのだから、緊急の要件でもなければ、こんなことはしない……。
 つまり、これは何かの意図があって入れられたに違いなかった。また面倒事を……と思いつつも、もしかしたらこれが現状に何か関係があるのではないか……なんて淡い期待を抱いてしまう。しかし残念なことに、その断片だけではどの地域かさえも特定は困難だった。
 雑に引かれた長く細い線の混ざり方は歪。自分の欲馴染んだ場所であっても、四角と直線だけが形作る文字のない地図など、さながら暗号にも等しい……。眉根を寄せて、凡庸ながらにも必死に脳を思考させる。
 路面電車が走っている様子は無い……。つまり大通り沿いは除外される。次に目に着く道のようなものは……おそらく水路だろう。あれもこの街の交通を担っている。
 水路と言えど全ての番地に同じように巡っているのではない。路面電車との兼ね合いで、密度にはバラツキがあって……これだけ複雑に、かつ広範に張り巡らされているのは、やはり五番地しかない。
 「五番地の……」
思考を整理するために呟きながら、五番地の地図を呼び起こす。……大丈夫、この地形、この場所には心当たりがある。思い出せる。これといって何かあった訳では無いが、街の地図くらい案外覚えている自分自身に驚きつつも、
「本当に、あの人は恐ろしいですねぇ……。まあ、今回は感謝しますけど」
代わりに情報の提供者への賛辞を送った。
 時計を見上げれば二十時過ぎ。店はとっくに閉まっているし、肉じゃがは無残にも冷めてしまっている。何度もかけた着信履歴に、折り返しの電話の一つもない……。
 そんな時間の夜の街に、これから繰り出そうなど、あまりにばかげた思考だ。きっとこの街で、今そんなことを思うのは自分だけだろう。しかし、行く理由があるのならば、選択肢はひとつだ。女店主はメモをポケットにしまい、店を出た。






***

 不思議なことに、すぐにそれが夢だとわかった。
 上を見上げれば、子供が無邪気に青いペンキで塗りつぶしたかのような快晴。
 視線を戻せば、自分より少しだけ背の低いペリドットの色の目がこちらを見ていた。
 彼女は、少し驚いたようにその瞼を持ち上げ、そしてすぐに破顔した。
 「お久しぶりです、ユウさん! あ、えーっとて初めまして、エルと言います」
にこやかに笑った彼女は、確実に僕が知っている彼女で、それと同時に全く知らない人だった。
 神も仏も信じないけれど、この時だけは運命を信じた。
 「……久しぶり。初めまして、僕はユウ。よろしく、エルさん」
胸を締め付けられるような不快感に抗って、できるだけ自然な笑顔を取り繕う。
 彼女が僕のそんな思いに気づいたかは知らないけれど、
「はい! こちらこそ、よろしくお願いします!」
そう言って無邪気に笑ったその姿は、これ以上なく虚しく見えた。

***






 目を開けると、知らない天井が見える。ユウの手は後ろに回され、太い縄で縛られていた。光源と呼べる光源もない、薄暗い部屋……。しかし、獣の目を持つユウからすれば、それでも十分に室内を視認することができた。
 場所は五番地の裏路地にある、今は使われていない倉庫。時刻は二十時半を回っている。時計の一つも置かれておらず、月明かりの漏れる窓さえない。埃の酸いた臭いが立ち込めているのが最も不愉快だった。
 なぜここにいるのか、自分の絵はどうなったのか……。まとまらない頭をゆっくりと回し、とりあえず現状を確認しようとするのは生存本能故だ。

 五番地の一角、まだ日の高い時間……正確に言うならば午後三時半過ぎごろ、ユウは露店を片付けた。釣れない恋人を釣るための賭け。賭けるのは自分自身。勝てば恋人を気を引け、負ければどうなるか分かったものではない。
 ……それでも、ユウには確信があった。恋人ならば必ず釣れると。しかし現状はどうであろうか。それから早七時間が経とうというのに、一向に状況は変わっていない。
 こんな倉庫に連れてこられ、なぜか拘束された。その後青年たちは何かを話しながら、どこかへ行ってしまった。自分を放置して。目的なんて皆目検討もつかない。
 ナンパにしてはあまりに退屈で、乱雑で、強引。それなのにどこか他人事に考えている自分がいて、睡魔に身を任せているうちに日も暮れてしまったようだ。
 ずっと固い地面に座らせられていたせいで、かなり腰が痛い。せめてなにか柔らかいものの上に座らせて欲しかった。将来、最愛の恋人向けに自分の取り扱い説明書でも作る時は、『長時間放置する時は、柔らかいものの上に座らせてください』と書いておこう。
 大きく伸びの一つでもしたいところだが、生憎ユウには太い縄を千切れるほどの筋力も、縄抜けを行う技術も持っていない。画家にとって腕と手は命にも等しいというのに……。全く、酷いものだ。大きなあくびをかみ殺して、未だ姿を現さない恋人に悪態をつく。
 もう一度、遠い日の夢に身を投げようかと目を閉じたとき、人の耳ならば到底捉えられない足音を、ユウの鋭敏な聴覚は認識した。それはとても小さく、そして、警戒心を前面に押し出した足音だ。
 まもなく、金属をこする音がして、倉庫の扉があけられる。そういえば今日は満月だった。月の逆光で浮かび上がるシルエットに、
「……ずいぶん遅かったね?」
と不満げな声を漏らす。
 徐々に近づいてくる人影もまた、大層不機嫌そうで、宝石のような緑の目の奥には、不敵な紫色の火を灯していた。
「……ユウさんこそ、こんなところで油を売っているなんて、随分お暇なようですね?」
釣り上げられた口角は、不気味な三日月形を描いているのに、声色は極寒をも通り越している。きっとそこいらに水溜まりでもあれば、たちまち氷の池に変わっただろう。
 「絵は全部売れたよ、値付けよりもだいぶ安くなっちゃったけど」
もちろん、ユウもユウで悪びれる様子はない。今更こんな程度で怯えるような初心な恐怖心なんて持ち合わせていないし、こうなることは薄々知っていたからと肩をすくめて見せる。その動作で、手首の拘束がねじれて痛みを感じながらも。
 カラン、コロン……と、まるで悪役が主人公を追い詰めるような下駄の音を響かせてやってくる、待望の恋人の手には大きな包丁と血の付いたピザカッター。その様は、まごうことなき殺人鬼だ。……武器選びのセンスには、少し……いや、かなり言いたいことがあるが……。
 足音が止まれば、二人の距離はほんの一歩二歩程度しか離れていない。紫を湛える緑の目と、赤と青の双眼が視界を交える。少年漫画だったら、ここで主人公は死んでしまうのだろう。そんな考えがユウの脳裏を過ぎった。
 スッとエルがしゃがみこみ、月光に照らされた艶やかな御髪と瞳が近づく。あぁ、近くで見てもやはり彼女は綺麗だ。
 こんな状況で惚気に走る余裕などどこにもないが、エルは容赦なくその手に持った包丁をユウの頬に押し当てる。
「……悪い子ですね」
怒りでもなく、愛情でもない、強いて言えば無関心に一番近い、抑揚のない声がこだました。
 「『A storm in a teacup.カップの中は大荒れ』だから、たまにはこんなお遊びも楽しいでしょ?」
音もなく頬を撫でた冷たい感触と、ゆっくりと垂れていく生暖かい感覚。そして遅れてやってくる鈍い痛み。
 「何を言います、私にとっては大問題ですよ。いっそ、あなたの腕ごと切り落として、家に連れ帰っても良いと思う程度には」
「痛いのは、嫌いだなぁ……」
刃についた血を払うように軽く振った後、エルはユウの手にその刃をあて、ストン……と、縄を切った。
 ハラハラと落ちていく縄を視界の端に映し、ユウは手首をさする。画家にとって腕と手は命にも等しいが、幸運なことに大きな損傷は見受けられなかった。




 『ル・ティアーズ』の女店主・エルは、画家であり同居人のユウを好いていた。それは、恋愛感情と言って差し支えない感情で。そして同様に、ユウもエルを好いていた。二人は、一つ屋根の下に暮らす、まごうことなき恋人だ。
 しかし、その関係性はあまりにも複雑で、愛や恋の言葉だけでは片づけられなかった。

 エルはユウを連れて倉庫を出る。その先に広がっているのは、真っ黒なキャンバスにに子供が赤いペンキを塗りたくったような世界。鉄さびの臭いが、狭い路地いっぱいに広がっている。
 ここは、とある街のとある路地裏。この世には『殺人鬼の住まう街』などという物騒な名で広まっている街があるという。エルもユウも、その街の住民だ。

 エルにとって、ユウは唯一無二の恋人であり、何よりも大切な存在である。他の誰の手にも、他の誰の目にも止まらせたくなどない。ずっと地下深くに隠しておきたい、そんな存在だった。
 それを愛と呼ぶにはあまりに重すぎることを、エルは知っていた。だからこそ、恋人らしさなど必要ない。一線を越えてしまわぬよう、ユウを同居人としてしか見るつもりはないのだ。

 ユウにとっもまた、エルは唯一無二の恋人であり、何よりも大切な存在だった。自分だけのものにしてしまいたいし、その血肉の一辺さえも誰にも私たくない。そんな存在だった。
 それを愛と呼ぶにはあまりに捻くれていることを、ユウは知っていた。けれど、恋人らしくありたい。生も死も全てを分け合える恋人でありたかった。
 二人の関係はあまりに複雑で、それでも、どこまでも純粋だった。
 まだ生暖かく、数分前までは生きて動いていたであろう人型を、数時間前にユウに声をかけたその人型を、二人はまるで通り過ぎる。その横顔は、まごうことなき殺人鬼だ。



 二人が店に帰ってきたとき、時刻はすでに二十二時を回っていた。長い長い一日が、ようやく終わったのだ。二人とも深く息を吐きながら、カウンターの席に身を投げた。
 置かれた肉じゃがは、すっかり冷めて固くなってしまっている。そんな自分の好物を横目に、
「作っておいてくれたんだ?」
ユウは少し意外そうに首を傾げた。一向に迎えに来てくれない恋人は、きっと今ごろ家で自分のことなど忘れて、趣味のお菓子作りに没頭しているものだと思っていたから。
 「えぇ、だって、まさかあんなところで油を売っているとは思わなかったので」
今温めますね、とエルは調理場へ向かい、ユウはそれを眺めながら机に突っ伏する。なんだ、意外と可愛げもあるんじゃないか。なんて今更か。
 「……ねぇ、エル?」
「何ですか?」
顔を上げればカウンター越しに、振り返った織部色と目が合う。それは長い一日の後でも、僅かに疲労が滲んだだけのいつも通りの彼女の目だ。
 「……エルは僕のこと好きなんだよね?」
「ええ、間違いありません」
目の前に置かれた肉じゃがは、固くはあるが熱を持っている。間違いなく自分のために一手間かけてもらった証拠だ。
 「……では、ユウさんはどうなんですか?」
珍しくエルの方から見つめて来る。手を止め、正面から相対した双眸は、猛禽類のそれのように鋭かった。
 伸ばしかけた箸を止め、心臓を掴まれたような感覚の中で、真っ向から見つめ返す。返さなくてはいけない言葉など、一つしかなかった。
 「『To love is to suffer.恋をすることは苦しむことだ。 To avoid suffering one must not love.苦しみたくないなら、恋をしてはいけない。 But then one suffers from not loving.でもそうすると、恋をしていないということでまた苦しむことになる』……。……ねぇ、エル? それでも、僕は君が好きだよ。君だけのことが」
日本人にしてはあまりにも綺麗で、店を満たす音楽によく馴染んだ発音だった。
 その言葉に、エルは猫のように目を細めて満足げに笑う。僅かに頬が赤いのは、きっと室内の暖色灯の色のせいだ。
 恋人というにはあまりに複雑だし、相手の求める恋人らしさを体現してあげることはできないけれど……かつての自分の告白の言葉を破るつもりもない。歯の浮くような愛の言葉は囁けないけれど、間違いなく今も自分は恋人を愛している。
 そして、釣り針に引っかかってしまった自分自身を嘲笑って
「今度、どこかへ遊びに行きましょう。こんな面倒な方法取られるのは、もう御免です」
と返した。実際、帰りを待っていた三十分足らずは、夜が明けてしまいそうなほどに長かったし、自分が自分でなくなってしまいそうなほどに心配した。
 ぱっと顔を明るくした恋人に、つい頬を緩ませて、その隣に腰を下ろす。ずいぶんと遅くなってしまったが、ようやく夕飯にありつけそうだ。

 ここはとある街のとある店。新婚の夫婦などと揶揄される、半分正しくて半分間違っている二人の夜は、ゆっくりと、そして着実に更けていった。



【殺人鬼の住まう街:第一話『To love is to suffer. To avoid suffering one must not love. But then one suffers from not loving.』】
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