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プロローグ:始まりの鐘の音
かつての残滓
しおりを挟む私は館にある自室になんとか辿り着くと、溜め込んだダムが決壊するようにその場に崩れ落ちた。
全力疾走した後のように、息が途切れる。心臓は痛いほど鼓動を打ち、目は興奮で爛々と紅く光り輝いていた。顔は苦痛で喘ぎ、その身から溢れ出る欲望を抑えようと身体を抱き締める。
理性では分かっているのだ。そんなことはしてはいけない。しかし本能は違う。今すぐこの部屋を出て、あの男の子の元まで走りたい。そしてあの子の首筋に牙を突き立てたい。そんな欲求に心も体も支配されていた。
***
私はもともと、この屋敷で人間の父と母と一緒に住んでいた。父は商会を持つ地元の名士で、母はそんな父を支えていた。
裕福とは言えないまでも幸せな家庭だったと思う。あの日も、ある嵐の夜のことであった。
夜中にふと目が覚めた私は、何かしら物音が聞こえることに気がついた。耳を澄ますとそれは確かに家の外から聞こえてくるようであった。最初は風かと思ったがどうやら違うらしい。不審に思いながらも寝直そうとした時、今度ははっきりとした音としてその声を聞いたのだ。
ドンドンドン! 扉を叩く音だ。しかもノックというより叩き壊さんばかりの勢いである。
私は飛び起きて両親を起こした。そして三人で顔を見合わせた後、意を決して父が扉へと向かった。恐る恐るといった様子でドアを開ける父の背中越しに、私と母は外の様子を窺った。
そこに立っていたのは全身ずぶ濡れになった一人の男だった。
いや……青年と言った方が適切かもしれない。まだ少しあどけなさを残した顔立ちをしていたから。だが、何よりも目を引いたのはその髪の色だった。夜の闇のように真っ黒な髪をしていたのだ。
男は私たちの姿を認めるとホッとしたような表情を浮かべた。しかしその瞳を見て私はゾッとする。血のような真紅に染まっていたからだ。
思わず息を飲む私に向かって、男は言った。
「助けてください」
私たちは互いに見つめ合ったまま凍りついたように動けなかった。やがて男が口を開く。
「お願いします……。どうか……お慈悲を」
そう言って頭を下げようとした瞬間、彼の身体が大きく傾いた。そのまま倒れ込むようにして地面に崩れ落ちる。慌てて駆け寄ると、男は苦しそうな呼吸を繰り返していた。熱に浮かされたようにうわ言を繰り返す。
「お願いです……僕を助けてください」
私は悩んだ末に彼を家へと招き入れた。
両親は反対したが私が押し切った。彼が本当に死にかけているのは明らかだったし、それに、どうしても放っておくことができなかったのだ。
私はベッドを貸し与え、水差しに入れた水を飲ませた。しかし男はなかなか眠りに落ちない。
それどころか先ほどまでの辛い感情を外に置いてきたのか、何かに興味津々かのように見えた。
私は彼に問いかけた。どうしてこんなところまで来たのか? 一体どこから来たのか? すると男はポツリポツリと話し始めた。自分は人を探しに来たこと。そしてそれが見つからない限り帰れないこと。話を聞きながら私はあることを思い出した。昔読んだ本の中に似たような状況の話があったはずだ。確かあれは……。
そこまで考えたところで私の思考は中断される。
男がこちらを見ながらこう呟いたのだ。
──待っててね、僕の愛しい人……
その夜、私は一人で寝ていると窓を叩く雨粒の音で目が覚めた。それはもう雨粒とは呼べないかもしれない。もはや石礫のように硬いその塊は、館の窓を殴るように叩いていた。ますます嵐が強くなっているらしい。嵐は激しくなり、まるでこの世の全てのものが吹き飛ばされてしまいそうなほどだった。
その時、誰かが部屋に入って来る気配を感じた。
驚いて振り返るとそこにはあの黒い髪の男がいた。
彼は手にナイフを握っている。その刃先からは赤い液体が滴っていた。
「……!」
恐怖で声が出せずにいる私に対して、男は静かにこう語りかけた。
──僕はあなたを殺しませんよ。だってあなたはとても美しいから。
私は、そのナイフの血が誰のものであるかを考えたくなかった。きっとそれは考えてはいけないことだったのだろう。それでも想像してしまう自分が嫌だった。そんな私の様子に気づいていないはずはないのに、男はさらに続けた。
──あなたの全てが欲しいのです。何もかも奪い尽くして自分のものにしたい。愛しているんですよ、心の底からね。
底知れぬ気味の悪さがあった。
その瞬間、男は私に向かって飛びかかってきた。私は必死になって抵抗したが男の力には敵わなかった。男は恐ろしいほど強かったのだ。まるで人間ではないかのように。
結局、私は為す術もなく組み伏せられてしまった。男は満足げに笑うと私の上に覆い被さってきた。次の瞬間、首筋に強い痛みを感じる。私はそこで意識を失った。
翌朝、目を覚ました時には既に雨も風も止んでいた。窓から見える空は青々と晴れ渡っている。昨日の嵐など嘘のようだ。しかし、目の前の惨状を見て私は現実を理解するしかなかった。床一面に飛び散った血痕、そして無残に引き裂かれた両親の亡骸を。男は、まるで元から存在しなかったかのように消え去っていた。霧が晴れたかのように……
夢でも見ていたのかと思うくらいに跡形もなく。ただ一つだけ確かなことがあった。あの男は吸血鬼だったのだ。その証拠に、男の姿はどこにもなかったというのに私の首には未だ鋭い痛みが残っている。
その後のことはよく覚えていない。幸いというべきか不幸にもと言うべきか、私には両親が残してくれた莫大な遺産があった。
吸血鬼は太陽の下では生きることができない。吸血鬼は人間を見ると血を吸いたくなってしまう。つまりは、これからずっと独りで、誰にも会わずにここで暮らしていくしかないのだ。そう思うと初めて涙が出た。
父のことを思い出した。母のことを思い出した。
私が男を一晩泊めてあげようと提案したことを思い出した。
頼りになった父のことを思い出した。優しかった母のことを思い出した。
彼らの血がついたナイフを思い出した。
血がついたナイフと、無惨に引き裂かれた肉塊と、何もできない私と。
私は私の感情が溢れるのを止めることができなかった。感情が堰を切って漏れ出す。
森には、私一人の慟哭が響き渡った。
そうして、私は吸血鬼になったのだ。
私は今でもあの日のことを忘れられないでいる。彼が、私が意識を失う直前に言った言葉がいつも私の耳に反響している。
──また迎えにきますよ。私の美しい花嫁。
あの、ルビーのように紅く綺麗な、されど空虚な目でそう囁いた言葉が。
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