夜明けまでにキスをして

しおりの人

文字の大きさ
3 / 4
プロローグ:始まりの鐘の音

かつての残滓

しおりを挟む

 私は館にある自室になんとか辿り着くと、溜め込んだダムが決壊するようにその場に崩れ落ちた。
 全力疾走した後のように、息が途切れる。心臓は痛いほど鼓動を打ち、目は興奮で爛々と紅く光り輝いていた。顔は苦痛で喘ぎ、その身から溢れ出る欲望を抑えようと身体を抱き締める。
 理性では分かっているのだ。そんなことはしてはいけない。しかし本能は違う。今すぐこの部屋を出て、あの男の子の元まで走りたい。そしてあの子の首筋に牙を突き立てたい。そんな欲求に心も体も支配されていた。




***





 私はもともと、この屋敷で人間の父と母と一緒に住んでいた。父は商会を持つ地元の名士で、母はそんな父を支えていた。
 裕福とは言えないまでも幸せな家庭だったと思う。あの日も、ある嵐の夜のことであった。
 夜中にふと目が覚めた私は、何かしら物音が聞こえることに気がついた。耳を澄ますとそれは確かに家の外から聞こえてくるようであった。最初は風かと思ったがどうやら違うらしい。不審に思いながらも寝直そうとした時、今度ははっきりとした音としてその声を聞いたのだ。
 ドンドンドン! 扉を叩く音だ。しかもノックというより叩き壊さんばかりの勢いである。

 私は飛び起きて両親を起こした。そして三人で顔を見合わせた後、意を決して父が扉へと向かった。恐る恐るといった様子でドアを開ける父の背中越しに、私と母は外の様子を窺った。

 そこに立っていたのは全身ずぶ濡れになった一人の男だった。
 いや……青年と言った方が適切かもしれない。まだ少しあどけなさを残した顔立ちをしていたから。だが、何よりも目を引いたのはその髪の色だった。夜の闇のように真っ黒な髪をしていたのだ。
 男は私たちの姿を認めるとホッとしたような表情を浮かべた。しかしその瞳を見て私はゾッとする。血のような真紅に染まっていたからだ。
 思わず息を飲む私に向かって、男は言った。

「助けてください」

 私たちは互いに見つめ合ったまま凍りついたように動けなかった。やがて男が口を開く。

「お願いします……。どうか……お慈悲を」

 そう言って頭を下げようとした瞬間、彼の身体が大きく傾いた。そのまま倒れ込むようにして地面に崩れ落ちる。慌てて駆け寄ると、男は苦しそうな呼吸を繰り返していた。熱に浮かされたようにうわ言を繰り返す。

「お願いです……僕を助けてください」

 私は悩んだ末に彼を家へと招き入れた。
 両親は反対したが私が押し切った。彼が本当に死にかけているのは明らかだったし、それに、どうしても放っておくことができなかったのだ。

 私はベッドを貸し与え、水差しに入れた水を飲ませた。しかし男はなかなか眠りに落ちない。
 それどころか先ほどまでの辛い感情を外に置いてきたのか、何かに興味津々かのように見えた。

 私は彼に問いかけた。どうしてこんなところまで来たのか? 一体どこから来たのか? すると男はポツリポツリと話し始めた。自分は人を探しに来たこと。そしてそれが見つからない限り帰れないこと。話を聞きながら私はあることを思い出した。昔読んだ本の中に似たような状況の話があったはずだ。確かあれは……。
 そこまで考えたところで私の思考は中断される。
 男がこちらを見ながらこう呟いたのだ。

 ──待っててね、僕の愛しい人……



 その夜、私は一人で寝ていると窓を叩く雨粒の音で目が覚めた。それはもう雨粒とは呼べないかもしれない。もはや石礫のように硬いその塊は、館の窓を殴るように叩いていた。ますます嵐が強くなっているらしい。嵐は激しくなり、まるでこの世の全てのものが吹き飛ばされてしまいそうなほどだった。
 その時、誰かが部屋に入って来る気配を感じた。

 驚いて振り返るとそこにはあの黒い髪の男がいた。
 彼は手にナイフを握っている。その刃先からは赤い液体が滴っていた。

「……!」

 恐怖で声が出せずにいる私に対して、男は静かにこう語りかけた。

 ──僕はあなたを殺しませんよ。だってあなたはとても美しいから。

 私は、そのナイフの血が誰のものであるかを考えたくなかった。きっとそれは考えてはいけないことだったのだろう。それでも想像してしまう自分が嫌だった。そんな私の様子に気づいていないはずはないのに、男はさらに続けた。

 ──あなたの全てが欲しいのです。何もかも奪い尽くして自分のものにしたい。愛しているんですよ、心の底からね。

 底知れぬ気味の悪さがあった。
 その瞬間、男は私に向かって飛びかかってきた。私は必死になって抵抗したが男の力には敵わなかった。男は恐ろしいほど強かったのだ。まるで人間ではないかのように。
 結局、私は為す術もなく組み伏せられてしまった。男は満足げに笑うと私の上に覆い被さってきた。次の瞬間、首筋に強い痛みを感じる。私はそこで意識を失った。

 翌朝、目を覚ました時には既に雨も風も止んでいた。窓から見える空は青々と晴れ渡っている。昨日の嵐など嘘のようだ。しかし、目の前の惨状を見て私は現実を理解するしかなかった。床一面に飛び散った血痕、そして無残に引き裂かれた両親の亡骸を。男は、まるで元から存在しなかったかのように消え去っていた。霧が晴れたかのように……
 夢でも見ていたのかと思うくらいに跡形もなく。ただ一つだけ確かなことがあった。あの男は吸血鬼だったのだ。その証拠に、男の姿はどこにもなかったというのに私の首には未だ鋭い痛みが残っている。
 その後のことはよく覚えていない。幸いというべきか不幸にもと言うべきか、私には両親が残してくれた莫大な遺産があった。

 吸血鬼は太陽の下では生きることができない。吸血鬼は人間を見ると血を吸いたくなってしまう。つまりは、これからずっと独りで、誰にも会わずにここで暮らしていくしかないのだ。そう思うと初めて涙が出た。

 父のことを思い出した。母のことを思い出した。
 私が男を一晩泊めてあげようと提案したことを思い出した。
 頼りになった父のことを思い出した。優しかった母のことを思い出した。
 彼らの血がついたナイフを思い出した。
 血がついたナイフと、無惨に引き裂かれた肉塊と、何もできない私と。

 私は私の感情が溢れるのを止めることができなかった。感情が堰を切って漏れ出す。
 森には、私一人の慟哭が響き渡った。
 そうして、私は吸血鬼になったのだ。








 私は今でもあの日のことを忘れられないでいる。彼が、私が意識を失う直前に言った言葉がいつも私の耳に反響している。

 ──また迎えにきますよ。私の美しい花嫁。

 あの、ルビーのように紅く綺麗な、されど空虚な目でそう囁いた言葉が。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

妻からの手紙~18年の後悔を添えて~

Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。 妻が死んで18年目の今日。 息子の誕生日。 「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」 息子は…17年前に死んだ。 手紙はもう一通あった。 俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。 ------------------------------

いまさら謝罪など

あかね
ファンタジー
殿下。謝罪したところでもう遅いのです。

父が再婚しました

Ruhuna
ファンタジー
母が亡くなって1ヶ月後に 父が再婚しました

学園長からのお話です

ラララキヲ
ファンタジー
 学園長の声が学園に響く。 『昨日、平民の女生徒の食べていたお菓子を高位貴族の令息5人が取り囲んで奪うという事がありました』  昨日ピンク髪の女生徒からクッキーを貰った自覚のある王太子とその側近4人は項垂れながらその声を聴いていた。  学園長の話はまだまだ続く…… ◇テンプレ乙女ゲームになりそうな登場人物(しかし出てこない) ◇ふんわり世界観。ゆるふわ設定。 ◇なろうにも上げています。

主人公の恋敵として夫に処刑される王妃として転生した私は夫になる男との結婚を阻止します

白雪の雫
ファンタジー
突然ですが質問です。 あなたは【真実の愛】を信じますか? そう聞かれたら私は『いいえ!』『No!』と答える。 だって・・・そうでしょ? ジュリアーノ王太子の(名目上の)父親である若かりし頃の陛下曰く「私と彼女は真実の愛で結ばれている」という何が何だか訳の分からない理屈で、婚約者だった大臣の姫ではなく平民の女を妃にしたのよ!? それだけではない。 何と平民から王妃になった女は庭師と不倫して不義の子を儲け、その不義の子ことジュリアーノは陛下が側室にも成れない身分の低い女が産んだ息子のユーリアを後宮に入れて妃のように扱っているのよーーーっ!!! 私とジュリアーノの結婚は王太子の後見になって欲しいと陛下から土下座をされてまで請われたもの。 それなのに・・・ジュリアーノは私を後宮の片隅に追いやりユーリアと毎晩「アッー!」をしている。 しかも! ジュリアーノはユーリアと「アッー!」をするにしてもベルフィーネという存在が邪魔という理由だけで、正式な王太子妃である私を車裂きの刑にしやがるのよ!!! マジかーーーっ!!! 前世は腐女子であるが会社では働く女性向けの商品開発に携わっていた私は【夢色の恋人達】というBLゲームの、悪役と位置づけられている王太子妃のベルフィーネに転生していたのよーーーっ!!! 思い付きで書いたので、ガバガバ設定+矛盾がある+ご都合主義。 世界観、建築物や衣装等は古代ギリシャ・ローマ神話、古代バビロニアをベースにしたファンタジー、ベルフィーネの一人称は『私』と書いて『わたくし』です。

三十年後に届いた白い手紙

RyuChoukan
ファンタジー
三十年前、帝国は一人の少年を裏切り者として処刑した。 彼は最後まで、何も語らなかった。 その罪の真相を知る者は、ただ一人の女性だけだった。 戴冠舞踏会の夜。 公爵令嬢は、一通の白い手紙を手に、皇帝の前に立つ。 それは復讐でも、告発でもない。 三十年間、辺境の郵便局で待ち続けられていた、 「渡されなかった約束」のための手紙だった。 沈黙のまま命を捨てた男と、 三十年、ただ待ち続けた女。 そして、すべてを知った上で扉を開く、次の世代。 これは、 遅れて届いた手紙が、 人生と運命を静かに書き換えていく物語。

思いを込めてあなたに贈る

あんど もあ
ファンタジー
ファナの母が亡くなった二ヶ月後に、父は新しい妻とその妻との間に生まれた赤ん坊を家に連れて来た。義母は、お前はもうこの家の後継者では無いと母から受け継いだ家宝のネックレスを奪うが、そのネックレスは……。

【完結】あなたに知られたくなかった

ここ
ファンタジー
セレナの幸せな生活はあっという間に消え去った。新しい継母と異母妹によって。 5歳まで令嬢として生きてきたセレナは6歳の今は、小さな手足で必死に下女見習いをしている。もう自分が令嬢だということは忘れていた。 そんなセレナに起きた奇跡とは?

処理中です...