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XXIX 非日常-II
しおりを挟む「――ちょっと待ちな」
彼女の声に呼び止められ、渋々振り返る。
その声を、無視してしまっても良かった。振り返る必要性も、義理も無い。しかし何故だか彼女から妙な音が聞こえてきて、無視したら大変な事が起こると、そんな予感がした。
「お前、随分と良い服を着てるね。あの頃の孤児だとは思えないよ」
「……」
「その様子だと、金もそれなりに持ってるんだろう」
「……あんたには関係ない」
彼女の顔を見ていると、嫌でも伝わってくる。彼女が私に、何を求めているのか。
しかし彼女は、何故だかその要求をはっきりとは口にしなかった。
「お前がよく一緒に居た、あの黒髪の男。えらく顔が整っていると思っていたが、随分と良い男に育ったね」
「!」
「可愛い可愛い奥さんを貰った様だ。淑やかで愛嬌があって、それに美人だ。あれ程の女はそうそう居ない。……ああいう女は、良い値が付く」
「ちょっと……!」
「世の中には、玩具を欲しがっている変態貴族が多いんだよ。深夜0時開催の、闇オークション。お前も知っているだろう」
「そ、それは……」
『深夜0時開催の、闇オークション』
その言葉は、確かに聞いた事があった。
今でも良く思い出す事が出来る。ノエルが、借金取りに競売に掛けると言われた時の事だ。マリアの口から、その言葉を聞いた。
「何で……!? 何でセディ達の事知ってるの……!?」
彼女が口角を上げ、にたりと不気味な笑みを浮かべる。
「闇オークションに顔が利く奴らと、ちょいと面識があってね。普段は借金の取り立てをやってる奴らだ。この街の事なら、何でも知ってる。そいつらを頼れば、お前を探すのも簡単だったよ。……あぁ、でも、此処まで懇切丁寧に説明してやらなくても、お前は人の心が読めるんだったね」
ビリビリとした、耳奥が痺れる様な不快な感覚に顔を歪める。
闇オークションに顔が利く奴ら。借金の取り立て。この街の事なら、何でも知ってる。
頭に浮かぶのは、マリアを痛めつけていた借金取り。顔はもう覚えていないが、恐らく彼等と同じ人種だろう。
この女が、何故そんな反社会的とも呼べる裏の人間と通じているのかは分からない。しかし、私を強請る為の情報が欲しかったのは確かだ。
「……あんた、金に困ってる様には見えないんだけど」
彼女が身に纏っているのは、上質とも劣悪とも言い難いドレス。しかしやや派手で、心成しか街の人間が身に纏っているドレスよりも上質な物に見える。
「私の男がギャンブル依存の嫌いがあってね。悪い所から借金をしてる様なんだ」
その言葉に、彼女が何故裏の人間と通じていたのかが分かった。彼女は世渡りが上手い。きっとマリアの様に暴力を振るわれる事無く、言葉を巧みに使って借金取りを追い返しているのだろう。
――いや、違う。彼女の事だ。借金取りに自身の身体を売って、思う様に借金取りを動かした可能性が高い。父と居た時こそそんな事はしなかったが、彼女は自身の利益の為であれば簡単に身体を売る様な女だ。借金取りと体の関係を結び、借金の返済を上手く躱しているのかもしれない。
「――そんな男、捨てればいいだけの話でしょ。なんなら、借金取りと上手く付き合えば豪遊でも出来るんじゃない?」
「……」
彼女の顔に浮かんでいた笑みが、ふと消える。その瞬間、とっくの昔に忘れていた“恐怖”が蘇り自身を襲った。
パシン、と乾いた音が響く。じわりと痛む頬、傾いた視界。
「私から“あの人”を奪っておいて、よくもそんな事が言えるね」
――あぁ、また。
あれから10年以上も経っているというのに、もう忘れた筈なのに、また私はこの女に殴られたのか。鈍い頭が漸く、その事実を理解する。
彼女の手の動きは、驚く程遅かった。今の私なら、平手を避けるだけでなく、彼女を羽交い絞めにして拘束する事だって容易く出来た筈だ。その為に、身体能力を上げたのだから。
なのに、私は平手を受けると分かっていながらも動けなかった。それは何故か。
恐怖に支配されていたからだ。
この歳になってもまだ、母親に殴られ続けた過去が私の心を苛んでいるからだ。
セドリックにあれだけ過去の話をしておいて、あれだけ諭しておいて、自身は未だ恐怖心を抱いているだなんて笑ってしまう。
「――幾ら、必要なの」
なんて、馬鹿なんだろう。
これでは、彼女に“殴れば従う”と教えてしまった様なものだ。
「話が早くて助かるよ」
上機嫌な彼女が、今の私に“決して払えない額ではない”金額を提示した。
じわりと痛む頬を押さえ、今にも零れそうな涙を必死に堪えながら震える唇で言葉を紡ぐ。
「今は、持ち合わせがない。今日の18時に、橋のたもとで待ってて」
「ああ、分かった」
それだけ言うと、彼女は私になんの関心も示す事無く街の方へと消えていった。その後ろ姿を眺めながら、張り裂けそうな程痛い胸を押さえぼんやりと鈍った頭を回す。
私は今の今迄、最も大切な事を忘れていた。日常こそが最大の幸福であり、非日常程恐ろしいものはない、という事を。
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