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II 交わらない思考

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 悪天候の多いロンドンでは珍しい、晴れ間の広がる午後2時半。社交ダンスのレッスンを終え、身体への疲労と少々の憂鬱感を抱えながら重い足取りで自室へ続く廊下を歩く。

 社交ダンスとは、一般的に思い浮かべられる男女ペアのダンスで相違ない。貴族という肩書を持つ者は皆身に付け、社交パーティーが行われる度に誘い誘われ思い思いにダンスに興じる。
 そんな中でも、私の様な貴族令嬢は取り分けダンスに誘われる機会も多い。その理由は、純粋に社交界の殿方が少しでも“若い女”と触れ合いたいからだと聞いたが、実際はその家の品位を見極める為だという理由も含まれているらしい。
 その為、少しのミスで家柄の品位を落としてしまわぬ様に、貴族達は子孫に幼少から完璧な社交ダンスと高度なコミュニケーション能力を叩き込む。
 私の場合もそれと同じだ。少々不器用な私の為に、両親は家庭教師ガヴァネスの中でも一際腕のいい人間を私に付けた。

 だが、困った事に私の不器用さは想像以上の物だった。
 レッスンが本格的な物になったのは、私が16歳になったの時。つまり、1年半前だ。
 1年半もレッスンを受け続けていると言うのに、今日だけで家庭教師ガヴァネスの足を踏んだ回数は4回、転倒した回数は2回。
 私の才能の無さに、家庭教師ガヴァネスには「これ以上教えても意味がない」と匙を投げられる始末だった。

 きっと、私がダンスを上手く覚えられない事は両親の耳にも入るのだろう。世間体を一番に考えている両親の事だ。私のダンスが上達しないのは家庭教師ガヴァネスの所為だと決めつけ、担当の教師を変えると言い出すかもしれない。
 厳しく、気難しい人ではあったが、此処まで根気よく教えてくれた人だ。私の所為で彼女が両親から叱られてしまうのは心が痛む。
 憂鬱な気持ちは晴れず、窓の外を眺めながら溜息を吐いた。

 ふと遠目に見えた、窓の拭き掃除に励む使用人の姿。
 彼女はメアリー・バレンタイン。この屋敷の使用人であり、私と歳の近い若い女性だ。彼女とは仲が良く、定期的にお茶会ティータイムを共にしては主人と使用人の関係を忘れ談笑している。

 真剣に拭き掃除に勤しむ彼女は、まだ私の存在に気付いていない。そんな彼女につい悪戯心が働き、足音を忍ばせゆっくりと背後から近付いた。

「メアリー!」

 やや大きめに彼女の名を口にし、小さな両肩にぽんと手を置く。それと同時にその肩が大きく跳ね、メアリーが声にならない悲鳴を上げた。

「お、お嬢様!」

 振り返った彼女が困惑にも似た声音で怒り、きつく私を睨みつける。

「驚かせるのはやめてくださいと、何度言ったら…」

「ごめんなさいね、貴女の姿が見えたからつい」

 想像通りの愛らしい反応に笑みを零し、彼女に抱き着く様に身を寄せる。
 彼女は、モーリスとはまた別の意味で安心して話が出来る相手だ。使用人よりも、大切な友人と言う方が感覚的には近いかもしれない。

「ここの窓は大きいから、1人で掃除するのは大変でしょう。私も手伝うわ」

 メアリーの足元に置かれている、水桶の縁に掛けられた雑巾を手に取った。其れを程良い大きさに畳み、彼女と同じ様に窓ガラスの汚れを拭き取っていく。

「いけません、お嬢様。 お気持ちだけで十分です」

「気にしなくていいのよ。次のレッスンまでまだあと1時間も余裕があるのに、する事が無くて困っていたの。それに、貴女と少しお話がしたくて」

 彼女に微笑みかけると、メアリーの頬がほんのりと赤く染まった。そして照れた様に口元を緩め、「ではお言葉に甘えて、少しだけ」と弱々しくも返答する。

 改めて思うが、メアリーは本当に愛らしい。この屋敷の庭師ガーデナーがメアリーに想いを寄せていると噂に聞いたが、それも当然だと思える程だ。同性の私ですら、彼女の愛らしさには心惹かれてしまう。

「メアリー、貴女好きな人はいるの?」

 彼女なら、きっと男性から言い寄られる事も少なくないだろう。そんな疑問から、女性同士ならではの話題を投げかける。

「好きな人、とは…?」

 メアリーが窓拭きの手を止め、小さく首を傾げた。

「想い人…と言うのかしら。恋慕こいしたっている相手の事よ」

「恋、慕う…」

 復唱する様に呟いた彼女が、僅かに考え込む素振りを見せる。
 自分自身恋愛経験が無い事から、今迄自らその様な話題を切り出す事は避けていた。だが、いざ口に出しその話題を振ってみれば、忽ちたちまち湧き上がるのは深い好奇心。
 緊張に似た動悸を感じながら、思いに耽るメアリーの横顔を見つめる。

「…これを、“恋”と呼ぶには不確かな物ですが」

 口を開いた彼女の顔は赤い。

「――お慕いしている、方は…」

 メアリーの言葉を聞き逃すまいと、彼女の口元を凝視する。だが彼女はそれ以上言葉にする事は無く、代わりに肯定を示す様に私の瞳を真っ直ぐに見据え小さく頷いた。
 
「この様な話は、あまり得意では無いんです。経験が浅いので…」

 火照った顔を冷ます様に、彼女が手で顔を扇ぐ。
 何処となく雰囲気や思考が大人びているからか、彼女は自分よりも経験が豊富なのだとばかり思っていた。だがその仕草を見ていると、彼女は自分と然程変わらない、19歳の女の子なのだと実感する。

「ふふ、可愛いわねメアリー」

「…揶揄うのはやめてください」

 顔を赤く染めたまま、彼女が不服そうな表情を浮かべた。そんなメアリーから視線を外し、窓ガラスに向き直る。
 ふと屋敷の外に目を遣ると、庭園の手入れをしていた庭師ガーデナーと目が合った。挨拶代わりとして、彼に微笑みを送る。

「……?」

 普段なら、庭師の彼は目が合うと私よりも先に反応を示してくれる。だが今日の彼は、少しおかしい。その顔は酷く強張っていて、此方に視線を固定させたまま動かない。
 だがそれを疑問に思う前に、窓ガラスに反射して見えた“顔”に全ての思考が停止した。

 窓ガラスに叩きつけられたのはメアリーの額。手元の窓ガラスが、その衝撃で僅かに波打つ。
 会話に夢中だったからか、それとも気配その物が無かったのか。私達のすぐ背後に、“父”の存在が迫っている事に気付くことが出来なかった。

「――何故、エルが掃除なんてしているんだ」

 その場に響いた低い声に、背筋に寒気が走る。怒りを含んだ父の声は、普段使用人を叱責する声とは比にならない。

「…や、やめて…お父様」

 震えを抑え込み、なんとか喉奥から声を絞り出す。
 私が使用人の仕事を手伝ったことは、これが初めてでは無い。父に見つかればその都度使用人が叱責されていたが、今の様に暴力を振るう事は1度も無かった。これ程までに怒りを露わにした父は、今迄に見た事が無い。
 父は何時、私達の存在に気付いたのだろう。メアリーと恋愛話をしていた時には、周囲に人の気配は無かった。父も此処には居なかった筈だ。
 一体何が、父を此処まで怒らせてしまったのだろうか。

「…私が、勝手にやっているだけなの。彼女は、メアリーは悪くないわ」

 メアリーの額を窓ガラスに押し付けるその腕を掴むと、父が此方に視線を向けた。

「――お前が掃除をする必要など何処にも無いだろう。何の為に使用人を雇っていると思ってるんだ」

「…ご、ごめんなさい…。これだけの窓を1人で掃除するのは…大変だと思って。それに、彼女と話がしたかったの」

 父の鋭い視線に圧倒され、思わず顔を背ける。

「お前は優しいね、エル。だが、それは労働者階級である彼らの仕事だ。本来価値など無い彼等に、私は大金を支払って“生かしてやってる”んだよ。この程度の事で大変と言われるだなんて、心外だな」

「そんな……」

「それに、話がしたいなら部屋に呼びつければいいだろう?貴族であるお前が、身分の低い彼らと“立ち話”をする必要は何処にもない」

 父が掴むメアリーの項から、軋む様な痛々しい音が鳴る。それと同時に漏れる、彼女の苦し気な声。

「お前は賢い子だ。私が言っている事、分かるね?」

 私の瞳を真っ直ぐに見据え、父が笑った。

 幾ら自分達の身分が高かったとしても、幾ら彼女達の身分が低かったとしても、それが暴力を振るっていい理由にはならない。階級制度なんて物が無くなれば、私達はなんの変わりもないただの人間なのだから。
 だが階級制度を含めた人間同士の差別は、私達が人間である以上取り除く事は不可能に等しい。私の瞳に映る父は“異常”だったとしても、この世の中に生きる人間の瞳で見れば“正常”なのかもしれない。

 自身の中を渦巻く諦観と絶望。
 父の言葉を肯定する様に、手に持った雑巾を床に落とした。

「お父様、その手を離して」

 満足気な顔をした父が、手の力を緩める。その拍子に、ゆらりと傾くメアリーの身体。
 咄嗟に手を伸ばし、彼女の身体が床に叩きつけられる前に抱き留めた。

 それは、反射的に取った行動だったと思う。自身の行動を見た父がどう思うかだなんて、考えなくとも解る事だというのに、それを止める事は出来なかった。
 父の呆れた溜息を頭上で聞きながら、メアリーの背を摩り「大丈夫?」と声を掛ける。それに彼女は弱々しく微笑み、小さく頷いた。

「エル、残念だよ。お前が私の言う事を分かってくれないなんて」

 父が軽い足取りで私達の周囲を歩きながら、落胆の滲んだ言葉を漏らす。
 現状を知らない人が聞けば、きっと差程大きな問題では無いと判断するだろう。それ程に、今の父の口調は柔らかく、まるで子供を諭す様な声音だ。

 ――いっそ強い口調で叱りつけてくれれば。
 そう思ってしまう程に、私にとって父の柔らかい声音は、腹の底が読めない恐怖その物だった。

 私が今日、メアリーに話掛けたりしなければ、メアリーの仕事を手伝ったりなどしなければ、きっと彼女をこんなつらい目に合わせる事は無かったのだろう。悲しい事だが、それが現実だ。
 だが、本当に“それだけ”なのだろうか。
 ただの勘だと言ってしまえばそれまでだが、今の父の怒りの原因は他にもある様に思えた。

「――お父様の言っている事が、分からない訳では無いの」

 考えれば考える程、今日の父の行動は不自然だ。
 数時間前の父は普段通りで、特別苛立ちやストレスを抱えている様には見えなかった。尚且つ、父は使用人に八つ当たりをする様な人間でも無い。
 今の父の行動には、何か“意図”があるのでは無いか。沸き上がった僅かな疑問は、徐々に広がっていく。

 だがこの状況でそれを父に指摘できる程、自分は肝が据わっている訳でも無かった。
 今目の前にいるメアリーと、自分自身を守る事で精一杯だ。疑問の真相を解き明かす余裕は、微塵たりとも存在しない。

「自分の身分の事も、階級の事も、勿論全て理解しているわ」

 震える声で、当たり障り無い言葉を紡ぐ。

「でも、今日の事は――」

 頭に並べた許しを請う言葉を、口にしようと顔を上げた。

 瞳に捉えた、恐ろしい程無表情の父の顔。
 そして、振り翳す赤い薔薇が活けられた陶器の花瓶。

 自身はその後、何と言葉を続けようとしたのだろうか。頬を掠めた花瓶に、言葉を続けるは愚か、その言葉すらも頭の中から消えてしまった。
 自身の背後の壁に“それ”はぶつかり、ダマスク柄のカーペットが敷かれた床に水と薔薇、そして先程迄“花瓶だった物”が散らばる。
 激しい心音は、自身の物か。それとも腕に抱いたメアリーの物か。それも分からなくなる程に、恐怖で思考が埋め尽くされる。

「――何してるんだ、早く片付けろ」

 巡る思考を断ち切ったのは、父の冷酷な声。顔を上げると、父が鋭い視線で私達を見下ろしていた。

「…ご、ごめん、なさい」

 それは誰に向けられた言葉なのか。恐怖に支配された今、私はそれを理解する事が出来なかった。

 メアリーから身体を離し、割れた破片に手を伸ばす。
 どうすればこの状況を回避できるのか、どれだけ考えようとしても恐怖心が邪魔をし、答えに至らない。

「――!」

 大きな破片を拾い上げようとした際、指先にちくりと鋭い痛みが走った。思わず、散らばった破片から手を引っ込める。
 大した怪我では無いというのに、指先の怪我は何故こんなにも出血量が多いのだろうか。じわりと滲んだ鮮血は止まることなく、カーペットに一滴雫が落ちる。
 そんな私を見たメアリーの顔が、一瞬にして青く染まった。大丈夫だと伝えようと慌てて口を開くが、間髪を容れず父がわざとらしい口調で嘆く。

「――あぁ、お前の所為で私の大切な娘が怪我をしてしまったじゃないか」

 過度な恐怖心からか、将又酷い動機と息苦しさからか、声の出し方を忘れてしまった様に言葉を出す事が出来ない。その代わりとして、強く首を横に振り否定を示すが、父は私に目もくれずメアリーをきつく睨みつける。
 
「傷が残ったら、どう責任を取るつもりだ」

「も…申し訳ありません、今すぐに片づけます」

 顔に恐怖を滲ませたメアリーが、声を震わせながら慌てて花瓶の破片の方へ手を伸ばす。だが父はそんなメアリーに「もう遅い」と一言投げ掛け、その小さな背を勢い良く蹴り飛ばした。その衝撃で、バランスを崩した彼女の身体がぐらりと傾く。

「メアリー!」

 咄嗟に彼女の名を呼び、その身体を受け止めようと手を伸ばした。このまま倒れてしまえば、彼女は間違いなく散らばった破片で大怪我をしてしまう。
 これは全て私が招いた事だ。それにメアリーを巻き込み、怪我をさせてしまうだなんて、そんな事絶対にあってはならない。
 だが伸ばした手はメアリーに届く事は無く、虚しく空を切った。

 ぐしゃり、と陶器の破片が擦れ、割れる音が響く。
 メアリーの髪を纏めていたブリムが外れ、長い髪が床に垂れている為彼女の表情は見えない。だが、私の怪我とは比にならない程の量の血液がカーペットに滲みを作っていた。

「エル、お前もあと半年後には成人を迎えるんだ。そろそろ、“道具”の使い方を覚えるべきだよ」

 父が、先程とは打って変わって優しい笑みを私に向ける。そして、未だ床に倒れたままのメアリーに一言「日が落ちる前に全て片付けておけ」と言葉を投げ、早々と仕事部屋の方向へと消えていった。

 視界の隅に映ったメアリーが、操り人形マリオネットの様な不自然な動きでゆっくりと身体を起こす。その拍子に見えた彼女の顔には、無数の傷と真っ赤な血液が付着していた。
 メアリーが身体を動かす度に、ぱらぱらと床に血液の付いた破片が落ちる。

「――お嬢様、お怪我は」

 メアリーが私の方へと手を伸ばした。その手を強く握り、「大丈夫よ」と声を掛ける。
 今のメアリーは、決して軽症ではない。きっと傷が痛んで酷く苦しいだろう。
 だが彼女はそんな中で、「良かった」と一言零し儚い笑みを見せた。

 確か、今日は母の身体を診に医者が来ていた筈だ。
 ただの切り傷ですら、手当を怠れば化膿や感染症の危険性を伴う。早く、メアリーの怪我を手当してもらわねばならない。
 
「メアリー、お医者様の所へ行きましょう」

 彼女の身体を支えようと、その背に腕を回す。
 だが、私の手を遮る様に“誰か”の手が強引にメアリーの身体を抱き上げた。

「メアリーの事は私が。お嬢様も、医者の手当てが必要でしょう」
 
 僅かに泥が付着した黒のエプロンに、使い古した白のシャツ。私と目を合わせる事無く淡々と告げたのは、先程庭園の管理をしていた筈の庭師ガーデナーだった。
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