DachuRa 1st story -最低で残酷な、ハッピーエンドを今-

白城 由紀菜

文字の大きさ
3 / 215

III 母の瞳

 22時半の寝室。ドレッサーの前で私の髪を梳くメアリーの姿を、鏡越しに見つめる。
 彼女の頬のガーゼや両腕に巻かれた包帯は、目を背けたくなる程に痛々しい。
 全ては私の所為だ。私があの時、掃除を手伝うなんて言わなければ、もっと周囲を気にしていれば、彼女にこんな大怪我を負わせる事は無かった。

「メアリー…、昼間は、ごめんなさい」

 鏡越しに彼女の顔色を伺いながら、恐る恐るその言葉を口にする。
 彼女が今の今まで日中の話題を出さなかった為、触れるべきではない事柄かと思っていたが、それでも私の所為で怪我をさせてしまった以上このまま黙っている訳にはいかない。

「お嬢様が謝る事ではございません。全ては私の責任です。あまり気に病まないでください」

 私と視線を交わらせる事は無い物の、彼女の口調はいつも通り優しく、その表情は穏やかだ。だが何処か、私と彼女の間に壁を感じる。
 そもそも、この家の令嬢である私と、使用人の彼女が親しい間柄という時点で普通じゃない。本来なら、何方も壁を作るべき関係だ。
 単に、今までの私達の関係が異常だった。たったそれだけなのに、どうしてもその事実が悲しくて、認めたくないと思っている自分が居た。


「それよりも、指の傷はまだ痛みますか?医者からは、深い傷だったと聞きましたが」

「…私は…大丈夫よ」

 確かに彼女の言う通り、指先の傷は深かった。全く痛まないと言ったら嘘になる上に、医者からは完治に多少の時間が掛かると言われてしまった。
 だが、そんな私の傷よりもメアリーの傷の方が余程深い。後に庭師(ガーデナー)の彼から聞いた話だが、顔の傷の方は特に酷く、傷跡が残ってしまう可能性も低くは無いらしい。
 女性の顔に傷をつけてしまうだなんて、あってはならない事だ。メアリーは気に病むなと言うが、それでも私は酷く自責の念に駆られていた。

「――ごめんなさい」

 もう一度、謝罪の言葉を口にする。
 それに対し、メアリーは何も言う事は無かった。ただ、微笑みを湛えたまま私の髪を梳く。

 そんな彼女の姿を見ながら、ふと脳裏を過ったのは日中の父の事。父の行動は、あまりにも不自然だった。

「ねぇ、メアリー」

 使用人の彼女なら、父との接点も私以上にある筈だ。彼女なら何か知っているかもしれないと、彼女に再び声を掛ける。

「今日のお父様、少し、変じゃなかったかしら」

「…変?」
 
 今まで微笑みを湛えていた彼女が、その一言で急に顔を強張らせた。髪を梳く手が止まり、何かを考えこむ様な表情に変わる。
 鏡越しに見つめたメアリーは俯いたままで、相変わらず視線は交わらない。もしや聞いてはいけない事柄だったのかと、心臓が早鐘を打つ。
 だが突如、彼女がぱっと顔を上げた。

「それは、私が旦那様を――」

 鏡越しに私の瞳を見据え、紡がれる言葉。力の籠った彼女の声に、何を言われるのかと思わず身構える。
 だが、タイミングが悪くも部屋に響き渡ったノックの音で、その言葉を最後まで聞く事は叶わなかった。

 メアリーと共に、反射的に扉の方へと視線を向ける。
 私の返事を待たずに、開かれる扉。

 ――もし、部屋を訪れた人物が父だったとしたら。
 日中の事がフラッシュバックし、一瞬にして恐怖が心の中を満たす。
 だが、顔を覗かせたのは予想外の人物だった。

「お、お母様…」

 私の顔を見てにこりと微笑んだ母の顔に、思わず安堵の溜息を吐く。

「なぁに、お邪魔だったかしら」

 揶揄う口調の母に、「とんでもございません」とメアリーが透かさず返答し、彼女が一歩私から距離を取った。ブラシをドレッサーに置き、私達に近づいてくる母に会釈をして逃げる様に寝室を去っていく。
 メアリーが先程何を言おうとしたのか、聞きそびれてしまった。また機会があれば、話してくれるだろうか。内心口惜しく思いながら、私の背後に回った母に、鏡越しに視線を投げた。

「珍しいわね、こんな時間にお母様が来るだなんて」

 徐にブラシを手に取った母にそう声を掛けてみるが、母は何も答えない。

「お身体に触るわ。早く寝室へ戻った方がいいんじゃないかしら」

 母は比較的穏やかな性格をしている為、父よりかは話し易い方だ。だが時々何を考えているか分からない時があり、2人きりになるのは非常に気まずい。
 正直、母には早く要件を言って出て行って貰いたい所だ。しかしそんな事は口が裂けても言える筈も無く、仕方なく口を噤み私の髪を梳く母を黙って見つめた。


「――ヘクターが、メアリーに怪我をさせた様ね」


 ずっと黙っていた母が突如切り出したのは、日中の“例の”話題。あまり触れて欲しくない事柄に、鼓動が跳ね上がる。

「貴女がその場に居合わせたと聞いたけれど、怪我は無いかしら?」

 日中父と起こしたトラブルは、何処まで母の耳に入っているのだろうか。
 指に巻かれた包帯を隠す様に手を握りしめ、「私は大丈夫よ」と当たり障りない返答をする。 

「そう、良かった」

 私の髪を梳きながら、母が安心した様に顔を綻ばせる。その顔に、嘘をついてしまった罪悪感からかちくりと胸が痛んだ。
 母も、母なりに私の事を心配してくれているのだろうか。使用人達にはきつく当たったとしても、娘の私にはほんの少しだとしても情を抱いてくれているのかもしれない。

「もし貴女が怪我をして、傷跡が残ったりなんて事があったら――」

 だが、母の続けた言葉に、その僅かな期待も打ち砕かれる。

「――今後の婚姻に関わるでしょう?」

 母の言葉が、容赦なく胸に突き刺さる。ずしりと重くなった心は先程よりも痛く、思わず手元に視線を落とした。
 “婚姻に関わる”。
 そうだ、貴族令嬢の最大の仕事は、自身の家の為に、命じられた家へ嫁ぐ事。

「だから、それが心配で」

 母の心配する先が、私の身体では無く婚姻の事だという事は心の何処かで分かっていた。自分の身体を心配してくれているのかもしれないなんて、淡い期待を抱いてしまった自分が馬鹿みたいだ。
 だが不思議と、傷付いたり、悲しんだり、なんて感情は湧かない。
 ――あぁ、やっぱり。
 私の中に浮かんだのは、諦観にも似た感情だけだった。
 今も胸が痛むのは、きっと愛しても居ない相手の元へいずれ嫁がなくてはいけないから。
 きっとそうに違いない。

 それよりも、今はメアリーの傷の方が重要だ。

「メアリーは大怪我をしたの。お医者様は、2カ月もすれば完治すると仰っていたそうだけど、傷跡が残る可能性も低くは無いんですって」

 出来れば、彼女には傷が残らない様に腕のいい医者の元で治療を受けさせてやりたい。
 この家を出入りしている医者も腕は良いが、内科や精神科を主に担当している医者であり、外科は専門外だそうだ。現在は、止血と消毒のみの、最低限の治療しかしていないと聞いた。
 使用人の立場でその様な治療を受けるのが、難しい事だとは理解している。だが怪我をさせたのは紛れも無く父であり、そして“それ”を招いたのは私だ。十分な治療を受けさせる理由にはなるだろう。

「…そう」

 だが、母の返答はたったそれだけ。
 まるでメアリーには興味が無いとでも言う様に、「貴女に怪我が無くて良かったわ」と呟く様に繰り返した。 
 私の身体を心配しない母が、使用人の身体を心配する訳が無い。それは充分に理解している為、今は同情や心配を求めている訳では無い。
 だが、怪我の治療位まともに受けさせるべきだ。それが、貴族の口癖である“高貴なる者の務め”なのではないだろうか。
 沸々と沸き上がる苛立ちに、勢い良く振り返り私の髪を梳く母の手を振り払った。

「メアリーが、大怪我をしたと言っているのよ!専門医の治療を受けさせるべきだわ!」

 自身の声が、想像以上に大きく部屋に響く。部屋の外に迄聞こえてしまったかもしれない。
 もし今の言葉が父の耳に入ったら、叱られてしまうだろうか。
 だがもう、後に引き返す事は出来ない。怯むこと無く、真っ直ぐ母の瞳を見据える。

「――どうして?」

 部屋に響く、母の落ち着いた声。
 母の表情は、恐ろしい程に変わらない。

「命に関わる怪我じゃない筈だわ。どうして、わざわざ“物”の為に専門医を呼ばなければならないのかしら」

「…そんな……」

 ふふ、と母が奇妙な笑みを漏らした。

 母のブルーの瞳は、サファイアの様に美しく、社交界でも評判高い。私も、そんな母の瞳が美しく、羨ましく思っていた。
 だが今の母の瞳は宝石なんて綺麗な物では無い。まるで底の無い深海の様で、見据えた物全てを飲み込んでしまいそうな恐怖を感じた。
 思わず、母の瞳から目を反らす。
 
「…でも…怪我をさせたのはお父様で…せめて治療だけでも……」

「でもそれは、メアリーが招いた事でしょう?これが命に関わる怪我ならヘクターも何か考えたでしょうけど、あの人が何もしてないなら、それが正しいのよ。大丈夫、心配しなくても社交界に変な噂が立つなんて事はないわ」

 言動に合っていない、幼い子供を諭すような、優しい声音。
 自身の鼓動が、耳奥で低く響く。それに合わせてぐらりと眩暈が起こり、目の前が真っ暗になるような絶望感に襲われた。
 昔の母は、これ程残酷な事を言う人では無かった。分け隔てなく優しく接し、花が咲いた様に愛らしく笑う母が、私は大好きだった。――筈なのに。

「…違うわ…、私が、悪いのよ」

 まだ母に、何処か期待をしているのか。それとも絶望故の言葉なのか。自分でも分からない。

「…全部、私が悪いの…。私が、メアリーに……」

 だがその言葉は、最後まで言い終わる前に止まる。

「だめよ、エル」

 私の言葉を止めたのは、紛れも無い目の前の母だった。私の口元に人差し指を立てた母が、微笑みを湛え目を細める。

「それ以上言ったらヘクターに…、貴方の“お父様”に報告しなくてはいけなくなってしまうわ」

「――!」

 感じる本能的な恐怖。まるで呪いでも掛けられてしまったかの様に、喉奥が塞がり声が出なくなる。

「でも、そんな優しい貴女が大好きよ」

 黙った私を見た母が、少女の様に嬉しそうに笑った。その屈託の無い笑みは、いつか見たあの大好きだった笑顔と同じで、自身の顔から血の気が引いていくのが分かった。

「でもね、貴方は間違ってる」

 小さな子供をあやす様に、母の手が私の頭を撫でる。

「貴女は優しすぎるの。自分の人生は、全て生まれ持った階級で決まる。エル、貴女はこの階級制度の頂である、上流階級の人間よ。貴女を騙し、この場から引きずり落そうとする人間は必ず存在する。それが、彼等よ」

 母の手が頭から離れ、今度は頬へと伸びた。

「優しい、というのは良い事よ。でも、貴女の欠点はその優しさ。彼等に騙されない娘こそが、エインズワース家に相応しい人間になるの」

 それだけ言うと、母は私の言葉を聞かずにドレッサーに向きなおらせ、再びブラシを手に取った。
 ――彼等、とは。
 そう尋ねたかったが、きっと母は何も答えない。更には動悸も酷く、その言葉を口に出せそうも無い。
 黙って母に髪を梳かれながら、鏡越しに母の表情を顔色を伺う。

「貴女はとても恵まれていて、幸せなのよ」


 ぽつりと、母が独り言の様に言葉を漏らした。

「…お母様…?」

「幸せ、そう、幸せなの。貴女は誰よりも幸せ。私も、私もよ、幸せなの」

 まるで洗脳の様に、自分自身に言い聞かせる様に、母は私の髪を梳きながらその言葉を繰り返し続けた。
感想 0

あなたにおすすめの小説

絶交した幼馴染と大学の合コンで再会した。

孤独な蛇
恋愛
中学生の浅野春樹は上級生と喧嘩騒動を起こしたことがあった。 その上、目つきが悪く地毛は茶髪のため不良少年のような扱いを受けて学校では孤立していた。 そんな中、幼馴染の深瀬志穂だけは春樹のことをいつも気遣ってくれていた。 同じ高校に行こうと声を掛けてくれる志穂の言葉に応えたい一心で受験勉強にも力を入れていた。 春樹にとって、学校で孤立していることは問題ではなかった。 昔から志穂が近くにいてくれるから……。 しかし、3年生なってから志穂の態度がよそよそしくなってきた。 登下校も別々になり、学校で話しかけてくることも無くなった。 志穂の心が自分から離れていってしまっている気がした春樹は焦っていた。 彼女と話がしたい。笑った顔が見たい。 志穂と一緒に帰ろうと、彼女が部活動を行っている体育館へ向かったのだが……。 そこで春樹が耳にしたのは、自分の悪口を言って部活の友達と楽しそうにしている志穂の声だった。 その瞬間、春樹の中で志穂に対する想いや信頼は……消滅した。

義姉と押し入れに隠れたら、止まれなくなった

くろがねや
恋愛
父の再婚で、義姉ができた。 血は繋がっていない。でも——家族だ。そう言い聞かせながら、涼介はずっと沙耶から距離を取ってきた。 夏休み。田舎への帰省。甥っ子にせがまれて始まったかくれんぼ。急いで飛び込んだ押し入れの中に、先客がいた。 「……涼介くん」 薄い水色の浴衣。下ろした髪。橙色の光に染まった、沙耶の顔。 逃げ場のない暗闇の中で、二人分の体温が混ざり合う。 夜、来て。 その一言が——涼介の、全部を壊した。 甘くて、苦しくて、止まれない。 これは、ある夏の、秘密の話。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

君への気持ちが冷めたと夫から言われたので家出をしたら、知らぬ間に懸賞金が掛けられていました

結城芙由奈@コミカライズ連載中
恋愛
【え? これってまさか私のこと?】 ソフィア・ヴァイロンは貧しい子爵家の令嬢だった。町の小さな雑貨店で働き、常連の男性客に密かに恋心を抱いていたある日のこと。父親から借金返済の為に結婚話を持ち掛けられる。断ることが出来ず、諦めて見合いをしようとした矢先、別の相手から結婚を申し込まれた。その相手こそ彼女が密かに思いを寄せていた青年だった。そこでソフィアは喜んで受け入れたのだが、望んでいたような結婚生活では無かった。そんなある日、「君への気持ちが冷めたと」と夫から告げられる。ショックを受けたソフィアは家出をして行方をくらませたのだが、夫から懸賞金を掛けられていたことを知る―― ※他サイトでも投稿中

完結【強引な略奪婚】冷徹な次期帝は、婚姻間近の姫を夜ごと甘く溶かす

小木楓
恋愛
完結しました✨ タグ&あらすじ変更しました。 略奪された大納言家の香子を待っていたのは、冷徹な次期帝による「狂愛」という名の支配でした。 「泣け、香子。お前をこれほど乱せるのは、世界で私だけだ」 「お前はまだ誰のものでもないな? ならば、私のものだ」 大納言家の姫・香子には、心通わせる穏やかな婚約者がいた。 しかし、そのささやかな幸福は、冷徹と噂される次期帝・彰仁(あきひと)に見初められたことで一変する。 強引な勅命により略奪され、後宮という名の檻に閉じ込められた香子。 夜ごとの契りで身体を繋がれ、元婚約者への想いすら「不義」として塗り潰されていく。 恐怖に震える香子だったが、閉ざされた寝所で待っていたのは、想像を絶するほど重く、激しい寵愛で……? 「痛くはしない。……お前が私のことしか考えられなくなるまで、何度でも教え込もう」 逃げ場のない愛に心が絡め取られていく中、彰仁は香子を守るため、「ある残酷な嘘」を用いて彼女を試す。 それは、愛するがゆえに彼女を嫉妬と絶望で壊し、「帝なしでは息もできない」状態へ作り変えるための、狂気じみた遊戯だった。 「一生、私の腕の中で溺れていろ」 守るために壊し、愛するために縛る。 冷酷な仮面の下に隠された、 一途で異常な執着を知った時、香子の心もまた甘い猛毒に溶かされていく――。 ★最後は極上のハッピーエンドです。 ※AI画像を使用しています。

【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜

来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、 疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。 無愛想で冷静な上司・東條崇雅。 その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、 仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。 けれど―― そこから、彼の態度は変わり始めた。 苦手な仕事から外され、 負担を減らされ、 静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。 「辞めるのは認めない」 そんな言葉すらないのに、 無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。 これは愛? それともただの執着? じれじれと、甘く、不器用に。 二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。 無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

冷酷公爵と呼ばれる彼は、幼なじみの前でだけ笑う

由香
恋愛
“冷酷”“無慈悲”“氷の貴公子”――そう恐れられる公爵アレクシスには、誰も知らない秘密がある。 それは、幼なじみのリリアーナの前でだけ、優しく笑うこと。 貴族社会の頂点に立つ彼と、身分の低い彼女。 決して交わらないはずの二人なのに、彼は彼女を守り、触れ、独占しようとする。 「俺が笑うのは、お前の前だけだ」 無自覚な彼女と、執着を隠しきれない彼。 やがてその歪な関係は周囲を巻き込み、彼の“冷酷”と呼ばれる理由、そして彼女への想いの深さが暴かれていく―― これは、氷のような男が、たった一人にだけ溺れる物語。

秘められた薫り

La Mistral
恋愛
エブリスタにて、トレンド#恋愛で最高位 55位を獲得した作品です。 「愛しているよ」という夫の言葉が、今の美咲には虚しい空気にしか聞こえない。 欠けていたのは、理性を焼き尽くすような衝動。 ​クライアントの慎吾と交わす視線。ビジネスという仮面の下で共有される、剥き出しの欲望。 指先が触れる。名前を呼ばれる。ただそれだけで、美咲の積み上げてきた「良き妻」としての世界は音を立てて崩れ去る。 ​完璧なアリバイ、塗り固めた嘘。 夫の隣で微笑みながら、心は別の男の指先を求めている。 一度知ってしまった濃厚な「薫り」は、もう彼女を元の場所へは戻してくれない。 ​守るべき家庭と、抗えない本能。 二つの世界の境界線で、美咲が選ぶ「最後の一線」とは――。 欲望の熱に浮かされた女の、美しくも残酷な堕落の記録。