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X 誕生日パーティー
音の無い空間。
控室のドレッサーの前で、鏡に映る自分の姿を眺める。
胸元に散りばめられた無数のダイヤモンドに、何重にも重なるシルク素材のレース。何処かウェデイングドレスを連想するドレスだが、このドレスを仕立てた職人曰く“天使”をイメージして作成したらしい。
確かにその職人が言うように、羽の様なデザインの刺繍が所々あしらわれ、背には一見翼の様にも見えるショートベールが縫い付けられている。どの角度から見ても美しい、最高級のドレスだ。
だがどれだけそのドレスが美しくとも、それを身に纏った自身が美しいとは思えなかった。
粗悪な茶葉で淹れた紅茶だろうと、高級なティーカップに注げば高価な物に見える様に、高価なドレスに沢山のダイヤモンドを身に付ければ、誰だって美しく気高い女性になれる。
つまり、此処に立っているのが“私”でなくても問題は無いという事だ。
社交界では、紅茶の味など重要視されない。大事なのは全て見た目である。
求められるのは品位の高い令嬢。誰も、本当の私など興味が無い。
私の事など、誰も見ていない。
小さな物音を立て、部屋の扉がゆっくりと開いた。
ノックも無しに部屋に入ってきたのは、今日私を此処まで着飾らせた張本人である父。
「エル、良く似合っているよ。このドレスを作らせて正解だった」
背後に回った父が、鏡越しに私の姿を見て満足気に笑った。そして私の肩を、気味が悪い程優しく撫でる。
「もうパーティーの準備は整っている。皆、今日の主役が来るのを楽しみに待っているよ」
囁くように告げられた言葉に、自然と早くなる鼓動。
誕生日パーティーというものは過去に何度も経験しているが、今日はキース様と“婚約者”として初めて顔を合わせる場でもある。
私だって、全てに反抗したい訳では無い。これが政略結婚だったとしても、今後の人生もおいて一番の転機だ。出来る限り、夫となるキース様とは良好な関係を築いて行きたい。
極力彼を刺激しない様に、穏便に、事を済ませよう。キース様に今以上に気に入って貰えれば、父に叱られる事も、今後の生活も、悪い方向へとは進まない筈だ。
そう心の中で何度も繰り返し、父に促されるまま控室を後にした。
父に連れられて歩く屋敷の廊下は普段と変わらない筈なのに、まるで別世界の様に思えた。
ヒールの高い靴は足に合わず、1歩進む度に足が悲鳴を上げる。普段よりきつく締められたコルセットは苦しいなんて言葉で言い表せるものでは無く、今にも倒れてしまいそうだった。
だがそれでも、背筋を伸ばし、表情を引き締め、父の後に続く。これが、今の私がすべき最低限の事だからだ。
辿り着いた、ホールに続く扉の前。扉を開かなくとも、中から聞こえる雑音にも似た人の声に大勢の人が集まっている事が分かる。
「エインズワース家の人間として、恥じない行動を心掛けなさい」
ホールの扉を開いた父が最後に告げた言葉。その言葉に重みを感じながら、小さく息を吐き、顔に笑顔を作った。
それは誰よりも気高いエインズワース家の娘、エル・エインズワースとしてのプライドでもあった。
◇ ◇ ◇
招待客への一通りの挨拶が済み、周りに気付かれない様小さく息を吐く。
18歳になったのだからと勧められたワインは、高級な物だと聞いたが私の口に合う事は無かった。思わずそれを顔に出してしまった際は今までにない程の焦りを感じたが、周囲の殿方は「まだ幼さが残っていて愛らしい」と笑ってくれた。そのお陰か、今の所父の機嫌に変化は無い。
あと残されたのは、キース様への挨拶。他の招待客への挨拶とはまた別の緊張感を感じながら、遠目に見える、金の髪が印象的な男性に歩み寄る。
「御無沙汰しております、キース・スタインフェルド様」
私を視界に捉えた彼にカーテシーを行い、優しく微笑み掛ける。
「あぁ、君が僕の婚約者の、エル・エインズワースさんだね」
値踏みでもする様に私を見た彼が、紳士的だとも言える穏やかな笑みを浮かべた。
――君が?
彼が放った言葉に、僅かに違和感を抱く。父の話では、キース様の方が私を気に入り、婚約の申し出をしてきた、との事だった。実際私が読んだ手紙にも、それと同じ事が書かれていた筈だ。
だが今の彼の言葉を聞くに、彼は私の存在を“認知”していなかった様に思える。
やはりあの手紙は、キース様の本心では無く、両親から命じられて出した手紙だったのだろうか。彼も名家の嫡男であり、両親には逆らえない立場に居る筈だ。そう考えれば納得が出来る。
「本当に、天使の様に美しい人だね。君の様に美しい人が僕の奥さんになるだなんて、未だに信じられないよ」
「そんな、大袈裟ですわ。キース様こそ、とても端正なお顔立ちでいらっしゃって…、こうしてお話しているだけでも、周りの御令嬢に嫉妬されてしまいそう」
「ふふ、大袈裟なのは君も同じだね」
彼が笑い、私との距離を一歩詰める。
想像していた以上に、彼は紳士的な人だ。使用人達の噂話が一瞬脳裏に浮かぶが、とても彼が噂通りの人間には見えない。
――だが、次に彼に問われた質問で、その思考にも亀裂が入る。
「君は、夫が妻に手を上げる事をどう思うかい?」
「…え…?」
思わず聞き返すが、その自身の声は酷く震えていた。
「そんなに怯えないでおくれ。別に、君に手を上げようなんて思っちゃいないよ」
唇が触れそうな程に私に顔を近づけた彼が、ふふ、と笑みを零す。
だがその笑みはとても紳士的な物では無く、何処か狂気を含んだ薄気味悪い笑みだった。
「…あ、…あ、の…」
「僕はね、何があっても妻は夫の言いなりになるべきだと思うんだ。夫の望む女になり、常に夫を支え、悦ばせ、そして時に暴力を振るわれても笑顔で耐え抜き、夫の指示であれば別の男とも身体の関係を結ぶ――」
激しい動悸と共に、顔から血の気が引く。
がんがんと警報を鳴らす様に痛む頭に、目の前が真っ暗になる恐怖心を覚えた。
「おや?顔が真っ青だよ、大丈夫かい?」
私から顔を離した彼が、私の顔に掛かった髪を払う。
私は今、どんな顔をしているだろうか。上手く、微笑みを保って居られているだろうか。
恐怖に支配された頭が「これ以上この男と共にいてはいけない」と叫ぶ。だが私は、彼と正式な婚約をし、数か月後には彼の妻になる。
決して、逃げられない。
「……キ、キース様ったら、ご冗談を」
彼の言葉を茶化す様に、無理に笑った。
出来れば、そのまま「冗談だよ」と言って欲しかった。揶揄っただけだと言って欲しかった。
だが、彼はたった一言「今は、冗談だと受け止めて貰っても構わないよ」と言って優しく笑った。
「…ご、ごめん、なさい。私、気分が優れなくて」
「僕が変な話をしてしまったからかな?」
「…い、いえ、そんな事は。少し、人に酔ってしまったのかもしれません」
「あぁ、今日は招待客が多いからねぇ。バルコニーで少し風に当たったらどうかな?だいぶ気分も楽になると思うよ」
今の彼は、出逢った時と変わらない紳士的なキース様だ。
だが、先程のあの狂気じみた薄気味悪い笑みが、今も頭の中に残って離れない。
「ええ、そうします。それに、主役が居ない方がパーティーも盛り上がりますものね」
「ふふ、それには賛同できないけど。でも君の身体に何かあったら大変だ、ゆっくり休むと良い。君のお父様には僕から伝えておくよ」
「お気遣い感謝致します、キース様」
足早に彼から離れ、バルコニーを目指す。
正直酷い緊張から喉が渇いている為、何処かでドリンクを貰いたいところだが、今はそれよりも早く彼から離れたかった。
見つけたバルコニーに駆け寄り、普段以上に丁寧に磨かれたドアハンドルを乱暴に掴み扉を開く。
ふわりと吹いた風に、自身の髪が揺れる。
それに合わせてドレスの裾が弧を描く様に揺れ、火照った身体がゆっくりと冷めていくのを感じた。
後ろ手で扉を閉め、誰も居ないバルコニーで溜息を吐く。
彼――キース・スタインフェルドは、使用人達が噂していた通りの人間だ。先程の会話で確信を持った。
やはり、メアリーと共に逃げるべきだったかもしれない。例え愛が無かったとしても別の家に嫁いでしまった方がマシだなんて、決してそんな事は無かった。
バルコニーの柵に凭れ掛かり、頭を抱える。
私は被害にあった娼婦達と同じ様に、暴力を振るわれ続けるのだろうか。そして彼の望むまま、思いのままに扱われ、子を授かり、身体がボロボロになっても尚、彼の妻を続ける事になるのだろうか。
私が知らなかっただけで、世の中の貴族の家庭はどこも同じだったのかもしれない。私が生きてきた環境は、まだ幾らか幸せだったのかもしれない。
――この世界は、こんなにも狂っている。
今この瞬間に感じた、明確な絶望。あの日、あの晩、何故思い留まってしまったのだろう。モーリスに見つかっても、止められても、自身の首に短剣を突き立ててしまえば良かった。
いや違う。もっと早く、早く、命を絶っておくべきだった。私の様な思考をしている人間は、この世の中で生きていく事は出来ない。
仮に自殺が禁忌だったとしても、それは神への反逆だったとしても、死を封印されても、私はもっと早く、この手で自分自身を葬っておくべきだった。
今じゃもう、死ぬには遅すぎる。もう全てが、引き返せない場所まで来てしまった。
どうしたら。どうしたら。
頭の中を埋め尽くす恐怖と絶望。今すぐにだって、此処から逃げ出したい。だけど、逃げ出せない。やり直せない。死ぬ事は許されない。
ほぼ狂乱状態であった私の耳には、もう周囲の音は聞こえていなかった。故に、バルコニーの扉が何者かによって開かれた事すらも気付かなかった。
「――何、してるんだ」
突如その場に響いた声に、びくりと肩が揺れる。
その声は、父の物でも、キース様の物でも、使用人の物でもない。更には、先程挨拶に回った招待客の物とも違う。
では、一体誰の物だというのか。
恐怖に駆られたままゆっくりと振り返り、その人物の方へと視線を向けた。
控室のドレッサーの前で、鏡に映る自分の姿を眺める。
胸元に散りばめられた無数のダイヤモンドに、何重にも重なるシルク素材のレース。何処かウェデイングドレスを連想するドレスだが、このドレスを仕立てた職人曰く“天使”をイメージして作成したらしい。
確かにその職人が言うように、羽の様なデザインの刺繍が所々あしらわれ、背には一見翼の様にも見えるショートベールが縫い付けられている。どの角度から見ても美しい、最高級のドレスだ。
だがどれだけそのドレスが美しくとも、それを身に纏った自身が美しいとは思えなかった。
粗悪な茶葉で淹れた紅茶だろうと、高級なティーカップに注げば高価な物に見える様に、高価なドレスに沢山のダイヤモンドを身に付ければ、誰だって美しく気高い女性になれる。
つまり、此処に立っているのが“私”でなくても問題は無いという事だ。
社交界では、紅茶の味など重要視されない。大事なのは全て見た目である。
求められるのは品位の高い令嬢。誰も、本当の私など興味が無い。
私の事など、誰も見ていない。
小さな物音を立て、部屋の扉がゆっくりと開いた。
ノックも無しに部屋に入ってきたのは、今日私を此処まで着飾らせた張本人である父。
「エル、良く似合っているよ。このドレスを作らせて正解だった」
背後に回った父が、鏡越しに私の姿を見て満足気に笑った。そして私の肩を、気味が悪い程優しく撫でる。
「もうパーティーの準備は整っている。皆、今日の主役が来るのを楽しみに待っているよ」
囁くように告げられた言葉に、自然と早くなる鼓動。
誕生日パーティーというものは過去に何度も経験しているが、今日はキース様と“婚約者”として初めて顔を合わせる場でもある。
私だって、全てに反抗したい訳では無い。これが政略結婚だったとしても、今後の人生もおいて一番の転機だ。出来る限り、夫となるキース様とは良好な関係を築いて行きたい。
極力彼を刺激しない様に、穏便に、事を済ませよう。キース様に今以上に気に入って貰えれば、父に叱られる事も、今後の生活も、悪い方向へとは進まない筈だ。
そう心の中で何度も繰り返し、父に促されるまま控室を後にした。
父に連れられて歩く屋敷の廊下は普段と変わらない筈なのに、まるで別世界の様に思えた。
ヒールの高い靴は足に合わず、1歩進む度に足が悲鳴を上げる。普段よりきつく締められたコルセットは苦しいなんて言葉で言い表せるものでは無く、今にも倒れてしまいそうだった。
だがそれでも、背筋を伸ばし、表情を引き締め、父の後に続く。これが、今の私がすべき最低限の事だからだ。
辿り着いた、ホールに続く扉の前。扉を開かなくとも、中から聞こえる雑音にも似た人の声に大勢の人が集まっている事が分かる。
「エインズワース家の人間として、恥じない行動を心掛けなさい」
ホールの扉を開いた父が最後に告げた言葉。その言葉に重みを感じながら、小さく息を吐き、顔に笑顔を作った。
それは誰よりも気高いエインズワース家の娘、エル・エインズワースとしてのプライドでもあった。
◇ ◇ ◇
招待客への一通りの挨拶が済み、周りに気付かれない様小さく息を吐く。
18歳になったのだからと勧められたワインは、高級な物だと聞いたが私の口に合う事は無かった。思わずそれを顔に出してしまった際は今までにない程の焦りを感じたが、周囲の殿方は「まだ幼さが残っていて愛らしい」と笑ってくれた。そのお陰か、今の所父の機嫌に変化は無い。
あと残されたのは、キース様への挨拶。他の招待客への挨拶とはまた別の緊張感を感じながら、遠目に見える、金の髪が印象的な男性に歩み寄る。
「御無沙汰しております、キース・スタインフェルド様」
私を視界に捉えた彼にカーテシーを行い、優しく微笑み掛ける。
「あぁ、君が僕の婚約者の、エル・エインズワースさんだね」
値踏みでもする様に私を見た彼が、紳士的だとも言える穏やかな笑みを浮かべた。
――君が?
彼が放った言葉に、僅かに違和感を抱く。父の話では、キース様の方が私を気に入り、婚約の申し出をしてきた、との事だった。実際私が読んだ手紙にも、それと同じ事が書かれていた筈だ。
だが今の彼の言葉を聞くに、彼は私の存在を“認知”していなかった様に思える。
やはりあの手紙は、キース様の本心では無く、両親から命じられて出した手紙だったのだろうか。彼も名家の嫡男であり、両親には逆らえない立場に居る筈だ。そう考えれば納得が出来る。
「本当に、天使の様に美しい人だね。君の様に美しい人が僕の奥さんになるだなんて、未だに信じられないよ」
「そんな、大袈裟ですわ。キース様こそ、とても端正なお顔立ちでいらっしゃって…、こうしてお話しているだけでも、周りの御令嬢に嫉妬されてしまいそう」
「ふふ、大袈裟なのは君も同じだね」
彼が笑い、私との距離を一歩詰める。
想像していた以上に、彼は紳士的な人だ。使用人達の噂話が一瞬脳裏に浮かぶが、とても彼が噂通りの人間には見えない。
――だが、次に彼に問われた質問で、その思考にも亀裂が入る。
「君は、夫が妻に手を上げる事をどう思うかい?」
「…え…?」
思わず聞き返すが、その自身の声は酷く震えていた。
「そんなに怯えないでおくれ。別に、君に手を上げようなんて思っちゃいないよ」
唇が触れそうな程に私に顔を近づけた彼が、ふふ、と笑みを零す。
だがその笑みはとても紳士的な物では無く、何処か狂気を含んだ薄気味悪い笑みだった。
「…あ、…あ、の…」
「僕はね、何があっても妻は夫の言いなりになるべきだと思うんだ。夫の望む女になり、常に夫を支え、悦ばせ、そして時に暴力を振るわれても笑顔で耐え抜き、夫の指示であれば別の男とも身体の関係を結ぶ――」
激しい動悸と共に、顔から血の気が引く。
がんがんと警報を鳴らす様に痛む頭に、目の前が真っ暗になる恐怖心を覚えた。
「おや?顔が真っ青だよ、大丈夫かい?」
私から顔を離した彼が、私の顔に掛かった髪を払う。
私は今、どんな顔をしているだろうか。上手く、微笑みを保って居られているだろうか。
恐怖に支配された頭が「これ以上この男と共にいてはいけない」と叫ぶ。だが私は、彼と正式な婚約をし、数か月後には彼の妻になる。
決して、逃げられない。
「……キ、キース様ったら、ご冗談を」
彼の言葉を茶化す様に、無理に笑った。
出来れば、そのまま「冗談だよ」と言って欲しかった。揶揄っただけだと言って欲しかった。
だが、彼はたった一言「今は、冗談だと受け止めて貰っても構わないよ」と言って優しく笑った。
「…ご、ごめん、なさい。私、気分が優れなくて」
「僕が変な話をしてしまったからかな?」
「…い、いえ、そんな事は。少し、人に酔ってしまったのかもしれません」
「あぁ、今日は招待客が多いからねぇ。バルコニーで少し風に当たったらどうかな?だいぶ気分も楽になると思うよ」
今の彼は、出逢った時と変わらない紳士的なキース様だ。
だが、先程のあの狂気じみた薄気味悪い笑みが、今も頭の中に残って離れない。
「ええ、そうします。それに、主役が居ない方がパーティーも盛り上がりますものね」
「ふふ、それには賛同できないけど。でも君の身体に何かあったら大変だ、ゆっくり休むと良い。君のお父様には僕から伝えておくよ」
「お気遣い感謝致します、キース様」
足早に彼から離れ、バルコニーを目指す。
正直酷い緊張から喉が渇いている為、何処かでドリンクを貰いたいところだが、今はそれよりも早く彼から離れたかった。
見つけたバルコニーに駆け寄り、普段以上に丁寧に磨かれたドアハンドルを乱暴に掴み扉を開く。
ふわりと吹いた風に、自身の髪が揺れる。
それに合わせてドレスの裾が弧を描く様に揺れ、火照った身体がゆっくりと冷めていくのを感じた。
後ろ手で扉を閉め、誰も居ないバルコニーで溜息を吐く。
彼――キース・スタインフェルドは、使用人達が噂していた通りの人間だ。先程の会話で確信を持った。
やはり、メアリーと共に逃げるべきだったかもしれない。例え愛が無かったとしても別の家に嫁いでしまった方がマシだなんて、決してそんな事は無かった。
バルコニーの柵に凭れ掛かり、頭を抱える。
私は被害にあった娼婦達と同じ様に、暴力を振るわれ続けるのだろうか。そして彼の望むまま、思いのままに扱われ、子を授かり、身体がボロボロになっても尚、彼の妻を続ける事になるのだろうか。
私が知らなかっただけで、世の中の貴族の家庭はどこも同じだったのかもしれない。私が生きてきた環境は、まだ幾らか幸せだったのかもしれない。
――この世界は、こんなにも狂っている。
今この瞬間に感じた、明確な絶望。あの日、あの晩、何故思い留まってしまったのだろう。モーリスに見つかっても、止められても、自身の首に短剣を突き立ててしまえば良かった。
いや違う。もっと早く、早く、命を絶っておくべきだった。私の様な思考をしている人間は、この世の中で生きていく事は出来ない。
仮に自殺が禁忌だったとしても、それは神への反逆だったとしても、死を封印されても、私はもっと早く、この手で自分自身を葬っておくべきだった。
今じゃもう、死ぬには遅すぎる。もう全てが、引き返せない場所まで来てしまった。
どうしたら。どうしたら。
頭の中を埋め尽くす恐怖と絶望。今すぐにだって、此処から逃げ出したい。だけど、逃げ出せない。やり直せない。死ぬ事は許されない。
ほぼ狂乱状態であった私の耳には、もう周囲の音は聞こえていなかった。故に、バルコニーの扉が何者かによって開かれた事すらも気付かなかった。
「――何、してるんだ」
突如その場に響いた声に、びくりと肩が揺れる。
その声は、父の物でも、キース様の物でも、使用人の物でもない。更には、先程挨拶に回った招待客の物とも違う。
では、一体誰の物だというのか。
恐怖に駆られたままゆっくりと振り返り、その人物の方へと視線を向けた。
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