DachuRa 1st story -最低で残酷な、ハッピーエンドを今-

白城 由紀菜

文字の大きさ
11 / 215

XI 魅惑

 頬を撫でる、柔らかな風。
 振り返った先に居た1人の男性の姿に、私の思考は0になる。

 正装をしている物の、スーツは着崩されていて結った髪も僅かに乱れている。
 先程挨拶に回った際、彼とは顔を合わせていない筈だ。これでも、招待客の顔はある程度把握している。
 では、この人物は一体誰だろう。招待状を持っている人物であれば身内を1人のみ同伴させる事が可能だが、それでもこのパーティー内で一度も顔を合わせていないのは不自然である。

 ――だが。
 
 自分でも不思議な位、今はそれの事がどうだって良かった。
 見た者全てを恋に落としてしまいそうな程の、端正な顔立ち。まるで、精密な歩くドールの様。
 
 ホールから聞こえる筈の人の声や、グラスがぶつかる音。それらは今の私の耳には届かず、変わりに聞こえるのは激しい心音。
 魔法でも掛けられてしまった様に彼に心を奪われて、その場から動けなくなる。

 美しい絵画を見た時?
 自分好みの物語に出会えた時?
 ロンドン1と言われた女優の演技を見た時?
 庭園に広がる薔薇の海を見た時?
 ――違う。今のこの感情は、過去のどの経験とも一致しない。

 今まで生きてきた中で感じた事の無い高揚感に、何かを欲する様に神経が顫動せんどうする。
 先程まで、頭の中は恐怖と絶望で埋め尽くされていたと言うのに。それも全て忘れてしまう程、ただただ美しい彼に時を忘れて見惚れていた。

 ふと我に返ったのは、彼と視線を交わらせて数秒経った頃。
 人から問いかけられているのにも関わらず、何も答えずじっと見つめてしまった事に罪悪感を感じ、慌てて取り繕う様に言葉を発する。

「――ごめんなさい。少し、夜風に当たりたくて……。お邪魔だったかしら…」

 思わず上擦ってしまった声に、一気に顔に熱が溜まる。
 招待客に挨拶をする時も、キース様と顔を合わせた時とも違う緊張感に、鼓動は今までに無い程高鳴っていた。

 彼が深く、私を見つめる。吸い込まれてしまいそうな、妖しいローズレッドの瞳。それは棘の多い何処か闇を含んだ赤薔薇の様であり、宝石のガーネットの様な神秘的な美しさを孕んでいる。
 それに、美しいのはその瞳だけでは無い。瞳の色が良く映える、触り心地の良さそうな艶のある黒髪。いつまででも見ていられる、その端正な顔立ち。高身長でスタイルも良く、肌の色もとても白い。
 天使の様だと例えるのも悪くは無いが、彼はどちらかといえば、人を虜にする魔力を持った悪魔の方だろうか。視線を交わらせているだけで、今にも魂を奪われてしまいそう。

 彼が私を見つめたまま何も言葉を発していないという事に気付いたのは、彼に問い掛けてから約1分程経ってからだった。自身を我に返らせたのは、ホールから聞こえたグラスの割れる音。
 どうやら招待客の1人が泥酔したあまりに転倒し、持っていたワイングラスを落としてしまったらしい。タイル状にガラスが張られたバルコニーの扉越しに、ホールで数人の使用人が慌ただしく駆けまわっている姿が見える。

 ――無言は、肯定と同じ。
 彼が私の問いかけに何も答えないという事は、つまり私が邪魔だという事だ。寧ろ、私を気遣って敢えてその言葉を使わないで居てくれたのかもしれない。
 今まで、人に邪魔だと言われた事は何度もある。それこそ、もっと酷い言葉で罵られた事もあった。なのに今は、ほんの少し顔を合わせただけの彼に拒絶される事がとても苦しい。
 
 先程とは違う、酷い動悸。“傷付く”なんて言葉では、今の気持ちは言い表せない。
 今迄こんな些細な事で泣くなんて事は無かったのに、今じゃ少し気を抜けば、両の瞳から涙が零れてしまいそうだった。

「…では、私はこれで失礼します」

 それを誤魔化す様に、柵から離れ足早に扉の方へと向かう。

 本当は、彼をもう少し見ていたかった。どうせ、私はこの後地獄の様な空間に戻らなくてはいけないのだから、せめて今だけは全てから解放され、彼とほんの少しでも会話をしてみたかった。彼に感じていた、言葉にし難い“何か”の正体も、解き明かしてみたかった。

 何故、邪魔か、などと聞いてしまったのだろう。そんな事聞かなければ、彼と会話をする機会を作れたかもしれないのに。
 全てを忘れられたのも束の間、残酷にも現実は私を絶望へと引き戻す。

 あぁ、この後再びキース様と顔を合わせなくてはならない。彼は既に恐怖の対象でしか無く、出来る事ならもう二度と顔を合わせたくなかった。だが、婚約が正式に決まってしまった以上それは避けられない事だ。婚約を無かった事にしたいと言ったとしても、どうせ聞き入れて貰えないのだろう。
 今更メアリーと2人で遠くへ、だなんて流石に虫が良すぎる。キース様の事をモーリスに相談したら、彼はなんというだろうか。だが、これ以上モーリスに心配を掛けたくないのも事実だ。

 そんな事をただただ悶々と考えながら、彼の隣をすり抜ける。


「――邪魔だなんて、言ってないだろ」


 耳元で聞こえた、甘さを含んだ低い声。そして自身の腕を掴んで引き止める、大きく温かな手。
 悶々とした思考が一気に吹き飛び、このまま壊れてしまうのではないかと思う程心臓は早鐘を打つ。

 ゆっくりと振り返り、その美しい顔立ちに再び目を遣った。
 彼の表情は変わらず、何を考えているかは全く分からない。だが、彼に拒絶されている訳では無い事は分かった。
 たったそれだけなのに、愚かな程に舞い上がってしまう。それを顔に出さない様必死に抑え、震える口で言葉を紡ぐ。

「…では、お言葉に甘えてもう少しだけ…」

 足を止め彼に向けたのは、私が嫌と言う程レッスンで教わってきた淑やかで美しい微笑み。他の招待客に向けた笑顔と同じ物だ。
 だが、彼に触れられた腕に意識が向いてしまい、その微笑みも上手く保てない。
 熱を帯びる手の感触は甘く、このままもっと、触れていて欲しいなんて思ってしまう。出来る事なら腕だけじゃなく、もっと奥深く迄。そんなはしたない思考に侵されてしまう程に、それは快楽的で心地が良かった。

 だがその期待も虚しく、彼の手から力が抜けするりと腕が離される。
 いつまでも初対面の女性の腕を掴んでいる男性など居ないだろう。それはマナー違反でもあり、下劣な行為とすら言える事だ。彼が手を離すのも、当然である。 
 そう思いながらも、それでも手の熱が引いていく感覚に寂しさを禁じ得なかった。

 ホール側に背を向け、柵に両腕を置き凭れ掛かる彼をほんの数秒だけ眺める。
 彼のスーツは決して粗末な物では無いが、貴族の人間が身に着ける物と比べれば多少劣る。それに、高価なアクセサリーや宝石なども一切つけておらず、髪を結っている細いリボンも高級な素材の物では無かった。
 それ等を見るに、彼は恐らく上流階級の人間では無い。
 人を値踏みしてしまう行為は嫌いだが、今は彼に何よりも興味を惹かれている為、少しくらいの観察は許して欲しい。

 人1人分のスペースを空け、彼と同じ様にホールを背にして柵に凭れ掛かった。
 時々吹く冷たい風は、私の頬の熱を覚ますのには丁度良い。ついでに、私の高鳴る心音も少し静めてはくれないか。このままでは、隣の彼に聞こえてしまいそうだ。

 私達の間に、特別会話は無い。不思議と居心地が悪い訳では無かったが、だからと言ってこのままでいいという訳でも無い。やはり多少の気まずさというものは存在する。
 思い返してみれば、使用人以外で階級の異なる人間と関わった事は過去に無かった。私にとって階級などどうだって良い事柄ではあったが、やはり少々話題にも困ってしまう。

 ――彼と、会話がしたい。彼の声を、もっと聞いてみたい。

 そんな欲は溢れて止まらないのに、これと言った話題が見つからない。
 このままでは、ただ無駄に時間を過ごすだけで彼の事を何も分からず終わってしまう。それだけはどうしても避けかった。何とかして、話題を見つけなければ。

 それが徐々に焦りに変わり始めた頃合い。突如、隣からぱたりと小さな物音がした。
 物音に反応し、そちらに視線を向けてしまう事は十分に失礼な事だと理解している。だが、彼への興味と関心が勝り、咄嗟に彼の方へと顔を向けた。

「……」

 彼の口に咥えられていたのは、細い紙煙草。貴族が好むパイプ煙草や葉巻とは違う、あまり目にした事の無い物だ。確か階級の低い人間は、安価な紙煙草を好む人が多いと昔何かで読んだ記憶がある。

「――あの」

 考えるよりも先に、口が動いていた。
 だが口に出した瞬間、彼の煙草を話題にするのは早計だったと悟る。
 煙草は男性の嗜好品であり、女性が好むには“はしたない”“品が無い”と言われる物だ。煙草に興味を示す女なんて、誰だって幻滅対象になるだろう。
 それに、仮に煙草を会話の題材にしたとして、煙草を吸った経験の無い私が何処まで話を広げられるだろうか?「あまり目にしない物だけど、何処の銘柄かしら?」こんなもの、完全に貴族の嫌味でしかない。

「――此処は禁煙です。ホールを出て、右に曲がった廊下の突き当りに喫煙室があるので、どうぞそちらへ…」

 咄嗟に捻りだした言葉は、自分でも幻滅する程素っ気ない言葉。本当に、自分は愚かな人間だと痛感する。これでは、此処から出ていけと言っている様な物では無いか。 
 私が言いたかったのはそんな事じゃない。此処が禁煙である事は事実だが、ホール内で堂々とパイプ煙草を手にしている招待客だって確かに存在した。そんな規則、あってないようなものだ。

 彼が僅かに困惑の表情を浮かべ、私の顔に視線を移した。どうにも居た堪れなくなり、彼の視線から逃れる様に顔を背ける。
 咥えた煙草を手に取り、シガレットケースを開いた彼を見るに、このまま彼が喫煙所の方へと場を変えてしまう事は明白だ。
 どうにか、それを阻止したい。いや、阻止しなければ。

「――あぁ、でも」

 何を言うかすら考えついていないのに、思わず言葉を放ってしまった事に我ながら驚く。
 あれだけコミュニケーションのレッスンを受けたというのに、あれだけ招待客から下劣な言葉を掛けられても笑顔で適切な受け答えが出来たというのに、彼相手になるとそれがどうも上手くいかない。

「その1本だけなら、見なかった事にします…」

 か細く、後半につれて小さくなる自身の声。必死に頭を捻った結果、出した言葉は非常に稚拙で間抜けな物だった。それに酷く恥を感じ、顔に熱が溜まっていく。
 私の顔をまじまじと見つめる彼の表情は、相変わらず変わらない。思考は読めないままだ。
 だがそれでも、煙草をシガレットケースに戻す彼の手は止まっていた。

「…両親には、内緒にしてくださいね」

 暫しの沈黙が痛く、誤魔化す様に言葉を付け加えて微笑む。
 
 これで彼を引き止める事は出来ただろうか。
 僅かに期待は膨らむが、それと同時に脳裏を過ったのは、彼が私と此処に居る事を望んでいるかどうか、だった。
 彼が私と同じように、会話を交わしたいと思っているとは考えづらい。ただ、バルコニーで煙草を吸おうと思ったが先客が居て、そしてその先客がこのパーティーの主役である令嬢だったから、失礼の無い様に引き止めた。たったそれだけだったのかもしれない。
 もしそうだったとしたら、舞い上がってしまった自分が馬鹿みたいだ。膨らむ憶測に心は重くなり、不安で満ちていく。

「……あぁ、悪いな」

 彼の返答は、たった一言。そして再び煙草を口に咥え、慣れた手つきでマッチを擦り、火を移す。

「……」

 何故、彼は此処に留まるのか?彼の横顔を深く見つめるが、真意は分からない。
 ――だが。
 これはきっと、拒絶じゃない。彼が何を思っているのかは分からないが、少なくてもこの状況を不快には思っていない。もし拒絶する心があるのなら、そのまま喫煙室へ向かってしまう筈だ。

 ――そう、期待してもいいだろうか?

 勿論、先程私を引き止めた理由と同じ可能性だってあるが、それよりも、今は彼を此処に引き止める事が出来た事が何よりも嬉しい。深く安堵しながらも、込み上げる嬉しさを表に出さない様必死に抑え込み、冷静を装う。

 再び、彼と私の間に訪れる沈黙。
 煙草の先から立つ細い煙は、何処かミステリアスな雰囲気の彼を更に魅力的に見せる。

 私は、どうして彼に惹かれたのだろう。
 確かに、その端正な顔立ちやスタイル、耳に心地よく届く低い声などの“容姿”に惹かれたのは事実だ。だが、彼と同じ様に容姿の美しい男性は今までに何度も、何人も見てきた。
 つまり、惹かれた理由は容姿が全てじゃない。
 それだけじゃない何かを、私は今彼に感じてる。

 ――物心ついた時には既に感じていた、僅かな違和感。そして、いつからか感じる様になった酷い息苦しさ。
 息苦しさは今までに何度も感じてきた事だが、違和感の方は今まで特別視はしてこなかった。
 ただ、私には何かが足りない。私という1人の人間を完成させる為のピースが全て揃っていない。それが何かを探そうと、真相に辿り着こうと、私は必死に長年掛けて書斎の本を読み漁った。
 だが結局、私はその違和感の正体を見つける事は出来なかった。そして次第にその違和感は私の“一部”となり、最早“違和感”を抱く事は無くなっていった。

 なのに、彼を見ていると私の中の“何か”が必死にその違和感を主張しようと叫ぶ。
 足りないピースを埋める為の物が此処にあると、そう言うかの様に心が疼く。

 私の中に記憶された、膨大な知識と物語。その知識を漁っても、今の私の感情と一致する物は見つからない。彼への感情の名前も、分からない。
 だが、今目の前にいる彼こそが、私に足りないピースなのでは無いかと、違和感を埋める存在なのでは無いかと、本能的に感じ始めていた。

 時間制限は、煙草1本分。
 この限られた時間で、彼を知りたい。彼の全てを知りたい。彼に、また逢いたい。
 それが罪だとしても、そんな事どうだっていい。彼をこのまま手放したくない。彼を、“たった1度顔を合わせただけの人物”にしてしまいたくない。してはいけない。

 溢れて止まらない欲望。だが、それでも彼を知る為の話題は浮かばない。こうしている間にも煙草は焼け進み、残された時間は少しづつ減っていく。
 そんな時、何も無い暗闇の様な思考の中にぽとりと1つの種が落とされた。それは、私自身あまり好まない話題である。だが、今の私にはそれしか浮かばない様に思えた。
 これが、吉と出るか凶と出るかは分からない。殆ど、賭けである。
 物は試しでと、“それ”を話題として口に出してみる事にした。

「あの、失礼ですが、お仕事は何を?」

 ――その場に響いた、自身で想像していたよりも、ずっと大きな声。
 出来る事なら、彼には淑やかで麗しい私を見せていたかった。品のある私で、彼と会話を楽しみたかった。
 だが欲だけが先走り、思わず声を張り上げてしまった。
 私の顔をじっと見つめる彼の視線に、火が出そうな程顔に熱が溜まっていく。
 
 ――あぁ、穴があったら入りたい。恥ずかしい。はしたない真似をしてしまった。
 彼に呆れられてしまったかもしれない。品の無い女だと思われたかもしれない。汚い声だと思われたかもしれない。
 素直に謝罪するべきか、咳払いで誤魔化すべきか、ただ黙って彼の言葉を待つか。どれが正しいのか分からない。もう私の思考は崩壊寸前である。


「……人、助け」


 だが、そんな私の心配を他所に口を開いたのは彼の方だった。

 
「……人助け…」

 思わず彼の言葉を復唱し、止まりかけた思考で必死にその言葉の意味を考える。
 ――まともに、答えられていない。
 これを聞いた人物が私以外に居たとしたら、きっとそう思う事だろう。
 
 もしかすると、階級が低いが故にしっかりとした職に就けていないのかもしれない。だが彼の服装を見る限りそれは“あり得ない”に等しい。彼は低い階級の中でも、比較的良い暮らしをしている筈だ。

 答えたくなかったのか。答えられなかったのか。それとも単に揶揄からかわれたのか。
 そう思うのが妥当だろうが、悲惨な事に今の私の頭は少しばかりおかしくなってしまっているらしい。

 答えたくなくても、揶揄われていたとしても、彼が私の問いに答えてくれた事が堪らなく嬉しい。嬉しくて仕方がない。
 流石の彼もその返答には何か思う事があったのか、今のはちょっと…などと言い淀んでいるが、そんな言葉も耳に入らない程に、嬉しい。かつてない程に、甘心で満たされる。
 もう溢れた感情を抑える事が出来ず、自身の立場も階級も忘れ、顔いっぱいに笑顔を浮かべた。

「素敵なお仕事をなさっているのね…!そんな方とお話が出来て光栄だわ」

 彼が本当に、“人助け”とやらをしているのかは知らない。だが、それは然程重要な事では無かった。
 彼と話をしたかった。彼が紡ぐ言葉を聞きたかった。その願いが叶った事は最早、甘心を超して悦楽である。

「――なんだ、」

 彼が私の顔を見つめながら、ぽつりと言葉を漏らした。

「ちゃんと、笑えるんだな」

 それは、つい漏らしてしまった独り言の様な言葉だった。
 だが私の舞い上がった思考は、その言葉でぴたりと止まる。

 ちゃんと、笑える?私は、ずっと笑っていた。彼と出逢った時も、キース様と顔を合わせた時も、招待客に挨拶に回った時も、父にも、母にも、使用人にも。

「…笑える…?私は先程からずっと…」

 だから、そのまま“それ”を口にした。
 私は笑えている筈だ。コミュニケーションのレッスンを請け負ってくれた先生も、笑顔が素敵だと褒めてくれた。上品で、令嬢に相応しい笑みだと。
 なのに何故、彼はそんな事を?笑顔とは一体何なのか。もしや、緊張のあまり彼にだけ上手く笑顔を見せられていなかったのか。
 ぐちゃぐちゃと絡まっていく思考の中、彼が言葉を続ける。

「あんなの、唯の愛想笑いだろ」

 ――愛想笑い。
 そんな言葉、私は教わっていない。令嬢でいるなら、常に笑顔を絶やさない事。笑顔で居れば、それだけでその場が和むと。誰もが喜ぶと。そう、教わってきた。

「そんな無理に作った笑顔よりも、今の方がよっぽど――」

 更に続けられた彼の言葉。その先を聞き逃すまいと、食入る様に彼の顔を見つめる。
 だが、彼はその先の言葉を言ってはくれなかった。

「なんでもない」

 そう一言告げただけで早々に顔を背けられてしまい、私の心には疑問だけが残る。
 今の方がよっぽど…?その後に彼は何を続けようとしたのだろうか。失礼に当たると思って、その言葉を飲み込んだのか。
 そんな事、しなくてよかった。そのまま私にその言葉を聞かせて欲しかった。

 ――思い返してみれば。
 私は心から、笑った事はあっただろうか。確かに何も知らない幼少期は、些細な事で笑っていたのかもしれない。だが物心ついて、何かの違和感に気付いた時。
 私はそれから、正しい感情を持って笑った事は、あっただろうか。

 これ以上考えたらだめだ。そんな事、分かっている。だけど、もう手遅れだ。
 私は常に、何かに怯えてた。病的な不安に苛まれていた。
 モーリスから新しい名前を与えられても、メアリーと楽しいお茶会ティータイムを過ごしても、癒されるのはほんの一瞬。その病的な不安の原因は、この屋敷だけでは無かったのかもしれない。
 両親から離れれば、遠くへ逃げてしまえば、解消されるものでは無かったのかもしれない。
 なぜなら、もし本当にそれで解消されるのなら、自殺に走る前に、うに逃げる選択をしていた筈だから。

 彼は間違いなく、私が探し続けていた足りないピースだ。それは、絶対的な確信に変わる。
 私は彼を探してた。心の何処かで、“彼”の存在を待っていた。


「――そろそろ時間だ。少しの間だが、話せて楽しかったよ」

 
 だが彼のその一言で、一気に現実へ引き戻される。彼の指の間に挟まれた煙草は、残り半分ほど。
 時間切れだというには早すぎる。

 駄目だ、今此処で彼と離れてしまったら、彼と別れてしまったら。
 待っていた存在に、探していたピースに、漸く出会えたのに。

「じゃあな」

 ひらりと手を振った彼が、私に背を向けた。

 待って。
 待って。
 私を置いて行かないで。
 彼を離したくない、離れたくない、もっと一緒に居たい。
 次合う約束を。いや違う、それではだめ。その日まで待てない。今すぐ。今すぐに、彼と共に。
 
 これは、そう、運命だ。彼との出会いを言葉にするなら“運命”。
 だがもうなんでもいい。考える前に、彼を引き止めないと。

「……待って」

 縋る様に、彼のジャケットの背を両手で掴む。

「行かないで」

 手も、声も、身体も震えている。その理由は、分からない。

「…此処にはもう、居たくないの」

 振り返った彼の目を真っ直ぐに見つめ、懇願する様に思いを伝える。
 彼は、今何を思っているのか。私を、はしたない女だと、思っただろうか。それとも、どんな言葉で拒絶するか考えているのだろうか。

「…貴方と、一緒に行きたい。私も連れて行って」

 拒絶される。そう考えるだけで気が触れてしまいそうな程に恐怖を感じる。
 だが、言葉は止まらない。

「――お前、正気か」

 私にそう一言告げた彼も、酷く動揺している様に見えた。
 それも当然だ。共に行きたいと言われて、彼が素直に手を取ってしまう人だとは思えない。
 そんな中途半端な事をする人じゃない。
 ――だけど。

「冗談なんかで、こんな事言ったりしないわ」

 正気か正気じゃないかで言われれば、その答えは分からない。
 だが冗談ではない。半端な気持ちでは無い。
 私が彼と共に行きたいと思った気持ちに、嘘偽りはない。

「…俺は、お前が思っている様な人間じゃない。外に出たいだけなら他を当たれ」

 あっさりと、払い退けられる手。
 胸にナイフでも突き立てられたのかと思う程に、胸がズキズキと痛む。
 だが想像以上に私は往生際が悪い人間だった様だ。
 まだ、まだ引き下がれない。引き下がるには、まだ早い。

「…貴方以外の人に、こんな事言ったりしない。それに、私は貴方がどんな人だって構わないわ」

 仮に彼が、人から金を騙し取る様な人でも。性格が、酷く歪んでいたとしても。
 仮に――殺人犯だったとしても。
 私は、それを全て受け入れられる自信があった。

「…貴方と生きたい」

 命乞いにも似た言葉。彼の瞳を見つめ、囁く。
 これが正しいか、間違っているかだなんて分からない。それでも、私は彼に賭けたい。


「――仕方ねぇな」

 自嘲する様に笑った彼が、焼けて短くなった煙草を柵の外へ投げ捨てた。
 そしてそのままバルコニーの柵に足を掛け、外側へと身を乗り出す。

「それなりの覚悟があるなら来い」

 下の芝生に飛び降りた彼が、此方に手を差し出した。

 まるで、物語の中の王子様の様だ。
 彼の今の姿にそんな呑気な事を考えながら、私も同じように柵に足を掛けた。


 ふわりと風が舞い、ドレスの裾が弧を描く様に舞う。
 これからの事は分からない。彼と、上手く生きていける保証もない。

 だが握った彼の手は、私の心を安心させるかの様に、優しい温もりを孕んでいた。
感想 0

あなたにおすすめの小説

絶交した幼馴染と大学の合コンで再会した。

孤独な蛇
恋愛
中学生の浅野春樹は上級生と喧嘩騒動を起こしたことがあった。 その上、目つきが悪く地毛は茶髪のため不良少年のような扱いを受けて学校では孤立していた。 そんな中、幼馴染の深瀬志穂だけは春樹のことをいつも気遣ってくれていた。 同じ高校に行こうと声を掛けてくれる志穂の言葉に応えたい一心で受験勉強にも力を入れていた。 春樹にとって、学校で孤立していることは問題ではなかった。 昔から志穂が近くにいてくれるから……。 しかし、3年生なってから志穂の態度がよそよそしくなってきた。 登下校も別々になり、学校で話しかけてくることも無くなった。 志穂の心が自分から離れていってしまっている気がした春樹は焦っていた。 彼女と話がしたい。笑った顔が見たい。 志穂と一緒に帰ろうと、彼女が部活動を行っている体育館へ向かったのだが……。 そこで春樹が耳にしたのは、自分の悪口を言って部活の友達と楽しそうにしている志穂の声だった。 その瞬間、春樹の中で志穂に対する想いや信頼は……消滅した。

義姉と押し入れに隠れたら、止まれなくなった

くろがねや
恋愛
父の再婚で、義姉ができた。 血は繋がっていない。でも——家族だ。そう言い聞かせながら、涼介はずっと沙耶から距離を取ってきた。 夏休み。田舎への帰省。甥っ子にせがまれて始まったかくれんぼ。急いで飛び込んだ押し入れの中に、先客がいた。 「……涼介くん」 薄い水色の浴衣。下ろした髪。橙色の光に染まった、沙耶の顔。 逃げ場のない暗闇の中で、二人分の体温が混ざり合う。 夜、来て。 その一言が——涼介の、全部を壊した。 甘くて、苦しくて、止まれない。 これは、ある夏の、秘密の話。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

君への気持ちが冷めたと夫から言われたので家出をしたら、知らぬ間に懸賞金が掛けられていました

結城芙由奈@コミカライズ連載中
恋愛
【え? これってまさか私のこと?】 ソフィア・ヴァイロンは貧しい子爵家の令嬢だった。町の小さな雑貨店で働き、常連の男性客に密かに恋心を抱いていたある日のこと。父親から借金返済の為に結婚話を持ち掛けられる。断ることが出来ず、諦めて見合いをしようとした矢先、別の相手から結婚を申し込まれた。その相手こそ彼女が密かに思いを寄せていた青年だった。そこでソフィアは喜んで受け入れたのだが、望んでいたような結婚生活では無かった。そんなある日、「君への気持ちが冷めたと」と夫から告げられる。ショックを受けたソフィアは家出をして行方をくらませたのだが、夫から懸賞金を掛けられていたことを知る―― ※他サイトでも投稿中

完結【強引な略奪婚】冷徹な次期帝は、婚姻間近の姫を夜ごと甘く溶かす

小木楓
恋愛
完結しました✨ タグ&あらすじ変更しました。 略奪された大納言家の香子を待っていたのは、冷徹な次期帝による「狂愛」という名の支配でした。 「泣け、香子。お前をこれほど乱せるのは、世界で私だけだ」 「お前はまだ誰のものでもないな? ならば、私のものだ」 大納言家の姫・香子には、心通わせる穏やかな婚約者がいた。 しかし、そのささやかな幸福は、冷徹と噂される次期帝・彰仁(あきひと)に見初められたことで一変する。 強引な勅命により略奪され、後宮という名の檻に閉じ込められた香子。 夜ごとの契りで身体を繋がれ、元婚約者への想いすら「不義」として塗り潰されていく。 恐怖に震える香子だったが、閉ざされた寝所で待っていたのは、想像を絶するほど重く、激しい寵愛で……? 「痛くはしない。……お前が私のことしか考えられなくなるまで、何度でも教え込もう」 逃げ場のない愛に心が絡め取られていく中、彰仁は香子を守るため、「ある残酷な嘘」を用いて彼女を試す。 それは、愛するがゆえに彼女を嫉妬と絶望で壊し、「帝なしでは息もできない」状態へ作り変えるための、狂気じみた遊戯だった。 「一生、私の腕の中で溺れていろ」 守るために壊し、愛するために縛る。 冷酷な仮面の下に隠された、 一途で異常な執着を知った時、香子の心もまた甘い猛毒に溶かされていく――。 ★最後は極上のハッピーエンドです。 ※AI画像を使用しています。

【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜

来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、 疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。 無愛想で冷静な上司・東條崇雅。 その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、 仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。 けれど―― そこから、彼の態度は変わり始めた。 苦手な仕事から外され、 負担を減らされ、 静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。 「辞めるのは認めない」 そんな言葉すらないのに、 無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。 これは愛? それともただの執着? じれじれと、甘く、不器用に。 二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。 無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

冷酷公爵と呼ばれる彼は、幼なじみの前でだけ笑う

由香
恋愛
“冷酷”“無慈悲”“氷の貴公子”――そう恐れられる公爵アレクシスには、誰も知らない秘密がある。 それは、幼なじみのリリアーナの前でだけ、優しく笑うこと。 貴族社会の頂点に立つ彼と、身分の低い彼女。 決して交わらないはずの二人なのに、彼は彼女を守り、触れ、独占しようとする。 「俺が笑うのは、お前の前だけだ」 無自覚な彼女と、執着を隠しきれない彼。 やがてその歪な関係は周囲を巻き込み、彼の“冷酷”と呼ばれる理由、そして彼女への想いの深さが暴かれていく―― これは、氷のような男が、たった一人にだけ溺れる物語。

秘められた薫り

La Mistral
恋愛
エブリスタにて、トレンド#恋愛で最高位 55位を獲得した作品です。 「愛しているよ」という夫の言葉が、今の美咲には虚しい空気にしか聞こえない。 欠けていたのは、理性を焼き尽くすような衝動。 ​クライアントの慎吾と交わす視線。ビジネスという仮面の下で共有される、剥き出しの欲望。 指先が触れる。名前を呼ばれる。ただそれだけで、美咲の積み上げてきた「良き妻」としての世界は音を立てて崩れ去る。 ​完璧なアリバイ、塗り固めた嘘。 夫の隣で微笑みながら、心は別の男の指先を求めている。 一度知ってしまった濃厚な「薫り」は、もう彼女を元の場所へは戻してくれない。 ​守るべき家庭と、抗えない本能。 二つの世界の境界線で、美咲が選ぶ「最後の一線」とは――。 欲望の熱に浮かされた女の、美しくも残酷な堕落の記録。