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XVI 私を救う貴方の声-V
――彼と抱き合って、どれ程の時間が経過しただろう。
シャツ越しに感じる彼の心音が心地良く、このまま眠ってしまいそうになりながらもぼんやりと思考を動かす。
父も母も、こうして私を抱きしめてくれる事は無かった。幼少期、私も子供なりに両親に抱いて欲しいとせがんだ事はあったが、両親共に「由緒正しきエインズワース家の人間は、そんな幼稚な要求などしない」などと言って私に触れる事すらしなかった。
それが子供ながらに寂しくて、1人で泣いていた時、いつも私を抱いてくれていたのは執事のモーリスだった。「こんな所で泣いていたら、また旦那様や奥様に叱られてしまいますよ」なんて言いながら、私を抱いて庭園を一緒に散歩してくれた。
普通、幾ら幼くとも使用人が令嬢を抱くだなんてありえない事だろう。それは、きっと許される事では無い筈だ。
だが、何故だかモーリスだけは特別な気がした。彼は使用人とも家族とも呼べない、不思議な人。そんな彼が、私は大好きだった。
セドリックに抱いた感情も、モーリスに抱いていた気持ちと同じなのだろうか。
こうして抱きしめられると落ち着くのも、離れたくないのも同じだ。
だが、モーリスには抱かなかった感情を、セドリックには抱いている。
それの理由が、意味が、まだ理解できない。きっと身体は理解しているのだろうが、思考が上手くそれに追いついてくれない。
「――あの男、本当に知らない奴なのか。道を訪ねていた様には見えなかったが」
そんな自身の思考を遮る様に、彼が落ち着いた声音で問う。
やはり、彼もキースの言葉が嘘だという事に気付いていたのだ。
「あ、あの……あの人は、社交界で1度だけ、お話した事があって……」
「……それで?お前がエインズワース家の令嬢だって気付いてたのか」
「……い、いや……、私を、何処かで見た事がある……と。それで、顔が、気に入ったから屋敷に来ないかと…言われて」
口にしたのは嘘でもあり、真実でもある言葉だ。
キースからは、パーティーで“天使の様に美しい人”と言われていた。それに先程も、怯え、泣く姿を見てみたいと思っていたと言われた。つまり、顔を気に入られているという事で間違いはないだろう。
だが、キースはエインズワース家の令嬢、エル・エインズワースの婚約者だ。私はもうエインズワース家の人間では無く、更には婚約は解消されたと聞いたが、“社交界で1度だけ話した事がある”というのは誤りである。
これは彼を心配させない為の言葉であったが、8割方私の身勝手な理由だ。
――私に婚約者が居た事を、彼に知られたくない。
何故その様に思うのか、自分でも分らなかった。だが、確かキースはセドリックが助けに来てくれた時「男が居たのか、つまらないな」と言っていた。キースが再び私を狙う事は、無いと断言してしまっても良いだろう。
あれでも、名家の嫡男だ。問題事など起こしたくはない筈。
スタインフェルド家の当主は特に社交界での噂に過敏で、そんな父を持つキースなら私に関わる事が何を意味するかは分っているだろう。
「大丈夫よ、あの人は……、私の事を知らない筈だから」
彼のじとりとした視線から逃れる様に、再び彼の胸元に顔を埋めた。
キースと接触した場所は、人で賑わい、馬車の通りも多い街の中心部。あの辺りは、今後あまり出向く事が無いであろう場所だ。特別警戒を強くする必要も無い。
「まぁ、お前が良いって言うなら良いが……。貴族にも危険なやつは多い。あまり、人通りの多い場所には1人で行くなよ」
私から身体を離したセドリックが、やや呆れ気味に溜息を吐いた。
そして徐に、私の頬に残った涙の跡を指先でやや乱暴に拭う。
「とりあえず、帰るぞ。帰ったら、菓子と紅茶位出してやるからもう泣くな」
「……貴方、紅茶淹れられるの?」
「当たり前だろ」
身体に残った彼の体温が、嫌に冷えていく。そのまま心に宿った安堵感すらも消えてしまいそうで、思わず踵を返した彼に手を伸ばした。
そっと控えめに重ねた掌。彼と私の間に、新たな会話は生まれない。
だが、その手が解かれる事も無かった。
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