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XXIX 失われた時間-III
テーブルに突っ伏して、どれ程時間が経過しただろう。彼は脱衣所へ行ったきり、戻ってきていない。
確か風呂と着替えに、と言っていた筈だ。疲れた身体を癒すべく、脱衣所から繋がる浴室で、ゆっくり入浴でもしているのだろう。
残された私はというと、テーブルに突っ伏したまま、零れた涙を拭う事も考える事も出来ずにただ1秒1秒時間を無駄に消費している。虚無感に満たされた自身の心は、暫く元通りになりそうにない。
私はこの1年間で、大きく変わった。
1つは、表情が豊かになり、口数が増えた事。そして2つ目は、心が弱くなった事。
屋敷に居た頃は、両親にどんな事を言われても、何をされても、それらをどうにか消化する事が出来た。
なのに今は、少しも消化する事が出来ない。
――彼に嫌われてしまったのではないか。
――彼はもうこの家に帰ってこないのではないか。
――いつか離縁を言い渡されてしまうのではないか。
――別の女に彼を取られてしまうのではないか。
数えだしたらキリが無い程の不安に、今にも押しつぶされてしまいそうだ。
もう少し、しっかりしなければ。これから先、彼と今日の様に、いやもっと大きな喧嘩をする事だってあるかもしれない。その都度、今の様に心を痛めていたら幾つ心があったって足りやしない。
そう、自分に言い聞かせる様に頭の中で何度も唱えた。だがそれでも収まる事の無い不安に、今度は苛立ちが沸き上がる。
いい加減身体を起こそうと、胴に力を入れる。だが、それと同時に脱衣所から物音が聞こえた。
跳ね上がった鼓動に、自身の動きがぴたりと止まる。
リビングに響き渡った、錆びを感じさせる扉の開く音。僅かに感じる人の気配と、心臓が張り裂けそうな程の緊張感に思わず呼吸が止まる。
数える事5秒。この間に、背に感じていたのは彼の視線。
先程と同じ音を響かせ扉が閉まり、床の軋む音が自身にゆっくりと近づいてくる。
脱衣所から出た彼は、今の私を見て何を思ったのだろうか。
そんな疑問を抱いても、過度な緊張感と恐怖心から身体が動かず、彼の顔を見る事が出来ない。
「――エル」
耳に心地よく届く、彼の低く優しい声。先程の刺々しい声では無く、いつも通りの彼の声だ。
ぽんと、彼の掌が頭の上に乗る。そしてそのまま髪を梳く様に、優しく私の頭を撫でた。
「――ごめんな」
彼が変わらない声で囁く様に告げたのは、たった一言。
顔を上げて、何か言わなければ。私も彼に、ちゃんと謝らなければ。なのに、テーブルに突っ伏した身体は石化してしまったかの様に動かない。
――その理由は、先程と同じ緊張感や恐怖心か?
――いいや、違う。
今此処で顔を上げ、彼の顔を見てしまえば、彼が劇場に戻ってしまうのを拒んでしまうからだ。
きっと、彼に縋って泣いて、その手を離す事が出来なくなる。優しい彼なら、きっとこのまま私の傍にいる選択をするだろう。
そうすれば、今以上に彼に残された時間は短くなる。
私1人の我儘で、彼の努力を無駄にしてはいけない。
彼だけじゃない、アリスも、ジャックもだ。幾ら小さなコンサートだとはいえ、準備には相当な時間と人員を掛けている筈だ。
後先考えずに余計な口出しをしてしまったのなら、せめてこれ以上は彼等の迷惑にならない様に。これ以上、彼の負担にならない様に。
彼の手が名残を惜しむ様に私の髪から離れ、ゆっくりと床が軋む音が遠ざかっていく。
大丈夫。あとたったの3日だ。3日過ぎ去れば、またいつも通りの日々が戻ってくる。
その後、私が感情に任せ声を上げて泣く事が出来たのは、家を出て行った彼の足音が遠ざかり、再び静寂がこの部屋に訪れた頃だった。
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