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XXXI 渦巻く黒-IV
冷汗が、背筋を濡らす。張り裂けそうな動悸は、まるで私を急かす様だ。
気が付けば、私の足はホールに出入口へと向いていた。公演中だという事も忘れ、ホールの重い扉を押し開く。そして僅かに開いた扉の隙間から、身体を捻じ込む様にして外へと飛び出した。
人の匂いで充満したホール内とは違い、澄んだ冷たい空気が身体を包む。
先程迄の混雑が嘘の様に、ホールの外には誰も居ない。張り詰めていた緊張が解け、思わず溢れる涙に嗚咽を漏らした。
止め処無く頬を流れ落ちる涙は、何の感情が齎す物か。苦しい感情で埋め尽くされた頭では冷静に考える事が出来ず、ただ感情のままに泣きじゃくる。
僅かに耳に届くアリスの歌声。ただ今は、それすらも辛くて逃げる様に劇場を後にした。
劇場の外には、アリスの姿を一目見ようと群がる人達。ローブのフードを被り直すのも忘れて劇場を飛び出す私に、周囲の人達が何事かと怪訝な視線を向ける。
だが今はその視線に構う事が出来ず、止まらない涙を時々拭いながら覚束ない足取りで自宅の方向へと駆けた。
演奏中にホールを出るなんて、この上ない無礼行為。私は屋敷で、一体何を学んで来たのだろうか。
人としての常識すらも、自身の階級と共に屋敷に置いてきてしまったのだろうか。
だがそれでも、石畳を駆ける足は止まらない。
「あっ――……」
足が縺れる感覚と共に、履き慣れない靴が足から離れる。そしてそのまま、崩れ落ちる様に石畳の上に倒れ込んだ。
そこで漸く、少々落ち着きを取り戻し小さく息を吐く。
辺りを見渡してみると、そこには見慣れない景色が広がっていた。立ち並ぶ住宅街に、恐ろしくも感じる静けさ。人の気配は無く、見覚えの無い道に焦りを感じる。
だが胸を渦巻く虚無感に、次第にその焦りも消えて行った。
熱く痺れる様な痛みを感じ、自身の足へと視線を向ける。酷い靴擦れを起こしていた様で、踵の皮が捲れ血が滲んでいた。
よく見れば、自身の膝や脛にも幾つか擦り傷が出来ている。倒れた拍子に付いたのだろうか。
自身の情けない姿に唇を噛み締め、両手で顔を覆った。
あの2人の会話が、耳に残って離れない。
セドリックが女性の目を惹く事、アリスの婚約者がセドリックだと思われていた事。そして、自身に重く伸し掛かっている事実は、アリスがセドリックを熱の籠った視線で見つめていた事。それも、セットリストの中で最も重く、熱烈なラブソングで。
アリスは女神の様に美しく、まるで天使の様な声で歌う世界的歌姫。それに比べて私は、貴族の屋敷から抜け出してきた曰く付きの面倒な女。比較するまでも無い。セドリックがアリスに取られてしまっても、何もおかしくない状況だ。アリスが結婚し、パリに移住する話だって、人伝てに聞いた話でありどこまでが真実かもわからない。
「――私は、アリスに勝てない」
ぽつりと口に出してみれば、更にその事実が重く伸し掛かる。そしてそんな私を追い詰めるかの様に、空から大粒の雨が落ちてきた。
空を見上げ、真っ黒の雲を見つめる。
私がこのまま何処か遠くへ行ってしまったら、セドリックは心配してくれるだろうか。探しに来てくれるだろうか。それとも、面倒な女が居なくなり清々したとでも思うだろうか。
左手の薬指に触れ、何度もそこに指輪が無い事実を噛み締める。
全身ずぶ濡れになり重たくなった身体を何とか動かし、石畳に転がった靴を拾い上げた。そして近くの空家の壁に凭れ掛かり、そのままずるずると壁に背を擦り座り込む。
そろそろ、公演が終わる時間だろうか。ローブのポケットに懐中時計が入っているが、身体が重く中々時刻を確認する気になれない。
彼の負担にならない為にも、早く家に帰らなければ。
早く家に帰って、普段通りの服に着替えて、それで――……
◇ ◇ ◇
――妙に、懐かしい夢を見た。
不安定な心に染みる、優しくて、温かい声。
『――私の名を、お貸し致しましょう』
彼はそういって、優しい笑顔を見せた。見ているだけで落ち着く、あの優しい笑顔。
『――もし仮に、今後お嬢様がこの屋敷を去る時が来たら。その時は私の姓を名乗れば良いのです』
『――私は如何なる時も、お嬢様の味方で御座います。それにもしその名を名乗って頂ければ、私がこの屋敷を去った後も、お嬢様を見つける事ができるかもしれません』
『――お嬢様』
『――エル、お嬢様』
「――エル、」
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