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XLIV 穏やかな時間-II
「――心配なんだ」
耳元で囁かれた声には、不安が滲んでいる。
「出産で死んだ母親も多くいる」
彼にしては珍しい弱音。余程、子の出産に不安を抱いているのだろう。
事実、現代では凡そ半数の母親達が出産で命を落としている。勿論なんの問題も無く出産を終え、子育てに励む母親も多くいるが、子だけを残す、もしくは母子共に命を落としてしまう事も決して珍しくはなかった。
彼の気持ちを考えれば、不安に思う気持ちも分からなくはない。きっと私がセドリックの立場であれば同じ様に不安を抱いただろう。誰だって、配偶者を失うのはつらい。
自身は然程出産に不安を抱く事はなかったが、仮に私が出産で命を落としたとして、子だけを彼に残してしまう未来を想像すると僅かに胸が痛んだ。
しかし、セドリックにはマーシャが居る。私が居なくなった世界でセドリックとマーシャを2人にするのは少々癪だが、マーシャは私にとって1番の友人だった。彼女になら、セドリックと産まれた子を託しても良いだろう。唯一、妥協が出来る相手だ。
「――私に万一の事があっても、マーシャが居るわ」
ぽつりと呟く様に言ってみれば、苦しさを感じる程に強く抱きしめられた。
「なんでマーシャが出てくるんだ。お前が居ないと、意味が無い」
少し拗ねた様な声で、彼が更に腕に力を籠め嘆く。そんな彼に「苦しいわ」と言って笑うと、渋々その腕が緩められた。
彼は不器用ながらに、こうして愛をくれる。それが何よりも嬉しくて、愛おしくて、彼の腕の中で身を捻り、暖炉の火に照らされて赤みがかって見える黒髪をそっと撫でた。
普段なら、こうして私が彼の頭を撫でると「子ども扱いするな」等といった言葉が透かさず飛んでくる。しかし今は、私を抱いたまま何も言う事は無かった。
「――あぁ、そういえば」
彼の髪を撫でていると、ふと先日主治医が言っていた事を思い出した。
「この前先生が、次の検診は旦那様と一緒に来てくださいって」
その事を告げると、彼の表情が一気に怪訝なものに変わる。
「いつも一緒に行ってるだろ」
「そう、なのだけど……」
彼の言う通り、検診の日は何があろうと必ず付き添ってくれていた。
しかし彼はどうやら、マーシャと同じくマクファーデン先生が苦手な様だ。検診の日を迎えると、そわそわと落ち着かない素振りを見せる。
人付き合いを得意としないのは元から知っていた事ではあるが、彼がそれを全面に出すのは非常に珍しい。それ程、彼にとって苦手な人なのだろう。
だが、それでも付き添いを一度でも怠った事は無かった。それはマクファーデン先生も知っている筈なのに、何故私に念押しをしたのかは謎に思う。
「何か、貴方に特別な用事でもあるんじゃないかしら」
考えられる事と言えば、その位だ。妊婦との生活や、指導等、医者として夫である彼に伝えたい事は色々とあるのだろう。
「特別な、用事……」
私の言葉を復唱した彼が、少々考え込む素振りを見せる。しかし、直ぐに「ふぅん」と興味を失った様に呟いた。
――私達の間に、沈黙が訪れる。
ただお互い、何も言わずパチパチと音を立てて燃える暖炉の火を見つめる。
流れるのは気まずさでは無く、穏やかで温かな空気。彼の腕に抱かれながらぼんやりと過ごすこの時間は、とても幸福なものであった。
緩やかに落ちていく瞼。今度こそ、本当に眠ってしまいそうだ。
現実と夢の間を再び彷徨い始めた時、私を抱く彼が優しく「おやすみ」と一言囁いた様な気がした。
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