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X 不気味な男-IV
しおりを挟む「――あ、貴方の後ろ、ちゃんと付いて行っていたわよ」
耳を澄ませていないと聞こえない程の、彼女の細く小さな声。
「でも、でも、貴方が私を置いて、先に行ってしまったんじゃない」
ボロボロと、彼女の瞳から涙が零れる。その涙に一瞬周章するが、先程の怯えとは違った涙だという事に気付き、言い難い感情が沸き上がるのを感じた。
手で顔を覆った彼女が、時々肩を震わせながら嗚咽を漏らす。
「怒るつもりは、無かったんだ……。その、悪かったよ」
彼女の細い腕を掴み、自身の方へと引き寄せる。
彼女を傷つけたい訳じゃない、泣かせたい訳でも無い。ただ自分は、彼女を失いたくなかった。相手が誰であろうと、彼女を奪われたくなかった。
この感情には、心当たりがある。
今迄自身が経験した事の無い感情。経験した事の無い想い。
それは――
「――ごめんなさい」
彼女の声に、ふと我に返る。
一瞬その言葉は、自身の感情への拒絶かとも思った。しかし直ぐに、先程の言葉への謝罪だという事を覚る。
エルの身体を強く抱きしめ、彼女に気付かれぬ様小さく溜息を吐いた。
この感情はきっと、“あの”精神病だ。
しかしその感情を自覚しようとすればする程、彼の呪いが心を締め付ける。
ガンガンと鐘が鳴り響く様な頭痛に顔を顰め、今は考えるべきでは無いと蓋をする様に思考を止めた。
――彼女と抱き合って、どれ程の時間が経過しただろうか。
その小さな身体から発せられる甘い香りに心酔しながらも、ずっとこうしている訳にはいかないとなんとか喉奥から声を絞り出す。
「あの男、本当に知らない奴なのか。道を尋ねていた様には見えなかったが」
「あ、あの……あの人は、社交界で1度だけ、お話した事があって……」
「……それで? お前がエインズワース家の令嬢だって気付いてたのか」
「……い、いや……、私を、何処かで見た事がある……と。それで、顔が、気に入ったから屋敷に来ないかと……言われて」
彼女のぎこちない返答に、その話は真実なのかと疑問を抱く。しかし、此処まで来て彼女が嘘を言うとは思えない。
本当にあの男を警戒する必要は無いのだろうか。また、彼女を狙いに来るのではないだろうか。
「大丈夫よ、あの人は……、私の事を知らない筈だから」
ぐるぐると回る思考を止める様に、彼女が顔を上げぽつりと一言漏らした。そんな彼女に、疑いの眼差しを向ける。
すると彼女が、自身の視線から逃れる様に再び胸元に顔を埋めた。
「まぁ、お前が良いって言うなら良いが……。貴族にも危険な奴は多い。あまり、人通りの多い場所には1人で行くなよ」
これ以上、彼女を詮索しても仕方が無い。
それに、あの男に捕まったのは此処から大分離れた場所だ。普段通う事になる市場で、あの男と会偶する事は無いだろう。
エルから身体を離し、彼女の頬に残る涙痕を親指で乱暴に拭う。
「――とりあえず、帰るぞ。帰ったら菓子と紅茶位出してやるからもう泣くな」
「……貴方、紅茶淹れられるの?」
「当たり前だろ」
彼女は俺を何だと思っているのか、訝し気な顔で此方を見つめる。
そんな彼女を尻目に踵を返し、自宅の方向へと足を向けた。
――するりと、自身の掌に重なる熱。それが彼女の掌だと気付くのに数秒掛かった。
誰かとこの様に手を繋いで歩くのは、幼少期以来の様に思える。ノイズ交じりに思い出す幼少期の光景。一体誰とこうして手を繋いでいたのだったか。
胸の奥が擽ったくなる感覚と共に沸き上がる切なさ。しかし彼女の小さな手を離す気にはなれず、幼少期の記憶も、彼女への感情も、全て気付かないふりをして2人並んで家路に付いた。
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