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いつか見た夢
親愛 壱
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文月前。
牡丹が大和座に入り、華屋の華は俺だけになった。とは言え「はい、百合が次の咲華ですよ、大華ですよ」となるわけもなく、俺は菊華のままだ。
「お前にはなぁ、まだ教養がないんだよ。大華に成る者、幕政から流通、流行りのネタまで熟知してなきゃなんねぇんだよ。書物を読みな、書物をよ」
旦那から言われ、舞台帰りに権さんに連れられ本屋に寄った。
ちなみに江戸時代の本屋にも種類がある。
宗教の経典や医学書・哲学書など、堅い内容の学術書を扱う本屋を「書物屋」
浄瑠璃・浮世絵なんかの娯楽的なものを扱う本屋を「草紙屋」
絵本や春画から手習いまで、種類多く取り扱うのが「書林」だ。
俺は書林に行きたかったのに「百合はすぐに脱線しそうだ」と書物屋に連れられた。
書物屋に入るなり紙と顔料の匂いに包まれる。
この時代は木版印刷で本を刷っているから原料の香りが濃くて、小学校の授業でやった版画を思い出した。嫌いじゃない。
かと言ってこ難しい本が得意になれるわけでもない。
「儒教に和歌・俳句……医学書は流石に要らないよなぁ……」
「百合ちゃん?」
本を探す俺の後ろで懐かしい声がする。
この声は……
「菖蒲さん!」
振り向くとやはり懐かしい顔。陰間を引退して男の姿をしているのに、顔はお雛様の菖蒲さんが立っていた。
懐かしさに互いに手を取り合い「女子」のように騒ぐ。しかし、書店の旦那に睨まれた俺達は店の外へと追いやられ、権さんも一緒に近くの団子屋に入って話に花を咲かせた。
「菖蒲さん……今は照芳様か。元気そうだね」
菖蒲さんは今は「小山内照芳」として小山内様の元で医者見習いとして励んでいる。
「うん。ありがとう。百合ちゃんは……」
照芳様が言葉を呑んだ。
元気? とも聞けないのだろう。つい先日あった楓の祝言でも再会するはずだったのに、俺は腹痛で行けなかったから。
「あー、大丈夫。大丈夫です。」
から元気に見えるかもしれないけど、笑って言った。
照芳様はそんな俺の背を労るように撫でると、気を遣ったのか話題を変えてくれる。
「そうだ。書物屋でなにを探していたの?」
「それが……」
俺は旦那に言われたことを話した。すると、照芳様が思いついたように手を合わせ叩き、言ってくれた。
「私が教えてあげるよ。これでも菊華を務めたんだ。役に立つと思うよ」
照芳様からの提案は願ってもない話で、褥仕事を調整してもらった俺は三日おきに麹町の小山内邸に通うようになった。
元・菊華だからというだけではなく、医学の吸収も早かった照芳様は頭の造りが違えば人への教え方も上手かった。
「照芳様のおかげでかなり知識が増えました。ありがとうございます! それにしても、やっぱり華って凄いんですね。照芳様、尊敬します」
「ふふ。百合ちゃんだって華じゃないか。それに私なんか全然だよ。牡丹ちゃんも影での努力は凄まじかったし、楓ちゃんなんかはもっと……」
言いかけてハ、と口篭る。
「……あー、あの、気を遣わないで下さい。私達の会話には絶対出てきちゃうし、芸の道でやって行くならこれからも絶対関わりはあるし……」
気まずい沈黙を破ろうとして話し出して、俺まで口篭ってしまった。
……だめだな。
楓が去って半年近くになるのに、名前を出せば未だに苦しくて。
勿論一日中楓のことを考えてるわけじゃない。だけど楓と過ごした今までの日々が当たり前すぎて、思い出は、こうしていとも簡単に日常に入り込んでくる。
楓の祝言の日だって……仮病じゃない。本当にお腹を下して二日間は褥仕事も休んだんだ。だけど、それで祝言のあとのお披露目会に行かなくて良くなってホッとしたのは確かだった。
「楓の幸せが俺の幸せだ」なんて、かっこつけた割に、祝ってやることも顔を見ることさえも俺にはできなかった。
「百合ちゃん……」
照芳様が優しい手で背を撫でてくれる。
「あ。ハハ。すいません。女々しいですね。早く忘れなきゃって思うんですけど」
言いながら口の中が熱く苦しくなって、目の縁には涙が滲んだ。
その涙が一粒にまとまって零れようとした時
「百合、そろそろ帰らねぇと」
迎えに来てくれた権さんの声がして、急いで目をこすった。
照芳様と、奥の部屋にいらした小山内様にお礼をして玄関に出ると、権さんは肩で息をしている。
いつも走って来るのだろうか。
「権さん、最近汗が凄いね。大丈夫?」
俺は毎回その汗を拭く。
すると、いつもは様子を見ているだけの照芳様が、今日は権さんのそばに寄り体に触れて言った。
「権さん……今度ゆっくり話せるかな」
「えっ、なんだよ急に」
権さんは苦笑いをして身体を引いたけど、俺はピンと来た。
「ほら~。最近お酒、飲みすぎてるんだよ。最近の権さんたら肌の色も変に黄色いし口も臭いんだよ? 身体を悪くする前に照芳様と小山内様に良く見て頂かなきゃ。ねっ、照芳様」
照芳様はふふふ、と笑い、権さんは「ひでぇこと言うなぁ」と、手のひらに自分の息をハアーと吐いていた。
この時、俺は気づくべきだったんだ。
照芳様の笑顔の目が笑ってなかったこと。そして、手のひらで隠れた権さんの顔が、なにかを決意した表情だったことに。
牡丹が大和座に入り、華屋の華は俺だけになった。とは言え「はい、百合が次の咲華ですよ、大華ですよ」となるわけもなく、俺は菊華のままだ。
「お前にはなぁ、まだ教養がないんだよ。大華に成る者、幕政から流通、流行りのネタまで熟知してなきゃなんねぇんだよ。書物を読みな、書物をよ」
旦那から言われ、舞台帰りに権さんに連れられ本屋に寄った。
ちなみに江戸時代の本屋にも種類がある。
宗教の経典や医学書・哲学書など、堅い内容の学術書を扱う本屋を「書物屋」
浄瑠璃・浮世絵なんかの娯楽的なものを扱う本屋を「草紙屋」
絵本や春画から手習いまで、種類多く取り扱うのが「書林」だ。
俺は書林に行きたかったのに「百合はすぐに脱線しそうだ」と書物屋に連れられた。
書物屋に入るなり紙と顔料の匂いに包まれる。
この時代は木版印刷で本を刷っているから原料の香りが濃くて、小学校の授業でやった版画を思い出した。嫌いじゃない。
かと言ってこ難しい本が得意になれるわけでもない。
「儒教に和歌・俳句……医学書は流石に要らないよなぁ……」
「百合ちゃん?」
本を探す俺の後ろで懐かしい声がする。
この声は……
「菖蒲さん!」
振り向くとやはり懐かしい顔。陰間を引退して男の姿をしているのに、顔はお雛様の菖蒲さんが立っていた。
懐かしさに互いに手を取り合い「女子」のように騒ぐ。しかし、書店の旦那に睨まれた俺達は店の外へと追いやられ、権さんも一緒に近くの団子屋に入って話に花を咲かせた。
「菖蒲さん……今は照芳様か。元気そうだね」
菖蒲さんは今は「小山内照芳」として小山内様の元で医者見習いとして励んでいる。
「うん。ありがとう。百合ちゃんは……」
照芳様が言葉を呑んだ。
元気? とも聞けないのだろう。つい先日あった楓の祝言でも再会するはずだったのに、俺は腹痛で行けなかったから。
「あー、大丈夫。大丈夫です。」
から元気に見えるかもしれないけど、笑って言った。
照芳様はそんな俺の背を労るように撫でると、気を遣ったのか話題を変えてくれる。
「そうだ。書物屋でなにを探していたの?」
「それが……」
俺は旦那に言われたことを話した。すると、照芳様が思いついたように手を合わせ叩き、言ってくれた。
「私が教えてあげるよ。これでも菊華を務めたんだ。役に立つと思うよ」
照芳様からの提案は願ってもない話で、褥仕事を調整してもらった俺は三日おきに麹町の小山内邸に通うようになった。
元・菊華だからというだけではなく、医学の吸収も早かった照芳様は頭の造りが違えば人への教え方も上手かった。
「照芳様のおかげでかなり知識が増えました。ありがとうございます! それにしても、やっぱり華って凄いんですね。照芳様、尊敬します」
「ふふ。百合ちゃんだって華じゃないか。それに私なんか全然だよ。牡丹ちゃんも影での努力は凄まじかったし、楓ちゃんなんかはもっと……」
言いかけてハ、と口篭る。
「……あー、あの、気を遣わないで下さい。私達の会話には絶対出てきちゃうし、芸の道でやって行くならこれからも絶対関わりはあるし……」
気まずい沈黙を破ろうとして話し出して、俺まで口篭ってしまった。
……だめだな。
楓が去って半年近くになるのに、名前を出せば未だに苦しくて。
勿論一日中楓のことを考えてるわけじゃない。だけど楓と過ごした今までの日々が当たり前すぎて、思い出は、こうしていとも簡単に日常に入り込んでくる。
楓の祝言の日だって……仮病じゃない。本当にお腹を下して二日間は褥仕事も休んだんだ。だけど、それで祝言のあとのお披露目会に行かなくて良くなってホッとしたのは確かだった。
「楓の幸せが俺の幸せだ」なんて、かっこつけた割に、祝ってやることも顔を見ることさえも俺にはできなかった。
「百合ちゃん……」
照芳様が優しい手で背を撫でてくれる。
「あ。ハハ。すいません。女々しいですね。早く忘れなきゃって思うんですけど」
言いながら口の中が熱く苦しくなって、目の縁には涙が滲んだ。
その涙が一粒にまとまって零れようとした時
「百合、そろそろ帰らねぇと」
迎えに来てくれた権さんの声がして、急いで目をこすった。
照芳様と、奥の部屋にいらした小山内様にお礼をして玄関に出ると、権さんは肩で息をしている。
いつも走って来るのだろうか。
「権さん、最近汗が凄いね。大丈夫?」
俺は毎回その汗を拭く。
すると、いつもは様子を見ているだけの照芳様が、今日は権さんのそばに寄り体に触れて言った。
「権さん……今度ゆっくり話せるかな」
「えっ、なんだよ急に」
権さんは苦笑いをして身体を引いたけど、俺はピンと来た。
「ほら~。最近お酒、飲みすぎてるんだよ。最近の権さんたら肌の色も変に黄色いし口も臭いんだよ? 身体を悪くする前に照芳様と小山内様に良く見て頂かなきゃ。ねっ、照芳様」
照芳様はふふふ、と笑い、権さんは「ひでぇこと言うなぁ」と、手のひらに自分の息をハアーと吐いていた。
この時、俺は気づくべきだったんだ。
照芳様の笑顔の目が笑ってなかったこと。そして、手のひらで隠れた権さんの顔が、なにかを決意した表情だったことに。
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