30 / 92
おとぎ話の時間
⑥
しおりを挟む
「……専務、行きましょう」
千尋は顔を上げ、光也の手を自分の手で下ろして切り出した。
突然だったためか、光也はぴんとこない様子で首をかしげる。
「もう帰りましょう。十分楽しませていただきました。私には過ぎる時間を、本当にありがとうございました」
難しく感じていた"ありがとう"がスムーズに言えたと気づくと、次からの「台詞」もスムーズだった。
「おかげさまで、今後の活力になりました。明日から秘書として専務のお力になれるよう、気持ちを引き締めて職務に当たりますね」
(そうだ、僕は部下だから、上司に依存していたら仕事にならない。立場をわきまえないと)
おとぎ話のお姫様も日付が変われば夢から醒めていたが、彼女は元々アルファのお姫様だった。だから幸せになれたのだ。
だが千尋は違う。千尋はどうしたって「卑しいオメガ」なのだ。
「……あ、そうそう。異動の日に用意していただいたスーツと美容室代! お支払いしないといけませんね。それから、泊めていただいていた間の服や日用品代も。分割払いの給料天引きって、お願いできますか?」
千尋が馬鹿明るくそう言ったとき、光也はようやく声を出した。
「藤村君、なんの話をしているんですか?」
困惑と、少しの憤りが混ざった低い声だった。それを覆うように、千尋はさらに明るく、おどけて続ける。
幼い頃から加虐されていると、身に受けるマイナスの感情をかわすためにヘラヘラとしてしまうことがある。かえってそれが相手の神経を逆撫でするとわかっているのに、なぜだか繰り返してしまう。
「ですから、一括支払いでは私には難しいというお話です。あまりの着心地のよさに、ネットで服のタグを検索したんですが、どれも高価で驚きました。秘書もよいものを身に着けるよう言われていましたが、まさかここまでとは驚きましたよ。あとは……今日かかった代金もお支払します。ヘリコプターってどれくらいかかる」
「千尋、君は」
べらべらと続ける言葉の途中、下の名前で呼ばれ、手首を取られた。
「いたっ」
強い力にゾクッとくる。異動になった日以来なかった、久しぶりの感覚だ。
こんなことに反応するなんて、やっぱりどうしようもないマゾヒストオメガだな、と笑えてしまいそうになったが、取られた手首から光也に視線を戻して、上がりかけた口角の動きが止まる。
「君は、なぜ俺が君にそうしたか、なぜ、今日俺が君と過ごしたのか、わかっているはずなのにそう言うのか」
敬語を解いた光也は、怒りではなく強い哀しみの色を瞳に乗せていた。
「専、務……」
蔑みの目なら慣れている。
中途半端でなく、思いきり汚いものを見るような目で見てくれたら、わずかな期待さえ持たずに生きていける。
憐れみの目は嫌いだ。
自分が可哀想な人間だと言われているようで、現実を突きつけられて踏ん張れなくなる。
でも、哀しい目はわからない。
咎めるでもなく卑しめるでもなく、同情でもない目。
千尋の性別や環境など、外装に対して向けられているのではないのはわかるが、今まで一度も向けられたことがない視線だ。
「……出るよ」
光也に手首を引かれ、夢のような時間を過ごした遊園地から出る。
光也の歩幅が千尋のものとは違うから、千尋は小走りにならざるを得なかった。
千尋は顔を上げ、光也の手を自分の手で下ろして切り出した。
突然だったためか、光也はぴんとこない様子で首をかしげる。
「もう帰りましょう。十分楽しませていただきました。私には過ぎる時間を、本当にありがとうございました」
難しく感じていた"ありがとう"がスムーズに言えたと気づくと、次からの「台詞」もスムーズだった。
「おかげさまで、今後の活力になりました。明日から秘書として専務のお力になれるよう、気持ちを引き締めて職務に当たりますね」
(そうだ、僕は部下だから、上司に依存していたら仕事にならない。立場をわきまえないと)
おとぎ話のお姫様も日付が変われば夢から醒めていたが、彼女は元々アルファのお姫様だった。だから幸せになれたのだ。
だが千尋は違う。千尋はどうしたって「卑しいオメガ」なのだ。
「……あ、そうそう。異動の日に用意していただいたスーツと美容室代! お支払いしないといけませんね。それから、泊めていただいていた間の服や日用品代も。分割払いの給料天引きって、お願いできますか?」
千尋が馬鹿明るくそう言ったとき、光也はようやく声を出した。
「藤村君、なんの話をしているんですか?」
困惑と、少しの憤りが混ざった低い声だった。それを覆うように、千尋はさらに明るく、おどけて続ける。
幼い頃から加虐されていると、身に受けるマイナスの感情をかわすためにヘラヘラとしてしまうことがある。かえってそれが相手の神経を逆撫でするとわかっているのに、なぜだか繰り返してしまう。
「ですから、一括支払いでは私には難しいというお話です。あまりの着心地のよさに、ネットで服のタグを検索したんですが、どれも高価で驚きました。秘書もよいものを身に着けるよう言われていましたが、まさかここまでとは驚きましたよ。あとは……今日かかった代金もお支払します。ヘリコプターってどれくらいかかる」
「千尋、君は」
べらべらと続ける言葉の途中、下の名前で呼ばれ、手首を取られた。
「いたっ」
強い力にゾクッとくる。異動になった日以来なかった、久しぶりの感覚だ。
こんなことに反応するなんて、やっぱりどうしようもないマゾヒストオメガだな、と笑えてしまいそうになったが、取られた手首から光也に視線を戻して、上がりかけた口角の動きが止まる。
「君は、なぜ俺が君にそうしたか、なぜ、今日俺が君と過ごしたのか、わかっているはずなのにそう言うのか」
敬語を解いた光也は、怒りではなく強い哀しみの色を瞳に乗せていた。
「専、務……」
蔑みの目なら慣れている。
中途半端でなく、思いきり汚いものを見るような目で見てくれたら、わずかな期待さえ持たずに生きていける。
憐れみの目は嫌いだ。
自分が可哀想な人間だと言われているようで、現実を突きつけられて踏ん張れなくなる。
でも、哀しい目はわからない。
咎めるでもなく卑しめるでもなく、同情でもない目。
千尋の性別や環境など、外装に対して向けられているのではないのはわかるが、今まで一度も向けられたことがない視線だ。
「……出るよ」
光也に手首を引かれ、夢のような時間を過ごした遊園地から出る。
光也の歩幅が千尋のものとは違うから、千尋は小走りにならざるを得なかった。
94
あなたにおすすめの小説
陰キャな俺、人気者の幼馴染に溺愛されてます。
陽七 葵
BL
主人公である佐倉 晴翔(さくら はると)は、顔がコンプレックスで、何をやらせてもダメダメな高校二年生。前髪で顔を隠し、目立たず平穏な高校ライフを望んでいる。
しかし、そんな晴翔の平穏な生活を脅かすのはこの男。幼馴染の葉山 蓮(はやま れん)。
蓮は、イケメンな上に人当たりも良く、勉強、スポーツ何でも出来る学校一の人気者。蓮と一緒にいれば、自ずと目立つ。
だから、晴翔は学校では極力蓮に近付きたくないのだが、避けているはずの蓮が晴翔にベッタリ構ってくる。
そして、ひょんなことから『恋人のフリ』を始める二人。
そこから物語は始まるのだが——。
実はこの二人、最初から両想いだったのにそれを拗らせまくり。蓮に新たな恋敵も現れ、蓮の執着心は過剰なモノへと変わっていく。
素直になれない主人公と人気者な幼馴染の恋の物語。どうぞお楽しみ下さい♪
【完結・BL】俺をフッた初恋相手が、転勤して上司になったんだが?【先輩×後輩】
彩華
BL
『俺、そんな目でお前のこと見れない』
高校一年の冬。俺の初恋は、見事に玉砕した。
その後、俺は見事にDTのまま。あっという間に25になり。何の変化もないまま、ごくごくありふれたサラリーマンになった俺。
そんな俺の前に、運命の悪戯か。再び初恋相手は現れて────!?
やっと退場できるはずだったβの悪役令息。ワンナイトしたらΩになりました。
毒島醜女
BL
目が覚めると、妻であるヒロインを虐げた挙句に彼女の運命の番である皇帝に断罪される最低最低なモラハラDV常習犯の悪役夫、イライ・ロザリンドに転生した。
そんな最期は絶対に避けたいイライはヒーローとヒロインの仲を結ばせつつ、ヒロインと円満に別れる為に策を練った。
彼の努力は実り、主人公たちは結ばれ、イライはお役御免となった。
「これでやっと安心して退場できる」
これまでの自分の努力を労うように酒場で飲んでいたイライは、いい薫りを漂わせる男と意気投合し、彼と一夜を共にしてしまう。
目が覚めると罪悪感に襲われ、すぐさま宿を去っていく。
「これじゃあ原作のイライと変わらないじゃん!」
その後体調不良を訴え、医師に診てもらうととんでもない事を言われたのだった。
「あなた……Ωになっていますよ」
「へ?」
そしてワンナイトをした男がまさかの国の英雄で、まさかまさか求愛し公開プロポーズまでして来て――
オメガバースの世界で運命に導かれる、強引な俺様α×頑張り屋な元悪役令息の元βのΩのラブストーリー。
【完結済】スパダリになりたいので、幼馴染に弟子入りしました!
キノア9g
BL
モテたくて完璧な幼馴染に弟子入りしたら、なぜか俺が溺愛されてる!?
あらすじ
「俺は将来、可愛い奥さんをもらって温かい家庭を築くんだ!」
前世、ブラック企業で過労死した社畜の俺(リアン)。
今世こそは定時退社と幸せな結婚を手に入れるため、理想の男「スパダリ」になることを決意する。
お手本は、幼馴染で公爵家嫡男のシリル。
顔よし、家柄よし、能力よしの完璧超人な彼に「弟子入り」し、その技術を盗もうとするけれど……?
「リアン、君の淹れたお茶以外は飲みたくないな」
「君は無防備すぎる。私の側を離れてはいけないよ」
スパダリ修行のつもりが、いつの間にか身の回りのお世話係(兼・精神安定剤)として依存されていた!?
しかも、俺が婚活をしようとすると、なぜか全力で阻止されて――。
【無自覚ポジティブな元社畜】×【隠れ激重執着な氷の貴公子】
「君の就職先は私(公爵家)に決まっているだろう?」
人気者の幼馴染が俺の番
蒸しケーキ
BL
佐伯淳太は、中学生の時、自分がオメガだと判明するが、ある日幼馴染である成瀬恭弥はオメガが苦手という事実を耳にしてしまう。そこから淳太は恭弥と距離を置き始めるが、実は恭弥は淳太のことがずっと好きで、、、
※「二人で過ごす発情期の話」の二人が高校生のときのお話です。どちらから読んでも問題なくお読みいただけます。二人のことが書きたくなったのでだらだらと書いていきます。お付き合い頂けましたら幸いです。
希少なΩだと隠して生きてきた薬師は、視察に来た冷徹なα騎士団長に一瞬で見抜かれ「お前は俺の番だ」と帝都に連れ去られてしまう
水凪しおん
BL
「君は、今日から俺のものだ」
辺境の村で薬師として静かに暮らす青年カイリ。彼には誰にも言えない秘密があった。それは希少なΩ(オメガ)でありながら、その性を偽りβ(ベータ)として生きていること。
ある日、村を訪れたのは『帝国の氷盾』と畏れられる冷徹な騎士団総長、リアム。彼は最上級のα(アルファ)であり、カイリが必死に隠してきたΩの資質をいとも簡単に見抜いてしまう。
「お前のその特異な力を、帝国のために使え」
強引に帝都へ連れ去られ、リアムの屋敷で“偽りの主従関係”を結ぶことになったカイリ。冷たい命令とは裏腹に、リアムが時折見せる不器用な優しさと孤独を秘めた瞳に、カイリの心は次第に揺らいでいく。
しかし、カイリの持つ特別なフェロモンは帝国の覇権を揺るがす甘美な毒。やがて二人は、宮廷を渦巻く巨大な陰謀に巻き込まれていく――。
運命の番(つがい)に抗う不遇のΩと、愛を知らない最強α騎士。
偽りの関係から始まる、甘く切ない身分差ファンタジー・ラブ!
【BL】捨てられたSubが甘やかされる話
橘スミレ
BL
渚は最低最悪なパートナーに追い出され行く宛もなく彷徨っていた。
もうダメだと倒れ込んだ時、オーナーと呼ばれる男に拾われた。
オーナーさんは理玖さんという名前で、優しくて暖かいDomだ。
ただ執着心がすごく強い。渚の全てを知って管理したがる。
特に食へのこだわりが強く、渚が食べるもの全てを知ろうとする。
でもその執着が捨てられた渚にとっては心地よく、気味が悪いほどの執着が欲しくなってしまう。
理玖さんの執着は日に日に重みを増していくが、渚はどこまでも幸福として受け入れてゆく。
そんな風な激重DomによってドロドロにされちゃうSubのお話です!
アルファポリス限定で連載中
二日に一度を目安に更新しております
【完結】愛されたかった僕の人生
Kanade
BL
✯オメガバース
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
お見合いから一年半の交際を経て、結婚(番婚)をして3年。
今日も《夫》は帰らない。
《夫》には僕以外の『番』がいる。
ねぇ、どうしてなの?
一目惚れだって言ったじゃない。
愛してるって言ってくれたじゃないか。
ねぇ、僕はもう要らないの…?
独りで過ごす『発情期』は辛いよ…。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる