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39 さよならと告げたのに
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「あ、そういや俺明日も残業だから帰んの10時近くになるかも」
「え。……明日も?」
大海が顔色を変える。
「雪ちゃん、七月はほどんど定時に上がれる日ばっかりだって……」
「おう、悪いな。緊急でやらないといけないめんどくさい仕事が立て続けに入ってさ。途中でパンとか食うしあれだったら別に俺の夕飯作ってくれなくていいぞ」
残業というのは嘘だ。あの夢を見た日から、暖雪は不必要に早く出勤し、仕事が終わってからも家の外で時間を潰してから帰宅するようにしていた。当然、大海と顔を合わせる時間をなるべく減らすためだ。
(これは大海のためでもあるんだ……)
そう自分に言い聞かせながら、暖雪は自室のドアに手をかけた。
(間違ってないんだ。俺は正解の道を選べているんだ……)
それでも。
「……分かった。雪ちゃんもお仕事頑張って」
従弟のその沈んだ声は、生涯耳にこびりついて忘れることができないのではないかという気がした。
*
(大丈夫。今は辛くても、この先にきっと幸せが待ってるんだ)
大海を避け続け、訪れた金曜日。暖雪は出勤前に、自室にただ一人たたずんでいた。
片手にはキーケース。四月に大海と引っ越しの打ち合わせをした際もらった、あの桜の花びらのキーケースだ。外出時はきちんと携帯し、これまで片時も離さず持っていた。
「……」
手の中にあるそれを、暖雪はじっと見つめる。中からそっと自宅の鍵とICカードを抜き取り、ぼそりと呟いた。
「……色々ごめんな。さよなら」
カラーボックスを引き出してキーケースを奥にしまい、早足でそのまま部屋を出た。
*
デート相手は、30半ばの起業家だった。
硬質の髪を短く刈り、骨格はどこを見てもゴツゴツと四角い。それでいてよくしゃべりよく笑う男だった。ちょくちょく見せる白い歯が眩しい。
プロフィールからも、メッセージのやり取りからも自信のある感じが溢れ出ている印象を受けた。
内気な暖雪はこれまでなら、そんな人物には気後れしてしまい近づけずにいただろう。だが、気づいてはいけない恋心をかき消したいという強い思いが、暖雪を後押しした。
弱くてすぐにふらついてしまう自分は、こんな強気な人に引っ張っていってもらったほうがよい。そして、抱いているこんな暗い思いを有耶無耶にして、過去のものにしてほしい。そんな一心だった。
お互いに軽いアルコールを注文し、乾杯をする。そしてアプリでは話しきれなかった自身の身の上について語った。
「アプリでも話したかもだけど、俺半年くらい前まで婚約者がいたんですよね」
「は、はい……。聞いてます」
低いがしっかりした聞き取りやすい声に、暖雪は耳を傾ける。そんな過去まできちんと包み隠さず話してくれるところに誠実な印象を受け、アポを取ってみることにしたのだ。
「ええとー。……バイセクシャルなんですか?」
「うーん。まあ微妙なとこですかね~」
男は腕を組んで身体を深く背もたれに預けた。
「学生時代まではしょっちゅう男遊びしてたんだけど、大人になってくるとそうもいかなくなるじゃないですか?彼女も作らず何してんだって周りの目もきつくなってくるし」
「そうですよね……」
暖雪は控えめに頷く。いつまでも彼女ができずに奇異の目で見られる苦しさは、暖雪も至極共感できた。
「それで適当な女見繕って付き合って、どうにか結婚の話が出るくらいまで行ったんだけど。セックスもまあ何とかはなりましたよ。だいぶドーピングしてたけどね。はは」
「あは、は……」
とはいえ、気を張っていないとすぐ集中力が切れてしまいそうになる。
(大海、今頃何してるかなあ)
ぼんやりしていると思われてはいけない。暖雪は会話を途切れさせまいと、タイミングよく相槌を打つことに全力を注ぐ。なんとなく手持ち無沙汰で不安だ。
いつしかグラスを開けるスピードが、早くなってきていた。
「けどさあ、土壇場で”こんな愛してもないやつと下手したら一生添い遂げるのかあ”と思ったらうんざりしちゃって。女も女で結婚前から家事の分担とか細かく決めようとしてきて萎えたし。そんなわけで今では好きに過ごしてます」
(……この人だってきっと色々あったんだろうな。俺には想像できないようなことが)
男の口ぶりから一抹の何かがよぎったような気がしたが、序盤から相手の評価を決めてしまうのはよくない。
とはいえいい返しも考えつかず、暖雪は「じ、人生を共に過ごす人ですから後悔のないようにしたいですよね」と当たり障りのない表現をするに留まった。
「ははは。慌てすぎちゃいましたね。ちょうど知人との飲み会で大学出たての程よい年齢の子と知り合えてラッキーと思ったんですけどね。ま、もう過ぎたことだからどうでもいいですよ」
男もペースよく飲んでいる。コトンと音を立ててグラスを卓に置き、彼は意味深な視線を暖雪に向けてきた。
「誰しも昔は失敗の連続連続。そうやって生きてるんだから。僕も色々な経験をしました。ねえ早良さん、早良さんは男としか経験ないですか?」
「は、はい……」
何を言い出すのだろう、この男は。
「なんかこうグッズとか使ってみたり。……例えばそう、エネマグラとか?」
「え」
ピントの緩んでいた脳が、僅かに覚醒する。暖雪は思わず周囲の様子を伺った。この居酒屋は全て半個室で、通路とは分厚い布で仕切られている。週末の夜だ。四方八方から酔客の笑い声が聞こえ、自分たちの会話に意識を向けている者はいないと思えた。
その少しの目の泳ぎを、男は見逃さなかったのだろう。
「あー。その反応は……、結構?」
「い、いやあの……」
「え。……明日も?」
大海が顔色を変える。
「雪ちゃん、七月はほどんど定時に上がれる日ばっかりだって……」
「おう、悪いな。緊急でやらないといけないめんどくさい仕事が立て続けに入ってさ。途中でパンとか食うしあれだったら別に俺の夕飯作ってくれなくていいぞ」
残業というのは嘘だ。あの夢を見た日から、暖雪は不必要に早く出勤し、仕事が終わってからも家の外で時間を潰してから帰宅するようにしていた。当然、大海と顔を合わせる時間をなるべく減らすためだ。
(これは大海のためでもあるんだ……)
そう自分に言い聞かせながら、暖雪は自室のドアに手をかけた。
(間違ってないんだ。俺は正解の道を選べているんだ……)
それでも。
「……分かった。雪ちゃんもお仕事頑張って」
従弟のその沈んだ声は、生涯耳にこびりついて忘れることができないのではないかという気がした。
*
(大丈夫。今は辛くても、この先にきっと幸せが待ってるんだ)
大海を避け続け、訪れた金曜日。暖雪は出勤前に、自室にただ一人たたずんでいた。
片手にはキーケース。四月に大海と引っ越しの打ち合わせをした際もらった、あの桜の花びらのキーケースだ。外出時はきちんと携帯し、これまで片時も離さず持っていた。
「……」
手の中にあるそれを、暖雪はじっと見つめる。中からそっと自宅の鍵とICカードを抜き取り、ぼそりと呟いた。
「……色々ごめんな。さよなら」
カラーボックスを引き出してキーケースを奥にしまい、早足でそのまま部屋を出た。
*
デート相手は、30半ばの起業家だった。
硬質の髪を短く刈り、骨格はどこを見てもゴツゴツと四角い。それでいてよくしゃべりよく笑う男だった。ちょくちょく見せる白い歯が眩しい。
プロフィールからも、メッセージのやり取りからも自信のある感じが溢れ出ている印象を受けた。
内気な暖雪はこれまでなら、そんな人物には気後れしてしまい近づけずにいただろう。だが、気づいてはいけない恋心をかき消したいという強い思いが、暖雪を後押しした。
弱くてすぐにふらついてしまう自分は、こんな強気な人に引っ張っていってもらったほうがよい。そして、抱いているこんな暗い思いを有耶無耶にして、過去のものにしてほしい。そんな一心だった。
お互いに軽いアルコールを注文し、乾杯をする。そしてアプリでは話しきれなかった自身の身の上について語った。
「アプリでも話したかもだけど、俺半年くらい前まで婚約者がいたんですよね」
「は、はい……。聞いてます」
低いがしっかりした聞き取りやすい声に、暖雪は耳を傾ける。そんな過去まできちんと包み隠さず話してくれるところに誠実な印象を受け、アポを取ってみることにしたのだ。
「ええとー。……バイセクシャルなんですか?」
「うーん。まあ微妙なとこですかね~」
男は腕を組んで身体を深く背もたれに預けた。
「学生時代まではしょっちゅう男遊びしてたんだけど、大人になってくるとそうもいかなくなるじゃないですか?彼女も作らず何してんだって周りの目もきつくなってくるし」
「そうですよね……」
暖雪は控えめに頷く。いつまでも彼女ができずに奇異の目で見られる苦しさは、暖雪も至極共感できた。
「それで適当な女見繕って付き合って、どうにか結婚の話が出るくらいまで行ったんだけど。セックスもまあ何とかはなりましたよ。だいぶドーピングしてたけどね。はは」
「あは、は……」
とはいえ、気を張っていないとすぐ集中力が切れてしまいそうになる。
(大海、今頃何してるかなあ)
ぼんやりしていると思われてはいけない。暖雪は会話を途切れさせまいと、タイミングよく相槌を打つことに全力を注ぐ。なんとなく手持ち無沙汰で不安だ。
いつしかグラスを開けるスピードが、早くなってきていた。
「けどさあ、土壇場で”こんな愛してもないやつと下手したら一生添い遂げるのかあ”と思ったらうんざりしちゃって。女も女で結婚前から家事の分担とか細かく決めようとしてきて萎えたし。そんなわけで今では好きに過ごしてます」
(……この人だってきっと色々あったんだろうな。俺には想像できないようなことが)
男の口ぶりから一抹の何かがよぎったような気がしたが、序盤から相手の評価を決めてしまうのはよくない。
とはいえいい返しも考えつかず、暖雪は「じ、人生を共に過ごす人ですから後悔のないようにしたいですよね」と当たり障りのない表現をするに留まった。
「ははは。慌てすぎちゃいましたね。ちょうど知人との飲み会で大学出たての程よい年齢の子と知り合えてラッキーと思ったんですけどね。ま、もう過ぎたことだからどうでもいいですよ」
男もペースよく飲んでいる。コトンと音を立ててグラスを卓に置き、彼は意味深な視線を暖雪に向けてきた。
「誰しも昔は失敗の連続連続。そうやって生きてるんだから。僕も色々な経験をしました。ねえ早良さん、早良さんは男としか経験ないですか?」
「は、はい……」
何を言い出すのだろう、この男は。
「なんかこうグッズとか使ってみたり。……例えばそう、エネマグラとか?」
「え」
ピントの緩んでいた脳が、僅かに覚醒する。暖雪は思わず周囲の様子を伺った。この居酒屋は全て半個室で、通路とは分厚い布で仕切られている。週末の夜だ。四方八方から酔客の笑い声が聞こえ、自分たちの会話に意識を向けている者はいないと思えた。
その少しの目の泳ぎを、男は見逃さなかったのだろう。
「あー。その反応は……、結構?」
「い、いやあの……」
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