御薙家のお世話係

青木十

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第参話

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 どぷんと奔流に沈んで流されていく。粘度の残るそこから逃れることは棗を抱えた佳朗には難しく、ビルの谷間を縫って流されていく。
 崩れ落ちたビルの壁面に体を打ち据えられ、思わず呼気が漏れた。その反動で、佳朗は液体を飲んでしまったようだ。

 とろりとしていて、甘いような苦いような、でも不思議と嫌な味ではなかった。

 飲んだらまずかったかな。

 佳朗は不安に思ったが、朔夜が浄化したものだ、きっと大丈夫だろうと思い直した。気をしっかり持って身体を丸くする。少しでも衝撃を軽減するためだ。
 それから流れに身を任せ何度か体をぶつけつつも、周りをできる限り確認する。水中は多少ぼやけているが、視界は良好だ。眼鏡は意外と水中でも機能する。
 流されてビルの狭間を抜ける際に、棗を離さぬように抱え込みながら腕を伸ばした。街灯の柱に手が届く。握力、腕力、すべてを絞り出してしがみつく。
 佳朗が腕を伸ばしたことで、二人は街灯の直ぐ側にあったビルの残骸にひっかかることができた。ぷはあと佳朗が顔を出せば、少しとろみのある澄んだ水が一帯を覆うように流れていた。棗の体も引き上げて、頭部を水上に維持できるように支える。
 瓦礫に掴まり様子を見ていれば、流れは次第に緩やかになり、しばらくすれば大地に溶け込むかように水位を下げた。

 大地に足がつけば、頭に被らされたコートを剥ぎ取りながら棗が顔を出した。あれだけ水流に揉まれたにも拘らず、顔も髪も濡れていなかった。

「佳朗さん! 大丈夫です? 本当に無茶して!」

 困り果てた顔で、佳朗の顔や頭を確認するように撫でた。
 運良く頭周辺は無事だったが、瓦礫にぶつかったり掠ったりした為か所々に小さな傷や打ち身ができているようだった。複数あればさすがに痛い。けれど、佳朗はそのまま痩せ我慢で乗り切ることに決めた。

「大丈夫、ピンピンしてますよ」

 にこっと笑うが、棗の顔からは不安は消えなかった。

「それより状況を確認しないと……」

 濡れ鼠となった佳朗がふらふらと立ち上がれば、辺りに清光のような柔らかな光の粒が姿を現した。倒壊した鉄筋、崩れ落ちた残骸、散らばった破片、道端の塵芥まで、きらきらと粒子になって昇っていく。地面に残っていた軟体の残滓たちも光に変わって消えていく。
 そうして昇った光たちは、ここ一帯を覆うように、光の雨雪になってゆったりと降り注いだ。

「素晴らしい……こんなに早く再生させられるなんて」

 天を仰ぐ棗が静かに独り言ちた。

 佳朗も、幻想的な美しさにため息がこぼれた。現場の再生には何度か立ち会ったが、これほどの広範囲に影響を与えられる術式は、今まで見たことがない。範囲も規模も大きく、壮大さに感嘆する。
 思わず雨雪に手を伸ばす。手のひらに落ちた光は温かさを伝えながら、ふわりと広がるように消えていった。

 ゆるりゆるりと光が広がり、辺りに変化が訪れた。

 すべてが何事もなかったかのように、在るべき場所へと形を戻していく。光が降り注いだ地面から輝きが溢れ出し、その輝きが昇れば昇るほど元ある形が戻ってくる。
 まるで作られた映像のように、ビルが徐々に復元されゆっくりと街が出来上がっていく。ビルの壁面も割れた窓ガラスも内装すらも整っていく。街灯も道路の舗装もなにもかもだ。
 繁華街は元の姿へと還り始めた。

 二人が再生の美しさに見とれていると、背後から声がかけられる。

「うーわぁ、平坂さん、きたなぁい」

 振り返れば、白銀地に黄色のラインが入ったパーカーに、大きめのヘッドセットを首にかけた青年が、白く細長いものに腰掛けて浮かんでいた。
 金髪に暗めのアッシュのインナーカラー、耳にも手にもジャラジャラとごつめのアクセサリーをたくさんつけている。細い足はタイトなデニムに包まれていて、足元は少し無骨でそれでいて可愛げもあるスニーカーだ。
 ぴよんと飛び降りれば、白くて細長いものがゆるりと動き青年の首元に絡みついた。

「夕星くん、おつかれさま」
「棗もおつかれぇ。ひと通り見て回ったけど、術式の触媒は回収できたと思うよ」

 棗の労いに、夕星と呼ばれた青年は手をひらひらさせて応えた。
 彼は棗がマネージャーを担当しているモデルだ。線の細い美少年かくやといった印象で、その美しい相貌やスタイルで人気を博している。ここに来る途中にも、女性向けの大きな広告が掲示されていたなと佳朗は思い出した。芸能人のオーラのようなものを感じて、佳朗は眩しさに目を細めた。
 しかし、この場にいるのだから、夕星がただのモデルであるはずがない。
 その証拠に、彼の首元には彼の式神である管狐が巻き付いている。白に近い明るい金の毛並みをした痩身の狐で、長い尾を持ち主人の言う事をよく聞く。今は甘えるように頬ずりをしていた。
 分かりやすく言ってしまえば、夕星の家系は特殊な血を継いでいるのだ。

「終わった」

 もう一つ声が聞こえ、夕星の隣に青い炎が現れたかと思うと、瞬く間にタイトなスーツの青年が現れる。烏羽色のスーツに目の覚めるような青いシャツ、そして銀のネクタイと灰色のベストを身に着けていた。
 棗が彼にも声をかける。

「宵月くん、お疲れ様です。問題はありませんでしたか?」
「結構広かったけど、儀式の痕跡はひと通り焼き払った」

 夕星の兄の宵月よいづきがこくりと頷く。
 宵月は、佳朗の主人である朔夜の幼馴染で、その縁で付き合いが深かった。同じく葛之葉に所属する芸能人だが前提が違うこともあり、彼の登場に佳朗は胸をなでおろす。

 ちなみに、彼らにはもう一人兄がいて、この三兄弟を知らない者はまずいなかった。どの業界、どの界隈でも有名な三人だ。

 宵月はちらりと視線を佳朗に向けた。

「あれ、被ったの?」

 端的に淡々と尋ねてくる。

「あれ……とは?」

 宵月の問いに、佳朗は首を傾げた。
 宵月は長い前髪をかき上げながら問答を続ける。

「さっきはじけたやつ」
「あー、居た場所が悪かったのか、二人で流されちゃいました」
「飲んじゃった?」
「はい、少しですけど……」

 バツが悪く感じた佳朗は、苦い笑みを浮かべながら頷いた。

 やはりまずかったのだろうか。
 僕はともかく、棗だけでもきちんと避難させておくべきだったかな。

 心の中で悔いていると、宵月が表情の乏しい顔で佳朗に近寄ってきた。
 佳朗には、彼が心配してくれているのだと理解できた。先程の質問も、咎めていたのではなく心配ゆえの確認だったのだろう。
 宵月は全体的に表情が乏しい。性格も淡々としており、起伏がないとは言わないが気がつくには慣れが必要だった。他の二人の兄弟とは比べるまでもなく大人しい。
 佳朗は、自分の主人に似ているなと思うこともあるし、二人は幼馴染なので互いに感情表現が似通ったのかもしれないとも感じている。
 そういうこともあり、佳朗にとっては、三兄弟の中で宵月が一番接しやすい人物であった。

 黒い瞳がじいっと佳朗の瞳を覗き込む。何気なく見返していた佳朗だったが、無感情に探るその目にゾクリとした何かを感じて、わずかに身震いした。
 今度は、宵月の指が鎖骨の付近――薄いシャツ越しにつうっと這わされる。ゾクゾクとした感覚が体を走った。
 自分でも理解できない佳朗は、頭の中を疑問符でいっぱいにしながら、宵月を見つめ返す。その様子はさながら濡れた子犬のようだった――とのちの宵月が語るほど、哀れみを誘う表情であった。
 宵月は少し片眉をあげながら、諭すように言った。

「もし体に違和感を感じたら連絡して?」

 今すでに感じている。

 などとは言い出せず伺うようにこくこくと頷いていると、後ろから回された腕に絡め取られた。

「宵月に頼ることは何も無い」

 不服そうな声が上から聞こえた。
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