26 / 43
小夜の約束 1
しおりを挟む
バースィルは、珍しく夜の住宅区を歩いていた。もうすぐ宿木通りに到達するはずだ。
この付近は住宅区の中でも閑静で、個人向けの一軒家やアパートメントが立ち並んでいる。
閑静なのには理由があって、いろんな職業の職人や研究者が寝るためだけに帰ってくる、そんな家ばかりだと団員の誰かが話していた。閑静で不干渉、それが噂として広がり、それを求める同じ目的の者たちがこちらに越してくる。そうやって成り立ったのが、この一角なのだそうだ。
街灯も少ない通りを進んでいけば、ほんのりと灯りが見えてきた。
柔らかな灯りに照らされて姿を現したのは、昼間とはまた違った雰囲気の『ランディア』。
庭の花壇に隠れるように設置された照明が、優しく煉瓦壁を照らしている。草色のカーテンがかかっていた窓は、もう一枚かけられていた夜空色のカーテンに覆われて、夜の装いになっていた。
防音魔法のお陰か、辺りは静けさを保っている。照明もオイルランプではなく明度調整のできる魔導照明を使用しているようだ。そのため、夜間の灯りとしてはかなり控えめで、住宅区でも穏やかに佇んでいるように見えた。
いつもよりも重厚感を感じさせる扉を押し開ければ、闇夜に慣れた目には眩しい光が溢れてくる。
迎えるように漂う深緑のような柔らかな香りと僅かに混ざる上質な酒の甘い香りが、落ち着いた心持ちにさせてくれた。
日中よりも厳かな音楽が流れ、ほんの少しの話し声とページをめくる音が聞こえているだけ。
見渡してみれば殆どが一人客で、本を読みながらグラスを傾けてのんびりと寛いでいる。その姿は書斎で夜を過ごす紳士のようだ。
いつも店に漂っていたあの旨そうな食事の匂いに代わって、ほのかに香る芳醇な酒の香りが雰囲気を醸し出すのに一役買っていた。
店内は外と比べると明るくなっており、日中と然程変わらないように感じる。しかし雰囲気は随分と落ち着いていて、静かで穏やかな空気が漂っていた。
カウンターでは、黒髪の愛しい人が立っている。グラスを磨き氷を整え琥珀色の飲み物を流し込んで、うっとりしたような表情で煌めきを眺めていた。
マドラーでカラリとひと混ぜすれば、涼しげな音と共に穏やかな色を反射した。その輝きの元は、グラスなのか氷なのか、それとも琥珀の水光なのか、バースィルには分からなかった。
いつもより落ち着いた店内も相まって、彼の微笑みにも仕草にもどことなく艶っぽさが感じられる気がした。思わず見入ってしまうほどに。
開扉の音に気がついたのか、ウィアルが穏やかな笑みで迎えてくれる。
「バースィルさん。ようこそ、貸本屋バー『ランディア』へ」
いつもと違う雰囲気に気が引けてしまったが、その穏やかな笑顔はいつものとおりで、バースィルは何故かほっとした。安心感で笑みが溢れる。
扉を静かに閉めると、バースィルはカウンターへと歩みを進めた。
「夜はだいぶ雰囲気が変わるな。言ってくれれば、夜も来たのに」
「毎日開けてるわけではないですし、それに、お酒は値がはりますから」
ウィアルは申し訳無さそうに、眉尻を下げた。
先日、夜間の仕事中にこちらへ回ることがあり、その時初めて夜はバーとして営業していることを知ったのだ。
バースィルは、出仕日は昼休憩のみ、休日は日中の早い内から来店するも、閉店時間が来れば速やかに店を出るようにしていた。ずるずると居座るのは店に悪いし、何もない休みには必ず訪れる予定なので、読みかけの本を無理して読み切る必要もないからだ。
今思い出してみれば、それなりに人は残っていた。彼らはそのまま夜も滞在していたのだろうなと思い至る。
「バーと言っても、日中と殆ど変わりません。コーヒーも軽食もご用意できますよ。のんびりなさっていってくださいね」
「あぁ、分かった。ありがとな」
こうやってウィアルと会話をすれば、言葉どおり日中と何ら変わりがないと思えてくる。おそらく店の有り様がどちらも同じなのだと、バースィルには理解できた。
徹底した居心地の良さ、没入感のようなものが、この店の魅力なんだと、バースィルは思う。言葉では言い表せない何かがこの店にはある。それが何なのかは分からない。
けれど、それがウィアルをはじめ、店員皆の成果なのは紛れもない。
客のくつろぐ様子を見て、バースィルはそのように思うのであった。
ウィアルに案内され奥の席に通された。
二人がけのソファに腰を下ろせば、柔らかな座面と背もたれに置かれた複数のクッションに包まれる。ふかふかとした弾力は体を預けるには最適だ。この場所で、本を読みながら酒を飲み、音楽を聞き、何かをつまむ。確かに来たくなる場所なのだと、バースィルは思った。
ウィアルは、水の入ったグラスをテーブルに置き、小皿に入ったナッツを横に添える。
「お食事はもうお済みですか?」
「ああ、宿舎の食堂で食べてきた」
「かしこまりました。もし何か召し上がりたい時は、気軽にお声掛けくださいね」
品良くにこりとした笑顔が、愛らしい。この笑顔が夜にも見れるなら、疲れも吹き飛ぶだろうし、明日も頑張れる。そんな風に思うと、バースィルもついつい笑みが零れた。
「ありがとな、また声をかける」
「はい」
カウンターへ戻る背を見送った後、受け取った酒のメニューを開いた。
少しでもこの雰囲気を堪能したい、そう思って何かを頼もうとしたのだが。
銘柄だと思われる難しい文字の羅列に目を眇めた。正直、安いエールくらいしか飲んだことのないバースィルには、何が何だかさっぱりだった。
この付近は住宅区の中でも閑静で、個人向けの一軒家やアパートメントが立ち並んでいる。
閑静なのには理由があって、いろんな職業の職人や研究者が寝るためだけに帰ってくる、そんな家ばかりだと団員の誰かが話していた。閑静で不干渉、それが噂として広がり、それを求める同じ目的の者たちがこちらに越してくる。そうやって成り立ったのが、この一角なのだそうだ。
街灯も少ない通りを進んでいけば、ほんのりと灯りが見えてきた。
柔らかな灯りに照らされて姿を現したのは、昼間とはまた違った雰囲気の『ランディア』。
庭の花壇に隠れるように設置された照明が、優しく煉瓦壁を照らしている。草色のカーテンがかかっていた窓は、もう一枚かけられていた夜空色のカーテンに覆われて、夜の装いになっていた。
防音魔法のお陰か、辺りは静けさを保っている。照明もオイルランプではなく明度調整のできる魔導照明を使用しているようだ。そのため、夜間の灯りとしてはかなり控えめで、住宅区でも穏やかに佇んでいるように見えた。
いつもよりも重厚感を感じさせる扉を押し開ければ、闇夜に慣れた目には眩しい光が溢れてくる。
迎えるように漂う深緑のような柔らかな香りと僅かに混ざる上質な酒の甘い香りが、落ち着いた心持ちにさせてくれた。
日中よりも厳かな音楽が流れ、ほんの少しの話し声とページをめくる音が聞こえているだけ。
見渡してみれば殆どが一人客で、本を読みながらグラスを傾けてのんびりと寛いでいる。その姿は書斎で夜を過ごす紳士のようだ。
いつも店に漂っていたあの旨そうな食事の匂いに代わって、ほのかに香る芳醇な酒の香りが雰囲気を醸し出すのに一役買っていた。
店内は外と比べると明るくなっており、日中と然程変わらないように感じる。しかし雰囲気は随分と落ち着いていて、静かで穏やかな空気が漂っていた。
カウンターでは、黒髪の愛しい人が立っている。グラスを磨き氷を整え琥珀色の飲み物を流し込んで、うっとりしたような表情で煌めきを眺めていた。
マドラーでカラリとひと混ぜすれば、涼しげな音と共に穏やかな色を反射した。その輝きの元は、グラスなのか氷なのか、それとも琥珀の水光なのか、バースィルには分からなかった。
いつもより落ち着いた店内も相まって、彼の微笑みにも仕草にもどことなく艶っぽさが感じられる気がした。思わず見入ってしまうほどに。
開扉の音に気がついたのか、ウィアルが穏やかな笑みで迎えてくれる。
「バースィルさん。ようこそ、貸本屋バー『ランディア』へ」
いつもと違う雰囲気に気が引けてしまったが、その穏やかな笑顔はいつものとおりで、バースィルは何故かほっとした。安心感で笑みが溢れる。
扉を静かに閉めると、バースィルはカウンターへと歩みを進めた。
「夜はだいぶ雰囲気が変わるな。言ってくれれば、夜も来たのに」
「毎日開けてるわけではないですし、それに、お酒は値がはりますから」
ウィアルは申し訳無さそうに、眉尻を下げた。
先日、夜間の仕事中にこちらへ回ることがあり、その時初めて夜はバーとして営業していることを知ったのだ。
バースィルは、出仕日は昼休憩のみ、休日は日中の早い内から来店するも、閉店時間が来れば速やかに店を出るようにしていた。ずるずると居座るのは店に悪いし、何もない休みには必ず訪れる予定なので、読みかけの本を無理して読み切る必要もないからだ。
今思い出してみれば、それなりに人は残っていた。彼らはそのまま夜も滞在していたのだろうなと思い至る。
「バーと言っても、日中と殆ど変わりません。コーヒーも軽食もご用意できますよ。のんびりなさっていってくださいね」
「あぁ、分かった。ありがとな」
こうやってウィアルと会話をすれば、言葉どおり日中と何ら変わりがないと思えてくる。おそらく店の有り様がどちらも同じなのだと、バースィルには理解できた。
徹底した居心地の良さ、没入感のようなものが、この店の魅力なんだと、バースィルは思う。言葉では言い表せない何かがこの店にはある。それが何なのかは分からない。
けれど、それがウィアルをはじめ、店員皆の成果なのは紛れもない。
客のくつろぐ様子を見て、バースィルはそのように思うのであった。
ウィアルに案内され奥の席に通された。
二人がけのソファに腰を下ろせば、柔らかな座面と背もたれに置かれた複数のクッションに包まれる。ふかふかとした弾力は体を預けるには最適だ。この場所で、本を読みながら酒を飲み、音楽を聞き、何かをつまむ。確かに来たくなる場所なのだと、バースィルは思った。
ウィアルは、水の入ったグラスをテーブルに置き、小皿に入ったナッツを横に添える。
「お食事はもうお済みですか?」
「ああ、宿舎の食堂で食べてきた」
「かしこまりました。もし何か召し上がりたい時は、気軽にお声掛けくださいね」
品良くにこりとした笑顔が、愛らしい。この笑顔が夜にも見れるなら、疲れも吹き飛ぶだろうし、明日も頑張れる。そんな風に思うと、バースィルもついつい笑みが零れた。
「ありがとな、また声をかける」
「はい」
カウンターへ戻る背を見送った後、受け取った酒のメニューを開いた。
少しでもこの雰囲気を堪能したい、そう思って何かを頼もうとしたのだが。
銘柄だと思われる難しい文字の羅列に目を眇めた。正直、安いエールくらいしか飲んだことのないバースィルには、何が何だかさっぱりだった。
0
あなたにおすすめの小説
竜の生贄になった僕だけど、甘やかされて幸せすぎっ!【完結】
ぬこまる
BL
竜の獣人はスパダリの超絶イケメン!主人公は女の子と間違うほどの美少年。この物語は勘違いから始まるBLです。2人の視点が交互に読めてハラハラドキドキ!面白いと思います。ぜひご覧くださいませ。感想お待ちしております。
【完結】エデンの住処
社菘
BL
親の再婚で義兄弟になった弟と、ある日二人で過ちを犯した。
それ以来逃げるように実家を出た椿由利は実家や弟との接触を避けて8年が経ち、モデルとして自立した道を進んでいた。
ある雑誌の専属モデルに抜擢された由利は今をときめく若手の売れっ子カメラマン・YURIと出会い、最悪な過去が蘇る。
『彼』と出会ったことで由利の楽園は脅かされ、地獄へと変わると思ったのだが……。
「兄さん、僕のオメガになって」
由利とYURI、義兄と義弟。
重すぎる義弟の愛に振り回される由利の運命の行く末は――
執着系義弟α×不憫系義兄α
義弟の愛は、楽園にも似た俺の住処になるのだろうか?
◎表紙は装丁cafe様より︎︎𓂃⟡.·
給餌行為が求愛行動だってなんで誰も教えてくれなかったんだ!
永川さき
BL
魔術教師で平民のマテウス・アージェルは、元教え子で現同僚のアイザック・ウェルズリー子爵と毎日食堂で昼食をともにしている。
ただ、その食事風景は特殊なもので……。
元教え子のスパダリ魔術教師×未亡人で成人した子持ちのおっさん魔術教師
まー様企画の「おっさん受けBL企画」参加作品です。
他サイトにも掲載しています。
平民なのに王子の身代わりをすることになり、氷の従者に教育されることになりました
律子
BL
牢に捕まった平民のカイルが突然連れていかれた場所はなんと王宮!
そこで自分と瓜二つの顔を持つ第二王子に会い、病弱な彼の「身代わり」をさせられることになった!
突然始まった王子生活でカイルを導くのは、氷のように冷たい美貌の従者・アウレリオ。
礼儀作法から言葉遣い、歩き方まで──何もかもを厳しく“教育”される日々。
でも、そうして過ごすうちにアウレリオの厳しいだけではない一面が見えてくることに。
二人は「身代わり生活」の相棒となり、試練を乗り越えていくが…。
だんだんと相手に向ける感情が『相棒』に向ける信頼だけではなくなっていく…!?
《本編 完結 続編 完結》29歳、異世界人になっていました。日本に帰りたいのに、年下の英雄公爵に溺愛されています。
かざみはら まなか
BL
24歳の英雄公爵✕29歳の日本に帰りたい異世界転移した青年
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる