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静穏の一時 4
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奥付を確認してみると、その内容にバースィルはぎょっとした。
発行日は百年ほど前、発行元は亡国リュエールの出版社だった。
リュエールとは、まさに百年以上前に南方にあった小さな王国の名だ。その頃は、南の大国レオミュール王国が帝国制を布いていて、帝国を名乗り周りの小国を併合して回っていた時代。その併合された国の一つがリュエールだった。帝国制を廃した際、国として改めて立つには弱すぎて、そのままレオミュールの所領となり、失われてしまった国だ。
少し前に読んだ『大陸中央部歴史編纂』の内容を思い出しながら、そりゃ騎士団にはないなと理解して、そっと奥付を閉じた。
また続きを読むかと思った時、トンっと肩に重みがかかる。そして漂う柔らかな深緑の香り。
本から顔を上げて隣を見やれば、バースィルの肩へ頭を寄せてウィアルが瞼を瞑っている。手は止まり、そっと尾の上に乗せられたまま。よくよく確認すれば、すぅすぅと微かな寝息とともに夢へと旅立ってしまったようだ。
そんな寝顔を、バースィルはじぃっと見つめる。不躾だと自覚があるものの、自制が効かなかった。
長い睫毛は頬に影を落とし、宵闇色をした髪が白い額にさらりとかかって、眠る表情にも魅入ってしまうほどだ。すぅすぅと小さな呼吸を繰り返す唇は、僅かに開き、その形も可愛らしく見えてくる。
普段は美しい様に気を取られがちだが、少し気の抜けた時に見せる可愛さは、ウィアルの魅力の一つだと、バースィルは考えている。
そんなウィアルを眺めていれば、幾ばくか邪な気持ちが鎌首をもたげ始める。
近づきたい、寄り添いたい、触れてみたい。
数秒――バースィルにとっては、何分にも感じたが――思案し葛藤して、額にかかった髪を避けてやる程度に押し止めた。
肩にかかる重さ、温かさ、そういう心地良さを堪能しながら、ページをパラパラと捲っていく。
外は秋を感じさせる風が吹いているのに、店の中は暖かい。空調を管理する魔導機でも入れてあるのだろう。お陰で随分と居心地がよい。
優しい音楽が耳に届く。柔らかい音色が心地よかった。程よい音量で、本を読む邪魔をしない配慮もありがたかった。
人のいないこの時間は、食事の香りもコーヒーの薫りもすっかり消え去り、木と植物の香りだけが漂っている。それは深緑を思い出させるもので――。
耳に届く規則正しい呼吸音。
呼吸に合わせて揺れる体。
肩に触れる頬はシャツ越しに温かさを伝えてくる。
衣服からなのか髪からなのか、何処かから漂うのは深緑の香り。
少し身じろぐことなどあれば、耳には小さな声が届き、身体は重さを感じ取ってどうやっても意識せざるを得ない。
「…………いや、これ、無理だろ」
小さく独り言ちて目を閉じる。
ウィアルに会ってから、人肌とはすっかり縁遠くなっていた。そんな状態のところに、一番恋しく想っている人物が寄り添っているのだ。
今日ほど、耳の良さ、鼻の良さを呪ったことはない。
バースィルは、大きな溜息を静かについた。
「女神も酷なことをするよな……」
ぱたりと本を閉じて膝に置く。もう本を読む集中力は残っていなかった。
顔を横に向ければ、艷やかな黒髪がバースィルの肩にさらりと落ちている。髪からは僅かに果実の香りがして、いつもの香りがより一層華やぐような気がした。
起こさぬように気をつけて、ゆっくりと体をソファに預けた。
こういう時は、寝るに限る。
色々と諦めたバースィルは、ふぅと呼気を吐き出して、瞼を閉じた。呼吸を整え眠りに入ろうとしたが、ちょっと欲が沸いてきた。こっそりと手を動かしていく。
尾の上に置かれた左手に、自身の右手をそっと寄せて静かに握る。自分より少し体温の低い手を包み込むように握った。緩く、柔らかく、至極優しく。
その指先を僅かに握り返される。
どきりと胸が跳ねた。
まさか起きているのか。
そっと薄目を開けて確認するが、起きている様子はなかった。耳をピクピクと動かして音を拾うが、すやすやと心地良さそうな寝息が聞こえているだけだ。
寝ぼけて握り返したのか、それとも夢の中で何かを握っているのか。もしそれが自分の手だとしたら、どんなに良いことだろう。
バースィルはそんな淡い期待を胸に、再び瞳を閉じた。
発行日は百年ほど前、発行元は亡国リュエールの出版社だった。
リュエールとは、まさに百年以上前に南方にあった小さな王国の名だ。その頃は、南の大国レオミュール王国が帝国制を布いていて、帝国を名乗り周りの小国を併合して回っていた時代。その併合された国の一つがリュエールだった。帝国制を廃した際、国として改めて立つには弱すぎて、そのままレオミュールの所領となり、失われてしまった国だ。
少し前に読んだ『大陸中央部歴史編纂』の内容を思い出しながら、そりゃ騎士団にはないなと理解して、そっと奥付を閉じた。
また続きを読むかと思った時、トンっと肩に重みがかかる。そして漂う柔らかな深緑の香り。
本から顔を上げて隣を見やれば、バースィルの肩へ頭を寄せてウィアルが瞼を瞑っている。手は止まり、そっと尾の上に乗せられたまま。よくよく確認すれば、すぅすぅと微かな寝息とともに夢へと旅立ってしまったようだ。
そんな寝顔を、バースィルはじぃっと見つめる。不躾だと自覚があるものの、自制が効かなかった。
長い睫毛は頬に影を落とし、宵闇色をした髪が白い額にさらりとかかって、眠る表情にも魅入ってしまうほどだ。すぅすぅと小さな呼吸を繰り返す唇は、僅かに開き、その形も可愛らしく見えてくる。
普段は美しい様に気を取られがちだが、少し気の抜けた時に見せる可愛さは、ウィアルの魅力の一つだと、バースィルは考えている。
そんなウィアルを眺めていれば、幾ばくか邪な気持ちが鎌首をもたげ始める。
近づきたい、寄り添いたい、触れてみたい。
数秒――バースィルにとっては、何分にも感じたが――思案し葛藤して、額にかかった髪を避けてやる程度に押し止めた。
肩にかかる重さ、温かさ、そういう心地良さを堪能しながら、ページをパラパラと捲っていく。
外は秋を感じさせる風が吹いているのに、店の中は暖かい。空調を管理する魔導機でも入れてあるのだろう。お陰で随分と居心地がよい。
優しい音楽が耳に届く。柔らかい音色が心地よかった。程よい音量で、本を読む邪魔をしない配慮もありがたかった。
人のいないこの時間は、食事の香りもコーヒーの薫りもすっかり消え去り、木と植物の香りだけが漂っている。それは深緑を思い出させるもので――。
耳に届く規則正しい呼吸音。
呼吸に合わせて揺れる体。
肩に触れる頬はシャツ越しに温かさを伝えてくる。
衣服からなのか髪からなのか、何処かから漂うのは深緑の香り。
少し身じろぐことなどあれば、耳には小さな声が届き、身体は重さを感じ取ってどうやっても意識せざるを得ない。
「…………いや、これ、無理だろ」
小さく独り言ちて目を閉じる。
ウィアルに会ってから、人肌とはすっかり縁遠くなっていた。そんな状態のところに、一番恋しく想っている人物が寄り添っているのだ。
今日ほど、耳の良さ、鼻の良さを呪ったことはない。
バースィルは、大きな溜息を静かについた。
「女神も酷なことをするよな……」
ぱたりと本を閉じて膝に置く。もう本を読む集中力は残っていなかった。
顔を横に向ければ、艷やかな黒髪がバースィルの肩にさらりと落ちている。髪からは僅かに果実の香りがして、いつもの香りがより一層華やぐような気がした。
起こさぬように気をつけて、ゆっくりと体をソファに預けた。
こういう時は、寝るに限る。
色々と諦めたバースィルは、ふぅと呼気を吐き出して、瞼を閉じた。呼吸を整え眠りに入ろうとしたが、ちょっと欲が沸いてきた。こっそりと手を動かしていく。
尾の上に置かれた左手に、自身の右手をそっと寄せて静かに握る。自分より少し体温の低い手を包み込むように握った。緩く、柔らかく、至極優しく。
その指先を僅かに握り返される。
どきりと胸が跳ねた。
まさか起きているのか。
そっと薄目を開けて確認するが、起きている様子はなかった。耳をピクピクと動かして音を拾うが、すやすやと心地良さそうな寝息が聞こえているだけだ。
寝ぼけて握り返したのか、それとも夢の中で何かを握っているのか。もしそれが自分の手だとしたら、どんなに良いことだろう。
バースィルはそんな淡い期待を胸に、再び瞳を閉じた。
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