32 / 43
静穏の一時 5
しおりを挟む
それからどれくらい経っただろうか。
少しの雑音と人の気配を拾って、三角の耳がピンと立つ。バースィルは、少し身じろぎ顔をしかめながら、ゆっくりと瞳を開いた。
眼の前には人影がある。しかし、敵意などは感じられず、そうだここはランディアだったなと相手に気づかれないように警戒を解いた。琥珀の瞳からは剣呑な光が消えた。
「おはようっす」
その相手――ヘンリーが、テーブル上の飲みかけのコーヒーカップを片付けながら、声をかけてくる。視線が合うと、小さく笑んで肩をすくめた。それから、そのまま流れるように新しいコーヒーを二つ並べる。
「まだ練習中なんすけど、飲んでください」
そう一言添えて立ち去っていく。
ヘンリーの背を見送りながら、バースィルはいまいち働かない頭で状況を整理した。
もうすっかり日は傾いていて、草色のカーテンを透かして夕日色が見え隠れしていた。それなりの時間眠っていたようだ。
隣にはまだ夢の中にいるウィアル。よく見れば、誰かがひざ掛けをかけてくれていた。その下に隠された手は、互いに緩く握ったままだ。
店内はというと、仕事が終わったのだろうか、客が数人入っていた。その中には顔見知りの魔術師がいて、含みのある笑みでこちらを見ている。その笑みの意味は分からなかったが、バースィルはとびきりのしたり顔で見返してやった。
ふわわと一つあくびをして、テーブルを見やる。
ヘンリーが淹れてくれたというコーヒーが二つ。これは起こしてコーヒーを飲ませておけということだなと、彼の意図を理解する。
名残惜しいと思いながら、バースィルは握っていた手をそっと放した。
「ウィアル、ウィアル……」
囁くように名を呼びかける。肩がピクリと動いた。
「ん……、う、んん……」
小さな声とともに、僅かに眉根が寄ったかと思うと、パチパチと数回瞬きながら夕日色の瞳が姿を現した。ゆっくりと頭を動かしてバースィルの視線と交われば、少し驚いたように眉が上がり、口が閉じることを忘れられている。
バースィルは、起き抜けのあどけなさを堪能しつつ、やや乱れた黒髪を手で優しく梳かした。目にかかる髪は軽く払いのける。それらの残りを指先で耳にかけてやりながら、ウィアルへ声をかけた。
「おはよう。よく眠れたか?」
バースィルが尋ねれば、ウィアルは慌てたように身を起こした。さっと窓を見、店内の時計を確認し、またバースィルの方へと向き直る。
「すみません、まさか寝てしまうなんて」
「俺も寝てた。それに必要なら誰かに起こされたさ」
ひざ掛けを指してそう伝える。
これをかけてくれたということは、昼寝が許容されていたということ。それに客が訪れ始める時間になれば、ヘンリーが声をかけてきたのだ。それまでは、寝ていたことに問題はなかったのだろう。
「ヘンリーがコーヒーを淹れてくれた」
「それはありがたいですね。飲めば頭も冴えると思います」
ウィアルは、カップを手に取りふーふーとしながら、慌ててコーヒーを飲み始めた。
それに倣って、バースィルもカップを口へと運ぶ。
「うわ、これは確かに冴えるな」
想像していたよりも苦い――いやエグい味に、バースィルは顔をしかめた。暫くはあくび一つ出ないだろう。それほど迄に驚く味だった。これはもうコーヒーと呼ぶより、気付け薬と呼んだ方がいい。
ウィアルの語るところによると、この渋いコーヒーは、一部の常連客に有名な裏メニューというやつで、『どんな連日の徹夜明けでも一杯飲めば目が覚める』と密かに人気なのだそうだ。そこまでして読みたい本があるのかとバースィルが尋ねれば、「次の日の仕事で必要だから、できる限り読まないとって方は一定層いますね」とウィアルは困ったように笑った。
「まあ、そういう方たちのための『貸本屋』のはずなのですが、……皆さん、店でゆっくりしてくださいますから」
立ち上がりながらそう言うウィアルは、少し嬉しそうな笑みを浮かべていた。
確かに店は居心地がいいし、飲み物も食事も頼める。それに、関わらない目的同士の他人がいる空間は案外気持ちが良いもので、読書の効率も上げてくれるのではないだろうか。
それを与えてくれるランディアだからこそ、皆ここへ来るのだとバースィルには思えた。
そのことが無性に嬉しくて、我がことのように喜びながら、カウンターへと戻るウィアルを見送った。
その後は、ひざ掛けを回収しに来たヘンリーが置いていったミルクと砂糖を入れて、何とか裏メニューのコーヒーを飲み切った。バースィルは、コーヒーというものは総じて美味いものだと思っていたが、考えを改める。
このヘンリー特製コーヒーだけは、当分、いやできるなら永劫、遠慮したいものだとしみじみ思った。
少しの雑音と人の気配を拾って、三角の耳がピンと立つ。バースィルは、少し身じろぎ顔をしかめながら、ゆっくりと瞳を開いた。
眼の前には人影がある。しかし、敵意などは感じられず、そうだここはランディアだったなと相手に気づかれないように警戒を解いた。琥珀の瞳からは剣呑な光が消えた。
「おはようっす」
その相手――ヘンリーが、テーブル上の飲みかけのコーヒーカップを片付けながら、声をかけてくる。視線が合うと、小さく笑んで肩をすくめた。それから、そのまま流れるように新しいコーヒーを二つ並べる。
「まだ練習中なんすけど、飲んでください」
そう一言添えて立ち去っていく。
ヘンリーの背を見送りながら、バースィルはいまいち働かない頭で状況を整理した。
もうすっかり日は傾いていて、草色のカーテンを透かして夕日色が見え隠れしていた。それなりの時間眠っていたようだ。
隣にはまだ夢の中にいるウィアル。よく見れば、誰かがひざ掛けをかけてくれていた。その下に隠された手は、互いに緩く握ったままだ。
店内はというと、仕事が終わったのだろうか、客が数人入っていた。その中には顔見知りの魔術師がいて、含みのある笑みでこちらを見ている。その笑みの意味は分からなかったが、バースィルはとびきりのしたり顔で見返してやった。
ふわわと一つあくびをして、テーブルを見やる。
ヘンリーが淹れてくれたというコーヒーが二つ。これは起こしてコーヒーを飲ませておけということだなと、彼の意図を理解する。
名残惜しいと思いながら、バースィルは握っていた手をそっと放した。
「ウィアル、ウィアル……」
囁くように名を呼びかける。肩がピクリと動いた。
「ん……、う、んん……」
小さな声とともに、僅かに眉根が寄ったかと思うと、パチパチと数回瞬きながら夕日色の瞳が姿を現した。ゆっくりと頭を動かしてバースィルの視線と交われば、少し驚いたように眉が上がり、口が閉じることを忘れられている。
バースィルは、起き抜けのあどけなさを堪能しつつ、やや乱れた黒髪を手で優しく梳かした。目にかかる髪は軽く払いのける。それらの残りを指先で耳にかけてやりながら、ウィアルへ声をかけた。
「おはよう。よく眠れたか?」
バースィルが尋ねれば、ウィアルは慌てたように身を起こした。さっと窓を見、店内の時計を確認し、またバースィルの方へと向き直る。
「すみません、まさか寝てしまうなんて」
「俺も寝てた。それに必要なら誰かに起こされたさ」
ひざ掛けを指してそう伝える。
これをかけてくれたということは、昼寝が許容されていたということ。それに客が訪れ始める時間になれば、ヘンリーが声をかけてきたのだ。それまでは、寝ていたことに問題はなかったのだろう。
「ヘンリーがコーヒーを淹れてくれた」
「それはありがたいですね。飲めば頭も冴えると思います」
ウィアルは、カップを手に取りふーふーとしながら、慌ててコーヒーを飲み始めた。
それに倣って、バースィルもカップを口へと運ぶ。
「うわ、これは確かに冴えるな」
想像していたよりも苦い――いやエグい味に、バースィルは顔をしかめた。暫くはあくび一つ出ないだろう。それほど迄に驚く味だった。これはもうコーヒーと呼ぶより、気付け薬と呼んだ方がいい。
ウィアルの語るところによると、この渋いコーヒーは、一部の常連客に有名な裏メニューというやつで、『どんな連日の徹夜明けでも一杯飲めば目が覚める』と密かに人気なのだそうだ。そこまでして読みたい本があるのかとバースィルが尋ねれば、「次の日の仕事で必要だから、できる限り読まないとって方は一定層いますね」とウィアルは困ったように笑った。
「まあ、そういう方たちのための『貸本屋』のはずなのですが、……皆さん、店でゆっくりしてくださいますから」
立ち上がりながらそう言うウィアルは、少し嬉しそうな笑みを浮かべていた。
確かに店は居心地がいいし、飲み物も食事も頼める。それに、関わらない目的同士の他人がいる空間は案外気持ちが良いもので、読書の効率も上げてくれるのではないだろうか。
それを与えてくれるランディアだからこそ、皆ここへ来るのだとバースィルには思えた。
そのことが無性に嬉しくて、我がことのように喜びながら、カウンターへと戻るウィアルを見送った。
その後は、ひざ掛けを回収しに来たヘンリーが置いていったミルクと砂糖を入れて、何とか裏メニューのコーヒーを飲み切った。バースィルは、コーヒーというものは総じて美味いものだと思っていたが、考えを改める。
このヘンリー特製コーヒーだけは、当分、いやできるなら永劫、遠慮したいものだとしみじみ思った。
0
あなたにおすすめの小説
俺の婚約者は小さな王子さま?!
大和 柊霞
BL
「私の婚約者になってくれますか?」
そう言い放ったのはこの国の王子さま?!
同性婚の認められるパミュロン王国で次期国王候補の第1王子アルミスから婚約を求められたのは、公爵家三男のカイルア。公爵家でありながら、長男のように頭脳明晰でもなければ次男のように多才でもないカイルアは自由気ままに生きてかれこれ22年。
今の暮らしは性に合っているし、何不自由ない!人生は穏やかに過ごすべきだ!と思っていたのに、まさか10歳の王子に婚約を申し込まれてしまったのだ。
「年の差12歳なんてありえない!」
初めはそんな事を考えていたカイルアだったがアルミス王子と過ごすうちに少しづつ考えが変わっていき……。
頑張り屋のアルミス王子と、諦め系自由人のカイルアが織り成す救済BL
完結|好きから一番遠いはずだった
七角@書籍化進行中!
BL
大学生の石田陽は、石ころみたいな自分に自信がない。酒の力を借りて恋愛のきっかけをつかもうと意気込む。
しかしサークル歴代最高イケメン・星川叶斗が邪魔してくる。恋愛なんて簡単そうなこの後輩、ずるいし、好きじゃない。
なのにあれこれ世話を焼かれる。いや利用されてるだけだ。恋愛相手として最も遠い後輩に、勘違いしない。
…はずだった。
嫌われ将軍(おっさん)ですがなぜか年下の美形騎士が離してくれない
天岸 あおい
BL
第12回BL大賞・奨励賞を受賞しました(旧タイトル『嫌われ将軍、実は傾国の愛されおっさんでした』)。そして12月に新タイトルで書籍が発売されます。
「ガイ・デオタード将軍、そなたに邪竜討伐の任を与える。我が命を果たすまで、この国に戻ることは許さぬ」
――新王から事実上の追放を受けたガイ。
副官を始め、部下たちも冷ややかな態度。
ずっと感じていたが、自分は嫌われていたのだと悟りながらガイは王命を受け、邪竜討伐の旅に出る。
その際、一人の若き青年エリクがガイのお供を申し出る。
兵を辞めてまで英雄を手伝いたいというエリクに野心があるように感じつつ、ガイはエリクを連れて旅立つ。
エリクの野心も、新王の冷遇も、部下たちの冷ややかさも、すべてはガイへの愛だと知らずに――
筋肉おっさん受け好きに捧げる、実は愛されおっさん冒険譚。
※12/1ごろから書籍化記念の番外編を連載予定。二人と一匹のハイテンションラブな後日談です。
竜の生贄になった僕だけど、甘やかされて幸せすぎっ!【完結】
ぬこまる
BL
竜の獣人はスパダリの超絶イケメン!主人公は女の子と間違うほどの美少年。この物語は勘違いから始まるBLです。2人の視点が交互に読めてハラハラドキドキ!面白いと思います。ぜひご覧くださいませ。感想お待ちしております。
【完結】※セーブポイントに入って一汁三菜の夕飯を頂いた勇者くんは体力が全回復します。
きのこいもむし
BL
ある日突然セーブポイントになってしまった自宅のクローゼットからダンジョン攻略中の勇者くんが出てきたので、一汁三菜の夕飯を作って一緒に食べようねみたいなお料理BLです。
自炊に目覚めた独身フリーターのアラサー男子(27)が、セーブポイントの中に入ると体力が全回復するタイプの勇者くん(19)を餌付けしてそれを肴に旨い酒を飲むだけの逆異世界転移もの。
食いしん坊わんこのローグライク系勇者×料理好きのセーブポイント系平凡受けの超ほんわかした感じの話です。
【完結】社畜の俺が一途な犬系イケメン大学生に告白された話
日向汐
BL
「好きです」
「…手離せよ」
「いやだ、」
じっと見つめてくる眼力に気圧される。
ただでさえ16時間勤務の後なんだ。勘弁してくれ──。
・:* ✧.---------・:* ✧.---------˚✧₊.:・:
純真天然イケメン大学生(21)× 気怠げ社畜お兄さん(26)
閉店間際のスーパーでの出会いから始まる、
一途でほんわか甘いラブストーリー🥐☕️💕
・:* ✧.---------・:* ✧.---------˚✧₊.:・:
📚 **全5話/9月20日(土)完結!** ✨
短期でサクッと読める完結作です♡
ぜひぜひ
ゆるりとお楽しみください☻*
・───────────・
🧸更新のお知らせや、2人の“舞台裏”の小話🫧
❥❥❥ https://x.com/ushio_hinata_2?s=21
・───────────・
応援していただけると励みになります💪( ¨̮ 💪)
なにとぞ、よしなに♡
・───────────・
鎖に繋がれた騎士は、敵国で皇帝の愛に囚われる
結衣可
BL
戦場で捕らえられた若き騎士エリアスは、牢に繋がれながらも誇りを折らず、帝国の皇帝オルフェンの瞳を惹きつける。
冷酷と畏怖で人を遠ざけてきた皇帝は、彼を望み、夜ごと逢瀬を重ねていく。
憎しみと抗いのはずが、いつしか芽生える心の揺らぎ。
誇り高き騎士が囚われたのは、冷徹な皇帝の愛。
鎖に繋がれた誇りと、独占欲に満ちた溺愛の行方は――。
経理部の美人チーフは、イケメン新人営業に口説かれています――「凛さん、俺だけに甘くないですか?」年下の猛攻にツンデレ先輩が陥落寸前!
中岡 始
BL
社内一の“整いすぎた男”、阿波座凛(あわざりん)は経理部のチーフ。
無表情・無駄のない所作・隙のない資料――
完璧主義で知られる凛に、誰もが一歩距離を置いている。
けれど、新卒営業の谷町光だけは違った。
イケメン・人懐こい・書類はギリギリ不備、でも笑顔は無敵。
毎日のように経費精算の修正を理由に現れる彼は、
凛にだけ距離感がおかしい――そしてやたら甘い。
「また会えて嬉しいです。…書類ミスった甲斐ありました」
戸惑う凛をよそに、光の“攻略”は着実に進行中。
けれど凛は、自分だけに見せる光の視線に、
どこか“計算”を感じ始めていて……?
狙って懐くイケメン新人営業×こじらせツンデレ美人経理チーフ
業務上のやりとりから始まる、じわじわ甘くてときどき切ない“再計算不能”なオフィスラブ!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる