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日々の随意 5
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運ばれてきたウィアルのシチューは大層旨かった。
鶏肉も野菜もじっくり柔らかく煮込まれていて、ミルクたっぷりのクリームとあっていた。そのクリームには、ミルクや野菜の甘さ、肉の旨味が溶けている。煮過ぎていないスピナッチが彩りよく、他の野菜とは違う食感を与えてくれる。
注文時の要望通り肉は多めで、バースィルの腹も十分膨れて満足だった。
それこそ、ウィアルの一挙手一投足に沸き立つ心を落ち着けるくらいに。
食べ終わる頃には、何とかなるだろうというような心持ちに変わっていた。しっかりと冷静さを取り戻したようだった。欲にかられて取り返しがつかなくなるより全然良いのだと、バースィルは自分に言い聞かせる。
体というものは単純にできているらしく、腹が膨れれば眠気が襲ってくる。
バースィルは食事が終わって暫しも経たない内に、うつらうつらとし始めた。
「お休みしますか?」
いつの間にか来ていたウィアルが尋ねてくる。
半分ほどしか開いてない瞳で見やれば、気遣うような夕日色がこちらを見守っていた。優しい笑み、耳によく届く声音、それから柔らかな深緑の香り。どれもこれも等しく恋しくなってしまう。
「となり」
バースィルは言葉少なに呟いて、ソファの空いている場所をぽすぽすと叩く。誘うように尾を振った。
ウィアルは、手にしていたトレイの品たちを慌ててテーブルに並べていく。ミルクたっぷりのカフェオレとクッキーが数枚入った皿、それに木片と葉の入った小さな器だった。
いつものコーヒーじゃないそれを見て、わざわざ用意してくれたのかと、微睡み始めた頭で考える。
「ねみぃ……から、飲めねえかも。すまねぇ」
たどたどしく伝えれば、大丈夫ですよと微笑みながらウィアルもソファへと腰を下ろした。もっと近くにと思い願い、腰を抱くように尾を寄り添わせた。
少しずるいかもなと頭の隅で考えながら、バースィルはぽてっともたれかかってみる。体は躱されることなく、肩と肩が触れ合った。
「ふふ、今日はいつもと逆ですね」
穏やかな、少し低めの声が耳の傍で聞こえてくる。
触れる肩が温かい。
午睡の時、ウィアルがもたれたりするものだから、同様に受け入れてくれるだろうことは分かっていた。どういう形であれ、特別だと思ってもらえている境遇に乗っかる自分はずるいのだろうと、バースィルは思う。
けれど先程思った――もう少しだけ今より近くへ、そんな欲をなかったことにはできなかった。特別だということに胡座をかく。他の客だってどうでもよかった。
眠気に任せるってすごいんだなと思いながら、バースィルは温かさや心地よさに身を委ね、揺蕩うように微睡んでいた。
ウィアルが隣にいてくれる、その事実でまた心がホカホカとしてくるのだ。俺というものは単純にできているんだななどと、頭の隅で考える。けれど、単純でよいことは単純でよいのだとも、バースィルには思えた。
ふいに頭に触れられる感覚で、一瞬意識が浮上する。
赤い髪を指で梳り数回撫でた後、耳の後ろをくすぐるように触れられる。思わずパタっと動かせば、一度手を離しすぐにまた触れられる。今度はパタパタと動かし返した。
「そこきもちい」
目を閉じたままそうやって呟けば、笑うような呼気が漏れたように思えた。
僅かにくすぐるような、軽く掻くような、そんな風に耳に触れられ、心地よさに埋もれていく。
バースィルは眠気と闘いながら暫くそれらを堪能していたのだが、また頭をよしよしと撫でられた後、申し訳なさそうな声が聞こえてきた。
「私の時は一緒に居ていただいているのに、私は席を外さなくてはならなくてすみません。お客様がいらっしゃいますから」
そうして、ウィアルは優しい力でバースィルの体を支えてくれた。
「ん、わかってる」
バースィルはそう呟いて、体をソファの背もたれへ預け直した。肩を離し、腕が離れ、尾が名残惜しそうに離れて揺れた。
温かさが離れていくことに寂しさを感じるものの、ウィアルや店に迷惑をかけたいわけでもない。
半分ほど開いた目でウィアルが席を立つのを見ながら、んんと身じろぎ体勢を整える。起きてウィアルの仕事風景を見守りたいと思ったのだが、これ以上は体も頭も起きてくれそうになかった。
立ち上がったウィアルが、指先にほんの小さな、とてもとても小さな魔力の火種を作り、器に入った木片に火を点す。火はすぐに消えてしまうが、木片と葉から柔らかな香りが立ち上り、バースィルの周りに広がっていく。まるで自分を包むような、そんな感覚に囚われる。
それに、それらの香りと一緒に、いつものあの深緑の香りが漂ってくる。
心が解れていくってこういうことなんだろうかと、僅かに残った意識の片隅で思う。
「眠い時は寝てしまって大丈夫なんですよ、ランディアでは」
ウィアルの優しい声が、眠りの淵へとバースィルを誘う。
優しい瞳が、そうしていいのだと安心感を抱かせる。
そしていつもの深緑のような香りが鼻腔をくすぐり、穏やかな心地にさせていく。
仕事で多忙な連中が寝こけているのはよく見ていた。
事前に時間を伝えておけばその時間に、なければある程度の時間の後に起こしてもらえる。そんな風に仮眠を取りに来る客もいるのだと、いつだかにヘンリーが言っていた。
それなら俺も寝ていいかと、バースィルはゆっくりと瞳を閉じる。
安心する香りに心も体も落ち着いて、ゆったりとした眠りの中へ深く深く沈んでいくのが、バースィルには理解できた。
鶏肉も野菜もじっくり柔らかく煮込まれていて、ミルクたっぷりのクリームとあっていた。そのクリームには、ミルクや野菜の甘さ、肉の旨味が溶けている。煮過ぎていないスピナッチが彩りよく、他の野菜とは違う食感を与えてくれる。
注文時の要望通り肉は多めで、バースィルの腹も十分膨れて満足だった。
それこそ、ウィアルの一挙手一投足に沸き立つ心を落ち着けるくらいに。
食べ終わる頃には、何とかなるだろうというような心持ちに変わっていた。しっかりと冷静さを取り戻したようだった。欲にかられて取り返しがつかなくなるより全然良いのだと、バースィルは自分に言い聞かせる。
体というものは単純にできているらしく、腹が膨れれば眠気が襲ってくる。
バースィルは食事が終わって暫しも経たない内に、うつらうつらとし始めた。
「お休みしますか?」
いつの間にか来ていたウィアルが尋ねてくる。
半分ほどしか開いてない瞳で見やれば、気遣うような夕日色がこちらを見守っていた。優しい笑み、耳によく届く声音、それから柔らかな深緑の香り。どれもこれも等しく恋しくなってしまう。
「となり」
バースィルは言葉少なに呟いて、ソファの空いている場所をぽすぽすと叩く。誘うように尾を振った。
ウィアルは、手にしていたトレイの品たちを慌ててテーブルに並べていく。ミルクたっぷりのカフェオレとクッキーが数枚入った皿、それに木片と葉の入った小さな器だった。
いつものコーヒーじゃないそれを見て、わざわざ用意してくれたのかと、微睡み始めた頭で考える。
「ねみぃ……から、飲めねえかも。すまねぇ」
たどたどしく伝えれば、大丈夫ですよと微笑みながらウィアルもソファへと腰を下ろした。もっと近くにと思い願い、腰を抱くように尾を寄り添わせた。
少しずるいかもなと頭の隅で考えながら、バースィルはぽてっともたれかかってみる。体は躱されることなく、肩と肩が触れ合った。
「ふふ、今日はいつもと逆ですね」
穏やかな、少し低めの声が耳の傍で聞こえてくる。
触れる肩が温かい。
午睡の時、ウィアルがもたれたりするものだから、同様に受け入れてくれるだろうことは分かっていた。どういう形であれ、特別だと思ってもらえている境遇に乗っかる自分はずるいのだろうと、バースィルは思う。
けれど先程思った――もう少しだけ今より近くへ、そんな欲をなかったことにはできなかった。特別だということに胡座をかく。他の客だってどうでもよかった。
眠気に任せるってすごいんだなと思いながら、バースィルは温かさや心地よさに身を委ね、揺蕩うように微睡んでいた。
ウィアルが隣にいてくれる、その事実でまた心がホカホカとしてくるのだ。俺というものは単純にできているんだななどと、頭の隅で考える。けれど、単純でよいことは単純でよいのだとも、バースィルには思えた。
ふいに頭に触れられる感覚で、一瞬意識が浮上する。
赤い髪を指で梳り数回撫でた後、耳の後ろをくすぐるように触れられる。思わずパタっと動かせば、一度手を離しすぐにまた触れられる。今度はパタパタと動かし返した。
「そこきもちい」
目を閉じたままそうやって呟けば、笑うような呼気が漏れたように思えた。
僅かにくすぐるような、軽く掻くような、そんな風に耳に触れられ、心地よさに埋もれていく。
バースィルは眠気と闘いながら暫くそれらを堪能していたのだが、また頭をよしよしと撫でられた後、申し訳なさそうな声が聞こえてきた。
「私の時は一緒に居ていただいているのに、私は席を外さなくてはならなくてすみません。お客様がいらっしゃいますから」
そうして、ウィアルは優しい力でバースィルの体を支えてくれた。
「ん、わかってる」
バースィルはそう呟いて、体をソファの背もたれへ預け直した。肩を離し、腕が離れ、尾が名残惜しそうに離れて揺れた。
温かさが離れていくことに寂しさを感じるものの、ウィアルや店に迷惑をかけたいわけでもない。
半分ほど開いた目でウィアルが席を立つのを見ながら、んんと身じろぎ体勢を整える。起きてウィアルの仕事風景を見守りたいと思ったのだが、これ以上は体も頭も起きてくれそうになかった。
立ち上がったウィアルが、指先にほんの小さな、とてもとても小さな魔力の火種を作り、器に入った木片に火を点す。火はすぐに消えてしまうが、木片と葉から柔らかな香りが立ち上り、バースィルの周りに広がっていく。まるで自分を包むような、そんな感覚に囚われる。
それに、それらの香りと一緒に、いつものあの深緑の香りが漂ってくる。
心が解れていくってこういうことなんだろうかと、僅かに残った意識の片隅で思う。
「眠い時は寝てしまって大丈夫なんですよ、ランディアでは」
ウィアルの優しい声が、眠りの淵へとバースィルを誘う。
優しい瞳が、そうしていいのだと安心感を抱かせる。
そしていつもの深緑のような香りが鼻腔をくすぐり、穏やかな心地にさせていく。
仕事で多忙な連中が寝こけているのはよく見ていた。
事前に時間を伝えておけばその時間に、なければある程度の時間の後に起こしてもらえる。そんな風に仮眠を取りに来る客もいるのだと、いつだかにヘンリーが言っていた。
それなら俺も寝ていいかと、バースィルはゆっくりと瞳を閉じる。
安心する香りに心も体も落ち着いて、ゆったりとした眠りの中へ深く深く沈んでいくのが、バースィルには理解できた。
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