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江戸の華は喧嘩と火事
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「うーん義兄上、ここは拙者にお任せを…」
ここは、江戸の街にある長屋の一室である。そこに若い浪人夫婦が住みついたのは、関ヶ原合戦が終わり、江戸の主たる徳川家康が戻って間もない頃であった。
「お前様、朝にございますよ」
新妻の朝は早い。いや、どこの家庭でもそれが当たり前の光景であっただろうが、御姫様として生まれ育ったお菊には、特に新鮮な毎日であっただろう。
「ムニャムナ…」
「ええい、滝川三九郎出陣せよ!」
「はいーっ」
突如出陣の下知が下り、三九郎の夜は終わりを告げた。
三九郎が跳び起き、まだ半分眠りかけた眼で、部屋を見ると、お菊が三つ指をついて起きるのを待っていた。
「お早うございます。朝餉の御仕度が整いました」
「うん?」
何事もなかったように、お菊は恭しく振舞う。三九郎は、まだまだ夢心地の様子だった。
天正十八年(1590)八月一日、北条氏が没落した後、徳川家康は、豊臣秀吉に命ぜられて、関東に国替えとなった。
所謂、江戸御打ち入りである。これより、江戸時代を通じて、八月一日は幕府の大切な祝日となった。
関ヶ原合戦に勝利を治めた家康は、秀吉死後の国内における実質上の最高権力者となった。そして、その家康が現在進めているのが、自身の根拠地である江戸の街並み発展である。
江戸入府よりすでに十年が経過していたが、この時期の江戸は、現在の日本の首都と言うのにはほど遠い一地方都市でしかなく、大都市とするには、まだまだ今後の課題が多かった。想像でしかないが、秀吉存命中は、積極的に動けなかったのだろう。大坂を超える街を作れば、たちまち秀吉に警戒される事になる。
「ようやく、街づくりが出来るわい」
これが、家康の本音であったのかもしれない。
江戸は、その名が示す通りに海岸沿いに発生した都市であり、当時の物流が海運と陸運であった事を考えると、関東の要所である江戸に本拠地を選んだ家康の(或いは秀吉)慧眼は、歴史が証明する事実である。
だが、家康入府よりの十年は、まずライフラインを整える作業に追われており、街並みと呼べるような物が出現するまでには至っていない。人が住めるように湾の埋め立てを行い、井戸を掘っても海水が出るので、川の治水工事を行い、街道の整備をして物流が行きやすいようにしなければならなかった。
そして、家康自身はと言えば、秀吉存命中は何かと大坂に居らねばならず、政務に忙殺されて、腰を据えて、根拠地を開発するゆとりはなかったように思われる。
そして、滝川三九郎が愛妻のお菊を伴って、江戸の街に住みついたのは、そんな過渡期の時であったのだ。
「おっ今日は朝から魚付きか」
この日の滝川家の食卓は、麦飯に味噌汁、お漬物と焼き魚であった。現代の我々と比べると質素だが、朝から魚が付くのは、浪人暮らしの三九郎にとっては、贅沢な方であった。
「お魚は頂きものですよ」
嬉しそうにお菊は話す。江戸の長屋と言えば、当時のアパートのような物だが、お風呂やトイレは共同の物だったし、部屋も壁一枚を隔てただけの簡素な作りだった。
城育ちのお菊には、当初はさぞ苦労したと思われるが、お菊はその分け隔てない大らかな性格が江戸の気風に合っていたのか、現在は、ここの暮らしを楽しんでいる様子であった。
「お菊、では行って来るぞよ」
遅めの朝食を終えた三九郎は、長屋を後にする。三九郎の日常は忙しい。これから、今日の飯のタネを探しに行かねばならない。この時代に貯蓄をして、老後の蓄えになどと考える庶民は少ない。
所謂、「宵越しの銭は持たない」という、その日を暮せる分をその日に稼ぐという江戸庶民の共通認識のようなものがあって、それが江戸後期の粋(いき)という文化へと昇華されていくのである。
三九郎が向かった先は、「口入屋(くちいれや)」と書いた看板が掛かった街の角にある店である。別称で手配師ともいうが、この時代の派遣業者のようなものだろう。三九郎は、江戸に住みついてから、ここに出入りして、その日の日銭を稼ぐのが主な収入になりつつあったのだ。
「御免よ」
「おう、滝の旦那」
「今日は何かあるかい?」
「旦那、ちょいと来るのが遅かったねぇ。もうお天道様が上に来ちまってら~」
店の主人である五助と話しをしながら、この日の仕事を探っていく。江戸に来て間もないころに、たまたま通りかかった店先で、食い詰め浪人に強請られていたのを助けたのが縁となり、それから何かと気遣っては、三九郎に合った仕事を斡旋してくれているのだ。
「今日は、もうロクな物が残ってねえなぁ~」
五助は、パラパラと記載されている仕事請負の台帳をめくっている。
「おや、これなんてどうだろう。滝の旦那にうってつけじゃないかい?」
「よし、やろう!」
「呆れた。まだ何にも言ってないよ」
「五助が言うのだ。文句はあるまい」
「後で言われても知りませんよ」
五助は、そう言って笑った。三九郎も笑う。五助は、このいささか風変わりで胆の座った浪人に、早速仕事内容の説明を始めるのだった。
その日の晩、三九郎はすっかり暮れてしまった家路を急いでいた。
「帰ったぞ」
「お帰りなさいまし」
夕餉の支度を整えて待っていたお菊が、三つ指をついて出迎えてくれるいつもの光景だ。
「今日は、遅かったですね」
「うむ、荷駄運びの手伝いと、ついでに用心棒の仕事も昼から入ってな」
三九郎は、今日あった事をお菊に話し始める。
お菊は、三九郎が話す一日の報告を楽しそうに聞いている。時にはお酌をしながら、時には相槌を打ちながら、コロコロと良くお菊が笑ってくれるので、三九郎も得意になってつい実際に起きた出来事を、大風呂敷を広げながら話してしまう。笑い声が絶えない滝川家の食卓風景が毎日繰り返されている。
二人が夕餉を終えて、三九郎が手酌で残りの酒を楽しもうとしていた時であった。
「御免!」
ガタガタと揺れる建ちつけの悪い引き戸に苦戦する音が外より聞こえる。仕方なく、お菊が戸を開けるコツでスルリと開ける。
「兄上!」
戸を開けるとそこには、現在の真田家当主にして、上田城城主たる真田伊豆守信之の姿があった。
「父上と義兄上様は、ご息災ですか?」
関ヶ原合戦の後に、真田昌幸と信繁親子は、戦犯として裁かれ、領地没収の上で、紀伊国九度山に配流となっていた。当初は、親子ともども死罪を申し渡される予定であったが、信之の働きかけにより、免ぜられた経緯があった。
「うむ、今のところは大人しゅうしておるよ」
信之は笑って、出された茶を口に入れた。この男も大名として、御殿様と言われる御身分の武士であったが、江戸に来た際には、お供も付けずに、フラリと三九郎らの長屋に立ち寄ったりするのだ。
それは、家康の養女を正室にしている言わば、徳川の身内扱いの身分であっても、徳川に弓引いた大罪人である真田安房守昌幸の嫡男であるという、微妙な立場を忘れるために、一つの息抜きとして、妹夫婦の顔を見に来ている側面があったのだろう。
「お菊、長屋暮らしに不自由はないか?」
信之は、実際に会える数少ない身内となった妹を労わる。
あの戦の後に、三九郎に上田に来いと再三言ったのだが、三九郎は遂に「はい」とは言わず、半ば出奔するかのように江戸に来ていた。三九郎からしてみれば、昌幸に従い徳川と戦って、しかもその娘を嫁とした男を家臣とすれば、信之の身の破滅にも繋がりかねないと、配慮しての事であった。
その三九郎の気持ちを信之も重々理解している。分かるからこそ、こうやって二人の住まいに立ち寄っては、お土産を置いて行ったりするのだった。
「義兄上、江戸の水も慣れてしまえば、美味しく感ずる」
上方育ちの三九郎からすれば、江戸の風情は田舎臭く、雅などとは程遠かっただろう。
しかし、新居を敵であった徳川の根拠地に敢えて構えた所に、滝川三九郎という男の可笑しみがあっただろう。
「江戸の街は、これから発展する。それを見ているだけでも、面白いものよ」
三九郎はそう言って、笑っているのだが、それよりも当面の貧乏暮らしを脱却する方法をどうするのかを考えなければならなかった。
「用心棒?」
それが、三九郎が現在行っている仕事内容であった。
「まぁ、何でも万屋(よろずや)請負稼業と言った所ですか…」
言われれば何でもやると、一言で言ってしまえばそれだけであったが、商屋の警備から、荷駄運搬、人探し、揉め事仲裁、はたまた家の突貫修理までと、その内容は多岐に渡る。
三九郎の話しを聞きながら、信之は妙に感心してみたり、頷いたりしていた。そして、少し思案顔の後で、相談事と言って、話しを切り出し始めていた。
「この男について探ってもらいたい」
信之が懐より取り出したのは、ある男の似顔絵であった。その顔には、額に大きな傷が描かれている。
「何者ですか?」
信之が語る所によれば、その男は、滋野三郎と言う男で、元々は真田の草の者として行動していた。それが、戦後にお役御免となり、どことなりと出奔していたのが、どうやらこの江戸に流れついたらしかった。
「何人か、郊外の廃寺に集めて、密議をこらしておる」
早い話がそれを三九郎に探れと言うのである。
「徳川様に願い出ては?」
お菊などはそう言ってみるが、話しはそう簡単な事ではなかった。この滋野三郎なる者は、腕利きとして知られた男である。そして、真田の草の者であった事実は、調べれば分かる事だ。それが、暗に人を集めて何やら企んでいるのだ。
「ひょっとすると、安房守か左衛門佐が企みか?」
などど、徳川氏家では思われるかもしれない。いや、真田家に対して、特に遺恨がある徳川秀忠あたりはそう考えて、或いは、こじつけてくる可能性が大いにある。
「ことは、秘密裏に行わねばならぬ」
しかも誰にも気取られずに、腕利きの元忍びを倒せる信頼できる男、つまりは滝川三九郎という事になるのであった。
「頼み参らせる」
「承知した」
三九郎が義兄の頼みを聞き入れたのは、そのような背景が裏に有る事を感じ取ったからであった。
「さてさて、万屋稼業と参りますかな」
三九郎は、立ち上がるとパチンと手のひらを打った。試合開始の合図が鳴ったのである。
翌夜には、件の廃寺を見張る三九郎の姿があった。
「冷え込んできたなぁ~」
時期は木枯らしが吹く季節、日が陰れば、夜風が身に染みる。見張りを始めて、もう一刻半にはなろうか、ちょうどそんな時分であった。
「もし…もし…」
どこかで、三九郎を呼ぶ声がする。辺りを警戒するが、声のする方向が分からない。
「何者か?」
三九郎は、とっさに鯉口を切り、いつでも対応出来るように、腰を低く体勢を取る。
「これより出ますれば、お待ち下さりますよう」
その声の主が殺気を含んでいなかったので、三九郎は、身体を起こすが、いつでも抜刀出来るように、右手で柄を握ったままにしていた。
「滝川三九郎様と、お見受け致しまする」
暗闇の中から、一人の男をスーッと現れて、三九郎の前に片膝をついてこちらを見ている。その顔には、額に大きな傷跡があった。
「滋野三郎か?」
「ご明察で」
「どうして俺が分かった?」
「上田合戦の際、私も左衛門佐様の陣に居りました」
三九郎は、ようやく鞘から手を放した。
「どうして目の前に現れたのか?」
率直な疑問であった。忍びが付けられていると知って、またそれが見知った者で、主の縁に連なる三九郎と分かれば、普通は逃げ出すか、それとも襲ってくるかのどちらかである。それが三郎は、たった一人で腕利きである三九郎の前の姿を現したのである。
「私は敵ではございませぬ。まずは話しを聞いて下さいますよう」
三郎は、懐に忍ばせていた短刀を三九郎の目の前に置くことで、敵意が無い事を示そうとした。
忍びが相手では、そんなものが安全を保障することにならない事を三九郎は承知している。しかし、まずは三郎の話しを聞いてみるべきであった。
三九郎と三郎は、場所を移して、岸より小船に乗り込み、船頭をつけずに三郎が船を漕いでいる。それだけ、周りに気を使っての事だが、このままどこに連れて行かれるのか少し不安ではある。
「あの寺には、何がある?」
「何もありはしませぬ」
三九郎の問いに三郎は素っ気なく答える。それが一層、三九郎を警戒させた。
「御心配なさらずに。これから向かうは我が家でして」
三九郎の心の内を読んでか、三郎は笑顔を向ける。しかし、何ともそれが言いようのない不気味さを漂わせているのだった。
「着きまして御座います」
暗がりで三九郎には、ここが本所のどこかという所までしか分からない。
「あっしは、普段ここらで日銭を稼いでおりやす」
それが忍びの特徴であろうが、自宅近くになると、三郎は、口調が先程の受け答えから、もうすでに江戸者のそれとなっていた。
「おっ父う、お帰りよ」
「おう、帰(けえ)ったよ。こちらお客さんだ。何か見繕っておくれよ」
その長屋に着くと、一人の少年が出迎えてくれた。名を才蔵という。三郎の息子だが、実の子ではない。両親と死別したので、三郎が我が子として育てていたのだった。
「その子も腕を持つのか?」
「へい、あらかた仕込んでおりやす」
出された酒と肴を食しながら、会話を続ける。
「話しを聞こうか」
三九郎が問うと、三郎はすかさず目で才蔵に合図を送る。才蔵は、障子と小屋と両壁とに耳を当てて気配を凝らす。当時の長屋の壁は薄い。誰が聞いているとも限らない。会話にも慎重が必要であった。
「滝川様、あれは罠で御座いますよ」
「やはりそうか。どんな罠だ?」
「滝川様と、私とを釣るために御座います」
三郎の話しによれば、関ヶ原合戦後に真田忍びは、分裂していた。当時の様々な大名家で見られた現象ではあるが、西軍に加担したものは、軒並み領地没収や、減封などの処分を受けた。
そして、政治の中枢が大坂から江戸へ転換されようとしていた混乱期である。この時代は、全国各地で様々なトラブルが起こっていた時であった。それが、真田家内部でも起きていたのだ。
つまりは、それまでの真田家の当主であった真田安房守昌幸が配流となり、その後を伊豆守信之が継いだ。信之は、徳川家からの疑念を逸らすために、父や弟のように忍びに頼らない国造りを目指しており、大量の元忍びが生まれたのだった。
「それが、今回の件とどう繋がる?」
「まぁまぁ、話はここからでして…」
先を促す三九郎を三郎は、右手のひらを見せて制す。
現在、真田忍びは大きく二派に別れて、牽制している状態であった。片方は、真田の郷に残り、あくまで真田昌幸・信繁親子の帰還を待つ者と、徳川家に取り入り、忍びの集団として生き残りを図る者達であった。三郎は前者であった。
「解せぬなぁ~」
三九郎は、話しを聞きながら、ある事に気づいていた。三郎が真田の郷に残り、忍びを一時忘れて、土着した生活を送りながら、主の帰りを待つのであれば、江戸に居る理由がないのである。
「ある一人の裏切り者を、始末するために御座る」
その事を話し始めた三郎の顔は、江戸で日銭を稼ぐオヤジのそれでは無く、一個の腕利きの忍びのソレとなっていた。
「その者の名は?」
「上月佐助と申し、甲州流忍術の達人で御座います。誰よりも身軽な動きに、忍猿と渾名されております」
この上月佐助なる男は、関ヶ原合戦後、突如出奔した。忍びにとって、抜け忍は御法度である。そればかりか、里抜けの際に有ろうことか、それまでの仲間を十数人殺し、真田忍びにとって命とも言うべき、それまで調べ尽くした全国各地の大名家や、国々の情報を持ち逃げしたのだった。
「才蔵の両親も、佐助に殺されました」
才蔵の両親は、佐助と三郎と共に、忍術を学んだ仲であった。それをあろう事か、毒殺して逃げたのである。三郎は、才蔵の父親と乳兄弟の仲であった。
才蔵の顔が曇る。
「して、佐助は今何処に?」
「それが…」
歯切れ無く、話し始める三郎によると、佐助は現在、徳川家嫡男たる秀忠に仕える禰津信政に仕えている事が分かったのだった。
元々、甲州流忍術の元締めがこの禰津家であり、真田忍びの棟梁が出浦盛清であった。真田忍びの二大巨頭といった所であったが、関ヶ原後に出浦家は、真田の郷に引きこもり、表沙汰は、隠居したように見えた。対する禰津信政は、真田家から徳川家に鞍替えし、家康よりも次代の秀忠に接近しているという。
「私が狙っているのを知った佐助めは、偽情報を流し、伊豆守様を動かして、滝川様の手で、私を亡き者にしようとしたのです」
三郎の話しは、一見筋が通っているようであるが、手が込み過ぎているとも言える。三郎が邪魔であれば、何もそんな事をせずとも数名の手練れをもって、闇討ちなどかければよいのだ。
「何故わしは巻き込まれたのか?」
三九郎の言うように、そこに何等かの意図としての罠がありそうであった。
「それも恐ろしく、遠謀な罠かもしれませぬなぁ」
三郎の言う通りかもしれなかった。特に今夜、あのまま事態を知らずに、あの廃寺に三九郎が乗り込んでいれば殺されていたかもしれない。或いは、三九郎を殺して、三郎に罪を擦りつけたかったのかもしれない。
(何の為か?)
それは分からない。しかし、何かの陰謀に三九郎が巻き込まれるとしたら、その答えは一つかもしれなかった。
「つまりその企みの源は…」
その三九郎の呟きに、三郎は確信に近い思いで、一つ頷いていた。
ここは、完成が急がれる江戸城の一室である。
「例の件、進んでおるだろうのう?」
「総ては御意のままに」
「忘れるなよ。その為にこそ、そなた等を雇ったのだからな」
ロウソクの薄明かりに、不気味な顔が二つ浮かんで見えた。
「それにしても父上は、何故真田などにお力添えをするのか?」
「中納言様、お声が高う御座いまするぞ」
徳川中納言秀忠は、この時まだ二十代の若武者でしかない。そして、横に控える禰津信政は、権謀術数に長けた男だ。年若い秀忠を籠絡し、次代の徳川家を影から操る野心がある不遜な男である。
「大殿様も本心からでは御座いますまい」
禰津家は元々、武田家に仕えて、武勲を立てた家柄である。それが、主家が没落後に仕方なく真田家に仕えた。元々、主従というよりは、同盟者のような間柄であった。ただ真田昌幸は、もう一つの忍びの元締めである出浦家を重用し、禰津家を軽んじていた。
実際はともかく、信政はそう感じていた。その鬱屈が昌幸配流後に、真田を見限る行為に走らせていたのだった。
「本当に、これで真田を潰せるのだな」
秀忠は語気を強めた。この若殿の真田家に対する恨みは、最早執念と言うに近い。真田家を潰さねば、面子が立たないと本気で信じる。もしくは、信じ込まされていたのだった。
「はい。総てこの信政にお任せを」
信政は、部屋を辞す。縁側に立ち、両手を一回だけパンッと叩く。すると、すぐに一人の忍びが信政の前に現れた。
「お呼びで」
「佐助、首尾は?」
「少々、変更が必要のようで」
その眼光が異様に鋭い男は、それのみを言った。信政は、コクンと頷くと、何も言わずに廊下を進む。そして、先程までその場に居た筈の佐助は、次の瞬間には、もう何処かへ姿を消してしまっていたのだった。
慶長六年(1601)十一月二日、閏年に当るその年は、昨年の大戦とは対照的に、平和の内に年越しが迎えられるのではないかと思われていた。
しかし、そのような淡い期待は、この日を境に消え去り、特に江戸市民にとっての苦難の日として、記憶されるのである。その日は夜風が強く、また乾燥した冬場の寒気が、人々の身体を芯から冷えさせるのに十分であった。であるからして、駿河町の人通りも、いつもより早くに減ってきて、いつの間にかに無くなってしまっていた。
この駿河町にある日本橋より、江戸城が眼前に広がり、反対を向けば、運が良ければ富士山が拝めた。
但し、この時点では、まだ日本橋は架かっておらず、後三年を待たねばならない。一体、何が起ったかというと、江戸の冬に付きものと言えば、火事であった。とにかくも、最初の出火が江戸の繁華街であるここ駿河町であった事が、その後の事態をより、深刻化させる事になるのであった。
三九郎は、何かの気配で、夜中に目を覚ました。文字通り布団より飛び起きたといってよい。
「お前様、どうしましたので?」
寝ぼけながら声を掛けて来る恋女房と会話する暇もなく、三九郎は、裸足のままで、外に飛び出していた。
(空が赤い…)
三九郎が思うとほぼ同時で、方々から「火事だ!」という叫び声とも、悲鳴ともとれる声が聞こえていた。そして、出火を報せる鐘の音が、江戸中に鳴り響き始めたのだった。
「お菊、行くぞ!」
長屋に戻ると、お菊にそれだけを告げる。お菊も大きく頷くと、すぐに風呂敷を背に纏い、手荷物を三九郎に預ける。そして、そのまま寝姿の格好で、外に飛び出していた。
「皆火事じゃ!逃げよ」
三九郎が行きすがら、時折大声をあげる。逃げ惑う群衆に分け入りながら、進んでいく。その右手には、しっかりとお菊の左手が握られている。視界に入る先々で、火の手が上がっている。この分では、三九郎らの長屋も焼失を免れそうにない。しかし、今はとにかくも逃げ延びる他はなかった。
「ここで待っておれよ」
「はい、お前様お気をつけまし」
お菊を真田屋敷に預けると、三九郎は自ら、業火の江戸へと飛び込んで行く。三九郎は、掛け出しながら、考えていた。
(出来過ぎている)
真田家を取り巻く陰謀が三九郎らによって、露見するやに思えたタイミングでこの大火である。その裏にどんな陰謀が隠されているのか、いないのか。
(見極める必要がある)
その思いが、三九郎を一人、江戸中を走り回らせていたのだった。三九郎は、気が付くと本所の通りに出ていた。もうこの辺りに住む者達は、あらかたが逃げ出して人気が無い。
それでも煙と炎の中、一人その場に立ち止まると、壁をつたって上へと登り、商屋の瓦屋根に立った。そして、その細い眼を凝らし、遠くを見る。その眼光の先に捉えた物を見定めて、三九郎は、屋根より勢いよく飛び降りると、再び駆け出すのだった。
三九郎が江戸中を駆け回っていた頃、今は廃墟と為りつつある本所深川辺りにて、二人の男が炎を背に対峙していた。
「佐助、そなたの悪行も今日までじゃ」
「笑止な。老いぼれが殺されにきたか」
緊張の渦が、業火の形をして両者を飲み込もうと待ち構えているかのような状況で、二人の忍び同士の戦いは、静かに幕を開けていた。
刃物同士が擦れる鈍い金属音が微かに響いてくる。そして、粗い息遣いの男が二人。その不毛な戦いは、もうどれだけ続いているのか。一刻か、それとも一瞬でしかないのか。三郎は、思念する暇も与えられずに、ただ小太刀を奮い続ける。
そして、何十合目かの切り結びにおいて、その刹那は訪れようとしていた。
通常、忍びの者が刀を振り回して敵と対峙する場面などは、余りない事だ。忍びはその文字が示す通りに、隠密行動が原則である。姿を見せて、白刃を相手に晒す時点で、勝負は決しているのがほとんどであっただろう。三郎と佐助の争いは、そういう意味では、異端であったのかもしれない。しかし、そうでもして決着をつけるべく理由が両者の中ではあったのだ。
「何故じゃ佐助よ。何故裏切った。我らは兄弟も同然の筈」
「三郎兄よ、何も申すな。忍びの掟、死んでくれ」
そう言うと両者は、必殺の構えを見せた。そして、次の一瞬の出来事であった。三郎の刃が佐助の胸を貫いたと思われたその時、三郎は、鈍い感触をその手に味わっていた。
そして、その感触が、佐助が肌身に着込んだ楔帷子だと思い至る前に、今度は、三郎の心臓を佐助の刃が貫いていた。崩れ落ちながら、目の前の佐助にもたれかかる三郎の視界には、こちらに走り寄る三九郎の姿が、スローモーションで映っていた。
「三郎ーっ」
三九郎の叫び声と同時に、スローモーションの世界が、通常のスピードを取り戻していた。そのまま崩れ落ちる三郎を佐助は支える事も無く、無慈悲のも三郎の身体は、そのまま地面に倒れ込んでしまった。
「貴様が佐助か?」
佐助は、ゆっくりと三九郎に向き直る。その身体には、倒れた三郎の返り血がべったりと体中についていた。その返り血を浴びたままで、微笑する佐助の不気味な姿は、一種の夜叉のようにしか見えなかっただろう。
「えいっ!」
三九郎は、刀を抜き構えると同時に声を放つ。佐助の異様な気配に飲み込まれないようにするためであった。意図したわけではなく、自然にそうしていた。三九郎は、(フーッ)と一息吐くと、正眼の構えから、一気に佐助に向かって打ち込んだ。
何合目かを小太刀に受けながら、佐助は自らの不利を悟っていた。忍びは、侍とは違い勝負にはこだわらない。率直な自己分析により、敵と自分との力量を見定めねば、生き残る事は出来ない。佐助は、己のリアリズムによって、先程三郎との死闘を演じた直後に、三九郎の豪剣を受け続ける事は出来ないと判断していた。
佐助は、少しバックステップのような体勢で後ろに一歩下がると、素早く懐より取り出した棒手裏剣を左手に持ち、直打法によって、三九郎目がけてそれを放った。
しかし、利き手で無いのが災いしてか、放たれた手裏剣は、三九郎の刀によって力無く弾かれてしまった。しかし、その事が佐助の身体を三九郎より遠ざけるには、十分な時間を作っていたのだった。
「逃げるか!」
佐助は、今度は大きく横に跳ぶと、素早く体勢を入れ替えて、裏路地へと走り去ろうとする。しかし、今度は、三九郎も佐助も意図しない方向から、棒手裏剣が佐助目掛けて、飛んでいた。その手裏剣は、後ろを向いて走り去ろうとする佐助の左腕を掠めて、まだ燃え残っている民家の壁に無情にも刺さっていた。
「む?」
佐助は、腕に痛みを感じて、振り返る。そして、放たれた手裏剣の軌道の先には、投げたままのポーズで右手を伸ばして立っている才蔵の姿があった。佐助は、才蔵を一瞥しただけで、すぐに走り去ろうとする。
「待て!」
必死に三九郎が追いかけようとするが、所詮忍びの足には敵わない。まして相手は、忍猿と謳われる程の忍びなのだから。
「父上!」
倒れている三郎を抱き起す才蔵の声に、三九郎も追うのを止めて、自らも駆け寄る。
「三郎、しっかりせい」
しかし、三九郎の声にも才蔵の叫びにも、三郎が応える事は無かった。
「うわーっ」
父の身体に縋り、泣き崩れる才蔵の背を三九郎は、支えてやるしか出来ない自分が歯がゆくて仕方なかった。燃え盛る江戸の街の中、ただただ才蔵の哭き声だけが、いつまでも聞こえていた。
その翌日、江戸城に隣接する上屋敷の一室にて、熱心に兵法書を読む男が居た。禰津信政である。
「佐助か?」
信政の声に反応して、屋根裏より音もなく佐助が姿を現す。
「三郎めは、討ち果たしました」
その佐助の戦果の報告に、信政はピクリとも反応を示さない。その事に佐助は内心苛立ちを覚えるも、それを決して面には出さない。
「佐助よ、何故わしが街に火を放ったか分かるか?」
信政は、眼前にある兵法書から目線を外さない。そればかりか、佐助を一瞥しようともしない。
「さて?わしは、お役目を果たすだけにて」
そう答えるのが、佐助にしては精いっぱいの抵抗であっただろうか?
「まぁ良いわ。総ては、中納言様に取り入るための兵法よ」
信政は、不気味な笑みを浮かべる。それは、佐助から見てもそう呼ぶしかない物であっただろう。中納言秀忠は、この時、江戸を離れている父親の家康より、江戸普請を命じられていた。
江戸の街並みを整備し、これからの徳川家、如いては日本の中心地になる江戸を発展させる為の大切な役目である。秀忠は、その若さに溢れる如く、この役目を喜んで受けた。江戸の街を作り上げて、父家康の後継者である事を内外に示したかったのだろう。
しかし、そんな秀忠の思いとは裏腹に、江戸の街並みは、計画通りには行っていなかった。原因として考えられるのは、街並みよりもインフラ整備を優先せざるをえなかった為である。
天正十八年(1590)の江戸入府当時、江戸は、海より続く湿地帯と山とに囲まれた大地であった。家康は、湿地帯を平野に変えるべく、埋め立て工事を進め、同時に人々の生活用水の確保と、物流の整備に運河の工事を行っている。
それらは、街を発展させるには、必要不可欠な土台作りであっただろう。しかし、街並み作りが後回しになった事により、当初江戸の街は、住民がそれぞれ思い思いに建てて住む、入り組んだかやぶき屋根の家がまだ多く、当時としても華の街とは呼べない有様であった。
当初、秀忠も京の街並みのように大通りを整備しようと、邪魔になる家を立ち退かせる等の対策はしていたようであるが、遅々として進まない。その理由の一つは、秀忠側近の家臣と、家康が付けた家臣との対立であっただろうと思われる。
この時、秀忠付きの家臣の筆頭には、傅役の大久保忠隣がいた。そして、目付役として家康より派遣されていたのが、参謀である本多正信であった。この忠隣と正信だが、とにかく仲が悪い事で有名であった。その二人が事あるごとに対立して、政務が先に進まない状況であったのだ。そのような毎日に嫌気が差していた秀忠は、禰津信政の前でポツリと一言だけ、漏らしてしまう。
「いっその事、大火事が起きない物だろうか?」
と。これに信政は、こう答えた。
「茅葺屋根の家は、良く燃えまするからなぁ~」
二人がこの件を話したのは、たったこれだけであった。しかし、それで事は十分であったのだ。特に禰津信政にとっては。
信政の眼前に控える佐助は、自身で分からないと言いながらも、この時、完全に自分の主の意図を理解していた。この点、この男が唯の忍びでない証拠かもしれなかった。
「滝川三九郎の件ですが…」
そう言おうとした佐助を信政は、右手を広げて遮る。
「その件は、手を打っておるわ。そして、そなたにもまた、働いて貰わねばならぬぞ」
佐助が主に近寄ると、信政は耳打ちに話し始めた。
「今度は、ぬかるなよ」
信政は、佐助の右手に巻かれる包帯を見て呟く。佐助は、それを恥じらうように、左手で擦っている。そして、二人の密談は、尚も続いて行くのだった。
大火より数日が経ったある日の事、焼け残った真田屋敷にて、三九郎とお菊は無事に難を逃れていた。
「それでは、ほぼ江戸の街は壊滅ではないか?」
「はい。市中では、焼き出された人々で、溢れ返っております」
街の探索に出ていた才蔵は、三九郎に街の現状を報告する。
「五助殿は、もう商いを再開しておりました」
「無事であったか。だが店は、燃えたのであろう?」
三九郎によく仕事を斡旋してくれる店の主人である五助は、店が全焼してものの顧客台帳を抱えて逃げた為に、翌日には、仮店舗を急ごしらえで、商いを再開していたのだった。
「さすがは、江戸の商人(あきんど)。逞しいことよ」
三九郎は、話しを聞いて笑わずにはおられない。生活を始められる者もいれば、行き場を無くして、途方に暮れる者も多いはずである。三九郎は、憤りを感じぜずにはいられなかった。
「この度の大火は、失火が原因でしょうか?」
「いや、そうとも限らぬ…」
妻の問いに短く答えた三九郎の眼前には、どこも焼失する事なく、街を見下ろすように聳え立つ、江戸城が映し出されていた。
「それにしても、義兄上が居られんで良かった」
この時期、お菊の兄である伊豆守信之は、江戸に居ない。家康に付いて、京の伏見に行っている。まだまだ日本の中枢は、京・大坂を中心とした関西方面であり、江戸は田舎の地方都市にしか過ぎなかった。
それから、さらに数日後の事である。三九郎は、出かける為に着替えをしようとしていた。商いを再開させた五助の元に、向かおうとしていたのだ。ついでに街の様子も確かめておきかったのだ。三九郎らは、
この時、まだ真田屋敷の居候であった。一室を宛がわれ、そこに三九郎とお菊と、才蔵とで寝起きをしていた。三九郎は、身よりの無くなった才蔵を当然のように引き取り、お菊も当然のようにこれを受け入れていた。
「誰かに会われるのですか?」
お菊に言われて、自分が無意識に一張羅の着物に、袖を通していた事に気が付いた。
(何が起るのか?)
急に予感がしてくる。そうでもなければ、ただ街をぶらつくだけなのに、新調の着物を着る道理がないではないか。
「大丈夫じゃ。心配いたすな」
三九郎に大小を渡しながら、不安な顔をする愛妻の頬をそっと撫でた。三九郎は、渡された大小を腰に差す。自身でもこれから何が起こるのか、その内容までは分からないのだ。
大事なのか、小事なのか、変事なのかも分からない。分かっているのは、ただ日常とは違う何かが起こる事だ。それは、或いは戦人(いくさびと)だけが持ち得る野生の勘のようなものなのかもしれない。
三九郎が街を歩いている。見れば、大火で街の大半が焼けてしまっている。一面瓦礫と焼木の山である。しかし、江戸の街は復興に向けて、活気を帯び始めていた。所々で、大工が木を削る打つの音が響いて来る。これら町民の生きる姿を見るだけで、三九郎は愉快になってくる。
災害は悲しい事実だ。しかし、生き残った者は、こうも逞しい。人の営みの何と素晴らしい事だろうか。三九郎は、思いを馳せながら歩を進めた。暫く歩き続けると、先の角を曲がると、その筋道の先には、五助の店がある筈であった。そのまま歩を進め、五助の店が目の前まで来た所であった。半壊した店の前で、十名以上いる捕り方が、三九郎を待っていたのだ。
「滝川殿ですな?」
街を復興しようと、汗を流す町民の中で、似つかわしくない甲冑姿の武士が話しかけてくる。
「お上の御命令で、御同行頂きたい」
お上とはいったい誰か?と問いたい三九郎であったが、仕方なく男達に付いて行く事にした。
「た、滝の旦那…」
その三九郎の後姿を、表の騒動を聞きつけた五助が、心配そうに見つめているのだった。
「その方、先ごろの大火にて、江戸中に火をつけて廻り、かのような惨事に至らしめた件、ある筋より密告があった。この儀、相違無しや?」
三九郎は、奉行所の一室にて、詰問を受けていた。この時、まだ江戸幕府誕生以前であり、奉行所と言っても、時代劇に出てくるような町奉行所は存在していない。火付盗賊改方もまだこの時にはなかった。
「ここはどこか?」
「答えぬか。お主がやったのであろうが」
三九郎は、黙して何も答えない。ただじっと目を閉じて、正座の態勢を保っている。一応武士としての礼節を持って対応されているのか、三九郎は縄目の恥辱も拷問も受けてはいなかった。
「ここは、関東総奉行の青山様のお屋敷だ」
三九郎は、尋問する文官の言葉を得心するように、ただ一つ頷いていた。奉行所と言っても町奉行所が建設されて、本格的な組織として発足するのは、後年の事で、この時代は、その任に当たる者の屋敷の一室で行うのが常であった。
そして、青山忠俊と言えば、関東総奉行として、秀忠の側近の一人と目される若手有望株の男の名である。
(これは、想像以上に厄介な事になったな)
三九郎も心の内で、苦悩するよりなかったのであった。
尋問も数日続けば、色々な事が分かって来る。取り調べは、正午前と、夕刻の一日二回のようであった。今は夜半過ぎである。三九郎が留め置かれているのは、牢獄などではなく、和室の一室に、ほぼ軟禁状態であった。その出入り口を数名の男たちが見張っている。三九郎はじっと目を閉じている。すでに部屋の灯りは消され、というか点けられる事もなく、布団などもちろん無い。
ゴトンッという何か大きな物が倒れる音がして、障子がスーッと開いて閉まる音が微かにした。
「才蔵か?」
暗闇の中で、蠢く者に三九郎は驚きもなく、声をかける。
「三九郎様、御無事で」
「うむ。中々に優遇されておるよ」
三九郎の元気な姿に、才蔵は内心ホッとしていた。
「すぐに脱出のご用意を。見張りは眠らせております」
才蔵は、三九郎を促し急かすが、三九郎は右手を顔の前に広げてそれを制する。
「才蔵、よっくと聞け。わしはここより出らん。今ここで、逃げれば思う壺じゃ」
「しかし、奥方様が心配されております」
「これは、わしだけでは無い。真田家を潰す為の遠謀である。それをしかと心に秘めて、お菊にも義兄上にも、決して、動くなと言え」
「それでは、三九郎様が…」
三九郎は、才蔵の言葉を再び制する。
「わしの事を成すためにお前を待っていたのじゃ。この文を、あるお方に間違えなく届けて貰いたい。頼んだぞ」
三九郎は、そう言うと、懐から文を取り出し、才蔵の両手に握り込ませた。才蔵は、一瞬躊躇するが、主の真剣な表情に無言で頷き、その文を持って、来たときと同じように、誰にも悟られずに屋敷を後にするのだった。三九郎が捕まってから、丁度、三日目の晩の事であった。
才蔵の心配はすぐに形となって現れていた。お菊は、すでに馬上の人となっていた。帰ってきた才蔵からの報告を聞くと、止める間もなく、すぐに馬を引かせて、駆け出してしまったのだ。
「三九郎様が何と言われようと、私は行きます」
自重しろとの夫の言に背くが、お菊は意に介そうとはしない。行先は、兄信之が居る上田城である。後ろをやはり馬に乗り、お菊を追う才蔵は、いささか困惑せざるをえない。
危急存亡の秋ではあったが、このような状況下で、オロオロと泣いてばかりいる深窓の姫という才蔵の勝手なイメージと、お菊とでは随分と差があるようであった。
(これは、三九郎様も大変だろう)
苦笑しながら、お菊の後をピッタリと追走していく。三九郎でも、このお菊の突発行動を予期出来なかった事が、才蔵には可笑しかった。
しかし、今はそんな事を楽しんでいるゆとりは無い。こうなっては仕方なく、お菊を狙う刺客がある可能性も考慮にいれなければならず、身辺を警護しながら、上田に急がねばならなかった。
「三九郎様ーっ」
お菊の馬上からの叫びが、辺りに響いては、消えていくのだった。
お菊と才蔵は、無事に上田城へと入っていた。
「そは、まことか。して三九郎殿は?」
出迎えた信之に旅の垢を落す暇もなく、早口で事と次第を伝える。
「兄上様、どうか夫の危機を御救い下さりませ」
お菊からの話しを聞いていた信之は、目を閉じて腕を組み、暫く思案している様子であった。
「才蔵とやら、そなたにこれより頼みたい事がある。聞いてくれるか?」
信之が目を開き、口を開いた時、才蔵の心は、すでに決まっていたのだった。
上田城を即日出た才蔵は、一人闇夜をかけていた。お菊は上田城へ残してきた。お菊には不満を言われたが、基本隠密行動は、少人数であれば有るほど良い。訓練を受けている才蔵などの忍びであれば、阿吽の呼吸で二人でも、それが三人でも問題は無いであろうが、女人を連れてとなるとそうとは行かない。
とにかくも、今は若い主の為に、急がねばならないだろう。才蔵は、危険を承知で目立つ馬に乗って、駆け続けていたのだった。そのまま暫く、才蔵が駆けていた時であった。
(やはり追手か!)
後ろを振り返る事もなく、才蔵はそれに気づいた。
(ひい、ふう、みい)
心の中で、後ろから迫る気配を数える。
ここまでは、才蔵にとっては、範疇であっただろう。三九郎が自重しろと言っていた以上、お菊に監視の眼が行くのは、当然の事であった。その監視がある事を踏まえたうえで、才蔵は、その相手に自分が忍びである事を悟らせないように振舞っていた。
そして、追手たちが年若い小僧だと油断し、気配を察知できるまで、近づいてきた今こそが、才蔵が忍びとしての己の力量を示す機会となるだろう。
才蔵は、全速力で駆ける馬の上に素早く立ち上がると、そこから背の高い木の上に飛び移ってみせた。闇夜に紛れ、そのまま息を潜める。才蔵を乗せていた馬は、馬上の主不在のまま、走り去ってしまった。才蔵は、懐より短刀を取り出す。その刃が不気味に月夜の光を反射して、才蔵の顔を照らし出していた。
そして、数秒後に追手と思われる馬を駆る者たちが、才蔵の頭上を通過しようとしたその時であった。音もなく、才蔵は木の太い枝より飛び降りると、追手たちの駆る一頭の馬の後ろに飛び乗る事に成功する。
一人の口を塞ぎ、首を真一文字に斬った。鈍い音と共に、追手の一人は転げ落ちる。他の者が異変に気付いた時には、才蔵が持つ短刀の威力は、十分に発揮された後であった。
(ここで、すべてを始末する)
才蔵は、心の中で叫ぶ。だが決して、声を発しない。呼吸も出来るだけ、乱さない。忍び同士の音の無い、恐らく誰からも認められる事の無い、確かな戦いがそこにはあった。
才蔵が命がけの戦いに身を投じていた頃、当の三九郎は、暇を持て余していた。
「いや済まぬ。これは待ってもらえぬか?」
「滝川殿、もう待ったは無しですぞ」
この所、取り調べの時間はめっきりと無くなり、暇を持て余した三九郎は、軟禁中の一室の奥にしまわれていた将棋盤を見つけると、それをイジリ始めたのだった。
最初は、一人で暇つぶしをしていたのだが、「パチリ、パチリ」と駒を盤に置く音が外に漏れるために、将棋好きの見張り役がそれを聞きつけ、ついには、三九郎と勝負を始めてしまっていた。
勝負は、振り飛車を得意とする三九郎が、一勝目を付けると、二戦目では、見張りの男が対策として、棒銀戦法をとった事で、三九郎の飛車が生かされぬまま、惜敗してしまった。そして、これが一勝一敗で迎えた勝負の三回戦であった。
滝川三九郎という男は、甚だもって可笑しみのある男と言えるだろう。どこの武士が、敵だらけの所で、ましてや、その一人と将棋を指して、笑い合えるだろうか?尚可笑しいのは、この世紀の大勝負を見るために、この屋敷に居る者達が数名ではあるが、盤台を取り囲む観客まで発生している点であった。
「よし、ここで角為りじゃ」
三九郎の一手に周りから歓声があがる。その時であった。
「コラッ貴様ら何をやっておるのか!」
騒ぎを聞きつけた上役の一人が、怒鳴り込んできたのだった。途端に将棋倶楽部は解散に追い込まれてしまった。
文字通り蜘蛛の子を散らすように、その場にいた皆がワラワラと部屋を出て行く。慌てて出て行った一人が、足を盤にひっかけてしまい、痛そうに引きずりながら、部屋を後にした。三九郎は、その部屋に一人残され、仕方なく乱れた将棋の駒を拾っている。
「あーっ、せっかくの勝ち戦がフイじゃ」
三九郎は、恨めしそうに怒鳴り込んできた上役を詰る。
「滝川殿、少しは捕われの身である事を、わきまえて頂きたいものですな」
(別にこちらが頼んだ事ではない…)
「何か言われましたかな?」
「何でもない。余りに退屈じゃと申したのじゃ。取り調べも無いのでな。一体どうなっておるのじゃ?」
三九郎の問いには、男は答えない。男は、三九郎から将棋の駒を取り上げると、ゲキパキと片付けてしまった。
「我が主が、ここに参られます」
男は、だが別の答えを持ってきていた。我が主とは、この屋敷の主である青山忠俊その人の事であったからだ。これからこの部屋にやって来る男が、三九郎にとっての禍となるのか、それとも救い主となるのかは、まだ分かない。
上手く追手を退けた才蔵は、大和国のある城に忍び込んでいた。屋根裏を進み、ある一室の上に出る。そして、そっと屋根裏の板をずらして中を見る。すると、一人の男が寝ているのが確認出来た。才蔵は、音もなくその部屋に飛び降りると、寝ている男の顔をジッと見た。
「乱破、我が首を獲らぬのか?」
才蔵は、寝ていた筈の男が急に声を発したので、不覚にもドキリとした。息も少し乱れる。
「乱破、名は?」
「才蔵と申します」
「才蔵か。何用ぞ?」
「夜分に突然のご無礼をお許し下さりませ。織田有楽斎様。我敵に非ず。話しを聞いて下さりますよう」
この男、織田長益という。織田信長の弟である。出家し有楽斎と称す。関ヶ原の戦いで東軍に味方し、戦功を挙げて、今は大和国に三万二千石を領する大名であり、利休十哲の一人に数えられる当代の茶人でもあった。
「うむ」
有楽斎は、才蔵の言葉に反応し、身体を起こして座り直した。
「有楽斎様には、不躾とは承知でございまするが、危急にある我が主、滝川三九郎を御救い下さりまするよう」
才蔵は、懇願するように頭を下げる。その手には、三九郎より預かった書状があった。有楽斎は、その書状を受取り、一読すると才蔵に語りかけた。
「滝川三九郎?懐かしい名じゃ。あの腕白な小童めが、立派に手紙など寄こしよった」
「三九郎様をご存じでしたか?」
「奴の父親と祖父が、高野山に追放の際にの、屋敷に匿った事があった」
有楽斎は、事柄の一部だけで余り多くを語らない。しかし、その一部分を聞いただけでも、三九郎が何故、この茶道楽の御隠居を頼ったのかが、分かる気がしていた。
そして、手紙を読んで破顔する有楽斎に、才蔵は、今までの顛末を語るのだった。
「ふむ、滝川家と我が織田家とは、浅からぬ縁があるわ。無下にも出来ぬ。今書状を認めるゆえ、才蔵とやら、しばし待て」
有楽斎は、豪胆にも忍びである才蔵に背を向けたままで、筆を走らせていた。その姿を見つめながら、才蔵は、逸る気持ちを抑えるのに、必死に耐えているのだった。
物事というものは、中々、思い通りには運んでくれない物であるという事は、古今東西の共通の現象というものらしく、その事を今強く感じている三九郎は、江戸にて相変わらずの軟禁生活を余儀なくされていた。
三九郎の目前では、この屋敷の主である青山忠俊が先程から現れて、座しているのだが、腕組みをしたままじっと目を閉じ、一言も発しない。最早、一刻を過ぎただろうか。これには、元来我慢強い筈の三九郎が根を上げてしまいそうになり、時折胡坐を掻いたり、席を立ったり、独り言を言うたびに、忠俊は、一つ「コホンッ」と咳払いだけをするのだ。
「殿(青山)、そろそろ登城の刻限でございます」
側に控えるお付きの者がそっと耳打ちをする。周りの者達もこの状況に耐えかねていたのであろう。
「ふむ」
青山は、それだけを発し、目をカッと見開くと、その場に立ち上がった。
それで、ようやくこの状況から抜け出せるのだと、三九郎を含めて、その場に居る者達は、心の中で安堵していた。
「お主も困った男である」
立ち上がった青山が意外にも、今までの沈黙を破り、話し始めた。
「お主一人のために、お上が、お心を痛めておるのだ」
立ったまま話す青山に対して、座したままの三九郎は、この男が何を話し始めたのか、計れないままに戸惑っていた。
「お上とは誰か?」
当然の質問であっただろう。だが少し、意地悪な質問でもあっただろう。お上とは、元来帝つまりは、朝廷の事を指す。しかし、時の帝が滝川三九郎などという素浪人を知る由もない。ではお上とは誰か?それは、時の最高権力者を指す言葉だ。
この時の最高権力者と言えば、形の上では、太閤秀吉の遺児秀頼の事であっただろうが、徳川の臣である青山がそう意図する筈はなく、ここでいうお上とは、徳川家康、いやその嫡子である秀忠を指している事は明白であった。
この「お上」という一言だけで、徳川家が豊臣家に成り代わって、天下を治めようとしている事は、既成事実として成り立っているのであった。三九郎の指摘は、そこを正しく突いていた。
「そのような人を喰った態度であるから…」
三九郎の指摘に腹を立てた青山は、何事か言おうとするのだが、再び口を閉じる。その顔には、そんな挑発に乗るものかと記してあるように見える。両者の間で再び沈黙が続くかと思われたその時であった。
「放免じゃ」
「今何と?」
「此度の大火事、放火に非ず。失火であるとのお沙汰が下った」
青山は、それだけを言うと三九郎には一瞥も与えずに部屋を去って行った。事態が今一飲み込めないままに、お付きの者達や、見張りの者達もそ青山の後を追いかけるように出て行くのだった。その部屋には、再び三九郎一人だけが残されていた。
「フゥーッ」
一息吐くと同時に、三九郎は、その場にゴロンと寝転がる。身体の力が抜けていく。安堵の気持ちが心に広がると同時に、一つ確信に近い形で、ある事に思い至っていた。
「青山の野郎、わざとだな」
三九郎の言葉通りに、青山忠俊は、最初から三九郎を解き放つ為に、部屋へと入ってきたのだ。しかし、ただ放免するだけでは、面白くない。御家の沽券にも関わると信じ、わざともったいぶってみせていたのだろう。
無事に軟禁を解かれた三九郎を屋敷の門前で、才蔵とお菊が待っていてくれた。
「お前様、ご無事で」
お菊は、それだけを言うと、もう居ても立ってもおれずに、人前でも構わず、三九郎の胸の中へ飛び込んでいた。
「心配かけたが、この通りピンピンしておる」
お菊を照れながら、そっと抱きしめる三九郎と後ろに居た才蔵が目線を交わす。
「御無事でようございました」
「才蔵、ようやってくれた。恩人じゃな」
「滅相もない」
言葉少な目ではあったが、それだけで心が通じ合える事が、この二人には、最早、当たり前であった。三九郎は、ようやく自由の身となっていた。日常を謳歌しようと、昨晩も深酒を喰らって、眠り込んだ所であった。そして、夜が明けた。
その日は、程良い風が頬を撫でる、秋晴れの気持ちの良い朝であった。昨日の酒も抜けきらぬままに、三九郎は、江戸城の一室にて、一人座していた。窮屈な正装と、朝一から義兄の信之に、有無も言わさぬ体である所に連れてこられて、少々不機嫌な様子であった。そして、その大層立派な建物の一室である人物を待っていた。半刻と待った程であったろうか。
「滝川三九郎殿!」
呼ばれた先には、伊豆守信之がその長身を見せていた。
「分かっているだろうが、殊勝に殊勝に」
くどい程に繰り返す義兄に内心辟易していたが、仕方なく案内に任せて、江戸城を進む。奥の院の一室に通されると、信之と二人座してまた待つ。今度は程なくして、スーッと襖の開かれる音と共に、足音がして誰かが入室したのが分かる。二人は、それを察して平伏する。
その男は、上座にどっかりと座すと、抑制のとれた落ち着いた声で、二人に語りかけた。
「面(おもて)をあげよ」
三九郎が平伏した頭を上げると、そこには、恰幅の良い、えらく貫禄がついた老人がニコニコと人懐っこい表情をして座っていた。
「内府公じゃ」
小声で、信之がこの城の主である事を、三九郎に教えてくれていた。三九郎は内心で驚いていた。まさか、現在の最高権力者とうも言うべき人物に、思いがけず会う事になろうとは。
「お初に御意を得ます。滝川三九郎一積に御座いまする」
三九郎は、名乗り再び平伏する。堂々として礼儀に適った口上だと、横で座る信之は思っていた。
「ふむ、一益の孫だな。どことのう面影があるわ」
「内府様におかせられましては、此度の一件、我が義弟三九郎をご赦免の件、厚く御礼申し上げます」
信之は、大声で口上を述べると平伏して謝意を示す。それに続いて、三九郎も平伏する。
(俺が頼んだ事じゃない…)
三九郎は、内心苦々しい思いながら、信之の思いも理解しており、権力の強さに媚びなければならない、その独特な臭気に内心耐えているのだった。
「三九郎、此度は難儀であったな」
「はっ」
「時にそなたは今、伊豆守の下に居るのか?」
「長屋が焼けてしまいましたので、夫婦揃って居候仕り候」
「主を持たぬのか?」
「亡父より、我が家の上には、天道しか居りませぬ」
「そうか、主を持たぬか。それは、この家康であってもかな?」
「御意!」
間髪を入れずに答える三九郎に、横で聞いている信之は、内心冷や汗をかく心地であっただろう。
「はっはっはっ。よいよい」
信之の心配とは余所に、家康の機嫌は良かった。信之は内心安堵していた。
「滝川殿は、剣の名手であるとか?」
家康の側で控えていた、本多正純が声を掛ける。
「それは、まことか!どこか流派を極めておるのか?」
その質問が剣術好きな家康の御意を得ると、正純は知っての事であった。
「柳生の里にて、兵法を学び申した」
「そうか、そなたは、柳生の者であったか。我が家にも柳生の者が幾人かおるわ。のう上野介…」
「柳生の里は、関ヶ原合戦の働きにより安堵となっておる」
その正純の言葉に三九郎は、一つ頷いた。
家康との対面は続いていた。
「先の合戦には、そなたも居ったのか?」
「私は、上田に居り申した。義父安房守、義兄左衛門佐と共に、御家と戦い申した」
「そうであったか。あの時の戦にの。出来れば詳しく教えてくれ。あの戦に従軍していた者達は、恥と思うてか、わしには話したがらぬのだ。のう伊豆守?」
「はっ」
急にふられて、当事者の信之は、恐縮するしか他なかっただろう。その後、謁見は滞りなく進み、三九郎は今後、家康の既知を得る事に成功したと言えたのだった。
「そなた、本当に良かったのか?」
帰り際に信之が問うたのは、家康からの仕官の話しを断った事であった。それに三九郎は、ただ笑って何も答えずにいたが、内心では、家康に対して好意を抱いてもいたのだった。だが、
(滝川三九郎は、武士だ。武士とは、仕える者と仕える時期とを、自分で選ぶ者の事だ)
との自負により、縋るように徳川家に仕える事を、潔しとしなかったのだろう。
まだ暫くは、何でも屋稼業が続きそうだと三九郎は思っていたが、この読みは見事に外れる事になるのであった。
三九郎と信之が去った江戸城西の丸にて、中納言秀忠は、弓の稽古に熱心であった。弦を引いて的を狙い、矢を放つ。そして、見事に的の中心を射抜いていた。
秀忠は、不運な男である。初陣であった筈の関ヶ原合戦に遅参し、その一戦が元で、後世にも戦下手とのイメージが固定されてしまった。そして、そうさせてしまったのは、真田家であると本人は信じ込んでいた。
「お前様」
不意に声をかけられた先には、妻のお江の方が立っていた。
「何じゃ?」
妻より差し出された手ぬぐいで顔を拭き、横に座る。お付きの者達は、察するように、その場を後にして、夫婦二人だけとなっていた。
「先の大火、下手人を捕まえたとか?」
「何故それを知っておる?」
妻の問いに、秀忠の顔を拭く手が止まる。
「専らの噂にございます。ただその者が無実であるとの噂も御座いますことをご存じで?」
「誰から聞いたか?」
「これをご覧くださいますよう」
夫の問いに答えずに、婦人は懐からある書状を出して渡す。
「これはっ?」
秀忠がその書状を読むと、そこには、織田有楽斎の名で、無実の男が捕まり罪に落とされようとしている事が記されていた。
「叔父上は、義父上様(家康)にも同様の文を届けると、申しておられたとか」
秀忠は、何も言わずにその書状を下に投げ捨てる。そして、また弓を手に取り、修練を再開させようとしていた。
「お前が案ずる事ではない。すでにその者の詮議は済み、あの火事が失火であった事が分かっておる。誰にも罪は無い。肝要なのは、これからの街作りをどうするかじゃ」
「さすが名采配と思いまする。ではこれにて」
要件が済むとお江の方は、その場を去った。秀忠は、一人黙々と的に向かって矢を放つ。しかし、放った矢は的を大きく逸れて、奥の壁に突き刺さってしまっていた。秀忠は、明らかに苛立っていた。
「又右衛門!」
秀忠が大声をあげると、一人の大男が横に控える。
「お呼びで?」
「又右衛門、ゆゆしき仕儀じゃ。何か手立てせよ。そなたを何故、わしの兵法指南役としたのか、そこをよく慮ってのう」
「御意…」
「そなたの前任者の何と言うたかの?ほれ、この間罷免となった…まあよいわ」
言いかけて、秀忠はその場を去った。秀忠が言いたかった者が、失脚した禰津信政である事は明白であった。力量を示さねば、自分も同じ事になると言う事を含ませたのに違いなかった。
(必ずのし上がる。負けて堪るものか…)
その男、柳生又右衛門宗矩は、力強く思っていた。すると、いつの間にか、一人の小男が宗矩の前に座している。
「忍び、何と申したか?」
「上月佐助にございます。旦那様」
宗矩は、この佐助という風体の上がらない小男の忍びを信用などしてはいなかった。しかし、失脚した信政の後目として、裏稼業を任されたからには、それまでの経緯が分かる現場の者が必要であった。
「わしに気配なく、近づける程のお前の才を見せる事が肝要ぞ」
「へい、わしら忍びは、やれと言われた事をやるもので。して何を?」
「滝川三九郎の身辺を調べよ。真田家を潰すには、まずは奴を調略するのが肝要ぞ」
「ならば、一つ、先程得た情報がありますが」
「何じゃ?」
宗矩は、すぐに飛びつくように佐助の前に近づいた。
「彼奴は、柳生新陰流の使い手にて候」
「何と奴が?そうか、これはよい事を聞いた。佐助、策は決した。そなたにも動いてもらうぞ」
宗矩は、躍動する自分の気持ちを抑えられないでいた。宗矩は、秀忠が置いて行った弓矢を手に取ると、素早い動作で、的の中心を射抜いて見せた。恐るべき業と言えた。
(待っておるがよい。すぐに、この的と同じになろうぞ)
宗矩は、ニヤリと笑う。その様子に、前任の信政よりも鋭い次の主の姿を佐助も不気味そうに見つめていた。
三九郎に再び策謀の手が、迫ろうとしていたのだった。
ここは、江戸の街にある長屋の一室である。そこに若い浪人夫婦が住みついたのは、関ヶ原合戦が終わり、江戸の主たる徳川家康が戻って間もない頃であった。
「お前様、朝にございますよ」
新妻の朝は早い。いや、どこの家庭でもそれが当たり前の光景であっただろうが、御姫様として生まれ育ったお菊には、特に新鮮な毎日であっただろう。
「ムニャムナ…」
「ええい、滝川三九郎出陣せよ!」
「はいーっ」
突如出陣の下知が下り、三九郎の夜は終わりを告げた。
三九郎が跳び起き、まだ半分眠りかけた眼で、部屋を見ると、お菊が三つ指をついて起きるのを待っていた。
「お早うございます。朝餉の御仕度が整いました」
「うん?」
何事もなかったように、お菊は恭しく振舞う。三九郎は、まだまだ夢心地の様子だった。
天正十八年(1590)八月一日、北条氏が没落した後、徳川家康は、豊臣秀吉に命ぜられて、関東に国替えとなった。
所謂、江戸御打ち入りである。これより、江戸時代を通じて、八月一日は幕府の大切な祝日となった。
関ヶ原合戦に勝利を治めた家康は、秀吉死後の国内における実質上の最高権力者となった。そして、その家康が現在進めているのが、自身の根拠地である江戸の街並み発展である。
江戸入府よりすでに十年が経過していたが、この時期の江戸は、現在の日本の首都と言うのにはほど遠い一地方都市でしかなく、大都市とするには、まだまだ今後の課題が多かった。想像でしかないが、秀吉存命中は、積極的に動けなかったのだろう。大坂を超える街を作れば、たちまち秀吉に警戒される事になる。
「ようやく、街づくりが出来るわい」
これが、家康の本音であったのかもしれない。
江戸は、その名が示す通りに海岸沿いに発生した都市であり、当時の物流が海運と陸運であった事を考えると、関東の要所である江戸に本拠地を選んだ家康の(或いは秀吉)慧眼は、歴史が証明する事実である。
だが、家康入府よりの十年は、まずライフラインを整える作業に追われており、街並みと呼べるような物が出現するまでには至っていない。人が住めるように湾の埋め立てを行い、井戸を掘っても海水が出るので、川の治水工事を行い、街道の整備をして物流が行きやすいようにしなければならなかった。
そして、家康自身はと言えば、秀吉存命中は何かと大坂に居らねばならず、政務に忙殺されて、腰を据えて、根拠地を開発するゆとりはなかったように思われる。
そして、滝川三九郎が愛妻のお菊を伴って、江戸の街に住みついたのは、そんな過渡期の時であったのだ。
「おっ今日は朝から魚付きか」
この日の滝川家の食卓は、麦飯に味噌汁、お漬物と焼き魚であった。現代の我々と比べると質素だが、朝から魚が付くのは、浪人暮らしの三九郎にとっては、贅沢な方であった。
「お魚は頂きものですよ」
嬉しそうにお菊は話す。江戸の長屋と言えば、当時のアパートのような物だが、お風呂やトイレは共同の物だったし、部屋も壁一枚を隔てただけの簡素な作りだった。
城育ちのお菊には、当初はさぞ苦労したと思われるが、お菊はその分け隔てない大らかな性格が江戸の気風に合っていたのか、現在は、ここの暮らしを楽しんでいる様子であった。
「お菊、では行って来るぞよ」
遅めの朝食を終えた三九郎は、長屋を後にする。三九郎の日常は忙しい。これから、今日の飯のタネを探しに行かねばならない。この時代に貯蓄をして、老後の蓄えになどと考える庶民は少ない。
所謂、「宵越しの銭は持たない」という、その日を暮せる分をその日に稼ぐという江戸庶民の共通認識のようなものがあって、それが江戸後期の粋(いき)という文化へと昇華されていくのである。
三九郎が向かった先は、「口入屋(くちいれや)」と書いた看板が掛かった街の角にある店である。別称で手配師ともいうが、この時代の派遣業者のようなものだろう。三九郎は、江戸に住みついてから、ここに出入りして、その日の日銭を稼ぐのが主な収入になりつつあったのだ。
「御免よ」
「おう、滝の旦那」
「今日は何かあるかい?」
「旦那、ちょいと来るのが遅かったねぇ。もうお天道様が上に来ちまってら~」
店の主人である五助と話しをしながら、この日の仕事を探っていく。江戸に来て間もないころに、たまたま通りかかった店先で、食い詰め浪人に強請られていたのを助けたのが縁となり、それから何かと気遣っては、三九郎に合った仕事を斡旋してくれているのだ。
「今日は、もうロクな物が残ってねえなぁ~」
五助は、パラパラと記載されている仕事請負の台帳をめくっている。
「おや、これなんてどうだろう。滝の旦那にうってつけじゃないかい?」
「よし、やろう!」
「呆れた。まだ何にも言ってないよ」
「五助が言うのだ。文句はあるまい」
「後で言われても知りませんよ」
五助は、そう言って笑った。三九郎も笑う。五助は、このいささか風変わりで胆の座った浪人に、早速仕事内容の説明を始めるのだった。
その日の晩、三九郎はすっかり暮れてしまった家路を急いでいた。
「帰ったぞ」
「お帰りなさいまし」
夕餉の支度を整えて待っていたお菊が、三つ指をついて出迎えてくれるいつもの光景だ。
「今日は、遅かったですね」
「うむ、荷駄運びの手伝いと、ついでに用心棒の仕事も昼から入ってな」
三九郎は、今日あった事をお菊に話し始める。
お菊は、三九郎が話す一日の報告を楽しそうに聞いている。時にはお酌をしながら、時には相槌を打ちながら、コロコロと良くお菊が笑ってくれるので、三九郎も得意になってつい実際に起きた出来事を、大風呂敷を広げながら話してしまう。笑い声が絶えない滝川家の食卓風景が毎日繰り返されている。
二人が夕餉を終えて、三九郎が手酌で残りの酒を楽しもうとしていた時であった。
「御免!」
ガタガタと揺れる建ちつけの悪い引き戸に苦戦する音が外より聞こえる。仕方なく、お菊が戸を開けるコツでスルリと開ける。
「兄上!」
戸を開けるとそこには、現在の真田家当主にして、上田城城主たる真田伊豆守信之の姿があった。
「父上と義兄上様は、ご息災ですか?」
関ヶ原合戦の後に、真田昌幸と信繁親子は、戦犯として裁かれ、領地没収の上で、紀伊国九度山に配流となっていた。当初は、親子ともども死罪を申し渡される予定であったが、信之の働きかけにより、免ぜられた経緯があった。
「うむ、今のところは大人しゅうしておるよ」
信之は笑って、出された茶を口に入れた。この男も大名として、御殿様と言われる御身分の武士であったが、江戸に来た際には、お供も付けずに、フラリと三九郎らの長屋に立ち寄ったりするのだ。
それは、家康の養女を正室にしている言わば、徳川の身内扱いの身分であっても、徳川に弓引いた大罪人である真田安房守昌幸の嫡男であるという、微妙な立場を忘れるために、一つの息抜きとして、妹夫婦の顔を見に来ている側面があったのだろう。
「お菊、長屋暮らしに不自由はないか?」
信之は、実際に会える数少ない身内となった妹を労わる。
あの戦の後に、三九郎に上田に来いと再三言ったのだが、三九郎は遂に「はい」とは言わず、半ば出奔するかのように江戸に来ていた。三九郎からしてみれば、昌幸に従い徳川と戦って、しかもその娘を嫁とした男を家臣とすれば、信之の身の破滅にも繋がりかねないと、配慮しての事であった。
その三九郎の気持ちを信之も重々理解している。分かるからこそ、こうやって二人の住まいに立ち寄っては、お土産を置いて行ったりするのだった。
「義兄上、江戸の水も慣れてしまえば、美味しく感ずる」
上方育ちの三九郎からすれば、江戸の風情は田舎臭く、雅などとは程遠かっただろう。
しかし、新居を敵であった徳川の根拠地に敢えて構えた所に、滝川三九郎という男の可笑しみがあっただろう。
「江戸の街は、これから発展する。それを見ているだけでも、面白いものよ」
三九郎はそう言って、笑っているのだが、それよりも当面の貧乏暮らしを脱却する方法をどうするのかを考えなければならなかった。
「用心棒?」
それが、三九郎が現在行っている仕事内容であった。
「まぁ、何でも万屋(よろずや)請負稼業と言った所ですか…」
言われれば何でもやると、一言で言ってしまえばそれだけであったが、商屋の警備から、荷駄運搬、人探し、揉め事仲裁、はたまた家の突貫修理までと、その内容は多岐に渡る。
三九郎の話しを聞きながら、信之は妙に感心してみたり、頷いたりしていた。そして、少し思案顔の後で、相談事と言って、話しを切り出し始めていた。
「この男について探ってもらいたい」
信之が懐より取り出したのは、ある男の似顔絵であった。その顔には、額に大きな傷が描かれている。
「何者ですか?」
信之が語る所によれば、その男は、滋野三郎と言う男で、元々は真田の草の者として行動していた。それが、戦後にお役御免となり、どことなりと出奔していたのが、どうやらこの江戸に流れついたらしかった。
「何人か、郊外の廃寺に集めて、密議をこらしておる」
早い話がそれを三九郎に探れと言うのである。
「徳川様に願い出ては?」
お菊などはそう言ってみるが、話しはそう簡単な事ではなかった。この滋野三郎なる者は、腕利きとして知られた男である。そして、真田の草の者であった事実は、調べれば分かる事だ。それが、暗に人を集めて何やら企んでいるのだ。
「ひょっとすると、安房守か左衛門佐が企みか?」
などど、徳川氏家では思われるかもしれない。いや、真田家に対して、特に遺恨がある徳川秀忠あたりはそう考えて、或いは、こじつけてくる可能性が大いにある。
「ことは、秘密裏に行わねばならぬ」
しかも誰にも気取られずに、腕利きの元忍びを倒せる信頼できる男、つまりは滝川三九郎という事になるのであった。
「頼み参らせる」
「承知した」
三九郎が義兄の頼みを聞き入れたのは、そのような背景が裏に有る事を感じ取ったからであった。
「さてさて、万屋稼業と参りますかな」
三九郎は、立ち上がるとパチンと手のひらを打った。試合開始の合図が鳴ったのである。
翌夜には、件の廃寺を見張る三九郎の姿があった。
「冷え込んできたなぁ~」
時期は木枯らしが吹く季節、日が陰れば、夜風が身に染みる。見張りを始めて、もう一刻半にはなろうか、ちょうどそんな時分であった。
「もし…もし…」
どこかで、三九郎を呼ぶ声がする。辺りを警戒するが、声のする方向が分からない。
「何者か?」
三九郎は、とっさに鯉口を切り、いつでも対応出来るように、腰を低く体勢を取る。
「これより出ますれば、お待ち下さりますよう」
その声の主が殺気を含んでいなかったので、三九郎は、身体を起こすが、いつでも抜刀出来るように、右手で柄を握ったままにしていた。
「滝川三九郎様と、お見受け致しまする」
暗闇の中から、一人の男をスーッと現れて、三九郎の前に片膝をついてこちらを見ている。その顔には、額に大きな傷跡があった。
「滋野三郎か?」
「ご明察で」
「どうして俺が分かった?」
「上田合戦の際、私も左衛門佐様の陣に居りました」
三九郎は、ようやく鞘から手を放した。
「どうして目の前に現れたのか?」
率直な疑問であった。忍びが付けられていると知って、またそれが見知った者で、主の縁に連なる三九郎と分かれば、普通は逃げ出すか、それとも襲ってくるかのどちらかである。それが三郎は、たった一人で腕利きである三九郎の前の姿を現したのである。
「私は敵ではございませぬ。まずは話しを聞いて下さいますよう」
三郎は、懐に忍ばせていた短刀を三九郎の目の前に置くことで、敵意が無い事を示そうとした。
忍びが相手では、そんなものが安全を保障することにならない事を三九郎は承知している。しかし、まずは三郎の話しを聞いてみるべきであった。
三九郎と三郎は、場所を移して、岸より小船に乗り込み、船頭をつけずに三郎が船を漕いでいる。それだけ、周りに気を使っての事だが、このままどこに連れて行かれるのか少し不安ではある。
「あの寺には、何がある?」
「何もありはしませぬ」
三九郎の問いに三郎は素っ気なく答える。それが一層、三九郎を警戒させた。
「御心配なさらずに。これから向かうは我が家でして」
三九郎の心の内を読んでか、三郎は笑顔を向ける。しかし、何ともそれが言いようのない不気味さを漂わせているのだった。
「着きまして御座います」
暗がりで三九郎には、ここが本所のどこかという所までしか分からない。
「あっしは、普段ここらで日銭を稼いでおりやす」
それが忍びの特徴であろうが、自宅近くになると、三郎は、口調が先程の受け答えから、もうすでに江戸者のそれとなっていた。
「おっ父う、お帰りよ」
「おう、帰(けえ)ったよ。こちらお客さんだ。何か見繕っておくれよ」
その長屋に着くと、一人の少年が出迎えてくれた。名を才蔵という。三郎の息子だが、実の子ではない。両親と死別したので、三郎が我が子として育てていたのだった。
「その子も腕を持つのか?」
「へい、あらかた仕込んでおりやす」
出された酒と肴を食しながら、会話を続ける。
「話しを聞こうか」
三九郎が問うと、三郎はすかさず目で才蔵に合図を送る。才蔵は、障子と小屋と両壁とに耳を当てて気配を凝らす。当時の長屋の壁は薄い。誰が聞いているとも限らない。会話にも慎重が必要であった。
「滝川様、あれは罠で御座いますよ」
「やはりそうか。どんな罠だ?」
「滝川様と、私とを釣るために御座います」
三郎の話しによれば、関ヶ原合戦後に真田忍びは、分裂していた。当時の様々な大名家で見られた現象ではあるが、西軍に加担したものは、軒並み領地没収や、減封などの処分を受けた。
そして、政治の中枢が大坂から江戸へ転換されようとしていた混乱期である。この時代は、全国各地で様々なトラブルが起こっていた時であった。それが、真田家内部でも起きていたのだ。
つまりは、それまでの真田家の当主であった真田安房守昌幸が配流となり、その後を伊豆守信之が継いだ。信之は、徳川家からの疑念を逸らすために、父や弟のように忍びに頼らない国造りを目指しており、大量の元忍びが生まれたのだった。
「それが、今回の件とどう繋がる?」
「まぁまぁ、話はここからでして…」
先を促す三九郎を三郎は、右手のひらを見せて制す。
現在、真田忍びは大きく二派に別れて、牽制している状態であった。片方は、真田の郷に残り、あくまで真田昌幸・信繁親子の帰還を待つ者と、徳川家に取り入り、忍びの集団として生き残りを図る者達であった。三郎は前者であった。
「解せぬなぁ~」
三九郎は、話しを聞きながら、ある事に気づいていた。三郎が真田の郷に残り、忍びを一時忘れて、土着した生活を送りながら、主の帰りを待つのであれば、江戸に居る理由がないのである。
「ある一人の裏切り者を、始末するために御座る」
その事を話し始めた三郎の顔は、江戸で日銭を稼ぐオヤジのそれでは無く、一個の腕利きの忍びのソレとなっていた。
「その者の名は?」
「上月佐助と申し、甲州流忍術の達人で御座います。誰よりも身軽な動きに、忍猿と渾名されております」
この上月佐助なる男は、関ヶ原合戦後、突如出奔した。忍びにとって、抜け忍は御法度である。そればかりか、里抜けの際に有ろうことか、それまでの仲間を十数人殺し、真田忍びにとって命とも言うべき、それまで調べ尽くした全国各地の大名家や、国々の情報を持ち逃げしたのだった。
「才蔵の両親も、佐助に殺されました」
才蔵の両親は、佐助と三郎と共に、忍術を学んだ仲であった。それをあろう事か、毒殺して逃げたのである。三郎は、才蔵の父親と乳兄弟の仲であった。
才蔵の顔が曇る。
「して、佐助は今何処に?」
「それが…」
歯切れ無く、話し始める三郎によると、佐助は現在、徳川家嫡男たる秀忠に仕える禰津信政に仕えている事が分かったのだった。
元々、甲州流忍術の元締めがこの禰津家であり、真田忍びの棟梁が出浦盛清であった。真田忍びの二大巨頭といった所であったが、関ヶ原後に出浦家は、真田の郷に引きこもり、表沙汰は、隠居したように見えた。対する禰津信政は、真田家から徳川家に鞍替えし、家康よりも次代の秀忠に接近しているという。
「私が狙っているのを知った佐助めは、偽情報を流し、伊豆守様を動かして、滝川様の手で、私を亡き者にしようとしたのです」
三郎の話しは、一見筋が通っているようであるが、手が込み過ぎているとも言える。三郎が邪魔であれば、何もそんな事をせずとも数名の手練れをもって、闇討ちなどかければよいのだ。
「何故わしは巻き込まれたのか?」
三九郎の言うように、そこに何等かの意図としての罠がありそうであった。
「それも恐ろしく、遠謀な罠かもしれませぬなぁ」
三郎の言う通りかもしれなかった。特に今夜、あのまま事態を知らずに、あの廃寺に三九郎が乗り込んでいれば殺されていたかもしれない。或いは、三九郎を殺して、三郎に罪を擦りつけたかったのかもしれない。
(何の為か?)
それは分からない。しかし、何かの陰謀に三九郎が巻き込まれるとしたら、その答えは一つかもしれなかった。
「つまりその企みの源は…」
その三九郎の呟きに、三郎は確信に近い思いで、一つ頷いていた。
ここは、完成が急がれる江戸城の一室である。
「例の件、進んでおるだろうのう?」
「総ては御意のままに」
「忘れるなよ。その為にこそ、そなた等を雇ったのだからな」
ロウソクの薄明かりに、不気味な顔が二つ浮かんで見えた。
「それにしても父上は、何故真田などにお力添えをするのか?」
「中納言様、お声が高う御座いまするぞ」
徳川中納言秀忠は、この時まだ二十代の若武者でしかない。そして、横に控える禰津信政は、権謀術数に長けた男だ。年若い秀忠を籠絡し、次代の徳川家を影から操る野心がある不遜な男である。
「大殿様も本心からでは御座いますまい」
禰津家は元々、武田家に仕えて、武勲を立てた家柄である。それが、主家が没落後に仕方なく真田家に仕えた。元々、主従というよりは、同盟者のような間柄であった。ただ真田昌幸は、もう一つの忍びの元締めである出浦家を重用し、禰津家を軽んじていた。
実際はともかく、信政はそう感じていた。その鬱屈が昌幸配流後に、真田を見限る行為に走らせていたのだった。
「本当に、これで真田を潰せるのだな」
秀忠は語気を強めた。この若殿の真田家に対する恨みは、最早執念と言うに近い。真田家を潰さねば、面子が立たないと本気で信じる。もしくは、信じ込まされていたのだった。
「はい。総てこの信政にお任せを」
信政は、部屋を辞す。縁側に立ち、両手を一回だけパンッと叩く。すると、すぐに一人の忍びが信政の前に現れた。
「お呼びで」
「佐助、首尾は?」
「少々、変更が必要のようで」
その眼光が異様に鋭い男は、それのみを言った。信政は、コクンと頷くと、何も言わずに廊下を進む。そして、先程までその場に居た筈の佐助は、次の瞬間には、もう何処かへ姿を消してしまっていたのだった。
慶長六年(1601)十一月二日、閏年に当るその年は、昨年の大戦とは対照的に、平和の内に年越しが迎えられるのではないかと思われていた。
しかし、そのような淡い期待は、この日を境に消え去り、特に江戸市民にとっての苦難の日として、記憶されるのである。その日は夜風が強く、また乾燥した冬場の寒気が、人々の身体を芯から冷えさせるのに十分であった。であるからして、駿河町の人通りも、いつもより早くに減ってきて、いつの間にかに無くなってしまっていた。
この駿河町にある日本橋より、江戸城が眼前に広がり、反対を向けば、運が良ければ富士山が拝めた。
但し、この時点では、まだ日本橋は架かっておらず、後三年を待たねばならない。一体、何が起ったかというと、江戸の冬に付きものと言えば、火事であった。とにかくも、最初の出火が江戸の繁華街であるここ駿河町であった事が、その後の事態をより、深刻化させる事になるのであった。
三九郎は、何かの気配で、夜中に目を覚ました。文字通り布団より飛び起きたといってよい。
「お前様、どうしましたので?」
寝ぼけながら声を掛けて来る恋女房と会話する暇もなく、三九郎は、裸足のままで、外に飛び出していた。
(空が赤い…)
三九郎が思うとほぼ同時で、方々から「火事だ!」という叫び声とも、悲鳴ともとれる声が聞こえていた。そして、出火を報せる鐘の音が、江戸中に鳴り響き始めたのだった。
「お菊、行くぞ!」
長屋に戻ると、お菊にそれだけを告げる。お菊も大きく頷くと、すぐに風呂敷を背に纏い、手荷物を三九郎に預ける。そして、そのまま寝姿の格好で、外に飛び出していた。
「皆火事じゃ!逃げよ」
三九郎が行きすがら、時折大声をあげる。逃げ惑う群衆に分け入りながら、進んでいく。その右手には、しっかりとお菊の左手が握られている。視界に入る先々で、火の手が上がっている。この分では、三九郎らの長屋も焼失を免れそうにない。しかし、今はとにかくも逃げ延びる他はなかった。
「ここで待っておれよ」
「はい、お前様お気をつけまし」
お菊を真田屋敷に預けると、三九郎は自ら、業火の江戸へと飛び込んで行く。三九郎は、掛け出しながら、考えていた。
(出来過ぎている)
真田家を取り巻く陰謀が三九郎らによって、露見するやに思えたタイミングでこの大火である。その裏にどんな陰謀が隠されているのか、いないのか。
(見極める必要がある)
その思いが、三九郎を一人、江戸中を走り回らせていたのだった。三九郎は、気が付くと本所の通りに出ていた。もうこの辺りに住む者達は、あらかたが逃げ出して人気が無い。
それでも煙と炎の中、一人その場に立ち止まると、壁をつたって上へと登り、商屋の瓦屋根に立った。そして、その細い眼を凝らし、遠くを見る。その眼光の先に捉えた物を見定めて、三九郎は、屋根より勢いよく飛び降りると、再び駆け出すのだった。
三九郎が江戸中を駆け回っていた頃、今は廃墟と為りつつある本所深川辺りにて、二人の男が炎を背に対峙していた。
「佐助、そなたの悪行も今日までじゃ」
「笑止な。老いぼれが殺されにきたか」
緊張の渦が、業火の形をして両者を飲み込もうと待ち構えているかのような状況で、二人の忍び同士の戦いは、静かに幕を開けていた。
刃物同士が擦れる鈍い金属音が微かに響いてくる。そして、粗い息遣いの男が二人。その不毛な戦いは、もうどれだけ続いているのか。一刻か、それとも一瞬でしかないのか。三郎は、思念する暇も与えられずに、ただ小太刀を奮い続ける。
そして、何十合目かの切り結びにおいて、その刹那は訪れようとしていた。
通常、忍びの者が刀を振り回して敵と対峙する場面などは、余りない事だ。忍びはその文字が示す通りに、隠密行動が原則である。姿を見せて、白刃を相手に晒す時点で、勝負は決しているのがほとんどであっただろう。三郎と佐助の争いは、そういう意味では、異端であったのかもしれない。しかし、そうでもして決着をつけるべく理由が両者の中ではあったのだ。
「何故じゃ佐助よ。何故裏切った。我らは兄弟も同然の筈」
「三郎兄よ、何も申すな。忍びの掟、死んでくれ」
そう言うと両者は、必殺の構えを見せた。そして、次の一瞬の出来事であった。三郎の刃が佐助の胸を貫いたと思われたその時、三郎は、鈍い感触をその手に味わっていた。
そして、その感触が、佐助が肌身に着込んだ楔帷子だと思い至る前に、今度は、三郎の心臓を佐助の刃が貫いていた。崩れ落ちながら、目の前の佐助にもたれかかる三郎の視界には、こちらに走り寄る三九郎の姿が、スローモーションで映っていた。
「三郎ーっ」
三九郎の叫び声と同時に、スローモーションの世界が、通常のスピードを取り戻していた。そのまま崩れ落ちる三郎を佐助は支える事も無く、無慈悲のも三郎の身体は、そのまま地面に倒れ込んでしまった。
「貴様が佐助か?」
佐助は、ゆっくりと三九郎に向き直る。その身体には、倒れた三郎の返り血がべったりと体中についていた。その返り血を浴びたままで、微笑する佐助の不気味な姿は、一種の夜叉のようにしか見えなかっただろう。
「えいっ!」
三九郎は、刀を抜き構えると同時に声を放つ。佐助の異様な気配に飲み込まれないようにするためであった。意図したわけではなく、自然にそうしていた。三九郎は、(フーッ)と一息吐くと、正眼の構えから、一気に佐助に向かって打ち込んだ。
何合目かを小太刀に受けながら、佐助は自らの不利を悟っていた。忍びは、侍とは違い勝負にはこだわらない。率直な自己分析により、敵と自分との力量を見定めねば、生き残る事は出来ない。佐助は、己のリアリズムによって、先程三郎との死闘を演じた直後に、三九郎の豪剣を受け続ける事は出来ないと判断していた。
佐助は、少しバックステップのような体勢で後ろに一歩下がると、素早く懐より取り出した棒手裏剣を左手に持ち、直打法によって、三九郎目がけてそれを放った。
しかし、利き手で無いのが災いしてか、放たれた手裏剣は、三九郎の刀によって力無く弾かれてしまった。しかし、その事が佐助の身体を三九郎より遠ざけるには、十分な時間を作っていたのだった。
「逃げるか!」
佐助は、今度は大きく横に跳ぶと、素早く体勢を入れ替えて、裏路地へと走り去ろうとする。しかし、今度は、三九郎も佐助も意図しない方向から、棒手裏剣が佐助目掛けて、飛んでいた。その手裏剣は、後ろを向いて走り去ろうとする佐助の左腕を掠めて、まだ燃え残っている民家の壁に無情にも刺さっていた。
「む?」
佐助は、腕に痛みを感じて、振り返る。そして、放たれた手裏剣の軌道の先には、投げたままのポーズで右手を伸ばして立っている才蔵の姿があった。佐助は、才蔵を一瞥しただけで、すぐに走り去ろうとする。
「待て!」
必死に三九郎が追いかけようとするが、所詮忍びの足には敵わない。まして相手は、忍猿と謳われる程の忍びなのだから。
「父上!」
倒れている三郎を抱き起す才蔵の声に、三九郎も追うのを止めて、自らも駆け寄る。
「三郎、しっかりせい」
しかし、三九郎の声にも才蔵の叫びにも、三郎が応える事は無かった。
「うわーっ」
父の身体に縋り、泣き崩れる才蔵の背を三九郎は、支えてやるしか出来ない自分が歯がゆくて仕方なかった。燃え盛る江戸の街の中、ただただ才蔵の哭き声だけが、いつまでも聞こえていた。
その翌日、江戸城に隣接する上屋敷の一室にて、熱心に兵法書を読む男が居た。禰津信政である。
「佐助か?」
信政の声に反応して、屋根裏より音もなく佐助が姿を現す。
「三郎めは、討ち果たしました」
その佐助の戦果の報告に、信政はピクリとも反応を示さない。その事に佐助は内心苛立ちを覚えるも、それを決して面には出さない。
「佐助よ、何故わしが街に火を放ったか分かるか?」
信政は、眼前にある兵法書から目線を外さない。そればかりか、佐助を一瞥しようともしない。
「さて?わしは、お役目を果たすだけにて」
そう答えるのが、佐助にしては精いっぱいの抵抗であっただろうか?
「まぁ良いわ。総ては、中納言様に取り入るための兵法よ」
信政は、不気味な笑みを浮かべる。それは、佐助から見てもそう呼ぶしかない物であっただろう。中納言秀忠は、この時、江戸を離れている父親の家康より、江戸普請を命じられていた。
江戸の街並みを整備し、これからの徳川家、如いては日本の中心地になる江戸を発展させる為の大切な役目である。秀忠は、その若さに溢れる如く、この役目を喜んで受けた。江戸の街を作り上げて、父家康の後継者である事を内外に示したかったのだろう。
しかし、そんな秀忠の思いとは裏腹に、江戸の街並みは、計画通りには行っていなかった。原因として考えられるのは、街並みよりもインフラ整備を優先せざるをえなかった為である。
天正十八年(1590)の江戸入府当時、江戸は、海より続く湿地帯と山とに囲まれた大地であった。家康は、湿地帯を平野に変えるべく、埋め立て工事を進め、同時に人々の生活用水の確保と、物流の整備に運河の工事を行っている。
それらは、街を発展させるには、必要不可欠な土台作りであっただろう。しかし、街並み作りが後回しになった事により、当初江戸の街は、住民がそれぞれ思い思いに建てて住む、入り組んだかやぶき屋根の家がまだ多く、当時としても華の街とは呼べない有様であった。
当初、秀忠も京の街並みのように大通りを整備しようと、邪魔になる家を立ち退かせる等の対策はしていたようであるが、遅々として進まない。その理由の一つは、秀忠側近の家臣と、家康が付けた家臣との対立であっただろうと思われる。
この時、秀忠付きの家臣の筆頭には、傅役の大久保忠隣がいた。そして、目付役として家康より派遣されていたのが、参謀である本多正信であった。この忠隣と正信だが、とにかく仲が悪い事で有名であった。その二人が事あるごとに対立して、政務が先に進まない状況であったのだ。そのような毎日に嫌気が差していた秀忠は、禰津信政の前でポツリと一言だけ、漏らしてしまう。
「いっその事、大火事が起きない物だろうか?」
と。これに信政は、こう答えた。
「茅葺屋根の家は、良く燃えまするからなぁ~」
二人がこの件を話したのは、たったこれだけであった。しかし、それで事は十分であったのだ。特に禰津信政にとっては。
信政の眼前に控える佐助は、自身で分からないと言いながらも、この時、完全に自分の主の意図を理解していた。この点、この男が唯の忍びでない証拠かもしれなかった。
「滝川三九郎の件ですが…」
そう言おうとした佐助を信政は、右手を広げて遮る。
「その件は、手を打っておるわ。そして、そなたにもまた、働いて貰わねばならぬぞ」
佐助が主に近寄ると、信政は耳打ちに話し始めた。
「今度は、ぬかるなよ」
信政は、佐助の右手に巻かれる包帯を見て呟く。佐助は、それを恥じらうように、左手で擦っている。そして、二人の密談は、尚も続いて行くのだった。
大火より数日が経ったある日の事、焼け残った真田屋敷にて、三九郎とお菊は無事に難を逃れていた。
「それでは、ほぼ江戸の街は壊滅ではないか?」
「はい。市中では、焼き出された人々で、溢れ返っております」
街の探索に出ていた才蔵は、三九郎に街の現状を報告する。
「五助殿は、もう商いを再開しておりました」
「無事であったか。だが店は、燃えたのであろう?」
三九郎によく仕事を斡旋してくれる店の主人である五助は、店が全焼してものの顧客台帳を抱えて逃げた為に、翌日には、仮店舗を急ごしらえで、商いを再開していたのだった。
「さすがは、江戸の商人(あきんど)。逞しいことよ」
三九郎は、話しを聞いて笑わずにはおられない。生活を始められる者もいれば、行き場を無くして、途方に暮れる者も多いはずである。三九郎は、憤りを感じぜずにはいられなかった。
「この度の大火は、失火が原因でしょうか?」
「いや、そうとも限らぬ…」
妻の問いに短く答えた三九郎の眼前には、どこも焼失する事なく、街を見下ろすように聳え立つ、江戸城が映し出されていた。
「それにしても、義兄上が居られんで良かった」
この時期、お菊の兄である伊豆守信之は、江戸に居ない。家康に付いて、京の伏見に行っている。まだまだ日本の中枢は、京・大坂を中心とした関西方面であり、江戸は田舎の地方都市にしか過ぎなかった。
それから、さらに数日後の事である。三九郎は、出かける為に着替えをしようとしていた。商いを再開させた五助の元に、向かおうとしていたのだ。ついでに街の様子も確かめておきかったのだ。三九郎らは、
この時、まだ真田屋敷の居候であった。一室を宛がわれ、そこに三九郎とお菊と、才蔵とで寝起きをしていた。三九郎は、身よりの無くなった才蔵を当然のように引き取り、お菊も当然のようにこれを受け入れていた。
「誰かに会われるのですか?」
お菊に言われて、自分が無意識に一張羅の着物に、袖を通していた事に気が付いた。
(何が起るのか?)
急に予感がしてくる。そうでもなければ、ただ街をぶらつくだけなのに、新調の着物を着る道理がないではないか。
「大丈夫じゃ。心配いたすな」
三九郎に大小を渡しながら、不安な顔をする愛妻の頬をそっと撫でた。三九郎は、渡された大小を腰に差す。自身でもこれから何が起こるのか、その内容までは分からないのだ。
大事なのか、小事なのか、変事なのかも分からない。分かっているのは、ただ日常とは違う何かが起こる事だ。それは、或いは戦人(いくさびと)だけが持ち得る野生の勘のようなものなのかもしれない。
三九郎が街を歩いている。見れば、大火で街の大半が焼けてしまっている。一面瓦礫と焼木の山である。しかし、江戸の街は復興に向けて、活気を帯び始めていた。所々で、大工が木を削る打つの音が響いて来る。これら町民の生きる姿を見るだけで、三九郎は愉快になってくる。
災害は悲しい事実だ。しかし、生き残った者は、こうも逞しい。人の営みの何と素晴らしい事だろうか。三九郎は、思いを馳せながら歩を進めた。暫く歩き続けると、先の角を曲がると、その筋道の先には、五助の店がある筈であった。そのまま歩を進め、五助の店が目の前まで来た所であった。半壊した店の前で、十名以上いる捕り方が、三九郎を待っていたのだ。
「滝川殿ですな?」
街を復興しようと、汗を流す町民の中で、似つかわしくない甲冑姿の武士が話しかけてくる。
「お上の御命令で、御同行頂きたい」
お上とはいったい誰か?と問いたい三九郎であったが、仕方なく男達に付いて行く事にした。
「た、滝の旦那…」
その三九郎の後姿を、表の騒動を聞きつけた五助が、心配そうに見つめているのだった。
「その方、先ごろの大火にて、江戸中に火をつけて廻り、かのような惨事に至らしめた件、ある筋より密告があった。この儀、相違無しや?」
三九郎は、奉行所の一室にて、詰問を受けていた。この時、まだ江戸幕府誕生以前であり、奉行所と言っても、時代劇に出てくるような町奉行所は存在していない。火付盗賊改方もまだこの時にはなかった。
「ここはどこか?」
「答えぬか。お主がやったのであろうが」
三九郎は、黙して何も答えない。ただじっと目を閉じて、正座の態勢を保っている。一応武士としての礼節を持って対応されているのか、三九郎は縄目の恥辱も拷問も受けてはいなかった。
「ここは、関東総奉行の青山様のお屋敷だ」
三九郎は、尋問する文官の言葉を得心するように、ただ一つ頷いていた。奉行所と言っても町奉行所が建設されて、本格的な組織として発足するのは、後年の事で、この時代は、その任に当たる者の屋敷の一室で行うのが常であった。
そして、青山忠俊と言えば、関東総奉行として、秀忠の側近の一人と目される若手有望株の男の名である。
(これは、想像以上に厄介な事になったな)
三九郎も心の内で、苦悩するよりなかったのであった。
尋問も数日続けば、色々な事が分かって来る。取り調べは、正午前と、夕刻の一日二回のようであった。今は夜半過ぎである。三九郎が留め置かれているのは、牢獄などではなく、和室の一室に、ほぼ軟禁状態であった。その出入り口を数名の男たちが見張っている。三九郎はじっと目を閉じている。すでに部屋の灯りは消され、というか点けられる事もなく、布団などもちろん無い。
ゴトンッという何か大きな物が倒れる音がして、障子がスーッと開いて閉まる音が微かにした。
「才蔵か?」
暗闇の中で、蠢く者に三九郎は驚きもなく、声をかける。
「三九郎様、御無事で」
「うむ。中々に優遇されておるよ」
三九郎の元気な姿に、才蔵は内心ホッとしていた。
「すぐに脱出のご用意を。見張りは眠らせております」
才蔵は、三九郎を促し急かすが、三九郎は右手を顔の前に広げてそれを制する。
「才蔵、よっくと聞け。わしはここより出らん。今ここで、逃げれば思う壺じゃ」
「しかし、奥方様が心配されております」
「これは、わしだけでは無い。真田家を潰す為の遠謀である。それをしかと心に秘めて、お菊にも義兄上にも、決して、動くなと言え」
「それでは、三九郎様が…」
三九郎は、才蔵の言葉を再び制する。
「わしの事を成すためにお前を待っていたのじゃ。この文を、あるお方に間違えなく届けて貰いたい。頼んだぞ」
三九郎は、そう言うと、懐から文を取り出し、才蔵の両手に握り込ませた。才蔵は、一瞬躊躇するが、主の真剣な表情に無言で頷き、その文を持って、来たときと同じように、誰にも悟られずに屋敷を後にするのだった。三九郎が捕まってから、丁度、三日目の晩の事であった。
才蔵の心配はすぐに形となって現れていた。お菊は、すでに馬上の人となっていた。帰ってきた才蔵からの報告を聞くと、止める間もなく、すぐに馬を引かせて、駆け出してしまったのだ。
「三九郎様が何と言われようと、私は行きます」
自重しろとの夫の言に背くが、お菊は意に介そうとはしない。行先は、兄信之が居る上田城である。後ろをやはり馬に乗り、お菊を追う才蔵は、いささか困惑せざるをえない。
危急存亡の秋ではあったが、このような状況下で、オロオロと泣いてばかりいる深窓の姫という才蔵の勝手なイメージと、お菊とでは随分と差があるようであった。
(これは、三九郎様も大変だろう)
苦笑しながら、お菊の後をピッタリと追走していく。三九郎でも、このお菊の突発行動を予期出来なかった事が、才蔵には可笑しかった。
しかし、今はそんな事を楽しんでいるゆとりは無い。こうなっては仕方なく、お菊を狙う刺客がある可能性も考慮にいれなければならず、身辺を警護しながら、上田に急がねばならなかった。
「三九郎様ーっ」
お菊の馬上からの叫びが、辺りに響いては、消えていくのだった。
お菊と才蔵は、無事に上田城へと入っていた。
「そは、まことか。して三九郎殿は?」
出迎えた信之に旅の垢を落す暇もなく、早口で事と次第を伝える。
「兄上様、どうか夫の危機を御救い下さりませ」
お菊からの話しを聞いていた信之は、目を閉じて腕を組み、暫く思案している様子であった。
「才蔵とやら、そなたにこれより頼みたい事がある。聞いてくれるか?」
信之が目を開き、口を開いた時、才蔵の心は、すでに決まっていたのだった。
上田城を即日出た才蔵は、一人闇夜をかけていた。お菊は上田城へ残してきた。お菊には不満を言われたが、基本隠密行動は、少人数であれば有るほど良い。訓練を受けている才蔵などの忍びであれば、阿吽の呼吸で二人でも、それが三人でも問題は無いであろうが、女人を連れてとなるとそうとは行かない。
とにかくも、今は若い主の為に、急がねばならないだろう。才蔵は、危険を承知で目立つ馬に乗って、駆け続けていたのだった。そのまま暫く、才蔵が駆けていた時であった。
(やはり追手か!)
後ろを振り返る事もなく、才蔵はそれに気づいた。
(ひい、ふう、みい)
心の中で、後ろから迫る気配を数える。
ここまでは、才蔵にとっては、範疇であっただろう。三九郎が自重しろと言っていた以上、お菊に監視の眼が行くのは、当然の事であった。その監視がある事を踏まえたうえで、才蔵は、その相手に自分が忍びである事を悟らせないように振舞っていた。
そして、追手たちが年若い小僧だと油断し、気配を察知できるまで、近づいてきた今こそが、才蔵が忍びとしての己の力量を示す機会となるだろう。
才蔵は、全速力で駆ける馬の上に素早く立ち上がると、そこから背の高い木の上に飛び移ってみせた。闇夜に紛れ、そのまま息を潜める。才蔵を乗せていた馬は、馬上の主不在のまま、走り去ってしまった。才蔵は、懐より短刀を取り出す。その刃が不気味に月夜の光を反射して、才蔵の顔を照らし出していた。
そして、数秒後に追手と思われる馬を駆る者たちが、才蔵の頭上を通過しようとしたその時であった。音もなく、才蔵は木の太い枝より飛び降りると、追手たちの駆る一頭の馬の後ろに飛び乗る事に成功する。
一人の口を塞ぎ、首を真一文字に斬った。鈍い音と共に、追手の一人は転げ落ちる。他の者が異変に気付いた時には、才蔵が持つ短刀の威力は、十分に発揮された後であった。
(ここで、すべてを始末する)
才蔵は、心の中で叫ぶ。だが決して、声を発しない。呼吸も出来るだけ、乱さない。忍び同士の音の無い、恐らく誰からも認められる事の無い、確かな戦いがそこにはあった。
才蔵が命がけの戦いに身を投じていた頃、当の三九郎は、暇を持て余していた。
「いや済まぬ。これは待ってもらえぬか?」
「滝川殿、もう待ったは無しですぞ」
この所、取り調べの時間はめっきりと無くなり、暇を持て余した三九郎は、軟禁中の一室の奥にしまわれていた将棋盤を見つけると、それをイジリ始めたのだった。
最初は、一人で暇つぶしをしていたのだが、「パチリ、パチリ」と駒を盤に置く音が外に漏れるために、将棋好きの見張り役がそれを聞きつけ、ついには、三九郎と勝負を始めてしまっていた。
勝負は、振り飛車を得意とする三九郎が、一勝目を付けると、二戦目では、見張りの男が対策として、棒銀戦法をとった事で、三九郎の飛車が生かされぬまま、惜敗してしまった。そして、これが一勝一敗で迎えた勝負の三回戦であった。
滝川三九郎という男は、甚だもって可笑しみのある男と言えるだろう。どこの武士が、敵だらけの所で、ましてや、その一人と将棋を指して、笑い合えるだろうか?尚可笑しいのは、この世紀の大勝負を見るために、この屋敷に居る者達が数名ではあるが、盤台を取り囲む観客まで発生している点であった。
「よし、ここで角為りじゃ」
三九郎の一手に周りから歓声があがる。その時であった。
「コラッ貴様ら何をやっておるのか!」
騒ぎを聞きつけた上役の一人が、怒鳴り込んできたのだった。途端に将棋倶楽部は解散に追い込まれてしまった。
文字通り蜘蛛の子を散らすように、その場にいた皆がワラワラと部屋を出て行く。慌てて出て行った一人が、足を盤にひっかけてしまい、痛そうに引きずりながら、部屋を後にした。三九郎は、その部屋に一人残され、仕方なく乱れた将棋の駒を拾っている。
「あーっ、せっかくの勝ち戦がフイじゃ」
三九郎は、恨めしそうに怒鳴り込んできた上役を詰る。
「滝川殿、少しは捕われの身である事を、わきまえて頂きたいものですな」
(別にこちらが頼んだ事ではない…)
「何か言われましたかな?」
「何でもない。余りに退屈じゃと申したのじゃ。取り調べも無いのでな。一体どうなっておるのじゃ?」
三九郎の問いには、男は答えない。男は、三九郎から将棋の駒を取り上げると、ゲキパキと片付けてしまった。
「我が主が、ここに参られます」
男は、だが別の答えを持ってきていた。我が主とは、この屋敷の主である青山忠俊その人の事であったからだ。これからこの部屋にやって来る男が、三九郎にとっての禍となるのか、それとも救い主となるのかは、まだ分かない。
上手く追手を退けた才蔵は、大和国のある城に忍び込んでいた。屋根裏を進み、ある一室の上に出る。そして、そっと屋根裏の板をずらして中を見る。すると、一人の男が寝ているのが確認出来た。才蔵は、音もなくその部屋に飛び降りると、寝ている男の顔をジッと見た。
「乱破、我が首を獲らぬのか?」
才蔵は、寝ていた筈の男が急に声を発したので、不覚にもドキリとした。息も少し乱れる。
「乱破、名は?」
「才蔵と申します」
「才蔵か。何用ぞ?」
「夜分に突然のご無礼をお許し下さりませ。織田有楽斎様。我敵に非ず。話しを聞いて下さりますよう」
この男、織田長益という。織田信長の弟である。出家し有楽斎と称す。関ヶ原の戦いで東軍に味方し、戦功を挙げて、今は大和国に三万二千石を領する大名であり、利休十哲の一人に数えられる当代の茶人でもあった。
「うむ」
有楽斎は、才蔵の言葉に反応し、身体を起こして座り直した。
「有楽斎様には、不躾とは承知でございまするが、危急にある我が主、滝川三九郎を御救い下さりまするよう」
才蔵は、懇願するように頭を下げる。その手には、三九郎より預かった書状があった。有楽斎は、その書状を受取り、一読すると才蔵に語りかけた。
「滝川三九郎?懐かしい名じゃ。あの腕白な小童めが、立派に手紙など寄こしよった」
「三九郎様をご存じでしたか?」
「奴の父親と祖父が、高野山に追放の際にの、屋敷に匿った事があった」
有楽斎は、事柄の一部だけで余り多くを語らない。しかし、その一部分を聞いただけでも、三九郎が何故、この茶道楽の御隠居を頼ったのかが、分かる気がしていた。
そして、手紙を読んで破顔する有楽斎に、才蔵は、今までの顛末を語るのだった。
「ふむ、滝川家と我が織田家とは、浅からぬ縁があるわ。無下にも出来ぬ。今書状を認めるゆえ、才蔵とやら、しばし待て」
有楽斎は、豪胆にも忍びである才蔵に背を向けたままで、筆を走らせていた。その姿を見つめながら、才蔵は、逸る気持ちを抑えるのに、必死に耐えているのだった。
物事というものは、中々、思い通りには運んでくれない物であるという事は、古今東西の共通の現象というものらしく、その事を今強く感じている三九郎は、江戸にて相変わらずの軟禁生活を余儀なくされていた。
三九郎の目前では、この屋敷の主である青山忠俊が先程から現れて、座しているのだが、腕組みをしたままじっと目を閉じ、一言も発しない。最早、一刻を過ぎただろうか。これには、元来我慢強い筈の三九郎が根を上げてしまいそうになり、時折胡坐を掻いたり、席を立ったり、独り言を言うたびに、忠俊は、一つ「コホンッ」と咳払いだけをするのだ。
「殿(青山)、そろそろ登城の刻限でございます」
側に控えるお付きの者がそっと耳打ちをする。周りの者達もこの状況に耐えかねていたのであろう。
「ふむ」
青山は、それだけを発し、目をカッと見開くと、その場に立ち上がった。
それで、ようやくこの状況から抜け出せるのだと、三九郎を含めて、その場に居る者達は、心の中で安堵していた。
「お主も困った男である」
立ち上がった青山が意外にも、今までの沈黙を破り、話し始めた。
「お主一人のために、お上が、お心を痛めておるのだ」
立ったまま話す青山に対して、座したままの三九郎は、この男が何を話し始めたのか、計れないままに戸惑っていた。
「お上とは誰か?」
当然の質問であっただろう。だが少し、意地悪な質問でもあっただろう。お上とは、元来帝つまりは、朝廷の事を指す。しかし、時の帝が滝川三九郎などという素浪人を知る由もない。ではお上とは誰か?それは、時の最高権力者を指す言葉だ。
この時の最高権力者と言えば、形の上では、太閤秀吉の遺児秀頼の事であっただろうが、徳川の臣である青山がそう意図する筈はなく、ここでいうお上とは、徳川家康、いやその嫡子である秀忠を指している事は明白であった。
この「お上」という一言だけで、徳川家が豊臣家に成り代わって、天下を治めようとしている事は、既成事実として成り立っているのであった。三九郎の指摘は、そこを正しく突いていた。
「そのような人を喰った態度であるから…」
三九郎の指摘に腹を立てた青山は、何事か言おうとするのだが、再び口を閉じる。その顔には、そんな挑発に乗るものかと記してあるように見える。両者の間で再び沈黙が続くかと思われたその時であった。
「放免じゃ」
「今何と?」
「此度の大火事、放火に非ず。失火であるとのお沙汰が下った」
青山は、それだけを言うと三九郎には一瞥も与えずに部屋を去って行った。事態が今一飲み込めないままに、お付きの者達や、見張りの者達もそ青山の後を追いかけるように出て行くのだった。その部屋には、再び三九郎一人だけが残されていた。
「フゥーッ」
一息吐くと同時に、三九郎は、その場にゴロンと寝転がる。身体の力が抜けていく。安堵の気持ちが心に広がると同時に、一つ確信に近い形で、ある事に思い至っていた。
「青山の野郎、わざとだな」
三九郎の言葉通りに、青山忠俊は、最初から三九郎を解き放つ為に、部屋へと入ってきたのだ。しかし、ただ放免するだけでは、面白くない。御家の沽券にも関わると信じ、わざともったいぶってみせていたのだろう。
無事に軟禁を解かれた三九郎を屋敷の門前で、才蔵とお菊が待っていてくれた。
「お前様、ご無事で」
お菊は、それだけを言うと、もう居ても立ってもおれずに、人前でも構わず、三九郎の胸の中へ飛び込んでいた。
「心配かけたが、この通りピンピンしておる」
お菊を照れながら、そっと抱きしめる三九郎と後ろに居た才蔵が目線を交わす。
「御無事でようございました」
「才蔵、ようやってくれた。恩人じゃな」
「滅相もない」
言葉少な目ではあったが、それだけで心が通じ合える事が、この二人には、最早、当たり前であった。三九郎は、ようやく自由の身となっていた。日常を謳歌しようと、昨晩も深酒を喰らって、眠り込んだ所であった。そして、夜が明けた。
その日は、程良い風が頬を撫でる、秋晴れの気持ちの良い朝であった。昨日の酒も抜けきらぬままに、三九郎は、江戸城の一室にて、一人座していた。窮屈な正装と、朝一から義兄の信之に、有無も言わさぬ体である所に連れてこられて、少々不機嫌な様子であった。そして、その大層立派な建物の一室である人物を待っていた。半刻と待った程であったろうか。
「滝川三九郎殿!」
呼ばれた先には、伊豆守信之がその長身を見せていた。
「分かっているだろうが、殊勝に殊勝に」
くどい程に繰り返す義兄に内心辟易していたが、仕方なく案内に任せて、江戸城を進む。奥の院の一室に通されると、信之と二人座してまた待つ。今度は程なくして、スーッと襖の開かれる音と共に、足音がして誰かが入室したのが分かる。二人は、それを察して平伏する。
その男は、上座にどっかりと座すと、抑制のとれた落ち着いた声で、二人に語りかけた。
「面(おもて)をあげよ」
三九郎が平伏した頭を上げると、そこには、恰幅の良い、えらく貫禄がついた老人がニコニコと人懐っこい表情をして座っていた。
「内府公じゃ」
小声で、信之がこの城の主である事を、三九郎に教えてくれていた。三九郎は内心で驚いていた。まさか、現在の最高権力者とうも言うべき人物に、思いがけず会う事になろうとは。
「お初に御意を得ます。滝川三九郎一積に御座いまする」
三九郎は、名乗り再び平伏する。堂々として礼儀に適った口上だと、横で座る信之は思っていた。
「ふむ、一益の孫だな。どことのう面影があるわ」
「内府様におかせられましては、此度の一件、我が義弟三九郎をご赦免の件、厚く御礼申し上げます」
信之は、大声で口上を述べると平伏して謝意を示す。それに続いて、三九郎も平伏する。
(俺が頼んだ事じゃない…)
三九郎は、内心苦々しい思いながら、信之の思いも理解しており、権力の強さに媚びなければならない、その独特な臭気に内心耐えているのだった。
「三九郎、此度は難儀であったな」
「はっ」
「時にそなたは今、伊豆守の下に居るのか?」
「長屋が焼けてしまいましたので、夫婦揃って居候仕り候」
「主を持たぬのか?」
「亡父より、我が家の上には、天道しか居りませぬ」
「そうか、主を持たぬか。それは、この家康であってもかな?」
「御意!」
間髪を入れずに答える三九郎に、横で聞いている信之は、内心冷や汗をかく心地であっただろう。
「はっはっはっ。よいよい」
信之の心配とは余所に、家康の機嫌は良かった。信之は内心安堵していた。
「滝川殿は、剣の名手であるとか?」
家康の側で控えていた、本多正純が声を掛ける。
「それは、まことか!どこか流派を極めておるのか?」
その質問が剣術好きな家康の御意を得ると、正純は知っての事であった。
「柳生の里にて、兵法を学び申した」
「そうか、そなたは、柳生の者であったか。我が家にも柳生の者が幾人かおるわ。のう上野介…」
「柳生の里は、関ヶ原合戦の働きにより安堵となっておる」
その正純の言葉に三九郎は、一つ頷いた。
家康との対面は続いていた。
「先の合戦には、そなたも居ったのか?」
「私は、上田に居り申した。義父安房守、義兄左衛門佐と共に、御家と戦い申した」
「そうであったか。あの時の戦にの。出来れば詳しく教えてくれ。あの戦に従軍していた者達は、恥と思うてか、わしには話したがらぬのだ。のう伊豆守?」
「はっ」
急にふられて、当事者の信之は、恐縮するしか他なかっただろう。その後、謁見は滞りなく進み、三九郎は今後、家康の既知を得る事に成功したと言えたのだった。
「そなた、本当に良かったのか?」
帰り際に信之が問うたのは、家康からの仕官の話しを断った事であった。それに三九郎は、ただ笑って何も答えずにいたが、内心では、家康に対して好意を抱いてもいたのだった。だが、
(滝川三九郎は、武士だ。武士とは、仕える者と仕える時期とを、自分で選ぶ者の事だ)
との自負により、縋るように徳川家に仕える事を、潔しとしなかったのだろう。
まだ暫くは、何でも屋稼業が続きそうだと三九郎は思っていたが、この読みは見事に外れる事になるのであった。
三九郎と信之が去った江戸城西の丸にて、中納言秀忠は、弓の稽古に熱心であった。弦を引いて的を狙い、矢を放つ。そして、見事に的の中心を射抜いていた。
秀忠は、不運な男である。初陣であった筈の関ヶ原合戦に遅参し、その一戦が元で、後世にも戦下手とのイメージが固定されてしまった。そして、そうさせてしまったのは、真田家であると本人は信じ込んでいた。
「お前様」
不意に声をかけられた先には、妻のお江の方が立っていた。
「何じゃ?」
妻より差し出された手ぬぐいで顔を拭き、横に座る。お付きの者達は、察するように、その場を後にして、夫婦二人だけとなっていた。
「先の大火、下手人を捕まえたとか?」
「何故それを知っておる?」
妻の問いに、秀忠の顔を拭く手が止まる。
「専らの噂にございます。ただその者が無実であるとの噂も御座いますことをご存じで?」
「誰から聞いたか?」
「これをご覧くださいますよう」
夫の問いに答えずに、婦人は懐からある書状を出して渡す。
「これはっ?」
秀忠がその書状を読むと、そこには、織田有楽斎の名で、無実の男が捕まり罪に落とされようとしている事が記されていた。
「叔父上は、義父上様(家康)にも同様の文を届けると、申しておられたとか」
秀忠は、何も言わずにその書状を下に投げ捨てる。そして、また弓を手に取り、修練を再開させようとしていた。
「お前が案ずる事ではない。すでにその者の詮議は済み、あの火事が失火であった事が分かっておる。誰にも罪は無い。肝要なのは、これからの街作りをどうするかじゃ」
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「御意…」
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「わしに気配なく、近づける程のお前の才を見せる事が肝要ぞ」
「へい、わしら忍びは、やれと言われた事をやるもので。して何を?」
「滝川三九郎の身辺を調べよ。真田家を潰すには、まずは奴を調略するのが肝要ぞ」
「ならば、一つ、先程得た情報がありますが」
「何じゃ?」
宗矩は、すぐに飛びつくように佐助の前に近づいた。
「彼奴は、柳生新陰流の使い手にて候」
「何と奴が?そうか、これはよい事を聞いた。佐助、策は決した。そなたにも動いてもらうぞ」
宗矩は、躍動する自分の気持ちを抑えられないでいた。宗矩は、秀忠が置いて行った弓矢を手に取ると、素早い動作で、的の中心を射抜いて見せた。恐るべき業と言えた。
(待っておるがよい。すぐに、この的と同じになろうぞ)
宗矩は、ニヤリと笑う。その様子に、前任の信政よりも鋭い次の主の姿を佐助も不気味そうに見つめていた。
三九郎に再び策謀の手が、迫ろうとしていたのだった。
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歴史・時代
もし、あの戦争で日本が異なる選択をしていたら?
国力の差を直視し、無謀な拡大を避け、戦略と外交で活路を開く。
真珠湾、ミッドウェー、ガダルカナル…分水嶺で下された「if」の決断。
破滅回避し、国家存続をかけたもう一つの終戦を描く架空戦記。
現在1945年夏まで執筆
日露戦争の真実
蔵屋
歴史・時代
私の先祖は日露戦争の奉天の戦いで若くして戦死しました。
日本政府の定めた徴兵制で戦地に行ったのでした。
日露戦争が始まったのは明治37年(1904)2月6日でした。
帝政ロシアは清国の領土だった中国東北部を事実上占領下に置き、さらに朝鮮半島、日本海に勢力を伸ばそうとしていました。
日本はこれに対抗し開戦に至ったのです。
ほぼ同時に、日本連合艦隊はロシア軍の拠点港である旅順に向かい、ロシア軍の旅順艦隊の殲滅を目指すことになりました。
ロシア軍はヨーロッパに配備していたバルチック艦隊を日本に派遣するべく準備を開始したのです。
深い入り江に守られた旅順沿岸に設置された強力な砲台のため日本の連合艦隊は、陸軍に陸上からの旅順艦隊攻撃を要請したのでした。
この物語の始まりです。
『神知りて 人の幸せ 祈るのみ
神の伝えし 愛善の道』
この短歌は私が今年元旦に詠んだ歌である。
作家 蔵屋日唱
日本の運命を変えた天才少年-日本が世界一の帝国になる日-
ましゅまろ
歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。
1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。
わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。
だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。
これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。
希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。
※アルファポリス限定投稿
友人(勇者)に恋人も幼馴染も取られたけど悔しくない。 だって俺は転生者だから。
石のやっさん
ファンタジー
パーティでお荷物扱いされていた魔法戦士のセレスは、とうとう勇者でありパーティーリーダーのリヒトにクビを宣告されてしまう。幼馴染も恋人も全部リヒトの物で、居場所がどこにもない状態だった。
だが、此の状態は彼にとっては『本当の幸せ』を掴む事に必要だった
何故なら、彼は『転生者』だから…
今度は違う切り口からのアプローチ。
追放の話しの一話は、前作とかなり似ていますが2話からは、かなり変わります。
こうご期待。
九九式双発艦上攻撃機
ypaaaaaaa
歴史・時代
欧米列強に比べて生産量に劣る日本にとって、爆撃機と雷撃機の統合は至上命題であった。だが、これを実現するためにはエンジンの馬力が足らない。そこで海軍航空技術廠は”双発の”艦上攻撃機の開発を開始。これをものにしして、日本海軍は太平洋に荒波を疾走していく。
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