三九郎の疾風(かぜ)!!

たい陸

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蠢く者たち

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「クソッ才蔵め、滝川三九郎め、きっと殺してやるぞ」
 ある国のある村のある小屋にて、叫び声がしている。佐助は生きていた。

 そして、生死の境にいる。才蔵から受けた手裏剣の毒が廻り、右手は浅黒く変色していた。すぐに処置しなければ、死ぬ運命である。佐助は、覚悟を決めると、火に十分炙った刀をギラリと光らせ、右手の傷口に口に含んだ酒を思いっきり吹きかけた。膿んできた傷口に酒が沁みる。

 暫く刀の刀身を眺めていた佐助は、左手に持った刀を一気に振り下ろした。瞬間自分の右手が血しぶきを上げて吹き飛んだ。

「ギャァーッ」
 さすがの激痛に転げまわる佐助であったが、暫くして気を取り直すと、無くなった右手の傷口を紐で縛る。そこに再び酒をたっぷりとかける。激痛が走り、口を歪める。

 そして、再び火に炙った刀の腹を今度は、傷口に充てる。途端にジューッという肉が焼ける嫌な音が響く。苦悶に歪んだ表情と、声にも出せない激痛で、途端に佐助は、気絶して倒れた。

 しかし、佐助という稀代の忍びの凄まじさは、ここからであった。佐助は、目が覚めると冷静に傷口を確認し、酒で消毒し、傷口を焼く、激痛で気絶するというのを繰り返し、とうとう自力で、傷口を塞ぐ事に成功してしまったのだった。

 目覚めると、佐助は、小屋を貸してくれた、その村の後家女が一人になる所を狙って、助けを求める。

「あら大変、待ってて」
 女が後ろを振り向いた瞬間に、佐助は女に襲い掛かった。そして、当たり前のように、女を犯す。女は終始泣いていたが、佐助が構う事はない。事が終わり、裸のまま、馬小屋の藁に寝そべる佐助。すると、何故か犯された相手である佐助の、その女は、身を預けてきたのだった。

「そんなに、私を望むならいいよ…」
 恥ずかしそうに、佐助の腕枕ではにかむ女。女は何かを勘違いしていたが、佐助にとっては好都合であった。男は命の危険にされされると、本能的な行動を取るものらしい。

 佐助の女に対する行動の答えを記すとすれば、それだけの事であったが、佐助はこれを利用する事に決めた。この女を懐柔して、その家の主として収まってしまったのだ。当分は、ここにいて、傷を癒すつもりであった。転んでもただでは起きない、それが上月佐助という忍びの生き方であった。


 三九郎は、江戸に戻っていた。再び元の長屋に落ち着くと、すぐに口入屋の五助の店に顔を出して、何でも屋の浪人へと、戻っている様子であった。

「おう滝の旦那、いつ江戸にお戻りで?」
「五助、精が出るな。つい先日戻った。ところで、今日はいい仕事あるかい?」
「これ何てどうでさ?」
「うん、これに決めた」

 五助との軽妙なやり取りで、一日の仕事に有り付く日々である。こんなのんびりとした、仕える主の持たない日常を暫く続ければいいと、三九郎は漠然と考えていた。しかし、事態は三九郎の思惑通りに、運んでくれそうにもなかった。
お菊の兄である真田伊豆守信之が三九郎に会いに来たのは、それから間もなくの事であった。

「上様が会いたがっておる」
 信之は、出された茶を悠然と飲みながら、衝撃の一言を口にした。
「なぜに?」
「訳は知らぬ。上様直々にとの仰せじゃ」

 三九郎は、渋い顔をする。ようやく、武家社会のゴタゴタから逃れてきた矢先である。出来るだけ、武家社会の政治などとは、無縁でありたかったのだ。

 第一に、
「あの狸爺は、苦手です」
「上様と呼ばぬか!」

 ブスッとした顔でボソッと言う言葉がツボにハマり、お菊は笑い転げる。それを見て、三九郎も笑う。最後に仕方なく、信之も笑う。一人、才蔵だけが、狸爺を即座に家康だと見抜いた信之の方が不敬では?と思っていたが、思っただけで、口には絶対にしないのだった。

「とにかく、明朝迎えを寄こす。準備をしっかりとな」
 佩刀をお菊より受け取りながら、信之はそう言って帰っていった。大名であるのに、相変わらずフラリと長屋に現れる辺り、信之も高貴の身分に、案外辟易しているのかもしれないと三九郎は思っていたのだった。

 そして明朝、三九郎は少々緊張した面持ちと言うよりも、窮屈な恰好とその表情をして、朝を迎えていた。素襖に長袴を履いた正装に身を包み、その背には、滝川家の家紋である丸に竪木瓜が入っている。全くと言っていい程、正装慣れしていない三九郎にとって、窮屈でしかなかった。

「正装は、伯耆国でもなさっておりましたでしょうに」
「お似合いです」
「うるさい。行って来るぞ」

 そう言って、笑うお菊と才蔵に見送られながら、ぶっちょう面の三九郎は、江戸城へ向かった。オンボロ長屋に、三九郎を迎えにきた駕籠と、真田家からの警護の者たちが来ていて、事情の分からない長屋の住民たちが、何事かと噂し合っているのを横目に、三九郎は、家康の待つ江戸城へと向かうのだった。

(ひょっとすると、何かお沙汰が出たのかもしれぬ…)
 計らずも、中村家の騒動で、一躍を演じた三九郎に対しての処分があるのかも知れなかった。それも、覚悟しておかねばならないだろう。

「ここで、止めてくれ」
 三九郎は、不意に駕籠を止めさせると、そこから抜け出して、大きく伸びをする。ここからは、歩いて行こうと何気に思ったのだ。その場所は、この慶長八年に建造された木造の日本橋の上であった。三九郎は、まだ木の香りが匂う橋の真中を渡りながら、江戸の風景を楽しんで行こうと決めたのだった。

 江戸城に着くと、すぐに蘇鉄の間という、大名のお供が控える部屋に通された。そこで待っていると、信之が顔を見せた。

「遅かったではないか。上様はもうお待ちじゃ」
 引っ張られる勢いで、三九郎は、信之に連れて行かれる。そして、対面の間と呼ばれる将軍の応接室に通されて、暫く待つ。程なくして、襖が開き、慌てて頭を下げた。

「滝川三九郎一積、罷り越しまして御座りまする」
「面をあげよ」
 頭を上げると、正面に家康が居り、横に数名の武士が控えている様子だ。

「三九郎、近う」
 三九郎は、形式通りに一歩分だけ、座ったままの体勢で、前へ進む。
「もそっと近う。もそっとじゃ」

 いささか、戸惑いながらも、今度は一度立ってから、三九郎は家康に近づく。前に座っていた信之を追い越して、家康との距離が数歩程度まで近づいて、再び座る。

「先頃、そなたの叔父一時(かずとき)が亡くなったの。その息子は、何と申したか?」
「滝川一乗(かずのり)に御座いまする」
 横にいた本多正純がすかさず、合いの手を入れる。

「そうそう、その息子が幼少ゆえ、後見が必要だで、お主務めぬか?」
 三九郎は、急な事で返答に窮している。すると、
「二千石が与えられる。もちろん屋敷も用意されよう」

 再び正純が応える。それを家康は、満足そうに頷いている。
「一つお聞きしてもよう御座るか。もし手前が断れば、一乗の行く末、如何あいなりましょうや?」
「減封になるかの。上野介?」
「御意」

 三九郎の叔父である滝川一時は、元々は太閤秀吉に仕える一万二千石の大名であった。それが、家康に請われて、徳川家へ仕える事となり、二千石を加増された。その一時が急死し、豊臣家からの一万二千石を返上し、嫡男一乗が残りの二千石を相続する事になったのだった。しかし、一乗が幼少の為、その相続も危うくなっている。そこで、一乗の叔父にあたる三九郎を名代として、話しがあったのである。

「名代の儀、謹んで拝命致しまする」
 三九郎は、暫くの間の後、恭しくそう答えた。そう答えるしかなかった。

「うむ、それでよい」
 家康は、特に上機嫌である。
「時に我が主命は、どうなりましょうや?」
 名代として、滝川家の相続は決まった。しかし、肝心の三九郎の仕事内容をまだ聞いていなかったのだ。

「考えておる。わしの使番はどうじゃ?」
「御意、ありがたき幸せ」
 三九郎は、短く答えた。家康の発した言葉で、その場の空気が一変した事を感じたからであった。

「上様!使番は、三河以来の譜代家臣の子弟より、選任されし者達。いささか…」

 本多上野介正純が異議を唱える。使番は、正純の言う通りに、重臣の子弟より選任される事の多い、言わばエリート予備軍と言うべき役職であった。それが昨日までの浪人がいきなりそれでは、幕府の沽券に係わると、正純は考えていたのだ。

「この三九郎は、関東管領滝川一益が嫡孫。それに使番とは、子弟どもの集まりに非ず。平時は、将軍の威を各部署へ伝え、戦時は伝令、使者の役目に予の警護を伴う。滝川三九郎ほどに、警護が務まる武士が他におるのか?」

 三九郎は、低頭しながら、家康が自分を買ってくれている事に驚いていた。

「滝川殿と言えば、新陰流の達人でありましたな」
 家康の側で控える僧籍の老人が口を開いた。三九郎が見た所、この老人がどうやら天海僧上であるらしかった。

「聞く所によれば、先の伯耆国の争いにて、あの柳生宗章を斬ったとか。おっとこれは、失言でしたかな。柳生殿」
 三九郎は、横目に柳生と呼ばれた男を見た。何年も会っていなかったが、確かに面影が残る。その男が、宗章の弟である柳生又右衛門宗矩に間違いはなかった。

「三九郎を睨むな宗矩。勝負の結果であろうが」
「御意!」
 宗矩は、その鋭い眼光で三九郎を睨んでいたが、家康に制される。
「柳生五郎右衛門殿は、勝負の時、すでに何十人も斬った後で、疲労困憊の様子。私が勝てたのは、時の運に御座いまする」

「三九郎は、殊勝であるな。所で使番の件、どうじゃろう右近衛大将?」
「宜しいのではないでしょうか?」
 家康の促されて答えたのは、家康が征夷大将軍の位に就いたのに伴い、その後継者として、右近衛大将に任官された秀忠であった。

「よし、これで決まった。以後、滝川三九郎は、幕府の使番である」
「ははーっ」
 一同が家康に平伏する。これより、三九郎は幕府の直臣となったのであった。


「上々の首尾であったな」
「これも義兄上のお蔭で御座います」
 三九郎は、素直に礼を言った。これまでも、何かと信之は、三九郎を実の弟のように接してくれている。兄弟の居ない三九郎にとって、とてもありがたい事だった。

「そなたも幕府の臣とならば、右近衛大将様も、あの但馬守もそう簡単に手出し出来ぬという分けだ」
「そうだと良いのですが…」
 三九郎の不安は、宗矩の鋭い眼光を見たからに他ならなかった。あの執念深い男が、このまま、みすみす自分を見逃すだろうか?三九郎はそうは思えなかった。

「それにしても、上様はどうして私などを目に掛け遊ばすのか?」
「わしも一度聞いた事がある。こう申された。滝川一益は、古今稀な勇将なりて、その武勇にあやかるべしと。そなたに、祖父殿を重ねておるのかもしれぬな」
 三九郎は、そこまで自分を買ってくれた家康を主として、仕える決心を固めていた。

「上様があのように、人を誉める所を私は見たことがない。羨ましい限りだ」
 信之の言葉に、三九郎は恐縮しきりであった。

(これで、主なし三九郎も年貢の収め時だな…)
 自由を失う少しの悲しさと、これから始まる新しい生活に、心が逸る三九郎であった。


 一方その頃、江戸城の御用部屋にて、何やら話し込む男たちの声が、微かに聞こえていた。
「おのれ滝川三九郎め!我が兄を殺したばかりか、上様の使番にまでなるとは、何と不遜な!」
「静まれ又右衛門よ。それよりも、例の始末は、ついたのであろうな?」

 その部屋にて、顔と合わせて密談していたのは、秀忠と宗矩であった。
「草の者は行方知れず。恐らく死にまして御座いまするが、例の書状は発見し、処分致しました」

「うむ、それでよい。あの滝川の孫の件は、何か思案せよ。殺しても誰にも疑われぬ方法か、もしくは、殺しても正当な理由をな…」
「御意!それにつきましては、吟味致しまする」

 二人が会話している部屋にスーッと一人の男が入って来た。
「それに関しては、これなる大久保忠隣に力を借りよ。真田に連なる者を生かしておいては、わしの沽券に係わる。心せよ宗矩!」
「御意!」

 宗矩は、恭しく頭を下げる。忠隣は、そんな宗矩を冷ややかな目で見つめていた。
「秀忠様、あまり無茶をして、上様に知られませぬように」
「忠隣、分かっておるわ。そのための柳生よ」

 秀忠の言葉に宗矩は、その鋭い眼光だけで応えていた。歴戦の勇士である大久保忠隣から見ても、その眼は不気味で得体の知れない男のそれであった。三者の密談は、その日の夜中まで、行われているのだった。


 元亀三年(1605)徳川秀忠は、江戸幕府二代目将軍に就任する。これで、現実的に代々徳川家が世襲によって、世の中を治めて行くことを宣言した事になる。

 大坂城では、徳川家にとっても、主家に当る秀吉の遺児秀頼が健在であるにも関わらずである。これから後に、江戸と大坂がどうなって行くのか、全国の大名たちも固唾を飲んで、見守っているのであった。

 一方、その頃の三九郎と言えば、家康が将軍職を譲った事で、大御所となり、駿府城を改築して、居を移した事に伴い、駿府に随行している。そして、家康の使番として、駿府‐江戸間を行ったり来たりする、忙しい毎日を送っていたのだった。

「慣れぬ事は、するものではないな」
 自邸に戻るなり、三九郎は、着物を脱ぎ散らかし、腰の大小も放り投げて、部屋の真ん中で大の字になる。

「あらあら、お殿様ともあろうお方が」
 三九郎の後始末をしながら、お菊がからかう様に笑う。
「殿はやめよ」
 寝ころんだままでも、三九郎は悪態をつく。その様を見て、呆れ顔なお菊と、そんな二人の様子を微笑ましそうに見ている才蔵であった。

「才蔵、どうじゃ?」
 三九郎が寝転んだままで、忙しく身の回りの世話をしている才蔵に聞いたのは、ここでの暮らしについてであった。

 三九郎が旗本となった事により、才蔵も士分に取り立てられたのだ。才蔵は、最初に三九郎からの申し出を断っていた。自分は、忍びの世界しかしらない。これからも三九郎様の側に居られればそれで良いと。

 しかし、江戸の長屋での気ままな浪人暮らしと一緒と言う分けにはいかず、嫌がる才蔵を士分に取り立て、名も正式な物を与えていた。しかし、三九郎自身が才蔵、才蔵と呼ぶので、才蔵自身が自分の新しい名前に慣れないでいたのだった。

「まあまあでございます。殿は?」
「わしもまあまあじゃ」
 二人は、笑っている。思えば、互いの出会いから、今日まで、戦いの連続であったのだ。ようやく手に出来た平穏な日常である。それは、束の間の事なのかもしれない。しかし、今はそれを少し、楽しんでも良い筈であった。

「お前様、九度山の父上から文が届いておりました」
「おおっ皆息災か?」
「何やら、兄上相手に碁ばかり打っている様子」

 三九郎は、起き上がりながら、差し出された文を手に取る。そこには、昌幸と信繁が流罪となっている紀州九度山での暮らしぶりが記されているのだった。

「わしも幕臣となったからには、大っぴらに書状のやり取りは出来ぬが、ここの産物や、金に変えられる物など、送ってやれ」
「はい」

 真田昌幸も信繁も長年の流罪暮らしで、すっかり疲弊している様子である。文には、流罪先での不便など、戦国の名将であっても、ついつい漏らしてしまう愚痴が記されていた。

「わしも折りあらば、大御所に免罪を申し出てみたいが、何か手柄を挙げねばのう…」
「あちらの様子が、詳しく分かれば、良いのですが…」

「義父上の事じゃ、いつまでも大人しくしておく分けは無い。草の者などを使って、よからぬ事を考えねば良いが。お菊からも自重するよう、返書を認めておけ」

「はいはい」
 お菊は笑って、答える。父昌幸の様子が、目に浮かんでくるかのようだったからだ。
 二人の会話を才蔵は、横でじっと聞いている。しかし、心はここに非ずといった様子だった。

「才蔵、どうしました?」
「いえ、何でも…」
 お菊が煎れてくれたお茶を啜りながら、才蔵は短く答えた。才蔵の表情に映る微かな蔭りを三九郎もお菊も感じ取っていた。それは、佐助の事に間違いない。三九郎が、草の者と言った時の微かな表情の変化に気づいていたからだった。

(その死を確認出来た分けではない…)
 その思いが、才蔵の心の中で、大きな枷となって重く圧し掛かっているのではないかと、そして、この平穏な日常で、その事を思い出す時間が多くなっているのではないのかと、二人はそう感じているのだった。

「才蔵、行きたいのだろう?」
 才蔵は顔を上げて、主の顔を見る。その口調と、その表情は穏やかで、すべてを見通しているかのようであった。その横に居るお菊も、同じ表情をしていると才蔵は思った。

「途中、九度山へ寄って、義父上たちの様子など、探ってきてくれ」
「はい」
 才蔵は、短く答えた。

 家臣の気持ちに、これ程気遣って呉れる主があるだろうか?涙が出そうになるのを、顔を伏せて、必死に堪えているのだった。
「今日は、盛大にやりましょう」
 お菊が大きな声を上げる。それだけで、その場が華やいで見えるのだった。

 才蔵が旅立ったのは、夜が明けきらぬ時間であった。その懐には、お菊が認めた書状がしっかりと入っている。才蔵の脳裏には今、はっきりと佐助の顔が浮かんでいる。

(奴は生きている…)
 才蔵は、確信に近い思いをその胸に秘めながら、只々、まだまだ暗い街道を一人急ぐのであった。


 佐助は、生きている。それはすでに記した。ここで言いたいのは、佐助はただ生き延びていた分けでは無かった。例の村で住み着くと、何と無理やり女房とした女との間に、二人の子を授かっていたのだ。

「これ千代よ、小助をいじめるでない」
 一男一女で、姉を千代、弟を小助といった。
「はーい、お父っちゃん」
 その様子を佐助の妻である蛍が、微笑ましそうに見つめている。

 その蛍であるが、この村の庄屋の一人娘であり、入り婿をとって、家を継いだ筈であったが、その数年後に父を病で亡くし、母はすでに亡くなっていた。そして、最初の夫は、近くで戦があった際の巻き添えとなった死んでしまっていたのだった。

 そこに現れたのが佐助であった。この蛍は、情が深い女で、手籠めにされた事で、佐助を終生の旦那と決めていた。

 当初佐助は、右腕の傷が癒えたら、すぐに出ていくつもりであった。利き腕を失った忍びに待っているのは、死だけだ。敵に捕まれば「死」が掟の忍びの世界で生きてきた佐助にとって、腕を一本失う事は失業を意味していた。

 そして、秀忠や柳生宗矩との裏の繋がりを知る佐助である。始末される危険を感じて、身を隠すしかなかったのである。そうしている内に千代が産まれ、また程なくして、小助が誕生すると、戸惑いつつも、佐助の中で心情の変化が起こり始めていたのだった。

「お前様、お茶を」
「おう」
 妻から差し出された茶で一服しながら、じゃれ合う子供たちを見守る。

 すると、自分の子供時代が思い出されてくる。千代が滋野三郎に、小助を自分自身と重なって見えた。あの幼き頃の、世間の事も、忍びの世界も何も知らず、乳兄弟であった三郎と、野山を駆け巡って遊んだ記憶を。佐助は、目を細めながら、自らの人生に訪れた、初めての平穏な日々を見つめているのだった。

「お前様、商いはどうです?」
「うむ、次は、紀州方面にでも行ってみようと思っておる」
 佐助は、如才ない男であった。

 右腕が使えないので、農作業が出来ない代わりに、小作人を多く雇って、荒れた土地を耕し、村に実りをもたらしていた。また行商をしながら、各地を巡り、土地土地の名産を行った先で金に変えては、また何かを買って売るという事もしており、これが大いに繁盛していた。

 村では、この右腕の無い、腰の低く、頭の切れる新しい庄屋の男を旦那様と言って、慕っている者が多くいた。佐助のここでの生活も、軌道に乗ってきた様子であった。

(悪くない…)
 佐助は、ここでの新しい暮らしをそう感じ始めているのだった。

 誰が好き好んで、殺伐とした、殺し殺される忍びの世界に戻る事だろう。佐助は、失った右腕を愛おしそうに擦りながら、この生活を手に入れる為に失ったのだと、そう信じ込んでいるのだった。


 一方、その頃の三九郎であるが、公務で江戸に来ていた。使番としての任務も板についてきた様子であったが、目まぐるしく進化を遂げる江戸の街並みに、驚いていた。江戸城での使いを終わらせると、江戸の柳生屋敷へと向かっていた。

「柳生へ行って貰いたい」
 城内で呼び止められた三九郎は、秀忠の側近である大久保忠隣から、そう申し渡されたのだった。

「今般、江戸城下でも新陰流なる剣術が流行の兆し。ついては、その達人である貴殿にも加勢を頼みたい」
 慇懃な申し状であるが、罠に違いなかった。三九郎は、何とか逃れようと、断る口実を考えていたのだが、

「これは、上様たっての上意でもある。駿府の大御所様へは、わしから貴殿の帰省が遅れる旨、報せよう」
 そう言われてしまえば、三九郎も断れる道理がなかったのであった。三九郎は、仕方なく、先に真田屋敷へと向かうのだった。

「言うまでもない、これは罠ぞ。行けば殺されよう」
 信之が言う事などは、三九郎も承知していた。しかし、この罠のより狡猾な所は、罠と知りつつ、行かなければ、将軍の命令を断った事で、罪に問われる点であった。

「どちらにしろ、行かなければなりますまい」
 進退窮するとは、この事だろう。こんな時に才蔵がいれば、先に柳生の様子を探り、そこから活路が見いだせるかもしれなかったが、才蔵を行かせたのは、三九郎に他ならなかった。行っても地獄、行かなくとも地獄。

(ならば、地獄で活路を見出すのみ)
 三九郎は、悲壮な決意と共に柳生屋敷へと向かう事にしたのだった。


 江戸の初期、この時期は、まだまだ戦国の気風が色濃く残っている時期である。戦国の武士にとって、剣術などと言う物は、徒士の物という考えがあり、剣術家などは、乱暴に行ってしまえば、云わば芸者と一緒のような括りであっただろう。

 戦場では、まず長槍と弓矢、鉄砲が主体であり、刀を使うのは乱戦になった時であった。これは、馬上より槍で敵を突いて倒し、下士が首を獲る事を示唆しており、剣術とは、教わるよりも自ら鍛錬して習得しておく、武士の必須科目のようなものだったのかもしれない。

 これが江戸時代に入ると、戦が無くなってきた事に伴い、新たな問題が発生していくのである。それは、実戦で学ぶ機会が減った事により、武士のレベルが根底から下がる事への恐れであった。

 そこで、家康は、自らの剣術好きも相まって、剣術修行を奨励し始めるのであった。事に、上泉信綱から始まる新陰流を将軍家剣術指南役に指名すると、柳生宗矩の提唱した、活人剣という剣術の心構えを武士の心得として、取り入れようとし始めたのであった。

「立派なものだな…」
 三九郎は、柳生屋敷の正面に立っていた。この時、宗矩は、三千石の旗本であった筈だが、その正門造りは、大名屋敷の風格があった。その門には、柳生家の家紋である地(われ)楡(もこう)に雀の印がしっかりと刻まれていた。

 この家紋は、大変珍しい物で、日本中でも柳生家しか使用していない物であった。「われもこうありたい」との願いがあるとされているが、その由来が何であったかは、判別としない。

 宗矩は、三代将軍家光時代には、一万石を領する大名にまで、出世する。
 剣豪と呼ばれた人物は数多いが、大名にまで出世を果たしたのは、後にも先にも、柳生宗矩をおいて、他にはいない。

「滝川三九郎である。開門!」
 大喝すると、門が開かれる。三九郎は、躊躇なく、門内に飛び込むのだった。

(さて、蛇が出るか、鬼が出るか…)
 心中を吐露せぬように、さすがに表情が固まる。ただその歩は、いささかも臆してなどいない。

「どうぞ、こちらに」
 案内役に導かれて、三九郎が通された先は、敷地内にある柳生の大道場であった。およそ、一度に百名以上は入りそうな、大きな建物内に、柳生屈指の強者共たちが、ひしめき合っている。

 そして、その目線が、道場入口で立つ、三九郎唯一人に注がれているのだった。三九郎は、正面を真っ直ぐに見据えると、上座の中央に座する一人の侍が目に付いた。もちろん柳生宗矩に違いない。そして、その奥には、大久保忠隣がどっかりと、その巨体を座して、三九郎を見つめていた。

「滝川三九郎で御座る」
 三九郎は、立ったままで一礼をすると場内に入り、殺気が充満し、その何十もの鋭い目線が突き刺さるのに、全くの無反応で、堂々と宗矩の前に立ち、ドッカリとその前に座ってみせるのだった。

「お久しゅう御座る」
 宗矩は、慇懃に座ったままで、礼をする。その豪気な表情からは、その思考など、読み取る事は出来そうになかった。この場に居る者達の誰もが、因縁の両者による対決の予感をひしひしと感じていた。ここから、三九郎の己自身を賭した、正念場が訪れようとしていた。

「本日、お越し頂いたは、新陰流の名手たる滝川殿に、一手ご教授頂きたい」
「天下の柳生道場には、人は無きや?」
 三九郎は、わざと挑発するような言葉を使う。

 その言葉に場内がざわつき始める。
「何を申すか!拙者がお相手仕る」
「いや拙者が!」
 案の定、三九郎の挑発に乗せられた門弟たちが、騒ぎ始めた。

「私がお相手仕る」
 しかし、そう言って、立ち上がったのは、宗矩本人であった。これには、三九郎も驚きを隠せなかった。ここに三九郎を呼んだのは、公然と集団で襲い、抹殺するための策であるとふんでいたからだった。

「拙者では不足かな?」
「いや、望む所」
「誰か、ひきはだを持て!」
「それには、及ばぬ」

 三九郎は、そう言うと、荷物の中から一つの物を取り出した。これが新陰流の稽古で使われる「ひきはだしない」である。
 
 ひきはだしないとは、現在の竹刀の原型と言われる物で、馬や牛の革を三尺程度の破竹に被せて、漆を塗ったものである。竹は持ち手から、中ごろまでを四つに割り、中ごろから、先端にかけてを八つ、先端を十六に割って使用している。ひきはだとは、漆を塗った革の模様が、ヒキガエルの肌の色に似ているためであった。

「やはり持っておるか。稽古は欠かさぬと見える」
「稽古を欠かす者など、居りまするか?」

 また敢えて挑発する。それによって、相手の出方を見る。死中に活路を見出すしか、この場を生き延びる手立てはないと考えていた。

「貴様、いい加減にせよ」
「師匠、この者の相手、私が仕る」
 三九郎の挑発に異議を唱えて、その手前に立ちはだかったのは、宗矩の高弟である木村助九郎と出淵平八であった。

(来たな…)
 三九郎は、内心で思った。さて、両名とも音に聞こえた剣客である。これをどう切り抜け、乱戦に持ち込み、ここから脱出する機会を狙うべきかと。

「両名とも下がれ。私の客人ぞ」
 宗矩の言葉に二人は、大人しく引き下がる。宗矩の思わぬ言葉で、またしても三九郎は、戸惑っていた。

「参るぞ」
 静かだが、確かな宗矩の声が場内に響く。三九郎も構える。
「宗矩殿、如何した?」

 この成行きに待ったと掛けるように、忠隣が声を上げる。その顔は、全く合点が行っていない様子である。

「ここは、私に一任されておる。お任せ頂きたい」
「大丈夫なのだな?」
 宗矩は、忠隣の言葉に、無言で頷く事で返す。

「行こうか!」
「おうっ」
 仕切り直しとばかりに、両者は大声を上げる。

 滝川三九郎と柳生宗矩という、新陰流初期時代に現れた、剣士同士の決闘が始まりを告げた。そして、その様子を百名近くの道場内に居る者達が、固唾を飲んで見守っているのだった。

 最初に仕掛けたのは、宗矩であった。宗矩は、上段より袈裟懸けに斬りつける。がしかし、三九郎は、難なくそれを躱す。

 そして、躱した身体で相手の間合いを捉えて、宗矩の頭を狙い振り下ろす。が、すでに宗矩の身体はそこには無い。宗矩は、自分のしないが躱されると同時に横へ動き、踏み込む三九郎の腕を狙って、斬りつけた。しかし、三九郎は、寸前で右手を離す事で、宗矩の振り下ろしたしないを避けてみせた。

「新陰流逆風、よくぞ避けた」
 宗矩は、三九郎のとっさの機転を誉めたが、想像以上の宗矩の業のキレに、三九郎は苦戦を予感していたのだった。

 静寂の場内に二人の息遣いだけが、微かに聞こえる。飛び散る汗と、時折怒号のように響く両者の掛け声、戦いはまだ続いて行く。

 次に三九郎が仕掛ける。右足を斜め前に出し、相手の剣先を避けるように、身体を横にずらして摺り足で間合いをとる。その最中に、わざと隙が出来るように、上体を逸らすと、そこに宗矩が間髪を入れずに攻め込んでくる。三九郎は、すぐに反応すると、下段よりしないを回すように、宗矩の手を狙う。しかし、これも寸前で避けられてしまった。

「天狗抄、見事也!」
 宗矩は、少し笑みを浮かべながら、三九郎の剣を讃える。三九郎は、尚も打ちこもうと、宗矩と対峙する。しないを握る手に力がこもる。

(隙がない…)
 宗矩の正眼の構えに、三九郎は動けないでいた。どこを攻撃しても、躱されるか、反撃されてしまうだろうと思わせる程の気迫がある。しかし、その一方で、その眼はとても穏やかなようにも見える。

(水月か?)
 水月とは、業の名称ではない。流派の極意とも呼べる境地の事だ。水に浮かぶ月のように、人の心を映し出す。この位にまで、己の剣を練り上げられるのは、並大抵の事ではない。それは、宗矩が達人の域に達している事を示していた。

「ふぅーっ」
 三九郎は、一つ息を吐いて呼吸を整える。そして、その瞬間腹を括る。恐らく、次が最後の一撃になるであろう事を予感して、自分の最も得意とする最高の剣を撃つべく、自らの気を練り上げる。三九郎は、正眼の構えを取った。

 一方の宗矩も先ほどから、正眼の構えのままで、じっと動かず、三九郎を見据えて一瞬たりとも動かない。両者睨みあったまま、恐ろしいまでに長く感じる一瞬が過ぎる。場内は、いつの間にかに、静けさを取り戻した早朝のように、誰も何も話そうとはしない。只々、無言の熱気とも言うべく、異様な空間がその場を支配しているのだった。

「おおーっ」
 気勢を発すると、同時に二人は仕掛けた。そして、正眼の構えのまま、上段より同時に斬り込んだ。しない同士が当り合う鈍い音が響く。

 そして、結果を見れば相打ちであった。お互いの肩口に、しないがピタリと止まっている。何の変哲もない、上段からの一撃が新陰流の十文字勝である事を、そこにいる新陰流の門人たちは、理解していた。相手がどんな攻撃を仕掛けて来ようとも、自分は微動だにせず、その相手の軸を一文字に切り裂く業である。シンプルだが、それだけに難しく、初歩であるが、それだけに達人でなければ極められぬ業と言えた。

 三九郎も宗矩も、しないを構えたままで、対峙し相手を見据えて立ったままだ。
「見事也」
「そちらも」
「何故、打ち込まなんだ?」
「それは、こっちの言葉。貴殿は、最初から殺気がなかった」
「気づいておったか…」

 そう、宗矩には、最初から三九郎を害する気持ちなどなかったのである。それゆえに剣に殺気が無く、まただからこそ、邪念を捨て去る事が出来た事で、三九郎という好敵手を迎えた戦いにおいて、宗矩の剣が水月の位まで、その剣を高めたと言えたのだった。

「どういう事だ?これで終わりか!」
 事の成り行きを後方で見ていた忠隣が、事態に不服な様子で、二人の間に割り込んできた。
「見ての通りで」
 そんな忠隣に、宗矩は素っ気なく答える。

「上様にどう申し開きなさるのか!」
 忠隣の言葉に、宗矩は耳を貸さない。
「ええい、このような輩は斬ってすてるべし」

 忠隣は、そう言うや、抜刀して、三九郎に斬りかかってくる。しかし、横に居た宗矩は、咄嗟に、忠隣が抜刀し、向かって来る身体の力を利用するように、その手首を上手くいなし、スルっと忠隣の身体を回転させてしまった。

「新陰流奥義、無刀取り!」
 宗矩が声を上げると、忠隣の刀は、宗矩の手の中にあった。刀を取られた忠隣は、勢い余って、その場に転んでしまった。

「事の次第、上様に言上仕る。覚悟しておけよ。宗矩!」
 それだけを言い残して、忠隣は、したたかに打った腰を擦りながら、郎党に抱えられて、道場を去るのだった。

「宜しいのか?」
「うむ」
 三九郎の問いに答える代りに、宗矩は、その場にどっかりと腰を据えると、一枚の紙を取り出し、そこに広げる。三九郎に見ろと言わんばかりに。三九郎も腰を下ろし、それを見ると、それは書状のようであった。

 一瞥すると、そこには、
(滝川三九郎は、武士也)
 と、それだけが記されてあった。書状を書いた主は、死んだ柳生宗章その人であった。

「こ、これは?」
「中村家の騒動の前に届いた。間違いなく兄の記した物じゃ」
 三九郎は、震える手で、その一文を何度も見るのだった。

 自分がこれから決死の戦いに向かう時に、宗章がこれを記していてくれた事、そして、それを弟の宗矩の託し、三九郎を気遣った事、すべてがここに繋がっていた。

「今日、上様より、そなたを始末するよう内々に仰せつかっていた。わしは、柳生の剣を世の中に知らしめる為に精進しておる。その為には、粛清もしよう。どんな奸計も用いよう。邪魔な者は、始末もしよう。しかし、しかしだ。わしは、新陰流を、剣を汚す事は出来ぬ!」
 それが、宗矩が三九郎を助けた理由であった。

「上様には、構わないのか?」
「わしを誰と思うてか。どんなお叱りを被むろうとも、わしは這い上がって見せるわ」

 その言葉に、三九郎は、柳生宗矩という男の真実を見た心地がしていた。
「わしの心配より、そなたの方が大変ぞ。大御所のおられる内は無事でもな。上様の真田嫌いは、骨髄に染みておるぞ」

「覚悟の上だ」
 三九郎は、ニヤリと笑い、また宗矩も笑った。男達は、いつの世も、かくの如しで在れば良い。そして、こんな馬鹿な者達が、今日からの歴史を作って行くのだろう。これが、滝川三九郎と柳生宗矩という、新陰流の剣士同士の邂逅の刻であった。

 その後、三九郎と宗矩は、酒を酌み交わし、今は亡き兄と師匠を弔うように、語りあかした。男とは、いつの時代もこうであるのだ。一度戦ってからでなければ、己をさらけ出す事など出来ない。その後、ただ酒を酌み交わせばよいのである。男とは、武士とはそういった生き物である筈であった。


 場所は変わり、ここは大坂の街である。江戸時代に入り、太閤秀吉が築いた大坂の街は、近くの堺町をも上回る賑わいを見せていた。この時、大阪城には、豊臣秀頼とその母親である淀君とが健在であって、この街を幕府の好き勝手には出来ない。秀吉は、生前に堺より、商人たちを強制的に大坂に移住させて、その街作りを行っている。道頓堀を始めとした、運河の整備に務めた結果、流通が盛んとなり、日本経済の中心としての機能を発揮していた。

 ここに来れば、何でも揃う。何でも売れる。何でも買える。それが、大坂の街であり、この土地に住む商人たちの誇りでもあった。そして、そんな賑わいを見せる街を歩く一人の行商人が居た。佐助である。

「やあやあ、毎度ご贔屓に」
 佐助は、行商人を装いながら、各地を巡って、情報収集にも努めていた。佐助は今、抜け忍となっている。見つかれば、命は無い。だが手柄が有れば、帰参が叶うかもしれない。場合によっては、もっと良い待遇という事も有り得た。従って、各地を巡り、有益な情報を掴む事が必要であったのだ。

「こちらは、おまけしとくよ」
「あら、おおきに」
 佐助は、人との間合いを測る名人であった。いや、忍びの技能としては、必要不可欠と言っても、過言ではないだろう。

 そして、その人と仲良くなる事に、佐助の右手が無い事が福となっていた。人と出会った最初は、右手が不自由な行商人など、怪しさの塊でしかない。しかし、その男が才覚ある者だと分かれば、人の心理として、自分より弱者に見える者が、頑張っている姿を見せる時に、ついつい応援してしまいたくなるのが、人情である。つまりは、その応援が、何かしらの情報として、佐助の耳に入る可能性を高くしてくれる要素でもあったのだ。

 佐助は、この体が不自由な行商人を装う事で、全国各地の状況をいち早く知る事が出来たと言えた。佐助は、ここ大坂の街で、各地を巡って集めた様々な品を売りさばき、その売った金で、また新しい物を仕入れて、また各地を巡るつもりでいた。佐助は今、なじみとなっていたある万屋(よろずや)を訪れていた。

「これ、この紐はなんだね?」
「へい。これは、近頃関西で人気の物で」
 佐助が出入りする万屋で見つけた物は、色彩も豊かだが、しっかりと丈夫に織られている紐であった。

「これは、お侍の兜の緒、腰の物や、農具を吊したりするにも便利な品物や」
「へーっ何て名前の物だい?」

「確か、さ…さな…だ、真田紐!そう、そんな名前だったね。何でも高野山の麓にある村に住む名のあるお侍様が作った物だとか?何って村だったか…」

「紀州九度山!」
「そうそう、えっ?よく知ってはりますな」
「ああ、旅の途中で小耳にはさんで…そうかい、これが真田紐かい。一つ貰うよ」
「はい、毎度おおきに」
 
 佐助は、この真田紐を手に握り締めながら店を出た。
(流罪となって、何年になる?こんな物を売っているとは…)

 かつての主である真田の名が、以外な形で聞こえている事に、複雑であるが、いささか嬉しいような気がしてくる。そんな事を考えながら、土産代わりのその紐を大事そうに、懐へとしまい、家族の待つ村への帰路を急ごうとする佐助であった。


 数日後、佐助は無事に村へと帰って来ていた。この大きな柿の木が生えている坂を越えれば、家族が居る家が見える。子供たちの喜ぶ顔を想像しながら、数ヶ月ぶりの我が家へ、歩が早まっていたのだった。

(何かおかしい…)
 その気配に気が付いたのは、佐助の忍びとしての本能なのか、それとも、家族を思う父親としてのそれだったのか。とにかく、佐助が家へ近づく程に、何かが起った事がより、鮮明となっていた。家の灯りが見えないのである。

 土地も持たぬ貧乏百姓ならばいざ知らず、土地も金もある佐助宅では、すでに家に何らかしらの灯りがあってしかるべき時刻であった。佐助は、不安から、駆け出していた。

「これは、どういう事だ!」
 佐助は、無残な我が家を確認したと同時に、大声を出していた。佐助の目に映る物は、暗闇でも分かる程に、煤汚れているというよりも、真っ黒に焼け落ちた、かつての家であった。

「千代、小助、蛍…」
 瓦礫と化した我が家の一部を押しのけながら、懸命に家族の姿を探す。左手だけで木材を放り投げ、泥をかき分けた。しかし、三人の姿はどこにも見当たらない。途方に暮れてその場に座り込んでいると、村の方から、一つの灯りが近づいて来るのが分かる。佐助は、それに気付くと、忍び業の速さで、その灯りに向かって走り出す。

「旦那さんでしょう?」
「うむ?」
 それは、村人の一人であった。佐助が帰っている事に気が付いて、来てくれたのだ。

「一体、何があった?」
 その村人の肩を掴み、大きく揺さぶる。それは痛いと何回か云わないと、気が付かない程に、佐助は狼狽していた。
「すまぬ。さあ、話してくれ」
「へい、数日前の日の事で…」

 その村人の男の話しによれば、ある晴れた風が強い、乾燥した夜の日の事。その男の貧相な自宅の隙間から、暗がりに真っ赤な灯りが漏れていた。何事かと外に出てみると、佐助の屋敷が燃えている。すぐに他の村人と共に、消火に当ったのだが、屋敷は全焼してしまったのだ。

「わしら、こんな風の強い日は、火をおこさねえように気を付けるんが…」
「そんな事はどうでもよい。わしの子は?妻は?」

「へい、火を消した後に、坊さんも嬢さんも見つけました。煤汚れたで、綺麗に拭きましたが…」
「妻は?どこに居る!」
「奥様は、お子さんたちを守るように、かぶさった格好で、い、今は寺に…く、くるし…い…」

 佐助は、いつの間にか、親切な男の首を絞めてしまっていた。そして、言葉を最後まで聞かずに、もう駆け出していたのだった。佐助のその速足に、男は腰を抜かしていたが、今はそんな事、どうでもよかった。早く家族の元へ。佐助の一念はそれしかなかった。

「御免、御免…和尚、誰か居らぬか!」
 寺に着くなり、固く閉ざされた門を強く叩き続ける。
「たれか?こんな夜更けに」
「わしじゃ、屋敷の主の佐助じゃ。今帰ってきた。開けてくれ」

「おう、旦那さんか?今開けるから待て。そんなに叩けば、門が壊れるわ」
 やっとの事で、門が開けられると、佐助は、中に飛び込むように入り込んだ。

「和尚、わしの家族は?」
 息切れしながら、必死に懇願するように家族の居所を聞いた。すると、和尚は、手に持っている蝋燭の火で、その場所を指し示すのだった。佐助は、フラフラとしながらもゆっくりと、和尚が指し示した方向へと歩を進めて行った。

「ほ、ほた…こ…」
 家族の名を呼びながら進むが、最早、言葉になっていない。その佐助の余りにもな様子に、後ろで見守る和尚も、そっと袖口で目を抑えていた。

 佐助が歩を止めると、そこには、まだ埋葬されて間もない墓があった。その墓には、盛り土に、墓標が挿してある。

「グックゥ~」
 墓標を抱くように、そこで泣き崩れる佐助であった。そこで、暫くの時間をただただ泣いていた。

 佐助は、暫く泣いていたが、急に立ち上がると、墓の盛り土を、左手で掘り返し始めた。急な佐助の行動に、とうとう狂ったかと、和尚も驚きを隠せない。

「何をする気じゃ!」
 和尚の言葉にも佐助は耳を貸さず、土を掘っていたが、やがて、手で掘る事の無情さに気づき、辺りを見渡して、鍬を見つけるとそれを手に持ち、また再び土を掘り返すのを辞めようとはしない。
「いい加減にせんか。この罰当たりが!」

 和尚は、語気を荒くして、佐助の左腕を掴んだ。当然の事である。
「どうしても、顔が見たい。和尚、後生じゃ、後生じゃ」

 佐助の必死の懇願に、和尚もついに折れて、仕方なく、お経を唱え始めた。せめてもの、慈悲である。その和尚の様子に、少し落ち着きを取り戻した佐助は、作業を続けた。そして、この作業が終わりを迎える頃には、陽が昇り始めていた。その間、和尚は、ずっとお経を唱え続けていれくれていたのだった。

 掘り進めると、木棺に行きついた音がした。佐助は掘るのを止めると、その木棺の蓋を刃物で恐る恐る開けてみた。

 すると、三人は、木で出来た大きな桶棺に、一緒に葬られていた。
「母親の手が、固く我が子を守っておってな。引き剥がすのが偲びなくてなぁ」

 和尚の言葉に、佐助は狂ったように泣いた。いつ振りかも思い出せぬ程に、泣いた事など、人前で感情を剥き出しにする事など無かった忍びの鬼が、ただただ泣いていた。和尚は、泣き崩れる佐助の背をそっと、いつもでも擦っていてくれるのだった。

 
 佐助の鳴き声と共に、やがて陽が昇る。
「和尚これを。永代供養としてくれ…」
 朝を完全に迎えるまで哭き尽くして、涙の枯れた佐助が、和尚に差し出したのは、行商で得た全財産であった。

「これから、どうするのだ?」
「分からぬが、もうここへは、戻らぬつもりだ」
 佐助は、決意の表情をしていた。佐助は、そのままこの村を後にする事にした。そんな佐助の後姿を和尚は、黙って見送ってくれているのだった。
いつまでも…

一人の稀代の忍びが居た。その忍びは、戦いの中で疲弊した心を、始めてもった家族に癒される事を知った。しかし、その家族を失った先に、この忍びが向かう所がどこであろうか、余人で知る者は、まだ誰も居ない。

 駿府を去ってから久しく、才蔵は、紀州国は高野山の麓にある九度山村を訪れていた。九度山村は、弘法大師空海の母が暮らした村であり、空海が月に九度、母に逢いに来たことから、その名がついたと言われている。この九度山には、関ヶ原合戦で西軍に付いた為に、戦後、流罪となっていた真田昌幸、信繁親子が暮らしていた。

 二人は、家族や一部付き従った家来たちと共に、ここに居を構えていた。この九度山の真田屋敷は、南に流れる丹生川を望める小高い丘の上に建てられ、門構えの造りに、家臣や侍女たちが寝泊まり出来る部屋があって、信繁親子の部屋と、当主の昌幸の部屋も別にあった。馬小屋もあり、納屋まで備えた、流人にしては、立派な建物を備えていたようである。

 しかし、紀州藩浅野家より、下賜される手当ては、年五十石と少なく、それゆえに日々の暮らしは困窮し、上田の信之へ、金の催促をした書状まで残されている程であった。

 才蔵がこの九度山の屋敷を訪れたのは、真田親子の流罪生活が、すっかり板についてきた日々の頃であった。時期は、紅葉の季節である。才蔵が屋敷の正面に立つと、門は開かれており、見れば、入口近くで、落ち葉を掃いている女の姿があった。多分、お付きの侍女だろうと思い、声をかける。

「御免、こちらは真田安房守様のお住まいで?」
「はい」
「私、幕府使番、滝川三九郎様の使いの者にて…」
「はい。旦那様は、縁側の部屋に居りますので」

 話しの途中で、縁側の部屋を指差し示す。才蔵は、どうにも腑に落ちぬまま、言われた通りに向かう事にした。少し進むと、開けた庭があり、小さな畑があり、野菜などを栽培している様子だった。途中、一人の男の子と一人の女の子とすれ違うが、才蔵を見ても何も言って来るでもない。干渉せずに、ずっと二人で遊んでいるのである。

(不用心過ぎる…)
 忍びである才蔵からしてみれば、こんなにも警備の薄い、要人の屋敷へ入る事が稀であっただろう。気を取り直して、歩を進めると、縁側の廊下で、壮年の武士が一人、庭を立ったまま眺めていた。才蔵は、この武士に見覚えがあった。すぐ側に走り寄る。

「左衛門佐様、お久しぶりに御座いまする」
 才蔵が片膝を付いて、名乗り出ると、信繁はすぐに、それが才蔵である事に気が付いた様子であった。

「才蔵ではないか、久しいの。上田の合戦以来か?大きゅうなったのう」
 才蔵が最後に信繁と会ったのは、まだ少年の時分であった。あれから、もうどれぐらいの年月が経ってしまったのだろうか。

「今日は、我が主、滝川三九郎様のお使いで参りました」
「そうか、そなたは、三九郎殿の所に居るのか。達者か?妹のお菊はどうしておる?子供は産まれたか?」
「お二人とも息災に御座いまする」

 信繁の屈託のない質問攻めに、才蔵は内心辟易していたが、そう嫌でもない。真田信繁という武将は、このように元来、陽気で誰に対しても分け隔てのない人物であった。そして、才蔵は、そんな信繁を好ましく思っていたのだから。

「左衛門佐様、それにしても、ここは不用心過ぎませぬか?先程も庭の掃除をしていた女に声を掛けましたところ…」
 才蔵は、ここに来てから会った屋敷の者の話しをしていた。名門真田家の当主の住まいであるのだから、もっと警備を増やすべきではないかと。

「ああ、あれは、わしの妻じゃ。そこに遊ぶは、わしの子たちじゃ。のう才蔵よ。戦の世も終わり、こんな山奥の流人を害する者など、たれが居ろうか?それよりも、お主のように、何か世間の話しが聞ける方がよい」

 信繁は、そう言って笑って見せた。これが、真田流の考え方なのだろうと、才蔵は心の内で妙に得心していたのだった。

「それで、お殿様は?」
 才蔵は、核心に触れる。流罪になっているとはいえ、真田安房守昌幸は、天下に名高い名将である。いくら才蔵とはいえ、真田の当主に再会するのは、緊張を要する出来事と言えた。

「父上は、奥の部屋に居られる。父上、客に御座るぞ。珍客じゃ」
「入れ!」
 信繁が声を上げると、一言だけ、野太い木霊が帰ってきた。才蔵の顔に緊張が走る。

「こっちじゃ」
「構わぬのですか?」
「何を遠慮する?」

 才蔵に部屋へ入るよう促す信繁であったが、才蔵が遠慮する理由が本当に分からない様子であった。普通、忍びの者が、大名と一緒の部屋で話す事などない。これが、後の世に稀代の名将と謳われた武将の長所なのか、短所であったか、才蔵には計りしれない事であった。

「父上、覚えておりますか?忍びの才蔵です。三九郎殿の使いで参りました」
 部屋に入ると、昌幸は、こちらに背を向けて、一人座っていた。見れば、ずっと碁盤に向かっている。

「才蔵?…滋野三郎は達者か?」
「我が父をご存じで?」
「お主の養父であろう?」

 才蔵は、驚いていた。昌幸は、自分の名を聞くと、即座に三郎の名を言ったのである。こんな殿様が他にいるだろうか?

「驚くことはない。父は真田家の者ならば、家臣の家族に至るまで、草の者だろうが、女中だろうが、草履取りも皆、記憶しておる」

 信繁が父親の秘密を暴露してみせたが。並大抵の事ではない。真田家の家臣が数千名として、その家族や、城使いの者など、千ではすまない。万を超す数の筈である。

「それよりも左衛門佐よ。今日は、そなたからであったな」
「はい、始めまするか。才蔵よ、悪いがそこで見ていてくれぬか」

 信繁は、そう言うと、部屋中に何やら紙を広げ始めた。才蔵もそれを手伝う。才蔵が広げて見ると、それは、絵図面であるようであった。それを信繁の指示する通りに置いて行く。そして、広げ終わると、部屋の真ん中に昌幸と信繁が居り、その間には、先程の碁盤が置いてある。二人は、それを囲んで、対する形で座った。

 才蔵は、対局が始まる事を感じて、邪魔にならぬように、部屋の隅で座る。そこで初めて、部屋中を見渡せる位置についた事で、先程の絵図面が、日本地図を模した形で配置されている事に気が付いたのだった。

(一体、何が始まるのか…)
 才蔵が不思議に思っていると、その絵図面の一つを信繁が拾い上げて、昌幸に見せた。

「今日は、上田城か?よかろう」
 その昌幸の言葉で、それが城の見取り図である事が分かった。大坂城、伏見城、上田城、そして、江戸城まで。日本全国に有る城の図面が、この部屋を覆い尽くしているのだった。

「さて、お主ならどう攻める?どう戦う?」
 その昌幸の言葉が、勝負開始の合図であった。しかし、才蔵が見れば、今から始まった筈の碁であるのにも関わらず、すでに碁石は、いくつも盤上に配置されている。しかし、それを二人とも、何も言わずに、当然の如く勝負を進めていくのだ。

 その二人の碁を見ていた才蔵は、心の中で唸っていた。そして、二人が何をしているのかを知ってしまったのだ。

「お二人は、九度山に来てから、毎日この勝負を…」
 堪らず口から出てしまった才蔵の問いに、二人は何も答えなかった。しかし、二人が漏らす笑みが、その答えを物語っていたのだった。

 昌幸と信繁は、この十年に及ぶ蟄居期間を、毎日、碁盤の上で、全国の城や戦場を模して、戦っていたのだった。今日の攻めては、信繁で、明日は昌幸と言った具合にである。攻めてが選んだ戦場を元にして、守り手が、盤上に、その戦場を再現するのだ。

(これこそ、真田流…)
 今は流罪の捉われ人であろうが、いつの日か、ここを抜け出して、華々しい戦場へと戻る事を決して諦めていないのである。それまで、ここで日夜、自らの戦術を磨く日々を送るのである。いつまでも、いつまでも…

 才蔵が見守る中、勝負は明日以降へ、持越しとなっていた。気が付けば、陽が傾いていた。二人の集中力に飲まれて、刻が経つのを才蔵も忘れてしまっていた。

「そう言えば、三郎がどうしたか、聞いて居らなんだが…」
 勝負の後に、茶を一服しながら、昌幸は思い出したことを才蔵に問う。
「父三郎は、殺されまして御座いまする」
「そうか、あれ程の手練れがのう。してたれに?」
「上月佐助!我が真田草の者の裏切り者に候」

 才蔵は、裏切り者の所を強調する。それが、憎しみの強さを物語っていたのだった。
「佐助…佐助と言えば、才蔵の実父の兄であったのう?」
「はい、確かそのようで」

 何気なしに昌幸と信繁の会話の中で、才蔵も知り得ぬ事実が判明して、愕然となっていた。才蔵は、己の血の気が引く音を聞いた気がしていた。驚いて声も出ないとは、この事であったろうか。

「関ヶ原の後、統率者を失い、草の者も苦労しただろう。内紛、裏切り、密告、他の大名に取り入り、次の働き場を探さねばならぬ。信之は、江戸から睨まれており、草の者を使えば、怪しまれるからのう」

 関ヶ原合戦の後に、世に謳われた武田家の透破(すっぱ)の流れを汲むと言われる、真田の忍びたちは、塵尻となっていた。昌幸の話しの通り、後を継いだ上田城主の信之は、草の者を使っていない。自然消滅的に、真田忍軍は崩壊したが、草の者が全員死んだ分けではなかった。

「元々を云えば、戦に敗れた我が不明が起こした悲劇、許せよ」
「いえ…」

 昌幸は、そう言うと、ごく自然に才蔵に向かって頭を下げていた。才蔵は、その光景に短く答えるのが精いっぱいで、それ以上の言葉を失い、呆然とするより無かった。


 才蔵は、九度山に数日逗留していた。三九郎とお菊の事、信之の事などを二人に語り、昌幸からも、信繁からも、留まるように懇願されたからであった。一つには、縁もゆかりもある真田家の元で、佐助に関する手掛かりが、少しでも有ればと思っての事であった。そして、そんな才蔵に転機が訪れたのは、それから十日後の事だった。何と、その佐助自身が昌幸と信繁を訪ねて、この九度山に来たのである。

 対面を許された佐助を名乗る男が、室内に入って来る。その様子を襖の隙間から覗く才蔵。程なくして、信繁が男を連れて来る。片腕の猿顔の小者、間違いない佐助であった。

「貴様―っ」
 才蔵は、佐助の顔を認識した瞬間に、全身の血が沸騰した感覚に捉われ、平常心を失ってしまった。才蔵は、勢いよく飛び出すと、佐助に襲い掛かった。

 しかし、才蔵の攻撃は、佐助にあと一歩で躱されていた。才蔵は、佐助の目の前に立ち、対峙する。そこで、ようやく我に返ると、忍びの本分である相手を観察する事を始める。見れば、佐助は、武器らしき物を持ってはいない。しかし、先程の才蔵の攻撃をしっかりと何かで防いでいた。

「三郎の倅か?」
「貴様、何をしに参ったか!」
 佐助の第一声に、また怒りが込み上げてきて、大声を張り上げる。しかし、当の佐助の様子がおかしい。これから、戦う者の気迫というか、鬼気迫る程の忍びのキレが見て取れない様子なのだ。

「殺すのは、話しを聞いた後にしてくれ。頼む、この通りだ」
 佐助は、そう言うと、何とその場で着ていた服を脱ぎ、ふんどし一丁の姿で、才蔵に手をついて、詫びたのである。佐助の思わぬ行動に、才蔵は、文字通り、振り上げた拳(刀)の下ろし場所を失ってしまった状態になっていた。

(仕込み刀に、仕込み棒手裏剣か…)
 信繁は、この異様な状況に、冷静に佐助を見ていた。佐助は、失った右腕に刀と手裏剣を仕込み、先程の才蔵の攻撃を躱していたに違いなかったのである。腕を失った今でも、その忍びの才が失われていない事を示していた。

「佐助、話せ」
 今までの状況をただじっと座して見ていた昌幸が。始めて口を開いた。これには、佐助も才蔵もただ平伏するよりない。流されても旧主の殿様であるのだ。

「わしは、家族の仇を討ちたいだけで御座りまする」
 佐助は、自らの身の上におきた事を涙ながらに訴えていた。家族が殺され、それが徳川の手による者の仕業だと。佐助の訴えは続く。

「墓を掘り返して確認したが、身体に刺し傷があった。間違いなく、忍び業」
 そう涙を流して語る佐助に、才蔵は、違和感を抱かずにいられない。

 それもそうだろう。今まで、佐助の事を冷酷非道な忍びの業に特化した、化け物のような男だと想像していた。いや、信じていたのだ。それが、仇である筈の当人が今、目の前で、情けなくも涙ながらに家族の仇を話しているのだ。

「自業自得ではないか?それに、我が養父を、父母を殺したは、お前ではないか!」

「それはそうじゃが、そうせねば、わしが死んでいた。致しかたなかろう?」
「何じゃと?」
「やめよ!」
 一触即発の事態を信繁が間で抑える。才蔵は、仕方なく引き下がるしかない。

「で、佐助よ。わしにどうしろと?」
 昌幸のドスの聞いた声に、佐助は生唾を飲み込む。忍猿と謳われた稀代の忍者である佐助であっても、昌幸には頭が上がらない様子であった。

「お殿様が再び挙兵される日まで、この佐助めをお使い下され」
 佐助は、力いっぱい頭を下げた。本心からであった。家族を持ち、また失う事で、忍びの世界に嫌気が差していた。しかし、このまま引き下がり、世捨て人のように生きる、或いは死ぬのは、もっと辛い事であった。

「日の本中を巡り、異変あらば、殿に逐一知らせまする。お下知には、何でも従いまする。どうか、どうか…」
「左衛門佐、そなたが差配せよ」

 佐助の懇願というか、哀願に昌幸は信繁に託すと、横を向いて、寝転がってしまった。後は、お前が纏めて見せよという意味だと、信繁は捉える事にした。

「しかし、国を巡ると言うても、そなたのような片腕の忍びが動けば、かえって目立とうぞ」
「その点は、心配要りませぬ。これが肝要にて…」

 佐助はそう言うと、先程脱いだ着物の中から、ある物を取り出してきた。
「これは、我が里で織られる紐ではないか?屋敷の侍女たちが、何かの足しにと織っては、村で食物と交換しておる物だが…」

 腑に落ちない信繁は、才蔵と顔を見合わせる。その両者の顔は、疑問に満ちていた。
「これは、真田紐と巷では呼ばれて、幻の一品として名高い。これを織りて、売り歩きまする。そして、情報を仕入れる。金も手に入り、情報も手に入る。一挙両得で御座る」
「はっはっはっ、決まったの。左衛門佐よ」

 先程まで、寝転がっていた昌幸が、いつの間にかに、再び起きて、顔を出していた。しかし、これで事は決した。佐助は、再び真田に仕える事となったのであった。

 しかし、まだ許されぬ事が一つ残っていた。
「しかし、才蔵の事がある。どう思うか?」

 問われた才蔵は、返答に窮していた。私情を云えば、勿論殺したい相手だった。だがしかし、それでは、旧主に背く事になりはしないだろうかと。

「佐助よ、二つ約束せよ。一つは、我が主、滝川三九郎様に了承を得る事。もう二つは、事を成した暁には、我と勝負する事」

「承知!」
 佐助は、短く答えた。

 その表情からは、読み取れないが、きっと感謝しているに違いなかった。今は、そう信じてみるしかない。
「よかろう。娘婿殿には、わしから書状を認めよう」
 昌幸は、言うが早いか、もう筆を取り始めていた。

「才蔵、これで良いのか?」
「三九郎様は、大御所にお仕えしておりまするが、江戸の将軍の廻りは、危険で御座る。我が主を害する者は、総て敵にて候」

 信繁からの問いに対する、それが才蔵なりの答えであった。しかし、才蔵には、佐助に更に言っておかねばならない事が残っていた。

「我が父母を、お前の兄弟をどうして殺したのか?」
 真っ直ぐな才蔵からの問いに、佐助は観念した様子で、一つ息を吐いた。
「わしも弟も、騙されたのじゃ」
 佐助は、語り始めていた。

 それは、昌幸と信繁が九度山に流罪と決まり、上田城を出た後の事であった。真田の忍び達は、混乱の極みとなっていた。忍び世界の組織である上忍、中忍、下忍の情報伝達も間々ならず、これからどうするのか誰も分かっていない時期である。真田家の領地である上田城が、信之に安堵されたのは、それから、少し経っての事であった。この時期には、様々な流言飛語が飛び交い、混乱する家中をさらに混乱させていた。

 ある者は、真田家は取り潰されると言い、ある者は、国替えで、寒い僻地に飛ばされると言い、そこに草の者の活発な動きが絡み合い、収拾が付かなくなっていたのだった。これは、徳川方の伊賀者の動きであった事が、後に佐助の耳に入ってきていた。

 そして、信之が徳川からの疑念を逸らす為に、断腸の思いで、草の者を手離す事を決めた時に、佐助の運命も極まったと言えた。

 伊賀者忍び達は、ある情報を流したのだ。曰く、真田信之は、必要なくなった草の者達を全員始末するつもりであると。これに結束を誇った真田の草の者たちは、何派かに別れて争いを開始してしまったのだ。

 忍びは、隊に別れて行動すると言われている。この時もそうであった。佐助と才蔵の父母は、隊が別であった。三郎は、他の任務で違う国に行っていなかった。上の者からの命令がぜったいである事は、忍び世界でも同じである。そして、不幸にも佐助の隊と、才蔵の父母の隊は、敵同士となってしまった。暗闇の中、迫る敵を怯むことなく、刃で貫くと、見知った顔であった。

「致し方なかった。相済まぬ事だ。せめてもの事であるが、三郎兄に、お主の事を託せるように取り計らい、わしは出奔した。そうしかなかった。あの伊賀者を手引きした者を探る為に徳川へ付いた。しかし、いつの間にか、わしは、引き帰せぬ所まで、踏み込んでしまったようじゃ…」

 これで、佐助の告白はすべて終わった。この部屋に居る、佐助を除く三人は、だまった話しを聞いているのだった。


「一つだけ誓え。もう真田家を裏切らぬと。それを誓うならば、そなたの仇討ち、力を貸さぬでもない」
「許してくれるのか?」
「許すとは言うて居らぬ。誓えと言うて居る」
「誓う、誓うぞ」
「破れば、もう一つの腕も切り落としてやる」
「ああ」

 実の叔父と甥の会話としては、いささか物騒ではあったが、色々と因縁のある忍び同士のそれが、どうにかした着地点であったのだろう。

「よし、話しが纏まったならば、軍議を行う。各々方よいか?」
 高らかに、昌幸の言葉が舞う。それから四人は、さらに数日をこの屋敷にて、天下の計を巡らすために話し込むのであった。季節はもうすぐ立冬を迎えようとしていた。
 
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