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一路、大坂へ
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「良くぞ戻った才蔵」
旅から戻って、三九郎とお菊に喜んで迎えられる才蔵であったが、滝川家には、別の喜びもあった。何と結婚十数年にして、三九郎とお菊の間に、男の子が誕生したのである。祖父昌幸の死の二年後に誕生したその赤子は、豊之助と命名された。
「目元が、父上に似ておりまする」
「存外、名将の器だったりしてのう」
三九郎は、父親になった自分を楽しんでいるようであった。
男であるにも関わらず、赤子を自分の手であやし、寝かしつけたりもしていた。お菊も乳母になどは一切任せずに、母乳で育てていた。この時代の武士、しかも一千石以上の上級武士が、自分で子育てをする事は珍しい。
乳母や傅役を家臣より選び、任せるのが常識であった。だが、この二人にとっては、時代の常識や、武士の格式などは、無縁の様子であった。滝川家は、この時期、平和で幸せの時を過ごせている。
そんな折りの慶長十九年(1614)一月十九日に、日の本中が震撼する事件が起こる。大久保忠隣改易事件である。
忠隣は、幕府老中首座の地位にあり、小田原藩主として、将軍秀忠の側近中の側近であった筈の人物である。家康の後継者を決める重臣会議の場においても、秀忠を一貫して後継者に押し、秀忠の後見役と名高い人物であった。それが、如何様にして、改易という憂き目の転落を味わうに至ったのだろうか。
いつの時代にも起こりえる事柄があった。徳川家は、家康と苦楽を共にしてきた、三河以来の家臣団が主軸となって、その結束力と団結力とで、天下の徳川と成長、発展してきた組織である。
であるからして、(俺たちが殿様に天下を獲らしめた)と自負する譜代家臣間での共通認識とでも言うべき物があったように思えてならない。そして、それらの意識が強大な権力と結びついた時に、必ず起きてしまう事があった。そうである。家臣間の権力闘争であった。
話しは、九度山から戻っていた才蔵が、佐助を伴い、幕府中枢を探り始めた事に端を発する。才蔵は、子供が産まれて、人生初の幸福の最中にある主を、巻き込む事を潔しとせず、佐助の思惑に協力し、三九郎の敵になり得る人物を、この際、排除してしまおうと持眩んでいたのだった。
或る夜、才蔵と佐助は、柳生屋敷に忍び込む事に成功していた。二人は、屋根裏に忍び込むと、奥の部屋の上から部屋中を覗く。すると、そこには、屋敷の当主である柳生宗矩と、筆頭老中である大久保忠隣の姿があった。
「相模守様(忠隣)、余り無茶が過ぎると、上様のお耳に入りますぞ」
「但馬守(宗矩)よ、案ずることはない。たかが、寒村の一家族を始末しただけの事」
「伊賀者の監視として、我が柳生の者をお貸し致したのです。それを…」
「但馬、何を思い患う?」
話の内容からして、何かの陰謀の話しであっただろうが、それが何であるかまでは、判別出来ない。
「まだ奴が裏切ったかも、死んでいるかも分からぬ内に、家族にまで手を掛けるは、いささか…」
「お主がそのように手ぬるいから、わしが直々に、伊賀を動かしたのだ。抜け忍の一匹や二匹、どうという事やあらん?」
「はっ」
「裏切れば、こうなると示す事こそ肝要ぞ」
忠隣は、この日、相当に酒を喰らい、酔っていたと見える。偉く饒舌で、いつもの無口で威厳に満ちた彼ではなかった。日々のストレスの発散もあったのだろうが、そのいつにないただ一度の饒舌が、彼の運命を決定づける事になるとは…。
「但馬、知っておるか?聞いたのだが、抜け忍を始末するのに、伊賀者は徹底して、その家族までいたぶるそうな。例えば、泣き叫ぶ子供の目の前で、母親を犯し、殺した上で、その子供の断末魔を聞くそうな」
「大分、酔っておられますな。今のは、聞かなかった事にしておこう。お送りせよ」
宗矩は、首を横に振りながら、酩酊している上司の介抱を家臣に押しつけて退室する。
宗矩は、そのまま自室に戻ったのか、その日、再び姿を見せる事はなかった。話しの内容から、すべてを悟ってしまった佐助は、忠隣の言葉に激しく反応し、屋根裏で暴発寸前となっていた。
(おい?ここは堪えよ)
今にも忠隣の元へと襲い掛かりかねない佐助を、才蔵が必死に止めていた。
無理もない話しだ。家族の仇と、事の真相を突き止めるべく、動きだして、その尻尾を掴んだのだ。しかし、ここで飛び出せば、犬死するのは確実であった。忠隣一人を殺した所で、どうにもならないのである。佐助は、自分の半分残った右腕の先を、思い切り噛みながら、口に広がる自分の血の味を知る事で、この無情な状況に、どうにか耐えようとしていたのだった。
そして、
(許すまじ、許すまじ…)
と頭の中で反芻しながら、自分の中の憎悪が消えてしまわないように、身体の中に刻み込んでいるかのようであった。
屋敷を脱出してから、才蔵が話しかけても、佐助はずっと黙ったままであった。その日は、そのまま解散し、日を改める事とした。しかし、それ以来佐助は、連絡用に決めた場所に現れる事はなかったのである。佐助は、この日を境に完全に姿を消した。
仕方なく、一人で忍ぶ事を才蔵は始めた。まず手始めに、忠隣の大久保家と、仇敵関係にある者に焦点を絞った。それが、佐助を探す糸口になると考えたのである。
(佐助め、何を仕出かすつもりか…)
佐助と才蔵との間には、敵という共通点があったが、その意図は違う。才蔵は、あくまでも、三九郎の邪魔となりうる者を排除出来れば良いが、佐助は、それも含めた徳川全体の天下が邪魔なのである。
それが、彼の復讐であるだろうと、才蔵は考えていた。そして、徳川の家臣である滝川家の家人である才蔵と、真田本家に仕える佐助の求める先の違いが顕著になった時、その行きつく先は、やはり、佐助との決着でしかないのかもしれない。いずれにせよ、現段階では、才蔵は佐助を見つけて、暴発しないように監視するのが、一番の得策であった。
才蔵はその夜、一人である屋敷へ忍び込んでいた。どうやら、先客はいないようである。
「父上、これからどうなさるおつもりです?」
「正純、狼狽えるな。大御所様が、我らを見捨てる事があろうか?」
ここは、家康の参謀と云われる、本多佐渡守正信と、その嫡男で上野介正純の屋敷であった。本多家と大久保家は、仇敵同士で、特に大久保家の筆頭である忠隣と、本多家の正信、正純親子は、お互いをどうにか引きづり下ろそうと、日々画策する間柄となっていた。
今は、正純の家臣であった岡本大八なる者が仕出かした不祥事によって、親子で自主的に謹慎している状態であった。本多親子は、現在巻き返しの策を考えている所である。
本多正信は、主君家康より、五歳年上のもう老年の域に達している人物であったが、老中首座として、幕府の御意見番的な立場にあった。元々が鷹匠上がりであり、武功とは縁がない。智謀の冴えで、家康の覇業を助けてきた男である。徳川家が行う策謀のすべてが、彼の頭の中にあると評されており、家康より厚い信頼を受け、我が友とまで呼ばれる仲であった。そして、息子の正純も、父譲りの才覚で、家康付側近として、辣腕を振るっていた。云わば、親子して、策謀の専門家であった。
「トラの尾を踏むぞ」
「父上、まさか!あそこは、禁忌では?」
「ならばこそだ。例の忍びを使う。忠隣の吠え顔が見られるわ」
「上手く行くでしょうか?」
「正純、覚えておくが良い。策とはな、敵が掛けたと思っておる時が、実は一番掛かり易い物じゃ」
「御意…」
親子の会話は、そこまでであった。さすがに用心しているのか、誰にも気づかれぬよう核心には触れず、内容は分からない。しかし、「例の忍び」というのが引っ掛り、才蔵は、更に調べてみる事にした。
才蔵は、このように昼夜を問わずに様々な主要要人からの情報収集を行い、そして得た情報を元に、佐助が行きそうな場所を探る毎日を送っていた。
そんな忍びとしての充実?した日々を、才蔵が過ごしていたある日の事であった。
「才蔵、何か隠しておるだろう?」
「いえ、何も…」
「本当か?」
「本当です…」
「ならよいが…」
三九郎に問い詰められた才蔵は、言うべきかを悩んでいた。主君に嘘を言う自分も嫌であった。例え嘘を言うのが、忍びの当たり前であったとしても、三九郎の前でだけは、真実の自分でありたいものだ。
「オギャーッ」
「おお、よしよし」
我が子が泣き出したのを合図に、会話はそこで中断される。やはり、一人でやるしかないと決意を秘めた才蔵であった。
慶長十八年(1613)四月二十五日、天下の総代官と謳われた、大久保長安が死去した。長安は、元を武田家の猿楽師上がりという経歴の持ち主である。
徳川家に仕えてからは、忠隣の与力として大久保姓を与えられて、主に新田開発や堤防建設と、金山の採掘に才があり、官僚としても素質を発揮すると、外様でありながら、老中にまで出世を果たした異能の人物であった。徳川の金は、すべてこの男が握っていると言っても過言ではない人物であった。
その男が死んだ。そして、その事で今、天下は揺れていた。長安の死後に発覚した彼の不正横領によって、長安の家族・郎党に至るまで、悉く処刑、処分されてしまったのであった。
才蔵は、何か引っかかると思い、事の真相を探る事にした。そして、案外、呆気なくというよりも、佐助から姿を現すようにして、彼を発見したのである。
「どこにいた?いや、そんな事はどうでも良い。一体、何をしたのだ?」
「特に簡単な事だ。死にかけの爺様の旅立ちを、早くして差し上げたのだ」
「貴様…」
「感謝しろ。これによって、お前の主の敵が減るのだからな」
「何?」
「分からぬか?大久保党の主は、今、京にバテレン追放の為に行っているが、そこで捕縛される手筈よ」
「何が狙いぞ」
「わしの家族を奪った奴らに、死よりも重い苦しみを味あわせる」
そう語る佐助の血走った目を才蔵は見た。狂っていると正直に思った。会わなかった短い年月の内に、佐助の表情は、また険しく、恐ろしい物へ、変貌しているかのようであった。
(この男を野放しにしておくのは危険だ)
才蔵は、そう感じていた。
「そして、徳川をも滅ぼす気か?」
佐助は、それには何も答えず、ただ不気味に笑い返すだけであった。しかし、その事が才蔵に決意させるきっかけとなる。
(斬るべし!)
才蔵は、思うが早いか、刀を抜き放ち、佐助に斬りつける。
才蔵が斬りつけた刃を、佐助は、失われた右腕の仕込み刀で、咄嗟に跳ね返していた。
「やはり、お主とはこうなったか?致し方なし。わしの願いは、真田家再興と徳川を滅ぼす事よ」
「真田なら、あるではないか?」
「その真田ではない。九度山に居られる方こそ、真の真田ぞ!」
今度は、佐助が仕掛けようとする。右手には仕込み刀、左手には、棒手裏剣である。そして、両者がぶつかり合う、その時であった。
「双方待てーっ!」
大喝とともに、三九郎が二人の間に割って入ってきたのだ。右手大刀で佐助の仕込み刀と棒手裏剣を防ぎ、左手脇差にて、才蔵の刃を受け止めるという神業を見せていた。稀代の忍びの二人も、三九郎の斬撃の前では、動けないでいた。
「殿、おどきくだされ」
「邪魔するな。才蔵から仕掛けた勝負ぞ」
しかし、次の瞬間、三九郎は、力業で忍び二人を後方に吹っ飛ばしてしまったのだった。二人は、そのまま後方へと上手く飛んで躱す。しかし、三九郎は、そのまま両方の刃を二人に向けたままで、威嚇を続ける。佐助と才蔵の鼻先には、三九郎が突きつけた剣先があった。二人はそのまま動けないでいた。
「今争うは、利非ず。双方とも引け」
「今、佐助を止めねば、後々禍となりまするぞ」
「おう、望むところ」
いきり立つ二人を鎮めるかのように、三九郎は、刀を鞘にしまうと、落ち着いた口調で語り始めた。
「間もなく、大戦(おおいくさ)が始まるやもしれぬ。決着は、そこで着けよ。想像してみよ。忍びであるそなたらが、馬を戦場で駆る姿を。どうだ?」
三九郎は、殊更にからかうような口調をする。
しかし、この際の効果は適面であっただろう。二人は、自分の姿を想像してしまっていた。忍びが表の世界で、脚光を浴びる事は稀だ。いや、浴びてはならない職業である。しかし、その掟が通用しないのが、戦であった。
「佐助、九度山に戻り、義兄上を頼む」
佐助は、コクンと一つ頷いた。
「才蔵、佐助を今は行かせよ。これは主命ぞ」
「畏まりました」
才蔵は、渋々了承すると、やっと佐助に刃を向ける事をそこで止めた。
「さらばだ」
それだけを言い残すと、佐助は、忍猿の異名らしく、すぐに暗闇へと姿を消した。後には、三九郎と才蔵だけが、その場に残っていた。
「殿、本当に宜しかったので?」
「奴ともまた会う気がしてならぬ。わしの感よ」
それは、三九郎の予言であったのか、ただの願望であったのだろうか。現時点では、判別出来る事ではなかった。
後日、佐助の言った通りに、大久保忠隣は改易となった。理由は、幕府への反逆未遂の罪である。彼の小田原藩は取り潰され、流人となった。言うまでもなく、本多親子との暗闘に敗れたのであった。
大久保忠隣という武将は、名前の示す通りに、忠義が隣に居るような、一途な男であった。武功派の第一人物であり、実績、名声、人望とも本多正信を上回る。彼の敗因は、策謀が得意な本多親子に、策謀で挑んだ所にあった。本来実直が服を着て歩いているような彼が、慣れない策謀を弄しようとして、返り討ちにあったと言えた。策謀を弄した時点で、彼の負けは、決まっていたことであっただろう。
忠隣は、無実の罪か、もしくは、大久保長安の罪に連座する形で改易となった。この事を後年、ある人物より、幕府に直談判して、地位を回復するように促されると、
「私が赦免を願い出れば、それは、お上の裁定に異を唱える事になる」
そう言って、赦免願いを出さなかったという。大久保忠隣は、正しく忠義の人であった。
忠隣は、流罪を京の都で、京都所司代、板倉勝重より聞いた。その時、忠隣は、将棋を指していたという。罪状を聞くよりも早く、「罪人となれば、将棋も指せまい。勝負がつくまで、暫し待たれよ」と言い、終始落ち着いた様子であったという。彼らしい豪胆な逸話である。忠隣は、流罪先で出家し、七十五歳の天寿を全うした。
しかし、当然ながら、将軍秀忠は、この処置に反対した。だが大御所家康の裁定には、逆らえきれなかった。家康は、或る時秀忠に聞いた事があった。
「なぜ、忠隣を改易に処したか分かるか?」
「それは、謀反の罪で…」
「差に非ず。大久保と本多との争いを、終わりにする為ぞ」
「しかし、父上…」
「大久保を勝たせずに、不服そうじゃのう?」
「いえ、決して、そのような…」
「まあよい。いいか、大久保は、長安が築いた金によって、私服を肥やしていた。それが一つの罪、そして、忠隣も正信も長安も老年じゃ。これらが死ねば、誰が残る?」
家康と秀忠、天下人の親子だけの会話は続く。
「正純じゃ。忠隣は、嫡男を失った。大久保は後が無い。しかし、本多には正純がおる」
そう言って、家康は、茶を旨そうに干した。秀忠もそれ以上何も言わなかった。この件で、親子が会話したのが、これだけであった。
しかし、この時の会話が深く、秀忠の心のシコリとなって残り、後年本多正純は、将軍秀忠に疎まれて、失脚してしまうのである。父正信は、自分は武功が無く、家康の覚え見出たいのを知っており、他者に疎まれないよう、決して、大領を得なかったという。そして、死に際に、息子にも同じ教訓を遺した。
しかし、正純はその禁を犯し、秀忠から宇都宮十五万国への転封を受け入れてしまう。しかし、それから僅か三年後に、正純は改易となる。罪状は、謀反の疑いありであった。これが何を示していたのか、正純には、理解出来ていたであろうか。賢き彼の事である。きっと逃れられない因果応報の運命には逆らえきれない事を悟り、忠隣同様に、何の言い訳もせずに、流罪となって、その流刑国へと旅立っていった。
しかし、これは、後年に起った、また別の話しである。反対に、その後の大久保家であるが、忠隣の孫が後年許されて、小田原藩主として復権するのである。本多家と大久保家、最終的な勝者がどちらであったと言えるだろうか。
慶長十六年(1611)六月四日、紀州九度山にて、流罪蟄居中の真田安房守昌幸がその波乱に満ちた生涯に、幕を下ろした。享年六十四歳であった。名門甲斐源氏の武田家の重臣であった真田幸隆を父に持ち、名将武田信玄の母方の名家であった、武藤家に養子に入る。順風満帆と思われた人生が最初に躓いたのは、長篠の合戦において、二人の兄が戦死し、真田家に急遽、呼び戻されての当主襲名であった事だろう。
そして、武田家滅亡後に、様々な同盟と破談を繰り返し、主君を衣替えするように変える事で、戦国の乱世を生き残ってきた。精鋭揃いの徳川を敵に回して、二度蹴散らすという離れ業をやってのけ、その武名を轟かせた。
事に籠城戦においては、この時代に彼の右に出る者は居ない。そんな昌幸も、流罪生活が十一年に及び、病がちとなり病没する。彼が最後に息子信繁の残した言葉は、
「大坂へ…」
それだけであった。その言葉を胸に、まだこの時期、武将としての名望は無いに等しい真田左衛門佐信繁という男が、今後どうなって行くのかは、これからの事である。
昌幸の死から三年後、信繁は、まだ九度山に居た。九度山の冬は早い。その冬を連れて来る降りしきる雨の空を飽きる事なく、眺めていた。
ただ一つの事を思っていたのだ。
(戦の気配が近づいている)
これが、信繁の考える一念であり、この時代の戦を経験した武将たちの、或いは、共通認識であったかもしれない。そう大坂の事であった。
その大坂である。
大坂とは、古代から難波、浪速と呼ばれ、海外貿易の玄関口として栄えた街であった。古代よりの呼び名が、現代でも使われ続けているのは、珍しい例であろう。大坂という呼称を最初に使い始めたのは、石山本願寺であったされている。本願寺は、戦国の覇者、織田信長との十年以上に及ぶ抗争を、ここ大坂で耐え抜いた。
この点、天下人となった豊臣秀吉が、自分の根拠地に大坂を選んだ事と無関係ではないだろう。本願寺は、信長との抗争の最後期である、約一年以上を自給自足で凌げたという。
それを可能としたのが、上町台地という土地柄であった。この古代より大阪湾に突きだした台地の高台に、秀吉が難攻不落の城を築いたのは、慶長三年(1598)であった。築城を始めたのが、信長の死の翌年であり、早くからこの地に目を付けていたのが分かる。
一説には、信長も大坂に城を築く構想を抱いていたともあり、この地が古代から現代に至るまで、如何に重要な土地であったかが、理解出来る。
そして、この大坂城の現在の主が、秀吉の遺児豊臣秀頼とその生母淀君であった。秀頼は、この時、二十二歳の若武者で、身の丈六尺五寸(約2m)の大柄な武将であったという。
父秀吉が小柄であった事が有名な為、当時でも秀吉の息子ではないのではないか?という噂はあったそうであるが、これは、淀君の父である浅井長政と、母お市の方がやはり大柄であった為、種の主がどうであるかは、兎も角として、祖父母の血筋が濃く現れた事は確かであった。
秀頼は、この時、右大臣を辞任しており、正式には、豊臣朝臣前右大臣秀頼公となる。家臣一同は、右府様と敬称して呼んでおり、これは、淀君の叔父、織田信長を模倣した事であった。この辺りにも、真の天下人は、秀頼であるという自負があった為であろうか。
そんな豊臣と、現在の実質的な天下人である徳川とが不仲となったのは、今が始まりでは無かった。関ヶ原合戦に勝利した家康は、慶長八年(1603)征夷大将軍となって幕府を開いた。
これにより、秀吉が築いた藤原摂関家に豊臣氏を加えて、貴族社会を取り込んだ実質的な武家政権から、幕府という、貴族的な要素を排除した武家政権の樹立を宣言したのだった。
江戸という関東の要所を本拠地としたのも、源頼朝以来の武家政権を建てる根拠と言えた。家康は、将軍就任に三年という年月をかける事で、周囲の様子をじっくりと観察している。
徳川家康とは、余り無理をしない男だ。彼は、豊臣秀頼と事を構えるのも、年月をかけて、我慢している。現在が慶長十九年(1614)冬であり、将軍宣下より、実に十一年も費やしている。
だが、実際の所、家康の豊臣家に関する対策は、消極的なソレであっただろうと思うのだ。家康は、ひたすらこの問題を後回しにして、時期を伺っていたように思われる。この点、果断速攻を得意とした信長、臨機応変と、迅速な対応の秀吉とは、正反対である。
しかし、これをもって、徳川家康という人物が、優柔不断であったかと言えば、そうではない。家康の最大の長所は、期を見る力が長けていた所であっただろう。
家康は、幼少時代から、織田家や今川家の人質として過ごし、いつ殺されるか分からない生活を送ってきた。最初の転機は、今川義元が信長によって敗死した事であっただろう。これを好機と捉えて、三河に戻り、今川家からの独立を宣言すると、織田家と同盟を結んでいる。
そして、次の転機は、信長が死んだ時であった。家康は、空白となっていた甲斐国へ攻め込むと、これを我が物として、力を蓄える。その後、秀吉と争うが、秀吉の力が強大である事が分かると、従属して秀吉に仕える。
そして、秀吉死去後に、関ヶ原合戦において、勝利すると、幕府を開いて天下人となったのであった。このように、家康は、待つ姿勢と、攻める時期とを、実にわきまえていたと言えた。待つと決めれば何年でも耐え忍び、攻めると決めれば、時を掛けずにすぐに攻めた。
そして、今が攻める時であると睨んだ家康は、兵を果断に動かしたのであった。
今回の戦の転機は、慶長十六年(1611)三月二十八日に行われた豊臣秀頼との二条城会見であっただろう。天皇譲位と即位式の為に上洛した家康が、豊国神社を詣でた秀頼を迎える形で会見は行われる事となった。
家康は、外まで秀頼を自ら迎えて、対等な立場での会見を提案したが、秀頼がこれを固辞し、家康より盃を受ける事で、下位に付く事を現している。この会見には、秀吉の正室であった高台院ねねも後見役として見守り、加藤清正、福島正則、浅野幸長、池田輝政、藤堂高虎といった豊臣家恩顧の大名も列席する日本国中の視線が注がれると言っても、決して言い過ぎではない重要な歴史的会見であった。
秀頼は、会見中、終始堂々たる態度を見せたという。家康は、会見後に秀頼を評して、
「あれは、人の言う事を聞くものではない」
との言葉を残したと言われる。
これをして、家康が秀頼の器量を恐れて、戦を起したとする説が今も根強く残っている。しかし、家康は、この会見後の豊臣家を見ていて、むしろがっかりしていたのではないかと思うのだ。
幕府は、豊臣家を武家としてではなく、他の五摂家の公家衆と等しく扱おうとした節がある。つまりは、領土などの実質的な力を持たない代わりに、関白・太政大臣の位を授けて、封じてしまうつもりだったのではないかと。家康は、秀頼の人物を見て、(家康を立てて、臣下の礼をとる)それが出来る人物だと思ったのではないか。
つまりは、人の言う事を聞くものではないとは、淀君などの大坂城の連中ではなく、時流を見極めて、判断出来る人物になるのではないかという、期待の言葉だったのではないだろうか。
家康は、将軍秀忠の娘の千姫を秀頼に嫁がせ、姻戚関係を築こうともした。孫婿に対する配慮をずっと続け、この数年前に会見を申し入れて、それを淀君が一方的に断った時も、不問に付した。そうやって、ようやくたどり着いた会見であった。世間も思った筈だ。これをもって、関東と関西が共存し、世に平和がもたらされると。秀頼公もいずれは、関白職に就くのだと。
しかし、この会見後も大坂方は、依然として変わる所が無く、幕府の威光を無視し、諸侯へ影響力を与え、朝廷にも幕府の許可なく、家臣に官位を得るなどの行為を行い続けた。
家康は、齢七十歳を過ぎ、自分の死期を悟るに至り、最後通告として、豊臣家を封じる手を打ってきたのであった。それが、世に悪名高い言いがかり、方広寺鐘銘事件である。「国家安康」、「君臣豊楽」である。この鐘に家康の名を呪い、豊臣家の繁栄を望んだ文字が刻まれているという非常に馬鹿馬鹿しいこじ付けにより、戦の火蓋が切られたと言って差しつかえないであろう。
最近の研究では、この文字を刻んだ清韓というお坊さんが、揶揄や洒落を込めていたとする説もあるが、要するに幕府にとって、理由は何でも良かった筈であった。豊臣家は、釈明の為に、家老の片桐且元を駿府に派遣したが、且元は家康に面会する事も叶わない。ただ日々を逸するばかりであった。
痺れを切らした大坂では、大蔵卿局を駿府に派遣した。大蔵卿局は、大野治長、治房兄弟の母にして、淀君の乳母であり、その側近として、大坂の奥を取り仕切る人物であった。そして、あれ程且元が会えなかった大御所家康に、大蔵卿局は、あっさりと会えたのである。
家康は、殊の外上機嫌であった。家康は言う。
「此度、手違いの儀、誠に遺憾なれど、どうという事もない。大坂の思いは、良く心得ておる。別儀無く過ごされよと、大坂には伝えて貰いたい」
「大御所様のご配慮、痛み入りまする」
家康の言葉に安堵した大蔵卿局は、立ち返ると、その事を秀頼や淀君に伝えた。
「何も問題御座りませぬ。じきに解決致しましょう」
大坂は、この報告に安堵し、方広寺の例の鐘の作り変えを考えていた。そのような時に且元が大坂に帰って来る。且元は、結局家康に会えず終いで、帰って来たのだった。
しかし、且元は、駿府にて連日、家康側近の本多正純や、金地院崇伝らと協議を重ねて、幕府からのある三つの条件を持ち帰ったのである。
一、 秀頼公幕府に参勤の事
二、 淀君、江戸人質に出す事
三、 大坂城より、他国へ移る事
この三つの条件の内、どれかを飲まなければ、戦になると報告したのであった。この且元の言葉に、大坂は疑問に思う。大蔵卿局の報告とは、真逆であったからだ。しかも、且元は、すんなり会えた家康にも会わず終いであり、帰還するにも時が掛かりすぎている。
(且元は、幕府に通じておるのではないか?)
それを最初に思った者は、誰であったのか?恐らく、その場に居た誰もがそう思ったのではないだろうか。且元は、元来忠誠心の高い人物であり、秀吉が存命中に秀頼の傅役に抜擢した人物であった。
関ヶ原合戦後、実質的に徳川家と豊臣家の折衝役を務めてきたのは、彼であった。それゆえに家康からの信頼も篤い人物である。それが、今回は仇となったと言えた。
「今逆らえば、豊家は終いですぞ!」
且元の内には、豊臣に対する忠誠心しか無かっただろうが、見る側の目が曇っていては、どうにもならなかっただろう。
秀頼は、というか淀君を中心とした大坂方の首脳陣は、且元を謀反人として罰しようとした。大野兄弟は、且元を襲ってしまおうと計画し、それを事前に察知した且元は、致し方なく、大坂城を退去せざるをえない状況となってしまったのであった。
駿府の大御所家康は、これを聞いて喜んだと言う。
「しめた。睨んだ通りじゃ!」
家康からして見れば、本音は、且元に内々に突きつけた三つの条件を総て、呑ませる事にあった。
秀頼は、一万石程度の一大名として遇する。しかし、家格は五摂家と等しくする。これを落としどころと、思っていたのではないだろうか。
そして、それを実行する為には、大坂城を大軍で囲む必要があった。大軍で囲んでしまえば、大坂はすぐに根を上げる事だろう。しかし、戦になれば満に一つ、手違いが無いとも限らないだろう。
そして、その万に一つが起らない為に、大坂方で一番の人物であった片桐且元を嵌めたといえた。且元が居れば、賤ヶ岳の七本槍の一人と謳われた歴戦の勇士として、その政治力によって、豊臣方を糾合してしまうとも限らない。
そこまで行かなくとも、これで豊臣家には、将と呼べる人物は残っていないだろう。すべては、家康の掌の上で、進んでいるかに思われたのだった。
家康は、この且元の大坂城退去を事実上な東西の手切れとし、諸大名らに幕府への忠誠を約した誓紙を出させると、陣振れを行い、十月に入って、伊勢、美濃、尾張の諸侯を先陣として、大坂に進軍を開始する。
そして、自らは一軍を率いて、十月二十二日に二条城へ到着している。片桐且元が大坂城を退去したのが、十月一日であるから、家康の迅速さが見て取れる。時期を待つと判断した時にはじっと動かず、その時が来れば、誰よりも早く行動する。天下人とは、かくあるものなのだ。
そして、滝川三九郎一積も家康の使番として、徳川軍に加わっていた。現在、二条城内の家康が居る一室では、本多正純、板倉勝重、金地院崇伝などの家康のブレーン達による密談が進められていた。これから、どう大坂を片付けるかの相談である。
「大坂の様子はどうか?」
「日の本中の諸将に参陣を募りましたが、応ずる者なし。今は浪人共を多数、城に入れている様子」
大坂の現在の状況を京都所司代である板倉勝重が詳細に報告する。家康は、勝重からの報告をじっと聞いている。家康の長年の癖で、両親指の爪を噛み千切って、それを吐き捨た。
しゃべっている拍子に、
「ペッ」
とやるのである。とても行儀が悪く、天下人たる者のする様ではないが、それを家康がするのは、苛立っている時か、何か思案している時か、とにかく気持ちが高ぶっている時に違いなかった。
「すでに入城した者はたれか?」
「御意」
本多正純が手に入れておいたリストを家康に差し出す。家康は、広げられた紙に書かれた者達の名前を一人一人列挙していくように、正純に合図する。
「後藤又兵衛基次、木村長門守重成、毛利勝永、明石全澄、長宗我部盛親、織田有楽斎、真田…」
正純が主だった武将の最後に、真田の名を出した時であった。
「待て、真田は、親か…子か…」
瞬時に家康の顔色が変わる。見ると、爪を噛む手が小刻みに震えていた。
「真田左衛門佐信繁、安房守の子に御座いまする」
「そうか…」
家康は、そう言ったきり、思案を始めてしまい、それ以上の言葉を続けなかった。
その場にいた者達は、真田安房守昌幸でないと知って安堵したと思った者達が大半であっただろう。しかし、障子の外側で、信繁が大坂入城を果たしたと知った三九郎は、別の事を思っていたのだった。
暫くして、室内の者達が全員退席した後でも、家康は、一人思案に耽っている様子であった。
しきりに、
「ペッペッ」
という、独特の噛み切った爪を吐き捨てる音が聞こえる。
それから、また暫くしておもむろに、
「三九郎、三九郎はそこに居るか?」
「はっ」
「入れ」
控えていた三九郎は、家康が一人居る部屋へ静かに入った。
中に入ると、三九郎が今までに見たことが無い程、家康は、眉間に皺を寄せて、険しい顔をしていのだった。
「そなたは、真田の縁者であったな。知っておるのか?」
「左衛門佐信繁めに御座いまするか。妻の兄に御座いまする」
家康は、一つ頷くが再び黙り込む。いつもなら、陽気に二言、三言の軽口を飛ばすのが常であったが、只事ではない様子であった。
(ひょっとすると、これが大御所の本来のお姿からもしれぬ…)
三九郎は、そう考えていた。つまりは、戦人(いくさびと)の顔をしてたのだ。
「どういう男か?父親と比べて、秀でた所があるか?」
矢継ぎ早やに質問する家康の目線は、三九郎には無く、蝋燭の火をただ一点に見つめている。三九郎は、家康の様子に戸惑いを感じて、どう返答しようか、一瞬躊躇していた。
「私の見立てで申しまするが、義父昌幸に勝るとも劣らず。彼の者に足りぬは、名望だけに候」
「左様であるか…」
「もう一つ御座いまする。左衛門佐が入城したからには、真田の軍略にて、今を好機と見れば、京に攻め寄せる恐れ有之(これあり)」
「この京に攻め入って何とする?」
「狙いは一つ也!」
「わしの首か…」
「御意!」
三九郎は、この戦が始まる前、使番の務めを大過なく終えれば、それで良いと考えていた。しかし、義兄信繁が現れたとなれば、戦局にどう影響するか分からない。武士として、主君の命を守る手立てを講じねばならないであろう。
「相分かった。至急、備えを厚くし、将軍に急使を送ろう」
「ははっ」
ようやく、家康は笑顔を取り戻した。三九郎は、ほっとして退室すると、自室に戻り、灯りを燈すと、何やら認め始めていた。
三九郎が大坂の武将であったならば、京に急襲して、家康の首を狙う。これが失敗に終わっても、宇治、瀬田の橋を壊し、以って大坂に引き換えした後に籠城策を取るのである。京の都は、昔から攻め易く、守り難い土地である。戦力を割く事にもなるので、ここは死守しないだろう。
一勝してから難攻不落の大坂城で籠城すれば、味方の士気も上がる。逆に初戦を落とした敵は、焦りより力攻めを行い、部隊の連携に乱れが生ずるかもしれない。そこを一気に叩くのである。
もっと言えば、瀬田、宇治の橋を敵が復旧している間に、要所に伏兵を忍ばせて、敵が城に大挙した所を後背より、襲いかかる手も考えられた。
今列挙した策は、上田合戦において、真田昌幸が徳川を蹴散らした軍略に通じる所があった。それを場所と規模を変えて、再現しようとしている男がいる。
(そうさせない為には…)
三九郎は、書き終わった書状を持つと、
「才蔵おるか?」
呼んだ才蔵が、すぐにどこからともなく現れる。
「大坂に行ってきてくれ」
「ははっ」
才蔵は、主からの一命で、すぐにまた暗闇の中に姿を消した。また一人となった三九郎は、障子を開け放つと、京の夜の空に光る月を見ていた。その見つめる先には、きっと強大な大坂城が、聳え立つ筈であった。
一方、大坂城であるが、十月二日には、秀頼の命により、兵を募り、城の修築を始め防備を固めていた。これは、片桐且元退去の翌日であり、どうやら、大坂城でも腹は決まっていた様子であった。
その大坂からの呼びかけに集まった浪人達であるが、総勢で約十万人という大規模な軍勢にまで、膨れ上がっていた。その主だった諸将の顔ぶれであるが、元土佐国藩主であった長宗我部盛親がいた。盛親は、土佐の出来人と謳われた父元親の四男であり、関ヶ原で西軍に属した為に改易となっていた。戦後に京の都で寺子屋を開いて、子供たちに教えながら、細々と暮らしていた。
しかし、此度の合戦においては、大坂城内に入城した者の内、一番郎党の数が多かったと言われている。これは、一領具足と謳われた長宗我部家の旧臣たちが、盛親挙兵を聞いて、自発的に集まった結果であった。
また、毛利豊前守勝永がいる。勝永は、小倉城主で大名であったが、こちらも関ヶ原で西軍であった為に改易となり、土佐山内家に預けられた。土佐では優遇されたようであったが、秀頼の招きにより、土佐国を抜け出して、大坂入りしている。
元々を尾張国出身で、姓も森であったが秀吉の九州征伐の際に、命により、毛利へ改名している。西国では、毛利氏の方が通用しやすいからであろう。
勝永は、親の代よりの数少ない秀吉譜代の家臣として、豊臣家でも期待されていた節があった。その忠義心は、抜きんでている。
戦場で一番槍などの華々しい武勲とは縁が無かったが、任務を黙々とこなす戦の玄人といった趣があった。
そして、明石掃部助全澄である。全澄は、宇喜多秀家の家老として活躍した人物であった。
秀家が関ヶ原の敗戦で島流しになり、全澄は潜伏を余儀なくされた。キリシタンであった彼は、母が縁者であった黒田家を頼り、その後、同じくキリシタン大名であった田中吉政を頼ったともあるが、諸説あって、この間の彼の行動は判別としてない。
更に一人、後藤又兵衛基次がいた。名将黒田如水に仕えた歴戦の猛将として知られ、家老の地位にあったが、現黒田家当主の長政とはソリが合わず、黒田家を出奔する。彼程の武勲の持ち主であれば、引く手数多な状況であっただろうが、長政は、とても又兵衛を恨みに思っており、又兵衛が仕官出来ないように、奉公構(ほうこうかまえ)を出されてしまった為に、再仕官出来ずに各地を放浪したようである。
奉公構とは、他家に仕官出来なくする為の物で、これを受けた武士は、主君に仇をなしたとレッテルを貼られてしまい、仕官先が無くなる。又兵衛は、これよりずっと落ちぶれ、京の都では、乞食として一時期暮らしていたらしい。
大坂城には、大野治長の招きにより、諸将よりいち早く入城しており、豊臣家の武功派一番手を担う人物であった。
そして、九度山を抜け出した真田左衛門佐信繁を入れて、この五名を大阪五人衆と称するのである。
他には、北条家に仕えて武名を上げていた御宿勘兵衛政友や、大力自慢の薄田兼相(岩見重太郎)、加藤嘉明の元で鉄砲大将として名高かった塙団右衛門直之などの、錚々たる面子が揃っていた。
大坂城内にて、秀頼出席の元、軍議が行われていた。
「討って出るべし!」
「いや、籠城こそ要ぞ」
軍議は、紛糾を極めていた。これより先だって行われた軍議でも、紛糾して結局総大将を決められずに、秀頼自らが総大将として、諸将がそれを支え、合議によって、軍略を定める事が辛うじて、決められた程度であった。
「今、京にいる家康を急襲し、首を獲る。瀬田、宇治の橋を落とし、兵を伏せ、将軍秀忠が迫るを背後より襲えば、百戦危うからず」
そう万座で主張したのは、真田左衛門佐信繁であった。三九郎は、正確に信繁の策を読んでいた事になる。
「この軍略は、父安房守の遺言に御座る」
信繁は、最後に付け加える事で、己の策に説得力を持たせる事に成功する。
「真田は、徳川を二度討ち破った唯一の家柄、わしが先手を仕る」
やはり真田昌幸の名声は効果絶大で、後藤又兵衛が立ち上がって声を上げる。
「やるなら早い方が良い。今夜致そう」
いつも冷静沈着な毛利勝永も賛同を示す。豊臣家譜代家臣として、城内でも声望を集める勝永と、早くから大坂城に入り、尽くしてきた又兵衛の言葉は重みがあり、軍議は主戦寄りに傾いていた。
「御一同冷静に。大御所家康程の者が、防備を疎かにするだろうか?討って出れば、返り討ちに合いましょうぞ」
盛り上がりを見せ始めた場内に、水を差したのは、大野治長であった。
「いや、しかしそれでは…」
「ではどうすれば…」
またも議論が紛糾して、纏まりを見せない様子であった。そこに僧籍姿の男が一人入ってきて、秀頼の側に静かに座し、議論の様子を暫く眺めて見ていた。
「各々方、静まれたし」
その男の言葉に、諸将は議論を止め、注目する。
「右大臣家、有楽斎思いますに、諸将の忠誠心、士気益々盛んに付き、もう一度よく吟味の上で、ご決定遊ばされる事が肝要と存ずるが?」
「左様、左様」
有楽斎の言葉に、治長だけが反応を示した。
「そうか、両名がそう申すのであれば…一同大儀」
「ははっ」
秀頼は、何も決められぬままに、退室してしまった。これに治長と有楽斎も続いて退室する。それが合図かのように、集まった諸将も席を立つのであった。
「左衛門佐、出陣支度を」
「おう、今宵が勝負ぞ!」
又兵衛と勝永が信繁に声を掛けると、戦支度の為に足早に退散するのだった。信繁は、「ああっ」とだけ答えたが、心中では、暗くなりそうな気持をどうにか繋ぎ止めていた状態であった。
(戦支度をした所で恐らく…)
信繁には、この軍議が迎える結論を、すでに悟っていたのだった。
「城より出るなど、狂気の沙汰じゃ」
ここは、奥の院にある淀君の私室である。そこに、秀頼と大野治長、治房兄弟。兄弟の母親の大蔵卿局、淀君の叔父で後見役の織田有楽斎、それから秀頼の乳兄弟の木村重成と言った、豊臣家の身内の面々であった。
「あの且元ですら裏切ったのですぞ。好きに兵を使わせ、誰が裏切らぬ?」
軍議の内容を治長が報告すると、主戦論に真っ向から反対したのは、母親の大蔵卿局であった。
「しかし、諸将の士気にも障りましょう。まず一戦し、それから城に籠れば?」
「長門守はまだお若い。次に籠城も一から籠城も同じ事よ」
木村重成がやんわりと主戦論を促すも、たちまち一蹴される。
「あの家康は、太閤殿下ですら、戦場では勝ちきれませなんだ。しかし、太閤殿下は、知恵を使い、あの者を屈服させたのです。その天下第一の知恵を絞って建てたのが、この大坂城に御座いまする」
有楽斎は、小牧長久手の戦いを鮮やかに語って見せた。如何に家康が野戦に強く、その用兵が巧みであるかを。そして、意外にも城攻めが不得意であり、籠城こそが最善策である事を淀君に語って聞かせた。
「叔父上様のおっしゃる事は、理に適いまする。右府様、重ねて出陣は為りませぬぞ」
「はっ」
秀頼は、そう答えるよりなかった。これにより、信繁が予感した通りに、大坂方では、籠城策を執る事が決定されたのだった。
「これ、これ!おらぬか?」
「ここに…」
自室に戻った有楽斎は、一人の忍びを呼ぶと、袖口から、小さくまとめてある紙を手渡した。この部屋には灯りも付けず、障子の向こうより、月明かりだけが、薄らと室内を照らしている。
「三九郎に伝えてくれ。右大臣家も、淀の方も和睦こそが心意であると。浪人どもは、血の気が多くて敵わぬ」
「はい、主に申し伝えまする。有楽斎様、くれぐれも左衛門佐にお気を付けあれと、主人からの伝言に御座る」
「相分かった」
有楽斎が差し出す密書を受け取った忍びは、やはり才蔵であった。才蔵は、密書を懐にしまうと、音も無くその部屋から姿を消した。
再び家康の居る二条城である。
「そうか、大坂は籠城と決めたか。三九郎は良い忍びをもっておるな」
「はい」
才蔵が持ち帰った密書を三九郎が報告した事で、家康は上機嫌であった。
「大御所様、しかし、あの難攻不落の大坂城に立て籠もられると厄介では?」
「上野介、一理あるが、籠城は味方の救援を待つ策じゃ。どこに今の大坂に付く大名がおろうか?」
「おっしゃる通りです」
戦の方針が決まり、上機嫌の家康であったが、それも将軍秀忠が京に到着し、参陣した事を知ると、すぐに不機嫌を通り越して、激怒に変わってしまっていた。
「早や過ぎるわ。馬鹿者め!」
「大御所に何かあればと、昼夜を問わず、馳せ参じました」
秀忠が江戸を発ったのが、十月二十三日で、京に到着したのが、十一月十日であったから、十八日の行程である。これが、どの程度の強行軍であったかというと、江戸の日本橋から京都の三条大橋までの距離が約500㎞である。
当時の舗装されてない道を比較的歩きやすい東海道を通るルートで行くと、壮年男性が徒歩で約二週間かかる距離である。それでも一日平均で35㎞歩く訳で、これだけでも厳しい旅である事が分かる。
それが、当時の一般的な鎧である当世具足で、20㎏以上ある荷物を背負う武士たちが何万人と移動するのである。これを一日平均27、7㎞の道のりとして、京に着いた頃には、人馬ともに疲れ果てているだろう。そこを急襲されれば、一溜りもない。
「天下の将軍が取り乱しては、面目がつかぬわ。正信そなたが居ながらも…」
家康の怒りは、収まらない。家康の考えでは、将軍はゆっくりと余裕を持って、ただ進んで来れば、それだけで敵に威圧を与える事が出来るのだ。
また、京を襲おうと画策していたのが、将軍秀忠が来ると聞いた敵は、大坂の兵を二手に分けて、家康と秀忠にそれぞれ向かって来るかもしれない。これだけでも各個撃破出来る可能性が出てくるというものであった。
「いやはや、面目なし」
秀忠の大目付として従軍した本多佐渡守正信は、頭を掻いて誤魔化していたが、家康には、正信が分かっていながらわざと秀忠を制止しなかったという事に、余計に腹が立っていた。
以前、上田合戦において、真田昌幸に翻弄され、関ヶ原に遅参した秀忠であったが、その時も秀忠に付き従っていた正信は、真田を捨て置き、すぐに進軍するのを主張していた。
しかし、秀忠は、正信の意見を無視して、大久保忠隣などの主戦派の意見を採用した事で、遅参の嵌めに合っていた。この責任を取る形で、忠隣の部下が何名か、身代わりに処罰されている。これを以って、本多家と大久保家が不和となったとされた。その経緯から、正信は、将軍秀忠の人となりを見て、殊更求められなければ、進言しないように努めてきたのだった。
「父上、面目次第も御座いませぬ」
「秀忠よ、そなたの律義さは健気ではあるが、戦場では…もうよい、下がれ」
家康は、それ以上を口にせず飲み込む事にした。これ以上は、将軍の対面を傷つけるであろう。秀忠は、戦に向かない。それは、以前から分かりきっていた事である。
家康が自身の後継者に秀忠を指名したのは、為政者としての資質と、一本気で筋を押し通す律儀な性格とを評価したが故であった。彼の戦下手や、一度決めたら融通が利かぬ欠点などは、能力のある家臣たちが、支えれば良い事であった。
(齢七十を超して、尚も陣頭に立たねばならぬとは…)
家康は、己の宿命を嘆いたが、日の本一統への総仕上げを、自らに課す事を心に決めていた。
家康と秀忠が京を発し、幕府軍が大坂に布陣したのは、十一月十五日であった。今や大坂城は、完全に包囲されていた。東西南北すべてにおいて、幕府と。それに従う全国の大名の軍で埋め尽くされていたのだった。幕府軍約二十万、それに対して、豊臣軍約十万人。
大坂城が難攻不落と言われる所以は、その恵まれた立地条件に起因するだろう。元々の低湿地帯に囲まれた場所に、上町台地の先端部分に築いた城は、大天守五層にも及ぶ巨大な城である。北は淀川が京より侵入する敵を阻み、東は平野川が流れ、西には木津川がある。
これらを天然の要害とし、城の北、東、西に水堀りがあり、南には、複雑な地形に合わせた長さ30m、高さ10m、そしてその上に更に土塁を積みあげた空堀りがあった。そして、城下町までも囲む、巨大な惣構(そうがまえ)である。
幕府は、城取りの名人と謳われた秀吉が、十五年の歳月を注いで築き上げた、日本史上において、最高傑作と評しても過言ではないこの城を攻めなければならない。
「南だ、南…」
家康は、繰り言のように、呟いていた。大坂城を攻めるならば、南側からという意味である。実際に家康は、大坂城の南側である茶臼山に陣を布いている。その数約三万人。
そして、その近くの岡山という場所に、二万を率いる将軍秀忠がいる。更に南側だけで、松平忠直一万、前田利常一万二千、伊達政宗一万、井伊直孝四千、藤堂高虎四千と、幕府軍二十万の約半数を投入している。
幕府軍は、開戦の後、約十日で城周辺の砦を悉く攻略し、順調に城本丸へ迫る勢いを見せていた。最初の戦闘である西側木津川砦もあっさりと落ち、それを合図かのように、北川の今福、野田・福島と攻略している。しかし、そんな中で、家康が一番重要だと考えていた南側に、この戦の分岐となる豊臣勢の拠点が作られていた。
真田丸である。
「一息に、攻め落とすべし」
ここ茶臼山の家康の陣では、先程から軍議が開かれていた。最初に勇ましく、突撃を主張したのは、将軍秀忠であった。この軍議に参加しているのは、大御所家康と将軍秀忠、家康側近の本多正純と、秀忠の目付として、正純の父正信である。
それから、井伊直孝、松平忠直といった南側主力の武将で、徳川の身内の者ばかりを集めて、極秘裏に行われた印象であった。
「砦を直に見た者があるか?」
家康は、閉じていた目を開くと、ゆっくりと発言を始める。将軍秀忠の言葉に反応を示さない。将軍を軽んじたというよりは、今は情報が必要であった。敵がどれ程の戦力を有しており、砦を落すのに、どれだけの戦力を投入するのかを見極めなければならなかった。
「滝川三九郎ここに…」
「おおっ三九郎か。近う、近う」
三九郎は、家康の近くに進みでて、自分で書き記した絵図を本多正純に手渡す。正純は、それを皆の前に広げて見せた。そこには、大坂城の兵の配置図が詳細に描かれていた。これは、織田有楽斎を通して、才蔵が三九郎に齎した物であった。
「砦に籠る兵は、約五千。城の南側、惣構の外側に建てられておりまする」
真田丸は、現在の天王寺区の辺り、心眼寺の敷地内を囲むように建てられたと考えられている。
近年、見つかった資料によれば、通説で考えられていた、大坂城に隣接した半円形ではなく、城の全くの外側に独立した砦として建てられた事が有力となっている。
それによれば、二重の堀を要し、元々あった寺を中心に、砦を築いている。その東西・北には崖があり、砦は、辺りから一段高い場所にあった。二重の堀があると記したが、その深さは約8m、幅は40mにもなる巨大な物であった。それを縦二列に組んだ鉄砲隊が砦に迫る敵を狙い撃つ事になる。
極め付けは、真田丸にだけ配備された大狭間筒であっただろう。この大筒は、射程約300mと、従来の鉄砲の倍の射程距離であったとされる。
その大筒を二人がかりで撃つ様子が、後世絵図に描かれている。このような万全な備えにより、真田丸は、敵を寄せ付けない最強の砦であったと言えた。
「あの砦に仕掛けてはならぬ」
三九郎からの報告を聞きながら、家康は渋い表情のまま、ただそれだけを呟やいていた。その軍議後、家康は、前田利常隊に塹壕を掘り、土塁を築く事を命じると、真田丸に決して仕掛けないように命じる。十二月二日の事であった。
真田左衛門佐信繁が大坂城の南側に真田丸という名の砦を築いたのは、一体いつの頃だったのだろうか。信繁自身が九度山を脱出して、大坂城に入城したのが十月九日である。
そして、大坂の陣開戦が、十一月十五日である事から、一ヶ月程の突貫工事にて、築かれた事が分かる。元々あった寺や、堀などの地形を元に建てたのであろうが、大坂で事が起きれば、ここに出城を築く事を画策していた事は、容易に考えられるだろう。
「殿、爽快な眺めですな」
「佐助、そなたもそう思うか」
真田丸の後方に位置する出丸にて、幕府勢の大軍に囲まれた砦に、信繁と佐助が居た。何せ二十万の大軍の内、真田丸を目指すように布陣するのが約九万の部隊であった。二人はその敵軍を、まるで絵画を鑑賞するような心地で楽しんでいた。
「大助、どうじゃ?」
「父上、大丈夫に御座います」
「若、初陣は皆胆が震えるもの、気張りなされ」
信繁の嫡男真田大助幸昌は、この時十四歳。九度山の蟄居中に、正室との間に生まれた長男である。
「この砦であれば、如何な大軍とて、そう易々とは攻め込めませぬぞ」
「ああ」
佐助の言葉に信繁が応えたのは、それだけであったが、脳裏には別の事を考えていた。思い出していたのだ。それは、信繁がまだ九度山で蟄居生活をしており、父昌幸が存命中の頃であった。
「今日は、どうだったかのう?」
「本日は、父上が守りで、私が攻めで御座いまする」
「為らば、わしの番じゃのう。どれ、大坂城か…」
昌幸と信繁は、この日も変わらずに碁を使った軍略研究に勤しんでいた。
「この大坂城はの、四方を天然の要害に守られた絶対の地に建てられておる。さすが秀吉よ。そなたならどう攻める?」
父昌幸が碁盤で示す大坂城は、正に難攻不落の名に相応しい陣形を示していた。
「私ならば、ここから攻めまする」
少しの思案の後、信繁はパチンッと小刻みよい音と共に、その昌幸の大坂城の南側に一つ石を置いて見せた。
「南か、何故南じゃ?」
「大坂は、北・東・西ともに川や堀、崖に囲まれて攻める事は出来ませぬ。攻めるならば南!」
「しかし、南にも多くの武家屋敷、街並みがあり、深く広い空堀まであるぞ」
「であればこそ、南でもこの端の方より、軍を進めまする」
信繁は、そう言うと、自分が置いた碁を一マス前に動かした。
「ならば、わしはここに新たに出城を築くぞ。ここは寺が多い土地じゃ。それらを利用して、小高い場所に空堀も築く。これならばどうじゃ?」
昌幸は、碁石を一つ持つと、それを城の南側出口付近より、少し前に勢いよく置いた。それは、現在在る真田丸が立つ付近であるようだった。
「どうじゃ左衛門佐?」
「少し、お時間を…」
信繁は、父の一手に苦戦を強いられるのを自覚していた。やはり、この父親には敵わないのだろうか?そう思っていた時であった。
(本当に南からしか、攻められないのだろうか…)
この疑問が、信繁の脳裏を巡り、表情にまで現れていた。
「左衛門佐、気づいたか?」
「はい」
「それでよい。ここからしか攻めぬなどとは、人が決めたに過ぎぬ。それを忘れるな」
「左衛門佐、そなたはきっと、世をあっと言わせる戦をする」
昌幸は、常々そう言った。
そして、この言葉が大軍を指揮した事の無い、信繁にとっての自信の根っことなっていた。
昌幸の授業は、いつもこんな風であった。あんなにも再起を心待ちにして、大坂城で采配を振るう事を夢見ていた父はもういない。信繁は、父との思い出を何度も反芻していた。それは、父昌幸が遺してくれた軍略であり、戦への心構えでもあった。そして、この事が信繁と、この戦事態の行く先を左右していく事に繋がって行くのであった。
(大坂城の弱点は、南側だけではない)
信繁がそう思い至ったのは、正にこの直後であった。
「城の北東が手薄じゃ…」
信繁は、頭の中の言葉を口に出していた。その独り言は、横にいる佐助や大助にも聞こえてはいないだろう。
信繁は、頭の中で考えている。自分が家康であれば、どこから攻めるだろうか?他の砦は落としている。後はこの真田丸だけだ。
しかし、この砦は容易に落ちそうではない。ならば、別の場所からだ。手薄な場所はどこだ。北東の方角は、川の流れにより、陸地が少なく、その分、兵を配置する事が出来ない。天然の要害の地であるので、まず攻めてこないと考えるが、万が一、城に侵入を許せば、一溜りも無いであろう。
(そして、家康もその事を知っている…)
家康は、秀吉死後から関ヶ原以前まで、大坂城西の丸に入っていた事がある。つまりは、この城の事を熟知していると思って、間違いはないであろう。
信繁がある決意を固めたのは、この瞬間であった。
「こちらから仕掛けるぞ。出陣の支度せよ」
「はっ」
信繁の下知は下った。
佐助は、歓び勇んで準備に出掛け、大助は武者震いに顔をこわばらせていた。
「大助、今日がそなたの初陣ぞ。心せよ」
「はい、父上」
信繁は、健気な我が子を気遣うように、その両肩を軽くポンッと叩いてやる。
信繁は笑顔を見せては、陣中を歩き指示を出していく。配下の者たちは、そんな大将の為に皆、大いに働いている。この真田丸は、活気で満ち溢れていた。
しかし、この熱気の渦の中、一人信繁の頭の中だけが、妙に冷めていた。ある種の悲壮感にも似た決意を秘め、押しつぶされそうな重圧の中を、皆に笑顔を振りまき続けるのであった。
真田丸の戦いと呼ばれる合戦が行われようとしている。この戦いは、日本史上で言えば、特に重要な戦いではない。あくまでも、徳川家と豊臣家という戦国の世を駆け抜けた両家の争いのごく一部の戦いにあたる。だがしかし、この真田丸が後世の歴史を好む人達にとって、とても魅力的に映るのも、また確かな事らしい。
信繁が出撃の決断を下したのは、次の報せが真田丸にもたらされた事による。
「前方の前田勢が、土塁を築き始めました」
それは、家康に命じられた前田利常が、対真田丸に建設する予定の防御陣であった。
(これを逆用して、前田勢をこちらに引き込めれば…)
信繁の決断は、素早かった。すぐに手勢を纏めると、下知を下し始めていた。
「大助、そちは一隊を率いて、篠山に陣を張れ。作兵衛は大助に付いて行け。それから、内記は、鉄砲隊を構えて…」
信繁が下知すると、皆が素早く行動に移す。最早、阿吽の呼吸であっただろう。
「父上、行って参りまする」
隊列を整えた大助は、大声を張り上げながら、懸命に自分を奮い立たせると、勇み好んで陣を後にするのだった。その後に続くのは、堀田作兵衛である。
そして、鉄砲隊の準備を任された高梨内記もその準備に余念がない。彼らは、九度山の蟄居時代も信繁の元に居た昌幸の代からの旧臣であった。
「撃て、撃ちかけよ」
篠山を占拠すると、大助は、土塁を築こうと工事を進める敵目掛けて、一斉に撃ちかけた。これでは、前田勢も土塁処ではない。すぐに隊を陣内に引き上げざるをえない。
すると真田隊は、撃ち方を止める。またほとぼりがさめたぐらいに前田勢が土塁作りを再開すると、それを待っていたように、真田勢が山より撃ってくるのである。これでは、家康の命令を遂行出来ないと思った前田勢は、有る事を考えるに至る。
「篠山に討って出る」
そう口にしたのは、前田家筆頭家老の本多安房守政重であった。この人物は、元々が徳川家重臣の本多佐渡守正信の次男に当る人物である。
しかし、切れ者揃いの本多家の次男である政重は、血の気が多い人物として有名であった。年若い頃に、秀忠の乳母大姥局の息子を諍いの末に惨殺して、徳川家を出奔したのを皮切りに、大谷吉継、宇喜多秀家、福島正則など、豊臣家に縁のある武将に仕えた後に加賀前田家へ仕え、その後更に上杉家へ鞍替えした後、帰参する形で前田家に家老として召し抱えられた。
歴代の名将たちに重宝されたのは、本多正信の次男という側面があったのは事実であろうが、政重自身の武勇による所が大きかった。
「あんな小山など一捻りぞ。あそこを拠点として、真田丸とやらも落してくれん」
政重は、前田家の指揮を預かる立場での大戦で、いささか大きく成った気を自分の武勇を持って、証明しようとした。つまりは、篠山に居る真田勢に、夜討ちを仕掛ける事を決めたのだった。政重は、夜中になるまでに準備を整えると、一隊をもって、篠山に襲い掛かったのである。
しかし、どうも様子が変であった。真田勢からは、反撃も無く、物音一つしないのであった。状況が完全に理解出来たのは、政重自身が、山の頂上に達した時であった。
「逃げたか…」
真田勢は、すでに陣を引き払った後であった。
「まあ良いわ」
戦わずして、敵の陣を奪取した政重は、少しの満足感を満たしていたのであったが、次の味方からの報告に、表情を一変させるのであった。
「敵一隊が、真田丸の前方にあり。篠山にいた軍勢に御座いまする」
それは、大助率いる部隊であった。この一隊が真田丸の前方に位置し、しきりに篠山の前田勢に対して、嘲笑したり、一斉射撃したりと、つまりは挑発行動を取っていたのであった。
しかし、本多政重という男は、只の猪武者ではない。
(敵の動きが怪しい。ここは、迂闊に動かぬべきか…)
真田隊の動きに不審な点を感じて、軍の前進を止めた。真田隊の目論見は、脆くも崩れるかに思えたその時であった。ドドーンッという爆発音と共に、大坂城内の一角にて、火の手と共に、一筋の噴煙が、頭上空高く舞上がったのである。
そして、それを合図としたように、前田勢は前進を開始する。この時すでに、夜は明けており、真田隊に迫る本多政重の目にも、その噴煙がはっきりと見えたのであった。
「よし今ぞ。山より駆け下りれば、これ破竹の勢いを持って、敵を討つ破るべし」
政重は、全軍に下知を下すと、前田勢は鬨の声を上げながら、眼前の真田勢へと襲い掛かった。しかし、これに対して、大助の一隊は、浮き足立つ事もなく、整然と隊を纏めて、真田丸へと引き返し始めた。すべては、信繁が立案した作戦に従った、行動の範囲内であったのだ。
実は、先程の爆発音は総て、豊臣方の策であった。大坂城に南条元忠という武将がいた。元々は、伯耆国羽衣石城の大名であったが、関ヶ原で西軍に付き、改易浪人となっていた。大坂の陣にて、豊臣方に加担するも、徳川家からの伯耆国にて一城を与えるとの調略に乗ってしまう。大坂方に徳川の間者が数多く入り込んでいた証拠でもあろう。
しかし、この元忠であるが、あっさりと裏切りを見破られて、城内にて切腹させられてしまった。当初、この事が露見した時に、大野修理などは、見せしめの為に首を晒し、以って規律を重んじる事を是としようとしていた。しかし、この件を聞いた信繁から、後藤又兵衛を通じて、次の策に変更したのである。つまりは、南条元忠をまだ生きていると思わせ、徳川を欺く策を講じたのである。
この南条元忠の内応は、先鋒を務める前田家中にも知らされていた。
「朝になりて、城の一角にて爆発がおきれば、それを合図として、真田丸へ突撃すべし。内より門を開け、軍勢を迎え入れん」
元忠からの密書には、そう記されていた。本多政重はもちろんその事を知っている。すべては、手筈通りであった。しかし、この爆発からして、信繁が佐助に命じて行った策の一環であったのだ。
「殿、敵が門を開きましたぞ」
「よし、この機を逃すな」
それは、大助一隊を収容する為に開けた門に過ぎなかった筈であるが、政重以下、前田家の一軍にとっては、勝利の二文字が、こちらに媚びを売っているように見えていたに違いなかった。
「掛かれーっ」
政重の突撃命令により、真田丸へ迫る前田勢は、我先に砦に向かって突進を開始する。一方、真田丸内では、大助の先発隊が無事に帰還を果たすと、敵が殺到する前に素早く門を閉めていた。
(何だ?手筈と違うぞ…まさか…)
政重が気づいた時には、前田家の先鋒隊は、正しく死地に居た。
信繁がこの日の為に、訓練を重ねて鍛えた真田の鉄砲隊が火を噴いたのである。凄まじい轟音が何百、千と鳴り響き、その度にバタバタと敵が面白いように倒れて行く。40mの広さがある空堀内では、身を隠す場所も無く、しかも真田丸の鉄砲隊は、ズブの素人集団ではなかった。
信繁は、紀州国の九度山に長年蟄居生活を余儀無くされていた。しかし、それがこの際は、福と成したと言えたかもしれない。紀州では、雑賀党や根来衆など、昔から鉄砲隊を組織した傭兵集団が数多く居た土地柄である。信繁は、これに以前より目を付け、この日の為に、彼らと密かに誼を通じていたのである。
つまりは、彼ら鉄砲のプロを雇い入れて、短期間で鉄砲隊を精鋭部隊へと作り上げる事に成功していたのだ。この真田の鉄砲隊は、戦で大いに活躍し、敵を撃ち払い続けた。
「いかん、退け、退けーっ」
自軍の不利を悟った政重は、後退を命じたが時すでに遅しであった。政重率いる前田の先鋒隊が、真田丸に仕掛けたと知った前田家の山崎長徳の部隊も、政重隊の後ろから、攻撃に参加すべく全軍突撃しており、前田勢は、退く本多隊と、行く山崎隊とで大混乱に陥ってしまった。
しかも、これに拍車を掛けるように、井伊直孝と松平忠直の部隊も、前田家に遅れをとってはならじと、攻撃に参加してしまった為に、戦場は指揮系統が乱れて、面白いように、真田隊の攻撃を受けて、倒されていったのである。
「仕上げをしに参ろうぞ」
ようやく、全軍引き上げを開始したというよりも、最早潰走状態の徳川勢を追い打ちする為に信繁も砦より出撃する。この信繁率いる真田の主力部隊の突撃で、徳川勢は尚も大打撃を被り、全軍がようやく退却出来たのは、十五時過ぎての事である。
真田隊の完勝であった。徳川勢の死傷者は、数千名から一万五千人とも言われる。この真田丸の戦いにより、真田左衛門佐信繁の名は「真田再び」と、一躍広まるのであった。
思えば、真田家は「数は力なり」という言葉を覆し続けた家系かもしれない。信繁の祖父に当る真田弾正幸隆は、武田信玄に仕えた武将であったが、信玄が落せなかった砥石城を、調略を用いて、僅か一日で陥落させ、智謀の冴えは信玄に勝ると謳われた智将であった。
そして、幸隆の三男で、次代の安房守昌幸は、僅かな手勢で二度までも上田合戦において、徳川の大軍を打ち破り、世間をアッと言わせている。そして、真田丸での左衛門佐信繁の戦い振りである。
真田家は小国の生まれである。いくつもの大国に囲まれて、強敵と戦う内に、生きぬく術としての軍略が芽生え、それは代を重ねる度に昇華されていく。真田の戦いは、そのすべてにおいて、敵より少ない手勢で戦う事を余儀なくされた。しかし、その困難なミッションをこなし続け、しかも自軍にそれ程の被害も無く、敵を壊滅させている点は、特記すべきである。このような家系は、歴史上でも稀有な例であろう。
真田丸の戦いにおける敗戦の報は、すぐに家康の元へ届けられた。
「何故、勝手に動いたか?」
「申し訳御座りませぬ」
自重命令を無視して、仕掛けた前田利常は、平身低頭するしかない。正に家康の恐れていた通りの展開となり、一人真田左衛門佐信繁に名を成さしめてしまった。
「どうも、因縁というよりないのう、正信よ」
「ははっ」
通算で三度までも、真田は徳川を退けて見せた。家康にも海道一の弓取りと謳われた自負があり、現時点で自分より戦妙手は他にないとの思いがあったが、信繁の戦指揮がここまでとは思っておらず、どうやら、左衛門佐の父譲りの才を見直すしかなかったのである。
「真田伊豆守は、領国で控えておるのだな」
「万事抜かりなく」
信之は、この戦に参加を許されなかった。
自身が中風を患っていた為ではあったが、真田が大坂入城の報せを聞き、万が一に備えた為、将軍秀忠から、留守居役を命じられたのだった。真田家からは、信之の二人の息子である信吉、信政が代理として出陣し、大坂城の東側に陣を張っていた。
(もしも、真田家同士で内応されれば、この戦危うくなる処だ…)
家康は、口にこそしないが、そう見ていた。信之の忠誠心を疑っている分けではなかったが、大将たる者、義理と人情や計算だけに頼っていては、方向性を間違い、思わぬところで足元をすくわれかねない。あらゆる事を想定して、いつも最悪の事態に備える事が戦には必要であったし、家康の苦労を重ねた半生で得た教訓でもあった。
「今後は竹束、鉄楯を必ずな」
家康は、彼の性格であろうが、こと細かく諸将にも指示を出している。この時も鉄砲への備えを怠って突撃を敢行した者や、釣られて功名を焦り、多くの負傷者を出した事を叱りつけており、部隊の配置や、鉄砲への備え、動き方までも、一つ一つ自ら差配している。
「大御所、こうなっては、あの砦に総攻撃を仕掛けましょうぞ」
将軍秀忠は、怒りに震えていた。またしても、真田に名を成さしめた事への怒りと、第二次上田合戦の遅参の事が頭をよぎり、ハラワタが煮え滾る思いがしていたのだった。
「その儀に及ばず。ここは、じっくりと攻めて、相手の疲れや油断を誘うのじゃ」
家康は、本多正信と何やらヒソヒソと話し始めた。この二人はいつもこうであった。二人だけにしか分からぬ会話で話し、周りを気にしない。そして、必ずと言っていい程、日の本を動かす核心に触れる謀議の内容は、この二人の頭脳と会話から生まれていたのだった。
大御所家康が三九郎を呼び出したのは、真田丸の戦後の夕刻の事であった。
「三九郎よ。信濃国、または甲斐で十万石じゃ」
「大御所様は、左衛門佐の戦振りを天晴れに思い、旗下に加えたいとの仰せじゃ」
本多正純が得意顔で説明を加える。
唯の浪人でしかない今現在の信繁に十万石とは、天下人家康の器量を内外に示す事にもなるだろう。
「三九郎、やってくれるな」
「はっ」
しかし、三九郎は、一言発したままその場を動かない。
「何か存念があるのか?申せ」
「左衛門佐は、恐らくお受け申さぬと…」
「十万石では不足か?」
「彼の者は、他に望みが御座りましょう」
「それは何だ!」
「大御所の御首!」
「滝川、無礼なるぞ!」
堪らず正純の声量が大きくなる。それを家康は、笑って制する。
「大御所と戦い、勝つ事が彼の者の望みに候らわんや」
「であれば、わしの申し出を断ると申すか?」
「御意!」
他の者が聞けば、家康は器量不足だと三九郎が言ったようにもとれて、不遜に見えるかもしれない。しかし、家康はそんな事は、一向に気にした様子もなく、三九郎も全く動じる気配はない。更に言えば、三九郎のこの実直さを、家康は好ましくも思っていた。
「相分かった。しかし、カラクリはしてもらうぞ。よいな」
「ははっ」
家康は、真田丸が力攻めでは簡単に落ちない事が分かると、作戦を切り替えていた。
その一つの案が内応であって、これで信繁が応じればよし。応じなくても、次の策を考えるまでの時間稼ぎが出来る。家康の戦巧手ぶりは、歳を取るに従って、高くなっているに違いなく、そのキレは、七十歳を越した今現在でも、いささかも衰える所を知らなかった。とにかくも、三九郎は、信繁の元へ向かう準備を急がねばならなかった。
真田丸に居る信繁の元へ、三九郎が訪れたのは、その日の夜半過ぎであった。三九郎は、才蔵へ、真田丸に出向けるように手配を命じると、すぐに行動に移したのである。
「義兄上、お久しぶりに候」
「三九郎殿、息災であったか?お菊はどうじゃ?」
「はい。一子、豊之助の養育に、相務めておりまする」
「それは、祝着至極じゃ」
二人は、その晩少しの時間ではあったが、語り合う事が出来た。九度山へ配流となってからの久方ぶりの再会であった。
「これが、大御所からの密書で御座る」
三九郎が手渡した書状を信繁は、受け取ると、中身を見ぬままに、そのまま火にくべてしまった。これでは、焚き木の足しにもならぬと笑い、その闊達な様に、ついつい三九郎も釣られて笑ってしまった。
(やはりこの方は、いささかも変わらない。あの頃のままじゃ)
三九郎は、心の中で義兄の健在ぶりを嬉しく思っていた。三九郎には、言わずとも信繁の気持ちは分かっていたのだ。
今から十万石の大名に成った所でどうなる物でもない。上田の信之家と併せても、二十万石にも満たないではないか。それよりは、いっその事、天下人家康相手に、世間をアッと言わせる戦いを演じる。首が獲れれば、十万石どころではない。
この戦は、偉大な父昌幸と、後を継いだ兄信之の影に隠れていた信繁にとって、己の力量で戦える、最初にして、最後の機会であったのだ。それを自分から降りる事など、どうして出来るだろうか?
「三九郎殿、大御所様には、厚くお礼を申してくれ。それと、家族を御大切に」
「はい。義兄上も御達者で」
二人は、僅かな時間での再会ではあったが、互いの無事を喜び合い、肩を抱き合い別れた。その後、真田丸を抜け出し、大御所家康に事の不首尾を報告したが、家康は笑って、三九郎を労った。三九郎からもたらされた、真田丸内の様子が知れただけでも良しとしたのであろう。
(この戦は、これから激しさを増して行くのだろうか?)
家康の陣を辞した三九郎は、心中複雑な思いに駆られていたのだったが、この考えは、すぐに意外な形となって、外れる事となる。
幕府と大坂方の電撃的な和睦が決まったのは、真田丸の戦いから、僅か二週間後の事であった。信繁調略が失敗に終わると、家康は、城を取り囲んだ四方の味方より、鬨の声を連日連夜あげさせて、城方に心理的な打撃を与えた。
また、イギリスより購入した大砲カルバリン砲は、射程距離6300mにも及ぶ物で、これら外国産の物と、国産とを含めた大小からなる百門の大砲を、城の北東より撃ち続けたのである。この一つの砲弾が城の天守閣を射抜き、その瓦礫が淀君の目の前で、侍女を押し潰したのである。
これに大坂城の首脳陣は恐怖し、徳川家の間者である織田有楽斎を通じて、和議を願う事となったのである。もちろん信繁を始めとした浪人衆は、これに断固反対したのだが、和議を知らされた時には、すでに京極高知の陣にて、秀頼代理として、淀君の妹である常高院と、家康の側室である阿茶局、本多正純が名代として、和睦交渉に臨んでいたのであった。
この和議自体は、家康から望んでいた可能性が高い。しかし、有楽斎などの間者を使って、巧みに大坂方を誘導する事に成功し、豊臣から和議を望んだ形にしてしまった。従って、和議の内容を見ても、豊臣に不利な条件である事は明白であった。
一、 大坂城は、本丸以外をすべて破壊する事
二、 大野治長及び、織田有楽斎より、人質を出す事
三、 豊臣家の家臣は、これを処罰しない
一見すれば、豊臣方にとって、好条件に思える。本丸以外を破壊とあるが、後で作り直せば良いし、とにかく城自体は残るのである。また人質に関しても、本来であるならば、秀頼の子か、淀君を出す所を譲歩しての事であり、これもいい。
そして、家臣を処罰しないとは、浪人衆にも配慮を示しており、不満など無いように見える。
しかし、総ては、幕府が大坂方を嵌める為に考え抜いた、用意周到な奸計であったのだ。
「又兵衛殿、どう思われるか?」
「徳川の罠ではないのか?」
「貴殿もそう思われるか」
しかし、信繁も猛将後藤又兵衛も、この和議を反古にする事は出来ない。
「有利に戦いを進めているのは、我らの方だ。何故人質を出す必要がある。何故取り壊すのだ?」
いつもは、物静かで口数の少ない毛利勝永が、この時ばかりは、大野修理に詰め寄り、修理の弟の治房と、一触即発になる事態が発生していた。
「我が嫡男を質に出し、上様(秀頼)の御意に従ったのだ。何卒、何卒…」
縋る様な修理の様子に、勝永は一言もない。元々が無口で口下手な彼は、それ以上言う事も出来なかったのであろう。
「和議は良いが、一体我らはどうなるのか?お役御免では困るぞ」
長宗我部盛親のこの言葉で、浪人衆を中心とした家臣団から、不満の声が続出し始めていた。
「お主はどう思うか?」
又兵衛が話しを向けた先に居たのは、明石全澄であった。全澄は、この騒がしい様子を横目でずっと眺めていたのだが、不意に立ち上がり、大声で次にこう言い放った。
「拙者は、キリシタンに御座る。キリシタンを弾圧する幕府と、今さら和議は、結びかねる」
全澄は、それだけを言うと、またその場にドッカリと座り、腕を組んで、後は黙ってしまった。大坂城は、未だに一致団結する事が出来ない状況を露呈していた。
しかし、信繁などの一部武将は、まだ望みを捨て去ってはいない。
「為らば、わしに策がある。家康を今から急襲しようぞ」
「何と?二十万の大軍にか?」
「さればこそよ。大軍だからこそ、撤退は至難の業。そこを狙うのよ」
信繁は、又兵衛と会話し、又兵衛がその策に頷くと、その場に立ち上がり、家臣団の前へ進み出た。
「今こそ、家康の首を獲る好機ぞ!」
「おおっ!」
信繁の号令に賛同する浪人衆と家臣団。しかし、この件は、大野修理によって、すぐに秀頼と淀君に知られる事となった。
「待たれよ各々方。古来より、和議後に攻めるは、条理にも悖る行為ぞ」
城を討って出るべく勇み出す者達の前に現れたのは、大野修理と、織田有楽斎であった。
「我らが望んだ和議ではないわ」
「上様がお決め遊ばされた事じゃ」
和議か再戦かで、意見が激突する。
「古来を申すならば、漢の高祖が楚の項羽を倒したのは、和議後に後ろから襲ったからではないか?要は勝てば良い」
信繁の博学に、場内より感嘆の声が上がる。
「それでは、人質はどうなる?」
「取り返さばよかろう」
「何だと?」
今や、豊臣家は主戦派と和議派で真っ二つとなっていた。このままでは、内紛にも発展しかねない状況であった。
「双方、お静まりあれ!」
その時、大声をあげ、信繁と修理との間に入ったのは、木村長門守重成であった。
「上様の御成りである」
その言葉に、一同がその場に座し、一座は静まりを見せた。
「皆、大儀である。各々思う所はあろうが、予は和を望む。関東の爺にもまた会ってみたい」
「ははーっ」
この秀頼の言葉により、家康襲撃の案は却下された。信繁は、無念の臍を噛んだが、もっと苦々しい事は、この後に起きていた。織田有楽斎出奔である。
有楽斎は、最早、豊臣家の浪人衆を抑えるのは不可能と思い、家康の許可を得て、大坂城を退去してしまったのだ。信繁も薄々、有楽斎の言動に不審を感じており、身の危険を感じて、逃げ出したのであろう。
有楽斎が徳川の間者であった事は、戦後に幕府より、加増されている事からも容易に推察出来た。信繁は、またしても絶好の機会を逃してしまったのであった。
「有楽斎様、何よりで御座りました」
「三九郎、祝着じゃ」
大坂城を退去した有楽斎を三九郎が出迎え、家康へと案内していた。家康は、殊の外上機嫌で、この内応者を歓待していた。この身内をも裏切った行為に、幕府内でも有楽斎を蔑む声もあったが、三九郎は別の事を思っていた。
(このお方は、ようは人が良すぎるのだ)
それを一言で現せば、「頼まれれば、断れぬ性質」であった。有楽斎は、信長の末弟として、織田家の重鎮であった。本能寺の変により、兄信長が殺された時に、信長の後継者であった嫡男信忠は、二条城に立て籠もった。この時、有楽斎も信忠と共にいた。
このままでは、有楽斎も一緒に信忠の死ぬ運命であったが、有楽斎は生き延びた。信忠に嫡男の保護を頼まれたからであった。有楽斎は、二条城から逃げ出すと、信忠の家族を約束通りに保護している。しかし、この時も、正に逃げた事が原因で、有楽斎は世間より、冷ややかな眼で見られている。平和な時代、これよりも後に産まれていたならば、きっと茶の湯の大家として、その名を刻まれた筈である。
人の評価は難しい物だ。それは、時代によっても変化するものであるし、悪人と思われていた人物も、時代を経れば、英雄なるに違いないのだ。歴史は変化する。我々後世に生きる者は、出来るだけ冷静な目と、正確な歴史的事実をもって、彼らが生きた時代を知りたいものである。
かくして、大坂冬の陣と呼ばれる事になる戦いは終わりを告げた。その後であるが、約定に従い、大坂城の堀や三の丸は破却された。この時に、信繁が築いた真田丸は、真っ先に取り壊され、跡形もなく姿を消した。幕府がどれだけ、この砦を恐れていたのかがこれで分かる。
約定では、幕府が外堀と三の丸だけの破却で、二の丸は、豊臣方が壊す事であったにも関わらず、二の丸までも、幕府の手で僅か数日の内に破壊されてしまっていた。
しかも、外堀だけであった筈の埋め立ては、内堀まで埋めるという暴挙に出ており、さすがに異議を申し出た大野修理に対して、奉行を務める本多正純は、
「惣掘りで御座ろう?だから総て埋め申す」
という、とんでもない理屈で工事を進めてしまったのである。
これのより、大坂城は、本丸を残したただの丸裸の城となり果て、難攻不落を誇った優美な巨城の姿は、どこにも残されていない。家康は、年越しを京の都で迎え、大坂の情勢を見極めた後の二月十四日には、駿府へと戻って行った。家康は、大坂を去る際に、
「幼子でも通れるように、堀を埋めよ」
と言い残したとされる。家康は、一月には近江国の国友村に、大量の鉄砲と大砲とを発注しており、家康がいずれ再戦を考えていたのは、陽を見るより明らかであった。
三九郎は、この一連の動きを複雑な気持ちで眺めているしかなかったであろう。何とも歯がゆいのである。幕府のやり方は、何とも狡猾であり、好ましくない。ただ一方で、このような策を弄する事で、敵味方の死傷者が少なくなる可能性も理解はしているのである。
終戦を嫌な気持ちで迎えていた三九郎であったが、一つだけ良い事もあった。陣を引き上げる前に、お忍びで、信繁が真田の陣を訪ねてきたのである。報せを聞いた三九郎は、すぐに真田の陣へと向かった。そこに居たのは、嫡男大助を伴って信繁の姿であった。
「義兄上の此度の御働き、見ていて胸のすく思いで御座った」
三九郎には、概念として敵味方の区別は余り無いのかもしれない。信繁を誉める言葉には、嘘偽り等無い本心からのものであったからだ。
「叔父上様のご健在、我が父もお喜びでしょう」
「信吉殿、信政殿、兄伊豆守は良い子を持たれた。これで真田は安泰じゃ。どうか我が子大助の事も宜しく頼む」
それは、数奇な運命により、敵味方に別れた一家の久方ぶりの再会でもあった。真田軍では、信繁の姿に涙を浮かべる家臣も居た。共に死線を潜ってきた者として、年月が経ても、その思いが変わる物ではないのであろう。
一座は、酒を酌み交わした。和議が整ったとはいえ、戦場である以上、ささやかな酒宴ではあったが、これで十分であっただろう。
大助を囲んで、信吉と信政の従兄弟同士で、華やかに語らいでいるのを、信繁と三九郎は、互いに盃を傾け、穏やかな目でそれを見ているのだった。
「次は、戦場で会う事になろう」
「はい。そうなれば、義兄上に槍を馳走致そう」
「それは、楽しみだ」
その場に居た者達は、皆わかっていた。これが束の間の休息に過ぎないである事を。そして、これが今生の別れになるかもしれない事を。信繁、大助親子の後ろ姿を見送りながら、三九郎は、再戦がそう遠くない事を肌に感じているのだった。
旅から戻って、三九郎とお菊に喜んで迎えられる才蔵であったが、滝川家には、別の喜びもあった。何と結婚十数年にして、三九郎とお菊の間に、男の子が誕生したのである。祖父昌幸の死の二年後に誕生したその赤子は、豊之助と命名された。
「目元が、父上に似ておりまする」
「存外、名将の器だったりしてのう」
三九郎は、父親になった自分を楽しんでいるようであった。
男であるにも関わらず、赤子を自分の手であやし、寝かしつけたりもしていた。お菊も乳母になどは一切任せずに、母乳で育てていた。この時代の武士、しかも一千石以上の上級武士が、自分で子育てをする事は珍しい。
乳母や傅役を家臣より選び、任せるのが常識であった。だが、この二人にとっては、時代の常識や、武士の格式などは、無縁の様子であった。滝川家は、この時期、平和で幸せの時を過ごせている。
そんな折りの慶長十九年(1614)一月十九日に、日の本中が震撼する事件が起こる。大久保忠隣改易事件である。
忠隣は、幕府老中首座の地位にあり、小田原藩主として、将軍秀忠の側近中の側近であった筈の人物である。家康の後継者を決める重臣会議の場においても、秀忠を一貫して後継者に押し、秀忠の後見役と名高い人物であった。それが、如何様にして、改易という憂き目の転落を味わうに至ったのだろうか。
いつの時代にも起こりえる事柄があった。徳川家は、家康と苦楽を共にしてきた、三河以来の家臣団が主軸となって、その結束力と団結力とで、天下の徳川と成長、発展してきた組織である。
であるからして、(俺たちが殿様に天下を獲らしめた)と自負する譜代家臣間での共通認識とでも言うべき物があったように思えてならない。そして、それらの意識が強大な権力と結びついた時に、必ず起きてしまう事があった。そうである。家臣間の権力闘争であった。
話しは、九度山から戻っていた才蔵が、佐助を伴い、幕府中枢を探り始めた事に端を発する。才蔵は、子供が産まれて、人生初の幸福の最中にある主を、巻き込む事を潔しとせず、佐助の思惑に協力し、三九郎の敵になり得る人物を、この際、排除してしまおうと持眩んでいたのだった。
或る夜、才蔵と佐助は、柳生屋敷に忍び込む事に成功していた。二人は、屋根裏に忍び込むと、奥の部屋の上から部屋中を覗く。すると、そこには、屋敷の当主である柳生宗矩と、筆頭老中である大久保忠隣の姿があった。
「相模守様(忠隣)、余り無茶が過ぎると、上様のお耳に入りますぞ」
「但馬守(宗矩)よ、案ずることはない。たかが、寒村の一家族を始末しただけの事」
「伊賀者の監視として、我が柳生の者をお貸し致したのです。それを…」
「但馬、何を思い患う?」
話の内容からして、何かの陰謀の話しであっただろうが、それが何であるかまでは、判別出来ない。
「まだ奴が裏切ったかも、死んでいるかも分からぬ内に、家族にまで手を掛けるは、いささか…」
「お主がそのように手ぬるいから、わしが直々に、伊賀を動かしたのだ。抜け忍の一匹や二匹、どうという事やあらん?」
「はっ」
「裏切れば、こうなると示す事こそ肝要ぞ」
忠隣は、この日、相当に酒を喰らい、酔っていたと見える。偉く饒舌で、いつもの無口で威厳に満ちた彼ではなかった。日々のストレスの発散もあったのだろうが、そのいつにないただ一度の饒舌が、彼の運命を決定づける事になるとは…。
「但馬、知っておるか?聞いたのだが、抜け忍を始末するのに、伊賀者は徹底して、その家族までいたぶるそうな。例えば、泣き叫ぶ子供の目の前で、母親を犯し、殺した上で、その子供の断末魔を聞くそうな」
「大分、酔っておられますな。今のは、聞かなかった事にしておこう。お送りせよ」
宗矩は、首を横に振りながら、酩酊している上司の介抱を家臣に押しつけて退室する。
宗矩は、そのまま自室に戻ったのか、その日、再び姿を見せる事はなかった。話しの内容から、すべてを悟ってしまった佐助は、忠隣の言葉に激しく反応し、屋根裏で暴発寸前となっていた。
(おい?ここは堪えよ)
今にも忠隣の元へと襲い掛かりかねない佐助を、才蔵が必死に止めていた。
無理もない話しだ。家族の仇と、事の真相を突き止めるべく、動きだして、その尻尾を掴んだのだ。しかし、ここで飛び出せば、犬死するのは確実であった。忠隣一人を殺した所で、どうにもならないのである。佐助は、自分の半分残った右腕の先を、思い切り噛みながら、口に広がる自分の血の味を知る事で、この無情な状況に、どうにか耐えようとしていたのだった。
そして、
(許すまじ、許すまじ…)
と頭の中で反芻しながら、自分の中の憎悪が消えてしまわないように、身体の中に刻み込んでいるかのようであった。
屋敷を脱出してから、才蔵が話しかけても、佐助はずっと黙ったままであった。その日は、そのまま解散し、日を改める事とした。しかし、それ以来佐助は、連絡用に決めた場所に現れる事はなかったのである。佐助は、この日を境に完全に姿を消した。
仕方なく、一人で忍ぶ事を才蔵は始めた。まず手始めに、忠隣の大久保家と、仇敵関係にある者に焦点を絞った。それが、佐助を探す糸口になると考えたのである。
(佐助め、何を仕出かすつもりか…)
佐助と才蔵との間には、敵という共通点があったが、その意図は違う。才蔵は、あくまでも、三九郎の邪魔となりうる者を排除出来れば良いが、佐助は、それも含めた徳川全体の天下が邪魔なのである。
それが、彼の復讐であるだろうと、才蔵は考えていた。そして、徳川の家臣である滝川家の家人である才蔵と、真田本家に仕える佐助の求める先の違いが顕著になった時、その行きつく先は、やはり、佐助との決着でしかないのかもしれない。いずれにせよ、現段階では、才蔵は佐助を見つけて、暴発しないように監視するのが、一番の得策であった。
才蔵はその夜、一人である屋敷へ忍び込んでいた。どうやら、先客はいないようである。
「父上、これからどうなさるおつもりです?」
「正純、狼狽えるな。大御所様が、我らを見捨てる事があろうか?」
ここは、家康の参謀と云われる、本多佐渡守正信と、その嫡男で上野介正純の屋敷であった。本多家と大久保家は、仇敵同士で、特に大久保家の筆頭である忠隣と、本多家の正信、正純親子は、お互いをどうにか引きづり下ろそうと、日々画策する間柄となっていた。
今は、正純の家臣であった岡本大八なる者が仕出かした不祥事によって、親子で自主的に謹慎している状態であった。本多親子は、現在巻き返しの策を考えている所である。
本多正信は、主君家康より、五歳年上のもう老年の域に達している人物であったが、老中首座として、幕府の御意見番的な立場にあった。元々が鷹匠上がりであり、武功とは縁がない。智謀の冴えで、家康の覇業を助けてきた男である。徳川家が行う策謀のすべてが、彼の頭の中にあると評されており、家康より厚い信頼を受け、我が友とまで呼ばれる仲であった。そして、息子の正純も、父譲りの才覚で、家康付側近として、辣腕を振るっていた。云わば、親子して、策謀の専門家であった。
「トラの尾を踏むぞ」
「父上、まさか!あそこは、禁忌では?」
「ならばこそだ。例の忍びを使う。忠隣の吠え顔が見られるわ」
「上手く行くでしょうか?」
「正純、覚えておくが良い。策とはな、敵が掛けたと思っておる時が、実は一番掛かり易い物じゃ」
「御意…」
親子の会話は、そこまでであった。さすがに用心しているのか、誰にも気づかれぬよう核心には触れず、内容は分からない。しかし、「例の忍び」というのが引っ掛り、才蔵は、更に調べてみる事にした。
才蔵は、このように昼夜を問わずに様々な主要要人からの情報収集を行い、そして得た情報を元に、佐助が行きそうな場所を探る毎日を送っていた。
そんな忍びとしての充実?した日々を、才蔵が過ごしていたある日の事であった。
「才蔵、何か隠しておるだろう?」
「いえ、何も…」
「本当か?」
「本当です…」
「ならよいが…」
三九郎に問い詰められた才蔵は、言うべきかを悩んでいた。主君に嘘を言う自分も嫌であった。例え嘘を言うのが、忍びの当たり前であったとしても、三九郎の前でだけは、真実の自分でありたいものだ。
「オギャーッ」
「おお、よしよし」
我が子が泣き出したのを合図に、会話はそこで中断される。やはり、一人でやるしかないと決意を秘めた才蔵であった。
慶長十八年(1613)四月二十五日、天下の総代官と謳われた、大久保長安が死去した。長安は、元を武田家の猿楽師上がりという経歴の持ち主である。
徳川家に仕えてからは、忠隣の与力として大久保姓を与えられて、主に新田開発や堤防建設と、金山の採掘に才があり、官僚としても素質を発揮すると、外様でありながら、老中にまで出世を果たした異能の人物であった。徳川の金は、すべてこの男が握っていると言っても過言ではない人物であった。
その男が死んだ。そして、その事で今、天下は揺れていた。長安の死後に発覚した彼の不正横領によって、長安の家族・郎党に至るまで、悉く処刑、処分されてしまったのであった。
才蔵は、何か引っかかると思い、事の真相を探る事にした。そして、案外、呆気なくというよりも、佐助から姿を現すようにして、彼を発見したのである。
「どこにいた?いや、そんな事はどうでも良い。一体、何をしたのだ?」
「特に簡単な事だ。死にかけの爺様の旅立ちを、早くして差し上げたのだ」
「貴様…」
「感謝しろ。これによって、お前の主の敵が減るのだからな」
「何?」
「分からぬか?大久保党の主は、今、京にバテレン追放の為に行っているが、そこで捕縛される手筈よ」
「何が狙いぞ」
「わしの家族を奪った奴らに、死よりも重い苦しみを味あわせる」
そう語る佐助の血走った目を才蔵は見た。狂っていると正直に思った。会わなかった短い年月の内に、佐助の表情は、また険しく、恐ろしい物へ、変貌しているかのようであった。
(この男を野放しにしておくのは危険だ)
才蔵は、そう感じていた。
「そして、徳川をも滅ぼす気か?」
佐助は、それには何も答えず、ただ不気味に笑い返すだけであった。しかし、その事が才蔵に決意させるきっかけとなる。
(斬るべし!)
才蔵は、思うが早いか、刀を抜き放ち、佐助に斬りつける。
才蔵が斬りつけた刃を、佐助は、失われた右腕の仕込み刀で、咄嗟に跳ね返していた。
「やはり、お主とはこうなったか?致し方なし。わしの願いは、真田家再興と徳川を滅ぼす事よ」
「真田なら、あるではないか?」
「その真田ではない。九度山に居られる方こそ、真の真田ぞ!」
今度は、佐助が仕掛けようとする。右手には仕込み刀、左手には、棒手裏剣である。そして、両者がぶつかり合う、その時であった。
「双方待てーっ!」
大喝とともに、三九郎が二人の間に割って入ってきたのだ。右手大刀で佐助の仕込み刀と棒手裏剣を防ぎ、左手脇差にて、才蔵の刃を受け止めるという神業を見せていた。稀代の忍びの二人も、三九郎の斬撃の前では、動けないでいた。
「殿、おどきくだされ」
「邪魔するな。才蔵から仕掛けた勝負ぞ」
しかし、次の瞬間、三九郎は、力業で忍び二人を後方に吹っ飛ばしてしまったのだった。二人は、そのまま後方へと上手く飛んで躱す。しかし、三九郎は、そのまま両方の刃を二人に向けたままで、威嚇を続ける。佐助と才蔵の鼻先には、三九郎が突きつけた剣先があった。二人はそのまま動けないでいた。
「今争うは、利非ず。双方とも引け」
「今、佐助を止めねば、後々禍となりまするぞ」
「おう、望むところ」
いきり立つ二人を鎮めるかのように、三九郎は、刀を鞘にしまうと、落ち着いた口調で語り始めた。
「間もなく、大戦(おおいくさ)が始まるやもしれぬ。決着は、そこで着けよ。想像してみよ。忍びであるそなたらが、馬を戦場で駆る姿を。どうだ?」
三九郎は、殊更にからかうような口調をする。
しかし、この際の効果は適面であっただろう。二人は、自分の姿を想像してしまっていた。忍びが表の世界で、脚光を浴びる事は稀だ。いや、浴びてはならない職業である。しかし、その掟が通用しないのが、戦であった。
「佐助、九度山に戻り、義兄上を頼む」
佐助は、コクンと一つ頷いた。
「才蔵、佐助を今は行かせよ。これは主命ぞ」
「畏まりました」
才蔵は、渋々了承すると、やっと佐助に刃を向ける事をそこで止めた。
「さらばだ」
それだけを言い残すと、佐助は、忍猿の異名らしく、すぐに暗闇へと姿を消した。後には、三九郎と才蔵だけが、その場に残っていた。
「殿、本当に宜しかったので?」
「奴ともまた会う気がしてならぬ。わしの感よ」
それは、三九郎の予言であったのか、ただの願望であったのだろうか。現時点では、判別出来る事ではなかった。
後日、佐助の言った通りに、大久保忠隣は改易となった。理由は、幕府への反逆未遂の罪である。彼の小田原藩は取り潰され、流人となった。言うまでもなく、本多親子との暗闘に敗れたのであった。
大久保忠隣という武将は、名前の示す通りに、忠義が隣に居るような、一途な男であった。武功派の第一人物であり、実績、名声、人望とも本多正信を上回る。彼の敗因は、策謀が得意な本多親子に、策謀で挑んだ所にあった。本来実直が服を着て歩いているような彼が、慣れない策謀を弄しようとして、返り討ちにあったと言えた。策謀を弄した時点で、彼の負けは、決まっていたことであっただろう。
忠隣は、無実の罪か、もしくは、大久保長安の罪に連座する形で改易となった。この事を後年、ある人物より、幕府に直談判して、地位を回復するように促されると、
「私が赦免を願い出れば、それは、お上の裁定に異を唱える事になる」
そう言って、赦免願いを出さなかったという。大久保忠隣は、正しく忠義の人であった。
忠隣は、流罪を京の都で、京都所司代、板倉勝重より聞いた。その時、忠隣は、将棋を指していたという。罪状を聞くよりも早く、「罪人となれば、将棋も指せまい。勝負がつくまで、暫し待たれよ」と言い、終始落ち着いた様子であったという。彼らしい豪胆な逸話である。忠隣は、流罪先で出家し、七十五歳の天寿を全うした。
しかし、当然ながら、将軍秀忠は、この処置に反対した。だが大御所家康の裁定には、逆らえきれなかった。家康は、或る時秀忠に聞いた事があった。
「なぜ、忠隣を改易に処したか分かるか?」
「それは、謀反の罪で…」
「差に非ず。大久保と本多との争いを、終わりにする為ぞ」
「しかし、父上…」
「大久保を勝たせずに、不服そうじゃのう?」
「いえ、決して、そのような…」
「まあよい。いいか、大久保は、長安が築いた金によって、私服を肥やしていた。それが一つの罪、そして、忠隣も正信も長安も老年じゃ。これらが死ねば、誰が残る?」
家康と秀忠、天下人の親子だけの会話は続く。
「正純じゃ。忠隣は、嫡男を失った。大久保は後が無い。しかし、本多には正純がおる」
そう言って、家康は、茶を旨そうに干した。秀忠もそれ以上何も言わなかった。この件で、親子が会話したのが、これだけであった。
しかし、この時の会話が深く、秀忠の心のシコリとなって残り、後年本多正純は、将軍秀忠に疎まれて、失脚してしまうのである。父正信は、自分は武功が無く、家康の覚え見出たいのを知っており、他者に疎まれないよう、決して、大領を得なかったという。そして、死に際に、息子にも同じ教訓を遺した。
しかし、正純はその禁を犯し、秀忠から宇都宮十五万国への転封を受け入れてしまう。しかし、それから僅か三年後に、正純は改易となる。罪状は、謀反の疑いありであった。これが何を示していたのか、正純には、理解出来ていたであろうか。賢き彼の事である。きっと逃れられない因果応報の運命には逆らえきれない事を悟り、忠隣同様に、何の言い訳もせずに、流罪となって、その流刑国へと旅立っていった。
しかし、これは、後年に起った、また別の話しである。反対に、その後の大久保家であるが、忠隣の孫が後年許されて、小田原藩主として復権するのである。本多家と大久保家、最終的な勝者がどちらであったと言えるだろうか。
慶長十六年(1611)六月四日、紀州九度山にて、流罪蟄居中の真田安房守昌幸がその波乱に満ちた生涯に、幕を下ろした。享年六十四歳であった。名門甲斐源氏の武田家の重臣であった真田幸隆を父に持ち、名将武田信玄の母方の名家であった、武藤家に養子に入る。順風満帆と思われた人生が最初に躓いたのは、長篠の合戦において、二人の兄が戦死し、真田家に急遽、呼び戻されての当主襲名であった事だろう。
そして、武田家滅亡後に、様々な同盟と破談を繰り返し、主君を衣替えするように変える事で、戦国の乱世を生き残ってきた。精鋭揃いの徳川を敵に回して、二度蹴散らすという離れ業をやってのけ、その武名を轟かせた。
事に籠城戦においては、この時代に彼の右に出る者は居ない。そんな昌幸も、流罪生活が十一年に及び、病がちとなり病没する。彼が最後に息子信繁の残した言葉は、
「大坂へ…」
それだけであった。その言葉を胸に、まだこの時期、武将としての名望は無いに等しい真田左衛門佐信繁という男が、今後どうなって行くのかは、これからの事である。
昌幸の死から三年後、信繁は、まだ九度山に居た。九度山の冬は早い。その冬を連れて来る降りしきる雨の空を飽きる事なく、眺めていた。
ただ一つの事を思っていたのだ。
(戦の気配が近づいている)
これが、信繁の考える一念であり、この時代の戦を経験した武将たちの、或いは、共通認識であったかもしれない。そう大坂の事であった。
その大坂である。
大坂とは、古代から難波、浪速と呼ばれ、海外貿易の玄関口として栄えた街であった。古代よりの呼び名が、現代でも使われ続けているのは、珍しい例であろう。大坂という呼称を最初に使い始めたのは、石山本願寺であったされている。本願寺は、戦国の覇者、織田信長との十年以上に及ぶ抗争を、ここ大坂で耐え抜いた。
この点、天下人となった豊臣秀吉が、自分の根拠地に大坂を選んだ事と無関係ではないだろう。本願寺は、信長との抗争の最後期である、約一年以上を自給自足で凌げたという。
それを可能としたのが、上町台地という土地柄であった。この古代より大阪湾に突きだした台地の高台に、秀吉が難攻不落の城を築いたのは、慶長三年(1598)であった。築城を始めたのが、信長の死の翌年であり、早くからこの地に目を付けていたのが分かる。
一説には、信長も大坂に城を築く構想を抱いていたともあり、この地が古代から現代に至るまで、如何に重要な土地であったかが、理解出来る。
そして、この大坂城の現在の主が、秀吉の遺児豊臣秀頼とその生母淀君であった。秀頼は、この時、二十二歳の若武者で、身の丈六尺五寸(約2m)の大柄な武将であったという。
父秀吉が小柄であった事が有名な為、当時でも秀吉の息子ではないのではないか?という噂はあったそうであるが、これは、淀君の父である浅井長政と、母お市の方がやはり大柄であった為、種の主がどうであるかは、兎も角として、祖父母の血筋が濃く現れた事は確かであった。
秀頼は、この時、右大臣を辞任しており、正式には、豊臣朝臣前右大臣秀頼公となる。家臣一同は、右府様と敬称して呼んでおり、これは、淀君の叔父、織田信長を模倣した事であった。この辺りにも、真の天下人は、秀頼であるという自負があった為であろうか。
そんな豊臣と、現在の実質的な天下人である徳川とが不仲となったのは、今が始まりでは無かった。関ヶ原合戦に勝利した家康は、慶長八年(1603)征夷大将軍となって幕府を開いた。
これにより、秀吉が築いた藤原摂関家に豊臣氏を加えて、貴族社会を取り込んだ実質的な武家政権から、幕府という、貴族的な要素を排除した武家政権の樹立を宣言したのだった。
江戸という関東の要所を本拠地としたのも、源頼朝以来の武家政権を建てる根拠と言えた。家康は、将軍就任に三年という年月をかける事で、周囲の様子をじっくりと観察している。
徳川家康とは、余り無理をしない男だ。彼は、豊臣秀頼と事を構えるのも、年月をかけて、我慢している。現在が慶長十九年(1614)冬であり、将軍宣下より、実に十一年も費やしている。
だが、実際の所、家康の豊臣家に関する対策は、消極的なソレであっただろうと思うのだ。家康は、ひたすらこの問題を後回しにして、時期を伺っていたように思われる。この点、果断速攻を得意とした信長、臨機応変と、迅速な対応の秀吉とは、正反対である。
しかし、これをもって、徳川家康という人物が、優柔不断であったかと言えば、そうではない。家康の最大の長所は、期を見る力が長けていた所であっただろう。
家康は、幼少時代から、織田家や今川家の人質として過ごし、いつ殺されるか分からない生活を送ってきた。最初の転機は、今川義元が信長によって敗死した事であっただろう。これを好機と捉えて、三河に戻り、今川家からの独立を宣言すると、織田家と同盟を結んでいる。
そして、次の転機は、信長が死んだ時であった。家康は、空白となっていた甲斐国へ攻め込むと、これを我が物として、力を蓄える。その後、秀吉と争うが、秀吉の力が強大である事が分かると、従属して秀吉に仕える。
そして、秀吉死去後に、関ヶ原合戦において、勝利すると、幕府を開いて天下人となったのであった。このように、家康は、待つ姿勢と、攻める時期とを、実にわきまえていたと言えた。待つと決めれば何年でも耐え忍び、攻めると決めれば、時を掛けずにすぐに攻めた。
そして、今が攻める時であると睨んだ家康は、兵を果断に動かしたのであった。
今回の戦の転機は、慶長十六年(1611)三月二十八日に行われた豊臣秀頼との二条城会見であっただろう。天皇譲位と即位式の為に上洛した家康が、豊国神社を詣でた秀頼を迎える形で会見は行われる事となった。
家康は、外まで秀頼を自ら迎えて、対等な立場での会見を提案したが、秀頼がこれを固辞し、家康より盃を受ける事で、下位に付く事を現している。この会見には、秀吉の正室であった高台院ねねも後見役として見守り、加藤清正、福島正則、浅野幸長、池田輝政、藤堂高虎といった豊臣家恩顧の大名も列席する日本国中の視線が注がれると言っても、決して言い過ぎではない重要な歴史的会見であった。
秀頼は、会見中、終始堂々たる態度を見せたという。家康は、会見後に秀頼を評して、
「あれは、人の言う事を聞くものではない」
との言葉を残したと言われる。
これをして、家康が秀頼の器量を恐れて、戦を起したとする説が今も根強く残っている。しかし、家康は、この会見後の豊臣家を見ていて、むしろがっかりしていたのではないかと思うのだ。
幕府は、豊臣家を武家としてではなく、他の五摂家の公家衆と等しく扱おうとした節がある。つまりは、領土などの実質的な力を持たない代わりに、関白・太政大臣の位を授けて、封じてしまうつもりだったのではないかと。家康は、秀頼の人物を見て、(家康を立てて、臣下の礼をとる)それが出来る人物だと思ったのではないか。
つまりは、人の言う事を聞くものではないとは、淀君などの大坂城の連中ではなく、時流を見極めて、判断出来る人物になるのではないかという、期待の言葉だったのではないだろうか。
家康は、将軍秀忠の娘の千姫を秀頼に嫁がせ、姻戚関係を築こうともした。孫婿に対する配慮をずっと続け、この数年前に会見を申し入れて、それを淀君が一方的に断った時も、不問に付した。そうやって、ようやくたどり着いた会見であった。世間も思った筈だ。これをもって、関東と関西が共存し、世に平和がもたらされると。秀頼公もいずれは、関白職に就くのだと。
しかし、この会見後も大坂方は、依然として変わる所が無く、幕府の威光を無視し、諸侯へ影響力を与え、朝廷にも幕府の許可なく、家臣に官位を得るなどの行為を行い続けた。
家康は、齢七十歳を過ぎ、自分の死期を悟るに至り、最後通告として、豊臣家を封じる手を打ってきたのであった。それが、世に悪名高い言いがかり、方広寺鐘銘事件である。「国家安康」、「君臣豊楽」である。この鐘に家康の名を呪い、豊臣家の繁栄を望んだ文字が刻まれているという非常に馬鹿馬鹿しいこじ付けにより、戦の火蓋が切られたと言って差しつかえないであろう。
最近の研究では、この文字を刻んだ清韓というお坊さんが、揶揄や洒落を込めていたとする説もあるが、要するに幕府にとって、理由は何でも良かった筈であった。豊臣家は、釈明の為に、家老の片桐且元を駿府に派遣したが、且元は家康に面会する事も叶わない。ただ日々を逸するばかりであった。
痺れを切らした大坂では、大蔵卿局を駿府に派遣した。大蔵卿局は、大野治長、治房兄弟の母にして、淀君の乳母であり、その側近として、大坂の奥を取り仕切る人物であった。そして、あれ程且元が会えなかった大御所家康に、大蔵卿局は、あっさりと会えたのである。
家康は、殊の外上機嫌であった。家康は言う。
「此度、手違いの儀、誠に遺憾なれど、どうという事もない。大坂の思いは、良く心得ておる。別儀無く過ごされよと、大坂には伝えて貰いたい」
「大御所様のご配慮、痛み入りまする」
家康の言葉に安堵した大蔵卿局は、立ち返ると、その事を秀頼や淀君に伝えた。
「何も問題御座りませぬ。じきに解決致しましょう」
大坂は、この報告に安堵し、方広寺の例の鐘の作り変えを考えていた。そのような時に且元が大坂に帰って来る。且元は、結局家康に会えず終いで、帰って来たのだった。
しかし、且元は、駿府にて連日、家康側近の本多正純や、金地院崇伝らと協議を重ねて、幕府からのある三つの条件を持ち帰ったのである。
一、 秀頼公幕府に参勤の事
二、 淀君、江戸人質に出す事
三、 大坂城より、他国へ移る事
この三つの条件の内、どれかを飲まなければ、戦になると報告したのであった。この且元の言葉に、大坂は疑問に思う。大蔵卿局の報告とは、真逆であったからだ。しかも、且元は、すんなり会えた家康にも会わず終いであり、帰還するにも時が掛かりすぎている。
(且元は、幕府に通じておるのではないか?)
それを最初に思った者は、誰であったのか?恐らく、その場に居た誰もがそう思ったのではないだろうか。且元は、元来忠誠心の高い人物であり、秀吉が存命中に秀頼の傅役に抜擢した人物であった。
関ヶ原合戦後、実質的に徳川家と豊臣家の折衝役を務めてきたのは、彼であった。それゆえに家康からの信頼も篤い人物である。それが、今回は仇となったと言えた。
「今逆らえば、豊家は終いですぞ!」
且元の内には、豊臣に対する忠誠心しか無かっただろうが、見る側の目が曇っていては、どうにもならなかっただろう。
秀頼は、というか淀君を中心とした大坂方の首脳陣は、且元を謀反人として罰しようとした。大野兄弟は、且元を襲ってしまおうと計画し、それを事前に察知した且元は、致し方なく、大坂城を退去せざるをえない状況となってしまったのであった。
駿府の大御所家康は、これを聞いて喜んだと言う。
「しめた。睨んだ通りじゃ!」
家康からして見れば、本音は、且元に内々に突きつけた三つの条件を総て、呑ませる事にあった。
秀頼は、一万石程度の一大名として遇する。しかし、家格は五摂家と等しくする。これを落としどころと、思っていたのではないだろうか。
そして、それを実行する為には、大坂城を大軍で囲む必要があった。大軍で囲んでしまえば、大坂はすぐに根を上げる事だろう。しかし、戦になれば満に一つ、手違いが無いとも限らないだろう。
そして、その万に一つが起らない為に、大坂方で一番の人物であった片桐且元を嵌めたといえた。且元が居れば、賤ヶ岳の七本槍の一人と謳われた歴戦の勇士として、その政治力によって、豊臣方を糾合してしまうとも限らない。
そこまで行かなくとも、これで豊臣家には、将と呼べる人物は残っていないだろう。すべては、家康の掌の上で、進んでいるかに思われたのだった。
家康は、この且元の大坂城退去を事実上な東西の手切れとし、諸大名らに幕府への忠誠を約した誓紙を出させると、陣振れを行い、十月に入って、伊勢、美濃、尾張の諸侯を先陣として、大坂に進軍を開始する。
そして、自らは一軍を率いて、十月二十二日に二条城へ到着している。片桐且元が大坂城を退去したのが、十月一日であるから、家康の迅速さが見て取れる。時期を待つと判断した時にはじっと動かず、その時が来れば、誰よりも早く行動する。天下人とは、かくあるものなのだ。
そして、滝川三九郎一積も家康の使番として、徳川軍に加わっていた。現在、二条城内の家康が居る一室では、本多正純、板倉勝重、金地院崇伝などの家康のブレーン達による密談が進められていた。これから、どう大坂を片付けるかの相談である。
「大坂の様子はどうか?」
「日の本中の諸将に参陣を募りましたが、応ずる者なし。今は浪人共を多数、城に入れている様子」
大坂の現在の状況を京都所司代である板倉勝重が詳細に報告する。家康は、勝重からの報告をじっと聞いている。家康の長年の癖で、両親指の爪を噛み千切って、それを吐き捨た。
しゃべっている拍子に、
「ペッ」
とやるのである。とても行儀が悪く、天下人たる者のする様ではないが、それを家康がするのは、苛立っている時か、何か思案している時か、とにかく気持ちが高ぶっている時に違いなかった。
「すでに入城した者はたれか?」
「御意」
本多正純が手に入れておいたリストを家康に差し出す。家康は、広げられた紙に書かれた者達の名前を一人一人列挙していくように、正純に合図する。
「後藤又兵衛基次、木村長門守重成、毛利勝永、明石全澄、長宗我部盛親、織田有楽斎、真田…」
正純が主だった武将の最後に、真田の名を出した時であった。
「待て、真田は、親か…子か…」
瞬時に家康の顔色が変わる。見ると、爪を噛む手が小刻みに震えていた。
「真田左衛門佐信繁、安房守の子に御座いまする」
「そうか…」
家康は、そう言ったきり、思案を始めてしまい、それ以上の言葉を続けなかった。
その場にいた者達は、真田安房守昌幸でないと知って安堵したと思った者達が大半であっただろう。しかし、障子の外側で、信繁が大坂入城を果たしたと知った三九郎は、別の事を思っていたのだった。
暫くして、室内の者達が全員退席した後でも、家康は、一人思案に耽っている様子であった。
しきりに、
「ペッペッ」
という、独特の噛み切った爪を吐き捨てる音が聞こえる。
それから、また暫くしておもむろに、
「三九郎、三九郎はそこに居るか?」
「はっ」
「入れ」
控えていた三九郎は、家康が一人居る部屋へ静かに入った。
中に入ると、三九郎が今までに見たことが無い程、家康は、眉間に皺を寄せて、険しい顔をしていのだった。
「そなたは、真田の縁者であったな。知っておるのか?」
「左衛門佐信繁めに御座いまするか。妻の兄に御座いまする」
家康は、一つ頷くが再び黙り込む。いつもなら、陽気に二言、三言の軽口を飛ばすのが常であったが、只事ではない様子であった。
(ひょっとすると、これが大御所の本来のお姿からもしれぬ…)
三九郎は、そう考えていた。つまりは、戦人(いくさびと)の顔をしてたのだ。
「どういう男か?父親と比べて、秀でた所があるか?」
矢継ぎ早やに質問する家康の目線は、三九郎には無く、蝋燭の火をただ一点に見つめている。三九郎は、家康の様子に戸惑いを感じて、どう返答しようか、一瞬躊躇していた。
「私の見立てで申しまするが、義父昌幸に勝るとも劣らず。彼の者に足りぬは、名望だけに候」
「左様であるか…」
「もう一つ御座いまする。左衛門佐が入城したからには、真田の軍略にて、今を好機と見れば、京に攻め寄せる恐れ有之(これあり)」
「この京に攻め入って何とする?」
「狙いは一つ也!」
「わしの首か…」
「御意!」
三九郎は、この戦が始まる前、使番の務めを大過なく終えれば、それで良いと考えていた。しかし、義兄信繁が現れたとなれば、戦局にどう影響するか分からない。武士として、主君の命を守る手立てを講じねばならないであろう。
「相分かった。至急、備えを厚くし、将軍に急使を送ろう」
「ははっ」
ようやく、家康は笑顔を取り戻した。三九郎は、ほっとして退室すると、自室に戻り、灯りを燈すと、何やら認め始めていた。
三九郎が大坂の武将であったならば、京に急襲して、家康の首を狙う。これが失敗に終わっても、宇治、瀬田の橋を壊し、以って大坂に引き換えした後に籠城策を取るのである。京の都は、昔から攻め易く、守り難い土地である。戦力を割く事にもなるので、ここは死守しないだろう。
一勝してから難攻不落の大坂城で籠城すれば、味方の士気も上がる。逆に初戦を落とした敵は、焦りより力攻めを行い、部隊の連携に乱れが生ずるかもしれない。そこを一気に叩くのである。
もっと言えば、瀬田、宇治の橋を敵が復旧している間に、要所に伏兵を忍ばせて、敵が城に大挙した所を後背より、襲いかかる手も考えられた。
今列挙した策は、上田合戦において、真田昌幸が徳川を蹴散らした軍略に通じる所があった。それを場所と規模を変えて、再現しようとしている男がいる。
(そうさせない為には…)
三九郎は、書き終わった書状を持つと、
「才蔵おるか?」
呼んだ才蔵が、すぐにどこからともなく現れる。
「大坂に行ってきてくれ」
「ははっ」
才蔵は、主からの一命で、すぐにまた暗闇の中に姿を消した。また一人となった三九郎は、障子を開け放つと、京の夜の空に光る月を見ていた。その見つめる先には、きっと強大な大坂城が、聳え立つ筈であった。
一方、大坂城であるが、十月二日には、秀頼の命により、兵を募り、城の修築を始め防備を固めていた。これは、片桐且元退去の翌日であり、どうやら、大坂城でも腹は決まっていた様子であった。
その大坂からの呼びかけに集まった浪人達であるが、総勢で約十万人という大規模な軍勢にまで、膨れ上がっていた。その主だった諸将の顔ぶれであるが、元土佐国藩主であった長宗我部盛親がいた。盛親は、土佐の出来人と謳われた父元親の四男であり、関ヶ原で西軍に属した為に改易となっていた。戦後に京の都で寺子屋を開いて、子供たちに教えながら、細々と暮らしていた。
しかし、此度の合戦においては、大坂城内に入城した者の内、一番郎党の数が多かったと言われている。これは、一領具足と謳われた長宗我部家の旧臣たちが、盛親挙兵を聞いて、自発的に集まった結果であった。
また、毛利豊前守勝永がいる。勝永は、小倉城主で大名であったが、こちらも関ヶ原で西軍であった為に改易となり、土佐山内家に預けられた。土佐では優遇されたようであったが、秀頼の招きにより、土佐国を抜け出して、大坂入りしている。
元々を尾張国出身で、姓も森であったが秀吉の九州征伐の際に、命により、毛利へ改名している。西国では、毛利氏の方が通用しやすいからであろう。
勝永は、親の代よりの数少ない秀吉譜代の家臣として、豊臣家でも期待されていた節があった。その忠義心は、抜きんでている。
戦場で一番槍などの華々しい武勲とは縁が無かったが、任務を黙々とこなす戦の玄人といった趣があった。
そして、明石掃部助全澄である。全澄は、宇喜多秀家の家老として活躍した人物であった。
秀家が関ヶ原の敗戦で島流しになり、全澄は潜伏を余儀なくされた。キリシタンであった彼は、母が縁者であった黒田家を頼り、その後、同じくキリシタン大名であった田中吉政を頼ったともあるが、諸説あって、この間の彼の行動は判別としてない。
更に一人、後藤又兵衛基次がいた。名将黒田如水に仕えた歴戦の猛将として知られ、家老の地位にあったが、現黒田家当主の長政とはソリが合わず、黒田家を出奔する。彼程の武勲の持ち主であれば、引く手数多な状況であっただろうが、長政は、とても又兵衛を恨みに思っており、又兵衛が仕官出来ないように、奉公構(ほうこうかまえ)を出されてしまった為に、再仕官出来ずに各地を放浪したようである。
奉公構とは、他家に仕官出来なくする為の物で、これを受けた武士は、主君に仇をなしたとレッテルを貼られてしまい、仕官先が無くなる。又兵衛は、これよりずっと落ちぶれ、京の都では、乞食として一時期暮らしていたらしい。
大坂城には、大野治長の招きにより、諸将よりいち早く入城しており、豊臣家の武功派一番手を担う人物であった。
そして、九度山を抜け出した真田左衛門佐信繁を入れて、この五名を大阪五人衆と称するのである。
他には、北条家に仕えて武名を上げていた御宿勘兵衛政友や、大力自慢の薄田兼相(岩見重太郎)、加藤嘉明の元で鉄砲大将として名高かった塙団右衛門直之などの、錚々たる面子が揃っていた。
大坂城内にて、秀頼出席の元、軍議が行われていた。
「討って出るべし!」
「いや、籠城こそ要ぞ」
軍議は、紛糾を極めていた。これより先だって行われた軍議でも、紛糾して結局総大将を決められずに、秀頼自らが総大将として、諸将がそれを支え、合議によって、軍略を定める事が辛うじて、決められた程度であった。
「今、京にいる家康を急襲し、首を獲る。瀬田、宇治の橋を落とし、兵を伏せ、将軍秀忠が迫るを背後より襲えば、百戦危うからず」
そう万座で主張したのは、真田左衛門佐信繁であった。三九郎は、正確に信繁の策を読んでいた事になる。
「この軍略は、父安房守の遺言に御座る」
信繁は、最後に付け加える事で、己の策に説得力を持たせる事に成功する。
「真田は、徳川を二度討ち破った唯一の家柄、わしが先手を仕る」
やはり真田昌幸の名声は効果絶大で、後藤又兵衛が立ち上がって声を上げる。
「やるなら早い方が良い。今夜致そう」
いつも冷静沈着な毛利勝永も賛同を示す。豊臣家譜代家臣として、城内でも声望を集める勝永と、早くから大坂城に入り、尽くしてきた又兵衛の言葉は重みがあり、軍議は主戦寄りに傾いていた。
「御一同冷静に。大御所家康程の者が、防備を疎かにするだろうか?討って出れば、返り討ちに合いましょうぞ」
盛り上がりを見せ始めた場内に、水を差したのは、大野治長であった。
「いや、しかしそれでは…」
「ではどうすれば…」
またも議論が紛糾して、纏まりを見せない様子であった。そこに僧籍姿の男が一人入ってきて、秀頼の側に静かに座し、議論の様子を暫く眺めて見ていた。
「各々方、静まれたし」
その男の言葉に、諸将は議論を止め、注目する。
「右大臣家、有楽斎思いますに、諸将の忠誠心、士気益々盛んに付き、もう一度よく吟味の上で、ご決定遊ばされる事が肝要と存ずるが?」
「左様、左様」
有楽斎の言葉に、治長だけが反応を示した。
「そうか、両名がそう申すのであれば…一同大儀」
「ははっ」
秀頼は、何も決められぬままに、退室してしまった。これに治長と有楽斎も続いて退室する。それが合図かのように、集まった諸将も席を立つのであった。
「左衛門佐、出陣支度を」
「おう、今宵が勝負ぞ!」
又兵衛と勝永が信繁に声を掛けると、戦支度の為に足早に退散するのだった。信繁は、「ああっ」とだけ答えたが、心中では、暗くなりそうな気持をどうにか繋ぎ止めていた状態であった。
(戦支度をした所で恐らく…)
信繁には、この軍議が迎える結論を、すでに悟っていたのだった。
「城より出るなど、狂気の沙汰じゃ」
ここは、奥の院にある淀君の私室である。そこに、秀頼と大野治長、治房兄弟。兄弟の母親の大蔵卿局、淀君の叔父で後見役の織田有楽斎、それから秀頼の乳兄弟の木村重成と言った、豊臣家の身内の面々であった。
「あの且元ですら裏切ったのですぞ。好きに兵を使わせ、誰が裏切らぬ?」
軍議の内容を治長が報告すると、主戦論に真っ向から反対したのは、母親の大蔵卿局であった。
「しかし、諸将の士気にも障りましょう。まず一戦し、それから城に籠れば?」
「長門守はまだお若い。次に籠城も一から籠城も同じ事よ」
木村重成がやんわりと主戦論を促すも、たちまち一蹴される。
「あの家康は、太閤殿下ですら、戦場では勝ちきれませなんだ。しかし、太閤殿下は、知恵を使い、あの者を屈服させたのです。その天下第一の知恵を絞って建てたのが、この大坂城に御座いまする」
有楽斎は、小牧長久手の戦いを鮮やかに語って見せた。如何に家康が野戦に強く、その用兵が巧みであるかを。そして、意外にも城攻めが不得意であり、籠城こそが最善策である事を淀君に語って聞かせた。
「叔父上様のおっしゃる事は、理に適いまする。右府様、重ねて出陣は為りませぬぞ」
「はっ」
秀頼は、そう答えるよりなかった。これにより、信繁が予感した通りに、大坂方では、籠城策を執る事が決定されたのだった。
「これ、これ!おらぬか?」
「ここに…」
自室に戻った有楽斎は、一人の忍びを呼ぶと、袖口から、小さくまとめてある紙を手渡した。この部屋には灯りも付けず、障子の向こうより、月明かりだけが、薄らと室内を照らしている。
「三九郎に伝えてくれ。右大臣家も、淀の方も和睦こそが心意であると。浪人どもは、血の気が多くて敵わぬ」
「はい、主に申し伝えまする。有楽斎様、くれぐれも左衛門佐にお気を付けあれと、主人からの伝言に御座る」
「相分かった」
有楽斎が差し出す密書を受け取った忍びは、やはり才蔵であった。才蔵は、密書を懐にしまうと、音も無くその部屋から姿を消した。
再び家康の居る二条城である。
「そうか、大坂は籠城と決めたか。三九郎は良い忍びをもっておるな」
「はい」
才蔵が持ち帰った密書を三九郎が報告した事で、家康は上機嫌であった。
「大御所様、しかし、あの難攻不落の大坂城に立て籠もられると厄介では?」
「上野介、一理あるが、籠城は味方の救援を待つ策じゃ。どこに今の大坂に付く大名がおろうか?」
「おっしゃる通りです」
戦の方針が決まり、上機嫌の家康であったが、それも将軍秀忠が京に到着し、参陣した事を知ると、すぐに不機嫌を通り越して、激怒に変わってしまっていた。
「早や過ぎるわ。馬鹿者め!」
「大御所に何かあればと、昼夜を問わず、馳せ参じました」
秀忠が江戸を発ったのが、十月二十三日で、京に到着したのが、十一月十日であったから、十八日の行程である。これが、どの程度の強行軍であったかというと、江戸の日本橋から京都の三条大橋までの距離が約500㎞である。
当時の舗装されてない道を比較的歩きやすい東海道を通るルートで行くと、壮年男性が徒歩で約二週間かかる距離である。それでも一日平均で35㎞歩く訳で、これだけでも厳しい旅である事が分かる。
それが、当時の一般的な鎧である当世具足で、20㎏以上ある荷物を背負う武士たちが何万人と移動するのである。これを一日平均27、7㎞の道のりとして、京に着いた頃には、人馬ともに疲れ果てているだろう。そこを急襲されれば、一溜りもない。
「天下の将軍が取り乱しては、面目がつかぬわ。正信そなたが居ながらも…」
家康の怒りは、収まらない。家康の考えでは、将軍はゆっくりと余裕を持って、ただ進んで来れば、それだけで敵に威圧を与える事が出来るのだ。
また、京を襲おうと画策していたのが、将軍秀忠が来ると聞いた敵は、大坂の兵を二手に分けて、家康と秀忠にそれぞれ向かって来るかもしれない。これだけでも各個撃破出来る可能性が出てくるというものであった。
「いやはや、面目なし」
秀忠の大目付として従軍した本多佐渡守正信は、頭を掻いて誤魔化していたが、家康には、正信が分かっていながらわざと秀忠を制止しなかったという事に、余計に腹が立っていた。
以前、上田合戦において、真田昌幸に翻弄され、関ヶ原に遅参した秀忠であったが、その時も秀忠に付き従っていた正信は、真田を捨て置き、すぐに進軍するのを主張していた。
しかし、秀忠は、正信の意見を無視して、大久保忠隣などの主戦派の意見を採用した事で、遅参の嵌めに合っていた。この責任を取る形で、忠隣の部下が何名か、身代わりに処罰されている。これを以って、本多家と大久保家が不和となったとされた。その経緯から、正信は、将軍秀忠の人となりを見て、殊更求められなければ、進言しないように努めてきたのだった。
「父上、面目次第も御座いませぬ」
「秀忠よ、そなたの律義さは健気ではあるが、戦場では…もうよい、下がれ」
家康は、それ以上を口にせず飲み込む事にした。これ以上は、将軍の対面を傷つけるであろう。秀忠は、戦に向かない。それは、以前から分かりきっていた事である。
家康が自身の後継者に秀忠を指名したのは、為政者としての資質と、一本気で筋を押し通す律儀な性格とを評価したが故であった。彼の戦下手や、一度決めたら融通が利かぬ欠点などは、能力のある家臣たちが、支えれば良い事であった。
(齢七十を超して、尚も陣頭に立たねばならぬとは…)
家康は、己の宿命を嘆いたが、日の本一統への総仕上げを、自らに課す事を心に決めていた。
家康と秀忠が京を発し、幕府軍が大坂に布陣したのは、十一月十五日であった。今や大坂城は、完全に包囲されていた。東西南北すべてにおいて、幕府と。それに従う全国の大名の軍で埋め尽くされていたのだった。幕府軍約二十万、それに対して、豊臣軍約十万人。
大坂城が難攻不落と言われる所以は、その恵まれた立地条件に起因するだろう。元々の低湿地帯に囲まれた場所に、上町台地の先端部分に築いた城は、大天守五層にも及ぶ巨大な城である。北は淀川が京より侵入する敵を阻み、東は平野川が流れ、西には木津川がある。
これらを天然の要害とし、城の北、東、西に水堀りがあり、南には、複雑な地形に合わせた長さ30m、高さ10m、そしてその上に更に土塁を積みあげた空堀りがあった。そして、城下町までも囲む、巨大な惣構(そうがまえ)である。
幕府は、城取りの名人と謳われた秀吉が、十五年の歳月を注いで築き上げた、日本史上において、最高傑作と評しても過言ではないこの城を攻めなければならない。
「南だ、南…」
家康は、繰り言のように、呟いていた。大坂城を攻めるならば、南側からという意味である。実際に家康は、大坂城の南側である茶臼山に陣を布いている。その数約三万人。
そして、その近くの岡山という場所に、二万を率いる将軍秀忠がいる。更に南側だけで、松平忠直一万、前田利常一万二千、伊達政宗一万、井伊直孝四千、藤堂高虎四千と、幕府軍二十万の約半数を投入している。
幕府軍は、開戦の後、約十日で城周辺の砦を悉く攻略し、順調に城本丸へ迫る勢いを見せていた。最初の戦闘である西側木津川砦もあっさりと落ち、それを合図かのように、北川の今福、野田・福島と攻略している。しかし、そんな中で、家康が一番重要だと考えていた南側に、この戦の分岐となる豊臣勢の拠点が作られていた。
真田丸である。
「一息に、攻め落とすべし」
ここ茶臼山の家康の陣では、先程から軍議が開かれていた。最初に勇ましく、突撃を主張したのは、将軍秀忠であった。この軍議に参加しているのは、大御所家康と将軍秀忠、家康側近の本多正純と、秀忠の目付として、正純の父正信である。
それから、井伊直孝、松平忠直といった南側主力の武将で、徳川の身内の者ばかりを集めて、極秘裏に行われた印象であった。
「砦を直に見た者があるか?」
家康は、閉じていた目を開くと、ゆっくりと発言を始める。将軍秀忠の言葉に反応を示さない。将軍を軽んじたというよりは、今は情報が必要であった。敵がどれ程の戦力を有しており、砦を落すのに、どれだけの戦力を投入するのかを見極めなければならなかった。
「滝川三九郎ここに…」
「おおっ三九郎か。近う、近う」
三九郎は、家康の近くに進みでて、自分で書き記した絵図を本多正純に手渡す。正純は、それを皆の前に広げて見せた。そこには、大坂城の兵の配置図が詳細に描かれていた。これは、織田有楽斎を通して、才蔵が三九郎に齎した物であった。
「砦に籠る兵は、約五千。城の南側、惣構の外側に建てられておりまする」
真田丸は、現在の天王寺区の辺り、心眼寺の敷地内を囲むように建てられたと考えられている。
近年、見つかった資料によれば、通説で考えられていた、大坂城に隣接した半円形ではなく、城の全くの外側に独立した砦として建てられた事が有力となっている。
それによれば、二重の堀を要し、元々あった寺を中心に、砦を築いている。その東西・北には崖があり、砦は、辺りから一段高い場所にあった。二重の堀があると記したが、その深さは約8m、幅は40mにもなる巨大な物であった。それを縦二列に組んだ鉄砲隊が砦に迫る敵を狙い撃つ事になる。
極め付けは、真田丸にだけ配備された大狭間筒であっただろう。この大筒は、射程約300mと、従来の鉄砲の倍の射程距離であったとされる。
その大筒を二人がかりで撃つ様子が、後世絵図に描かれている。このような万全な備えにより、真田丸は、敵を寄せ付けない最強の砦であったと言えた。
「あの砦に仕掛けてはならぬ」
三九郎からの報告を聞きながら、家康は渋い表情のまま、ただそれだけを呟やいていた。その軍議後、家康は、前田利常隊に塹壕を掘り、土塁を築く事を命じると、真田丸に決して仕掛けないように命じる。十二月二日の事であった。
真田左衛門佐信繁が大坂城の南側に真田丸という名の砦を築いたのは、一体いつの頃だったのだろうか。信繁自身が九度山を脱出して、大坂城に入城したのが十月九日である。
そして、大坂の陣開戦が、十一月十五日である事から、一ヶ月程の突貫工事にて、築かれた事が分かる。元々あった寺や、堀などの地形を元に建てたのであろうが、大坂で事が起きれば、ここに出城を築く事を画策していた事は、容易に考えられるだろう。
「殿、爽快な眺めですな」
「佐助、そなたもそう思うか」
真田丸の後方に位置する出丸にて、幕府勢の大軍に囲まれた砦に、信繁と佐助が居た。何せ二十万の大軍の内、真田丸を目指すように布陣するのが約九万の部隊であった。二人はその敵軍を、まるで絵画を鑑賞するような心地で楽しんでいた。
「大助、どうじゃ?」
「父上、大丈夫に御座います」
「若、初陣は皆胆が震えるもの、気張りなされ」
信繁の嫡男真田大助幸昌は、この時十四歳。九度山の蟄居中に、正室との間に生まれた長男である。
「この砦であれば、如何な大軍とて、そう易々とは攻め込めませぬぞ」
「ああ」
佐助の言葉に信繁が応えたのは、それだけであったが、脳裏には別の事を考えていた。思い出していたのだ。それは、信繁がまだ九度山で蟄居生活をしており、父昌幸が存命中の頃であった。
「今日は、どうだったかのう?」
「本日は、父上が守りで、私が攻めで御座いまする」
「為らば、わしの番じゃのう。どれ、大坂城か…」
昌幸と信繁は、この日も変わらずに碁を使った軍略研究に勤しんでいた。
「この大坂城はの、四方を天然の要害に守られた絶対の地に建てられておる。さすが秀吉よ。そなたならどう攻める?」
父昌幸が碁盤で示す大坂城は、正に難攻不落の名に相応しい陣形を示していた。
「私ならば、ここから攻めまする」
少しの思案の後、信繁はパチンッと小刻みよい音と共に、その昌幸の大坂城の南側に一つ石を置いて見せた。
「南か、何故南じゃ?」
「大坂は、北・東・西ともに川や堀、崖に囲まれて攻める事は出来ませぬ。攻めるならば南!」
「しかし、南にも多くの武家屋敷、街並みがあり、深く広い空堀まであるぞ」
「であればこそ、南でもこの端の方より、軍を進めまする」
信繁は、そう言うと、自分が置いた碁を一マス前に動かした。
「ならば、わしはここに新たに出城を築くぞ。ここは寺が多い土地じゃ。それらを利用して、小高い場所に空堀も築く。これならばどうじゃ?」
昌幸は、碁石を一つ持つと、それを城の南側出口付近より、少し前に勢いよく置いた。それは、現在在る真田丸が立つ付近であるようだった。
「どうじゃ左衛門佐?」
「少し、お時間を…」
信繁は、父の一手に苦戦を強いられるのを自覚していた。やはり、この父親には敵わないのだろうか?そう思っていた時であった。
(本当に南からしか、攻められないのだろうか…)
この疑問が、信繁の脳裏を巡り、表情にまで現れていた。
「左衛門佐、気づいたか?」
「はい」
「それでよい。ここからしか攻めぬなどとは、人が決めたに過ぎぬ。それを忘れるな」
「左衛門佐、そなたはきっと、世をあっと言わせる戦をする」
昌幸は、常々そう言った。
そして、この言葉が大軍を指揮した事の無い、信繁にとっての自信の根っことなっていた。
昌幸の授業は、いつもこんな風であった。あんなにも再起を心待ちにして、大坂城で采配を振るう事を夢見ていた父はもういない。信繁は、父との思い出を何度も反芻していた。それは、父昌幸が遺してくれた軍略であり、戦への心構えでもあった。そして、この事が信繁と、この戦事態の行く先を左右していく事に繋がって行くのであった。
(大坂城の弱点は、南側だけではない)
信繁がそう思い至ったのは、正にこの直後であった。
「城の北東が手薄じゃ…」
信繁は、頭の中の言葉を口に出していた。その独り言は、横にいる佐助や大助にも聞こえてはいないだろう。
信繁は、頭の中で考えている。自分が家康であれば、どこから攻めるだろうか?他の砦は落としている。後はこの真田丸だけだ。
しかし、この砦は容易に落ちそうではない。ならば、別の場所からだ。手薄な場所はどこだ。北東の方角は、川の流れにより、陸地が少なく、その分、兵を配置する事が出来ない。天然の要害の地であるので、まず攻めてこないと考えるが、万が一、城に侵入を許せば、一溜りも無いであろう。
(そして、家康もその事を知っている…)
家康は、秀吉死後から関ヶ原以前まで、大坂城西の丸に入っていた事がある。つまりは、この城の事を熟知していると思って、間違いはないであろう。
信繁がある決意を固めたのは、この瞬間であった。
「こちらから仕掛けるぞ。出陣の支度せよ」
「はっ」
信繁の下知は下った。
佐助は、歓び勇んで準備に出掛け、大助は武者震いに顔をこわばらせていた。
「大助、今日がそなたの初陣ぞ。心せよ」
「はい、父上」
信繁は、健気な我が子を気遣うように、その両肩を軽くポンッと叩いてやる。
信繁は笑顔を見せては、陣中を歩き指示を出していく。配下の者たちは、そんな大将の為に皆、大いに働いている。この真田丸は、活気で満ち溢れていた。
しかし、この熱気の渦の中、一人信繁の頭の中だけが、妙に冷めていた。ある種の悲壮感にも似た決意を秘め、押しつぶされそうな重圧の中を、皆に笑顔を振りまき続けるのであった。
真田丸の戦いと呼ばれる合戦が行われようとしている。この戦いは、日本史上で言えば、特に重要な戦いではない。あくまでも、徳川家と豊臣家という戦国の世を駆け抜けた両家の争いのごく一部の戦いにあたる。だがしかし、この真田丸が後世の歴史を好む人達にとって、とても魅力的に映るのも、また確かな事らしい。
信繁が出撃の決断を下したのは、次の報せが真田丸にもたらされた事による。
「前方の前田勢が、土塁を築き始めました」
それは、家康に命じられた前田利常が、対真田丸に建設する予定の防御陣であった。
(これを逆用して、前田勢をこちらに引き込めれば…)
信繁の決断は、素早かった。すぐに手勢を纏めると、下知を下し始めていた。
「大助、そちは一隊を率いて、篠山に陣を張れ。作兵衛は大助に付いて行け。それから、内記は、鉄砲隊を構えて…」
信繁が下知すると、皆が素早く行動に移す。最早、阿吽の呼吸であっただろう。
「父上、行って参りまする」
隊列を整えた大助は、大声を張り上げながら、懸命に自分を奮い立たせると、勇み好んで陣を後にするのだった。その後に続くのは、堀田作兵衛である。
そして、鉄砲隊の準備を任された高梨内記もその準備に余念がない。彼らは、九度山の蟄居時代も信繁の元に居た昌幸の代からの旧臣であった。
「撃て、撃ちかけよ」
篠山を占拠すると、大助は、土塁を築こうと工事を進める敵目掛けて、一斉に撃ちかけた。これでは、前田勢も土塁処ではない。すぐに隊を陣内に引き上げざるをえない。
すると真田隊は、撃ち方を止める。またほとぼりがさめたぐらいに前田勢が土塁作りを再開すると、それを待っていたように、真田勢が山より撃ってくるのである。これでは、家康の命令を遂行出来ないと思った前田勢は、有る事を考えるに至る。
「篠山に討って出る」
そう口にしたのは、前田家筆頭家老の本多安房守政重であった。この人物は、元々が徳川家重臣の本多佐渡守正信の次男に当る人物である。
しかし、切れ者揃いの本多家の次男である政重は、血の気が多い人物として有名であった。年若い頃に、秀忠の乳母大姥局の息子を諍いの末に惨殺して、徳川家を出奔したのを皮切りに、大谷吉継、宇喜多秀家、福島正則など、豊臣家に縁のある武将に仕えた後に加賀前田家へ仕え、その後更に上杉家へ鞍替えした後、帰参する形で前田家に家老として召し抱えられた。
歴代の名将たちに重宝されたのは、本多正信の次男という側面があったのは事実であろうが、政重自身の武勇による所が大きかった。
「あんな小山など一捻りぞ。あそこを拠点として、真田丸とやらも落してくれん」
政重は、前田家の指揮を預かる立場での大戦で、いささか大きく成った気を自分の武勇を持って、証明しようとした。つまりは、篠山に居る真田勢に、夜討ちを仕掛ける事を決めたのだった。政重は、夜中になるまでに準備を整えると、一隊をもって、篠山に襲い掛かったのである。
しかし、どうも様子が変であった。真田勢からは、反撃も無く、物音一つしないのであった。状況が完全に理解出来たのは、政重自身が、山の頂上に達した時であった。
「逃げたか…」
真田勢は、すでに陣を引き払った後であった。
「まあ良いわ」
戦わずして、敵の陣を奪取した政重は、少しの満足感を満たしていたのであったが、次の味方からの報告に、表情を一変させるのであった。
「敵一隊が、真田丸の前方にあり。篠山にいた軍勢に御座いまする」
それは、大助率いる部隊であった。この一隊が真田丸の前方に位置し、しきりに篠山の前田勢に対して、嘲笑したり、一斉射撃したりと、つまりは挑発行動を取っていたのであった。
しかし、本多政重という男は、只の猪武者ではない。
(敵の動きが怪しい。ここは、迂闊に動かぬべきか…)
真田隊の動きに不審な点を感じて、軍の前進を止めた。真田隊の目論見は、脆くも崩れるかに思えたその時であった。ドドーンッという爆発音と共に、大坂城内の一角にて、火の手と共に、一筋の噴煙が、頭上空高く舞上がったのである。
そして、それを合図としたように、前田勢は前進を開始する。この時すでに、夜は明けており、真田隊に迫る本多政重の目にも、その噴煙がはっきりと見えたのであった。
「よし今ぞ。山より駆け下りれば、これ破竹の勢いを持って、敵を討つ破るべし」
政重は、全軍に下知を下すと、前田勢は鬨の声を上げながら、眼前の真田勢へと襲い掛かった。しかし、これに対して、大助の一隊は、浮き足立つ事もなく、整然と隊を纏めて、真田丸へと引き返し始めた。すべては、信繁が立案した作戦に従った、行動の範囲内であったのだ。
実は、先程の爆発音は総て、豊臣方の策であった。大坂城に南条元忠という武将がいた。元々は、伯耆国羽衣石城の大名であったが、関ヶ原で西軍に付き、改易浪人となっていた。大坂の陣にて、豊臣方に加担するも、徳川家からの伯耆国にて一城を与えるとの調略に乗ってしまう。大坂方に徳川の間者が数多く入り込んでいた証拠でもあろう。
しかし、この元忠であるが、あっさりと裏切りを見破られて、城内にて切腹させられてしまった。当初、この事が露見した時に、大野修理などは、見せしめの為に首を晒し、以って規律を重んじる事を是としようとしていた。しかし、この件を聞いた信繁から、後藤又兵衛を通じて、次の策に変更したのである。つまりは、南条元忠をまだ生きていると思わせ、徳川を欺く策を講じたのである。
この南条元忠の内応は、先鋒を務める前田家中にも知らされていた。
「朝になりて、城の一角にて爆発がおきれば、それを合図として、真田丸へ突撃すべし。内より門を開け、軍勢を迎え入れん」
元忠からの密書には、そう記されていた。本多政重はもちろんその事を知っている。すべては、手筈通りであった。しかし、この爆発からして、信繁が佐助に命じて行った策の一環であったのだ。
「殿、敵が門を開きましたぞ」
「よし、この機を逃すな」
それは、大助一隊を収容する為に開けた門に過ぎなかった筈であるが、政重以下、前田家の一軍にとっては、勝利の二文字が、こちらに媚びを売っているように見えていたに違いなかった。
「掛かれーっ」
政重の突撃命令により、真田丸へ迫る前田勢は、我先に砦に向かって突進を開始する。一方、真田丸内では、大助の先発隊が無事に帰還を果たすと、敵が殺到する前に素早く門を閉めていた。
(何だ?手筈と違うぞ…まさか…)
政重が気づいた時には、前田家の先鋒隊は、正しく死地に居た。
信繁がこの日の為に、訓練を重ねて鍛えた真田の鉄砲隊が火を噴いたのである。凄まじい轟音が何百、千と鳴り響き、その度にバタバタと敵が面白いように倒れて行く。40mの広さがある空堀内では、身を隠す場所も無く、しかも真田丸の鉄砲隊は、ズブの素人集団ではなかった。
信繁は、紀州国の九度山に長年蟄居生活を余儀無くされていた。しかし、それがこの際は、福と成したと言えたかもしれない。紀州では、雑賀党や根来衆など、昔から鉄砲隊を組織した傭兵集団が数多く居た土地柄である。信繁は、これに以前より目を付け、この日の為に、彼らと密かに誼を通じていたのである。
つまりは、彼ら鉄砲のプロを雇い入れて、短期間で鉄砲隊を精鋭部隊へと作り上げる事に成功していたのだ。この真田の鉄砲隊は、戦で大いに活躍し、敵を撃ち払い続けた。
「いかん、退け、退けーっ」
自軍の不利を悟った政重は、後退を命じたが時すでに遅しであった。政重率いる前田の先鋒隊が、真田丸に仕掛けたと知った前田家の山崎長徳の部隊も、政重隊の後ろから、攻撃に参加すべく全軍突撃しており、前田勢は、退く本多隊と、行く山崎隊とで大混乱に陥ってしまった。
しかも、これに拍車を掛けるように、井伊直孝と松平忠直の部隊も、前田家に遅れをとってはならじと、攻撃に参加してしまった為に、戦場は指揮系統が乱れて、面白いように、真田隊の攻撃を受けて、倒されていったのである。
「仕上げをしに参ろうぞ」
ようやく、全軍引き上げを開始したというよりも、最早潰走状態の徳川勢を追い打ちする為に信繁も砦より出撃する。この信繁率いる真田の主力部隊の突撃で、徳川勢は尚も大打撃を被り、全軍がようやく退却出来たのは、十五時過ぎての事である。
真田隊の完勝であった。徳川勢の死傷者は、数千名から一万五千人とも言われる。この真田丸の戦いにより、真田左衛門佐信繁の名は「真田再び」と、一躍広まるのであった。
思えば、真田家は「数は力なり」という言葉を覆し続けた家系かもしれない。信繁の祖父に当る真田弾正幸隆は、武田信玄に仕えた武将であったが、信玄が落せなかった砥石城を、調略を用いて、僅か一日で陥落させ、智謀の冴えは信玄に勝ると謳われた智将であった。
そして、幸隆の三男で、次代の安房守昌幸は、僅かな手勢で二度までも上田合戦において、徳川の大軍を打ち破り、世間をアッと言わせている。そして、真田丸での左衛門佐信繁の戦い振りである。
真田家は小国の生まれである。いくつもの大国に囲まれて、強敵と戦う内に、生きぬく術としての軍略が芽生え、それは代を重ねる度に昇華されていく。真田の戦いは、そのすべてにおいて、敵より少ない手勢で戦う事を余儀なくされた。しかし、その困難なミッションをこなし続け、しかも自軍にそれ程の被害も無く、敵を壊滅させている点は、特記すべきである。このような家系は、歴史上でも稀有な例であろう。
真田丸の戦いにおける敗戦の報は、すぐに家康の元へ届けられた。
「何故、勝手に動いたか?」
「申し訳御座りませぬ」
自重命令を無視して、仕掛けた前田利常は、平身低頭するしかない。正に家康の恐れていた通りの展開となり、一人真田左衛門佐信繁に名を成さしめてしまった。
「どうも、因縁というよりないのう、正信よ」
「ははっ」
通算で三度までも、真田は徳川を退けて見せた。家康にも海道一の弓取りと謳われた自負があり、現時点で自分より戦妙手は他にないとの思いがあったが、信繁の戦指揮がここまでとは思っておらず、どうやら、左衛門佐の父譲りの才を見直すしかなかったのである。
「真田伊豆守は、領国で控えておるのだな」
「万事抜かりなく」
信之は、この戦に参加を許されなかった。
自身が中風を患っていた為ではあったが、真田が大坂入城の報せを聞き、万が一に備えた為、将軍秀忠から、留守居役を命じられたのだった。真田家からは、信之の二人の息子である信吉、信政が代理として出陣し、大坂城の東側に陣を張っていた。
(もしも、真田家同士で内応されれば、この戦危うくなる処だ…)
家康は、口にこそしないが、そう見ていた。信之の忠誠心を疑っている分けではなかったが、大将たる者、義理と人情や計算だけに頼っていては、方向性を間違い、思わぬところで足元をすくわれかねない。あらゆる事を想定して、いつも最悪の事態に備える事が戦には必要であったし、家康の苦労を重ねた半生で得た教訓でもあった。
「今後は竹束、鉄楯を必ずな」
家康は、彼の性格であろうが、こと細かく諸将にも指示を出している。この時も鉄砲への備えを怠って突撃を敢行した者や、釣られて功名を焦り、多くの負傷者を出した事を叱りつけており、部隊の配置や、鉄砲への備え、動き方までも、一つ一つ自ら差配している。
「大御所、こうなっては、あの砦に総攻撃を仕掛けましょうぞ」
将軍秀忠は、怒りに震えていた。またしても、真田に名を成さしめた事への怒りと、第二次上田合戦の遅参の事が頭をよぎり、ハラワタが煮え滾る思いがしていたのだった。
「その儀に及ばず。ここは、じっくりと攻めて、相手の疲れや油断を誘うのじゃ」
家康は、本多正信と何やらヒソヒソと話し始めた。この二人はいつもこうであった。二人だけにしか分からぬ会話で話し、周りを気にしない。そして、必ずと言っていい程、日の本を動かす核心に触れる謀議の内容は、この二人の頭脳と会話から生まれていたのだった。
大御所家康が三九郎を呼び出したのは、真田丸の戦後の夕刻の事であった。
「三九郎よ。信濃国、または甲斐で十万石じゃ」
「大御所様は、左衛門佐の戦振りを天晴れに思い、旗下に加えたいとの仰せじゃ」
本多正純が得意顔で説明を加える。
唯の浪人でしかない今現在の信繁に十万石とは、天下人家康の器量を内外に示す事にもなるだろう。
「三九郎、やってくれるな」
「はっ」
しかし、三九郎は、一言発したままその場を動かない。
「何か存念があるのか?申せ」
「左衛門佐は、恐らくお受け申さぬと…」
「十万石では不足か?」
「彼の者は、他に望みが御座りましょう」
「それは何だ!」
「大御所の御首!」
「滝川、無礼なるぞ!」
堪らず正純の声量が大きくなる。それを家康は、笑って制する。
「大御所と戦い、勝つ事が彼の者の望みに候らわんや」
「であれば、わしの申し出を断ると申すか?」
「御意!」
他の者が聞けば、家康は器量不足だと三九郎が言ったようにもとれて、不遜に見えるかもしれない。しかし、家康はそんな事は、一向に気にした様子もなく、三九郎も全く動じる気配はない。更に言えば、三九郎のこの実直さを、家康は好ましくも思っていた。
「相分かった。しかし、カラクリはしてもらうぞ。よいな」
「ははっ」
家康は、真田丸が力攻めでは簡単に落ちない事が分かると、作戦を切り替えていた。
その一つの案が内応であって、これで信繁が応じればよし。応じなくても、次の策を考えるまでの時間稼ぎが出来る。家康の戦巧手ぶりは、歳を取るに従って、高くなっているに違いなく、そのキレは、七十歳を越した今現在でも、いささかも衰える所を知らなかった。とにかくも、三九郎は、信繁の元へ向かう準備を急がねばならなかった。
真田丸に居る信繁の元へ、三九郎が訪れたのは、その日の夜半過ぎであった。三九郎は、才蔵へ、真田丸に出向けるように手配を命じると、すぐに行動に移したのである。
「義兄上、お久しぶりに候」
「三九郎殿、息災であったか?お菊はどうじゃ?」
「はい。一子、豊之助の養育に、相務めておりまする」
「それは、祝着至極じゃ」
二人は、その晩少しの時間ではあったが、語り合う事が出来た。九度山へ配流となってからの久方ぶりの再会であった。
「これが、大御所からの密書で御座る」
三九郎が手渡した書状を信繁は、受け取ると、中身を見ぬままに、そのまま火にくべてしまった。これでは、焚き木の足しにもならぬと笑い、その闊達な様に、ついつい三九郎も釣られて笑ってしまった。
(やはりこの方は、いささかも変わらない。あの頃のままじゃ)
三九郎は、心の中で義兄の健在ぶりを嬉しく思っていた。三九郎には、言わずとも信繁の気持ちは分かっていたのだ。
今から十万石の大名に成った所でどうなる物でもない。上田の信之家と併せても、二十万石にも満たないではないか。それよりは、いっその事、天下人家康相手に、世間をアッと言わせる戦いを演じる。首が獲れれば、十万石どころではない。
この戦は、偉大な父昌幸と、後を継いだ兄信之の影に隠れていた信繁にとって、己の力量で戦える、最初にして、最後の機会であったのだ。それを自分から降りる事など、どうして出来るだろうか?
「三九郎殿、大御所様には、厚くお礼を申してくれ。それと、家族を御大切に」
「はい。義兄上も御達者で」
二人は、僅かな時間での再会ではあったが、互いの無事を喜び合い、肩を抱き合い別れた。その後、真田丸を抜け出し、大御所家康に事の不首尾を報告したが、家康は笑って、三九郎を労った。三九郎からもたらされた、真田丸内の様子が知れただけでも良しとしたのであろう。
(この戦は、これから激しさを増して行くのだろうか?)
家康の陣を辞した三九郎は、心中複雑な思いに駆られていたのだったが、この考えは、すぐに意外な形となって、外れる事となる。
幕府と大坂方の電撃的な和睦が決まったのは、真田丸の戦いから、僅か二週間後の事であった。信繁調略が失敗に終わると、家康は、城を取り囲んだ四方の味方より、鬨の声を連日連夜あげさせて、城方に心理的な打撃を与えた。
また、イギリスより購入した大砲カルバリン砲は、射程距離6300mにも及ぶ物で、これら外国産の物と、国産とを含めた大小からなる百門の大砲を、城の北東より撃ち続けたのである。この一つの砲弾が城の天守閣を射抜き、その瓦礫が淀君の目の前で、侍女を押し潰したのである。
これに大坂城の首脳陣は恐怖し、徳川家の間者である織田有楽斎を通じて、和議を願う事となったのである。もちろん信繁を始めとした浪人衆は、これに断固反対したのだが、和議を知らされた時には、すでに京極高知の陣にて、秀頼代理として、淀君の妹である常高院と、家康の側室である阿茶局、本多正純が名代として、和睦交渉に臨んでいたのであった。
この和議自体は、家康から望んでいた可能性が高い。しかし、有楽斎などの間者を使って、巧みに大坂方を誘導する事に成功し、豊臣から和議を望んだ形にしてしまった。従って、和議の内容を見ても、豊臣に不利な条件である事は明白であった。
一、 大坂城は、本丸以外をすべて破壊する事
二、 大野治長及び、織田有楽斎より、人質を出す事
三、 豊臣家の家臣は、これを処罰しない
一見すれば、豊臣方にとって、好条件に思える。本丸以外を破壊とあるが、後で作り直せば良いし、とにかく城自体は残るのである。また人質に関しても、本来であるならば、秀頼の子か、淀君を出す所を譲歩しての事であり、これもいい。
そして、家臣を処罰しないとは、浪人衆にも配慮を示しており、不満など無いように見える。
しかし、総ては、幕府が大坂方を嵌める為に考え抜いた、用意周到な奸計であったのだ。
「又兵衛殿、どう思われるか?」
「徳川の罠ではないのか?」
「貴殿もそう思われるか」
しかし、信繁も猛将後藤又兵衛も、この和議を反古にする事は出来ない。
「有利に戦いを進めているのは、我らの方だ。何故人質を出す必要がある。何故取り壊すのだ?」
いつもは、物静かで口数の少ない毛利勝永が、この時ばかりは、大野修理に詰め寄り、修理の弟の治房と、一触即発になる事態が発生していた。
「我が嫡男を質に出し、上様(秀頼)の御意に従ったのだ。何卒、何卒…」
縋る様な修理の様子に、勝永は一言もない。元々が無口で口下手な彼は、それ以上言う事も出来なかったのであろう。
「和議は良いが、一体我らはどうなるのか?お役御免では困るぞ」
長宗我部盛親のこの言葉で、浪人衆を中心とした家臣団から、不満の声が続出し始めていた。
「お主はどう思うか?」
又兵衛が話しを向けた先に居たのは、明石全澄であった。全澄は、この騒がしい様子を横目でずっと眺めていたのだが、不意に立ち上がり、大声で次にこう言い放った。
「拙者は、キリシタンに御座る。キリシタンを弾圧する幕府と、今さら和議は、結びかねる」
全澄は、それだけを言うと、またその場にドッカリと座り、腕を組んで、後は黙ってしまった。大坂城は、未だに一致団結する事が出来ない状況を露呈していた。
しかし、信繁などの一部武将は、まだ望みを捨て去ってはいない。
「為らば、わしに策がある。家康を今から急襲しようぞ」
「何と?二十万の大軍にか?」
「さればこそよ。大軍だからこそ、撤退は至難の業。そこを狙うのよ」
信繁は、又兵衛と会話し、又兵衛がその策に頷くと、その場に立ち上がり、家臣団の前へ進み出た。
「今こそ、家康の首を獲る好機ぞ!」
「おおっ!」
信繁の号令に賛同する浪人衆と家臣団。しかし、この件は、大野修理によって、すぐに秀頼と淀君に知られる事となった。
「待たれよ各々方。古来より、和議後に攻めるは、条理にも悖る行為ぞ」
城を討って出るべく勇み出す者達の前に現れたのは、大野修理と、織田有楽斎であった。
「我らが望んだ和議ではないわ」
「上様がお決め遊ばされた事じゃ」
和議か再戦かで、意見が激突する。
「古来を申すならば、漢の高祖が楚の項羽を倒したのは、和議後に後ろから襲ったからではないか?要は勝てば良い」
信繁の博学に、場内より感嘆の声が上がる。
「それでは、人質はどうなる?」
「取り返さばよかろう」
「何だと?」
今や、豊臣家は主戦派と和議派で真っ二つとなっていた。このままでは、内紛にも発展しかねない状況であった。
「双方、お静まりあれ!」
その時、大声をあげ、信繁と修理との間に入ったのは、木村長門守重成であった。
「上様の御成りである」
その言葉に、一同がその場に座し、一座は静まりを見せた。
「皆、大儀である。各々思う所はあろうが、予は和を望む。関東の爺にもまた会ってみたい」
「ははーっ」
この秀頼の言葉により、家康襲撃の案は却下された。信繁は、無念の臍を噛んだが、もっと苦々しい事は、この後に起きていた。織田有楽斎出奔である。
有楽斎は、最早、豊臣家の浪人衆を抑えるのは不可能と思い、家康の許可を得て、大坂城を退去してしまったのだ。信繁も薄々、有楽斎の言動に不審を感じており、身の危険を感じて、逃げ出したのであろう。
有楽斎が徳川の間者であった事は、戦後に幕府より、加増されている事からも容易に推察出来た。信繁は、またしても絶好の機会を逃してしまったのであった。
「有楽斎様、何よりで御座りました」
「三九郎、祝着じゃ」
大坂城を退去した有楽斎を三九郎が出迎え、家康へと案内していた。家康は、殊の外上機嫌で、この内応者を歓待していた。この身内をも裏切った行為に、幕府内でも有楽斎を蔑む声もあったが、三九郎は別の事を思っていた。
(このお方は、ようは人が良すぎるのだ)
それを一言で現せば、「頼まれれば、断れぬ性質」であった。有楽斎は、信長の末弟として、織田家の重鎮であった。本能寺の変により、兄信長が殺された時に、信長の後継者であった嫡男信忠は、二条城に立て籠もった。この時、有楽斎も信忠と共にいた。
このままでは、有楽斎も一緒に信忠の死ぬ運命であったが、有楽斎は生き延びた。信忠に嫡男の保護を頼まれたからであった。有楽斎は、二条城から逃げ出すと、信忠の家族を約束通りに保護している。しかし、この時も、正に逃げた事が原因で、有楽斎は世間より、冷ややかな眼で見られている。平和な時代、これよりも後に産まれていたならば、きっと茶の湯の大家として、その名を刻まれた筈である。
人の評価は難しい物だ。それは、時代によっても変化するものであるし、悪人と思われていた人物も、時代を経れば、英雄なるに違いないのだ。歴史は変化する。我々後世に生きる者は、出来るだけ冷静な目と、正確な歴史的事実をもって、彼らが生きた時代を知りたいものである。
かくして、大坂冬の陣と呼ばれる事になる戦いは終わりを告げた。その後であるが、約定に従い、大坂城の堀や三の丸は破却された。この時に、信繁が築いた真田丸は、真っ先に取り壊され、跡形もなく姿を消した。幕府がどれだけ、この砦を恐れていたのかがこれで分かる。
約定では、幕府が外堀と三の丸だけの破却で、二の丸は、豊臣方が壊す事であったにも関わらず、二の丸までも、幕府の手で僅か数日の内に破壊されてしまっていた。
しかも、外堀だけであった筈の埋め立ては、内堀まで埋めるという暴挙に出ており、さすがに異議を申し出た大野修理に対して、奉行を務める本多正純は、
「惣掘りで御座ろう?だから総て埋め申す」
という、とんでもない理屈で工事を進めてしまったのである。
これのより、大坂城は、本丸を残したただの丸裸の城となり果て、難攻不落を誇った優美な巨城の姿は、どこにも残されていない。家康は、年越しを京の都で迎え、大坂の情勢を見極めた後の二月十四日には、駿府へと戻って行った。家康は、大坂を去る際に、
「幼子でも通れるように、堀を埋めよ」
と言い残したとされる。家康は、一月には近江国の国友村に、大量の鉄砲と大砲とを発注しており、家康がいずれ再戦を考えていたのは、陽を見るより明らかであった。
三九郎は、この一連の動きを複雑な気持ちで眺めているしかなかったであろう。何とも歯がゆいのである。幕府のやり方は、何とも狡猾であり、好ましくない。ただ一方で、このような策を弄する事で、敵味方の死傷者が少なくなる可能性も理解はしているのである。
終戦を嫌な気持ちで迎えていた三九郎であったが、一つだけ良い事もあった。陣を引き上げる前に、お忍びで、信繁が真田の陣を訪ねてきたのである。報せを聞いた三九郎は、すぐに真田の陣へと向かった。そこに居たのは、嫡男大助を伴って信繁の姿であった。
「義兄上の此度の御働き、見ていて胸のすく思いで御座った」
三九郎には、概念として敵味方の区別は余り無いのかもしれない。信繁を誉める言葉には、嘘偽り等無い本心からのものであったからだ。
「叔父上様のご健在、我が父もお喜びでしょう」
「信吉殿、信政殿、兄伊豆守は良い子を持たれた。これで真田は安泰じゃ。どうか我が子大助の事も宜しく頼む」
それは、数奇な運命により、敵味方に別れた一家の久方ぶりの再会でもあった。真田軍では、信繁の姿に涙を浮かべる家臣も居た。共に死線を潜ってきた者として、年月が経ても、その思いが変わる物ではないのであろう。
一座は、酒を酌み交わした。和議が整ったとはいえ、戦場である以上、ささやかな酒宴ではあったが、これで十分であっただろう。
大助を囲んで、信吉と信政の従兄弟同士で、華やかに語らいでいるのを、信繁と三九郎は、互いに盃を傾け、穏やかな目でそれを見ているのだった。
「次は、戦場で会う事になろう」
「はい。そうなれば、義兄上に槍を馳走致そう」
「それは、楽しみだ」
その場に居た者達は、皆わかっていた。これが束の間の休息に過ぎないである事を。そして、これが今生の別れになるかもしれない事を。信繁、大助親子の後ろ姿を見送りながら、三九郎は、再戦がそう遠くない事を肌に感じているのだった。
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