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かんざしの行方
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序
その日の夜は、濃い霧がかかっていた。どれぐらいの濃霧かと言えば、連なって建っている隣家が全く視界に入らない程と言えば良いだろか?四国の山奥にある小津地方は、山々の合間にある盆地に街を拓いた時から、この濃霧を隣人としてきた歴史があった。
「すっかり遅くなっちまったなぁ」
頼りない提灯の灯りにぼやくように、一蔵は呟く。辺りは、月明かりも無い夜の闇に、全くの濃霧とあっては、足元も不安であった。それでも一蔵が迷う事なく、帰路を進めるのは、この地方で暮らす人々のある意味特技のような物だったかもしれない。
「早く、これをあの御方に、身に付けて貰いたいものだな」
一蔵は、提灯を持っていない左手を懐に差し入れると、さも大事そうにポンポンと二回叩いた。
ふと前を見ると、霧の隙間から、ぼんやりと光が漏れている。どうやら、こんな霧の立ち込める夜に、一蔵以外にも通行人が居るらしい。
「こんばんわ。今夜も大変な霧ですね」
心細さに思わず声を掛けて、一蔵は後悔した。相手が侍だったからだ。顔見知りならまだしも、侍と言うだけで、意味もなく威張り散らす輩は、いつの時代でもいる。
「親父、一人で帰りか?大変だな」
しかし、一蔵が憂慮するまでも無く、男は気さくに声を掛けてきた。
「はい、お侍様もお帰りですか?」
男が話しかけてきた事で、一蔵はすっかり心を許してしまい、その場に足を止めた。
「かんざし職人の一蔵とはお前か?」
一蔵が立ち止まるのを見ると、急に男の顔が険しくなる。
「へぇ、そうですが?どちら様で?」
怪訝そうに男の顔を確認する為に、一蔵が提灯を男の顔に近づけた瞬間であった。
あっと思うが先か、提灯が地面に落ちるのが先か、一蔵の身体は、地面に倒れていた。そして、うつ伏せに倒れた顔の近くに提灯が落ちると、中で燃える炎が、提灯を燃やし始めて、その大きくなった炎が、地面に横になった一蔵の顔をより照らすのだった。
一蔵を一瞬にして斬った男は、一蔵の身体を蹴りながら、仰向きにする。そして、朱に染まったその懐に手を差し入れると、包みを取り出した。
「放せ親父」
男がその包みを完全に取り上げてしまう瞬間、一蔵は気力を振り絞って、男の腕を血まみれの手で掴んで放そうとはしない。
「こ、これ、これは…」
一蔵は話そうとするが、言葉にならない。そして、遂には、男に全てを奪われてしまった。足早に去り行く男の後ろ姿を、深い霧がすぐに覆い隠してしまうのだった。
(こんな所で、死ぬわけには…あんず…)
力なく、空を彷徨う一蔵の右手が地面に着地する時に、彼の命も尽きるのだった。
一
「お頼み申します。お頼み申します」
まだ昨日の深酒が残る身体を起したのは、家の前で女の声が聞こえたからだった。余一郎は、重い身体を無理に起こすと、女を見聞する為に、入口の戸を勢いよく開けた。
「なんだ、ガキか」
そこには、年の頃は、十二、三といった所の娘が立っていた。余一郎は、勝手に騙された気分になり、再び布団に潜り込むと、二度寝する事に決めたのだった。
「お頼み申します。お頼み申します」
娘の声が近くで聞こえる事で、入口を開けたままだった事に気が付いたが、余一郎は、その失態を、掛布団を頭から被る事で、乗り切ろうと試みるのだった。
「余侍(よざむらい)様、お頼み申します」
娘の声がだんだんと大きくなっていくのを自覚し、余一郎は、二度寝を諦めるしかなかった。
「俺を余り者と呼ぶんじゃねぇ」
布団の上で、あぐらをかく。昨晩の深酒の名残をどこかに追いやる為に、水を飲みたいが、瓶のある土間に行くのが億劫だ。
それを察した娘が、瓶から水を汲もうとするのだが、
「ぼうふらが…」
濁った水を見て、その手が止まる。しかし、すぐに何かを考えた様子で、外に飛び出して行った。取り残された形になった余一郎だったが、娘はすぐに戻ってきた。
「これ、水…」
お椀の中の水を恐る恐る差し出す両手を見て、余一郎は、降参の旗を心中で挙げる事にしたのだった。
「あんずと申します」
仕方なく、招き入れたその娘は、名前を丁寧に名乗る。
「俺の事を誰から聞いた?」
「坂本屋の御主人から」
あぁ権兵衛か…嘆息するように、その名を口にするが、頭は回らないままだ。あんずが隣家から貰って、汲んできた水を一気に身体に流し入れる。しばし、染み渡る心地を堪能する。
「万請負屋の権兵衛の紹介じゃ、仕方ねえが、俺は仲裁屋だ。お前は誰と喧嘩しておる?」
余一郎の問いに、あんずは一瞬戸惑うが、すぐに懐に入った小包を取り出すと、その中身をひっくり返した。そこから、様々なかんざしが転がる。
「一週間前に殺された父が持っていた、かんざしの行方をお探し下さい」
あんずは、一気に言い切ると、その場で深々と頭を下げる。
「そうかい、あの斬られたのは、お前の父親かい?」
余一郎の問いに、あんずは首を縦に振る。
「通り魔って話しだが、下手人は、分かってるのか?」
その問いに、今度は首を横に振る。
「なら、話しは別だ。俺は仲裁屋だ。下手人を捕まえたいなら、番所に言え」
余一郎は冷たくあしらう。
「私が求めるのは、かんざしです。番所には、そんな物は、最初から無かったと言われて…」
そう言うのがやっとで、あんずは泣き出してしまった。ばつが悪い恰好となった余一郎は、あれこれと話して、宥めてやるのだが、一向に埒が明かない。
「お前の話しが本当だとするなら、一蔵を殺した下手人が、そのかんざしを奪う為に斬ったと?それを番所の連中は、探しもせんという事か?」
泣きながら、途切れ途切れでも、懸命にあんずは、一蔵に起った悲劇を語る。
「さる高貴な御方に、お渡しするかんざしをその夜に持って帰る筈でした」
一蔵は、生前、注文されたかんざしを職人寄合のある作業場で作ると、最期の仕上げを自宅に持ち帰ってするのが、決まりだった。それをあんずも知っていて、その夜は、以って帰り、次の日に納める手筈だったという。そのかんざしが、どこにも見当たらない。
「伊賀崎余一郎様、お願い申します。一緒にかんざしを探して下さい」
父を亡くした哀れな娘からの必死の頼みに、余一郎は、苦虫を噛みつぶしたような顔でいた。
「余侍さんよ、こんだけ頼んでるんだ。どうにかしてやりなよ」
いつの間にか、余一郎の部屋の前に、話しを聞きつけた長屋の連中が、隙間より、中を覗いていた。
「お前らには、関係ねぇ」
手を横に広げながら、余一郎は、大声で追い払おうとするが、その数は、どんどん増えているようであった。
「どうせ、余り侍に頼む者なんぞ、誰もいやしねえよ」
「酒好き、女好き、喧嘩好きで、仲裁屋が一番煽ってら」
誰とも分からず、方々から声が上がる。それが、世間からの余一郎の評判であった。伊賀崎余一郎光泰は、その名から取られた渾名を余り侍と揶揄される存在だ。
「話しだけは、聞いてやる。だが、どうなるかは知らぬぞ」
諦めたように、余一郎が言うと、あんずはようやく顔を上げ、その泣き顔が、少し笑顔になる。その愛嬌のある可愛らしい笑顔に、後悔の嘆息を漏らす。長屋の外からは、余侍を見直す声と、揶揄する声が入り混じる。酒が抜けたら、一度、長屋の連中を懲らしめようと決意するのだった。
お天道様が真上に昇る前に、ようやく二日酔いが抜けた余一郎は、あんずと出掛ける事にした。
「お前の部屋へ案内しろ」
かんざしを探すとしても、手掛かり一つ無いのでは、話しにならない。そこで、詳しく聞いて、それから、この依頼を受けるかどうかを決めるつもりだ。
余一郎は、いつものように大小を差すと、愛用の杖を背に掛け、部屋を出る。出る際に、先程まで、散々好き放題言っていた長屋の連中へ、いちいち悪態をつくことを忘れない辺りが、余り侍と揶揄される所以かもしれない。
その後ろを歩くあんずは、悪態をつかれた方の人々に、一つ一つお詫びするように、頭を下げて付いて行くのだった。
「ここで、間違いないのだな?」
案内された先は、表長屋の職人たちが暮らす一角であった。あんずの家の前で、人だかりが出来ている。あんずが人混みをかき分けて、室内に入ると、部屋が荒らされた後であった。すぐに顔見知りを見かけて、訳を訪ねると、今朝方、あんずが出掛けた後に、浪人風の男たちが訪ねて来て、中を荒らして帰ったと。
「あんず、お前の父親は、元は侍か?」
野次馬を追い返し、二人室内に入ると、一しきり様子を探った後で、余一郎は、疑問をぶつけた。だがその問いに、あんずは、もじもじとするだけで、答えようとはしなかった。
「構う事はない。人にはそれぞれ事情があるものだ」
あんずは、年にしては、礼儀や口ぶりがしっかりしているし、そして、余一郎がそう思ったのは、今手にしたあんずの記したと思われる手習いの文字が書かれた物を見つけたからであった。一人娘とはいえ、女にここまで教育をかける職人は居ないだろう。
死んだ一蔵は、元が武士で、何等かの事情があって、それを捨てた。そして、かんざし職人となったが、侍時代のしがらみや、何等かの事件に巻き込まれたのかもしれない。
(俺の勘が正しければ、これは大事かもしれん…)
あんずの書いた紙を丸めて、ポンポンと自らの肩を叩く。そして、そのまま部屋を出ると、その紙を天高く放り投げた。地面に落ちたその紙には、希望と記されていた。
それから、二人の奇妙な同居生活が始まっていた。あんずの家を荒らした下手人も、一蔵を殺した男の行方もまだ分かってはいない。同一犯かもしれないし、違う事も考えられる。
分からない事が多いが、一つだけ分かっている事があった。あんずをこのまま一人にはしておけないという事だ。
聞けば、他に身寄りも、頼れる者も居ないので、仕方なく、余一郎の狭い長屋の部屋で、共に生活をする事となったのだ。
そんな奇妙な共同生活が始まって、数日経ったある日、
「御免、余一郎は居るか?」
土間の掃除をしていたあんずは、勢いよく開かれた戸の音に驚いたが、すぐに寝転がっている余一郎に声を掛ける。
「何じゃ?勘一郎か」
「何じゃはなかろう。人に頼みごとをしておいて」
訪ねて来た男は、井上勘一郎という番所勤めの小役人で、余一郎とは、同じ道場に通った仲である。
「貴様、いつから女中を雇える身分になった?」
働くあんずを見ながら、勘一郎が問う。
「この娘は、客じゃ」
「お前、客に働かせるのか?」
「仕方なかろう。他に行く所が無いんじゃ」
勘一郎は、余一郎とあんずを交互に見て、更にこの室内を見渡す。
「どうにも、よくないのう。まだ年端もいかぬ娘が、お主のような女好きの余り者の所で、暮らすのは」
友の言葉に、余一郎は、頭を掻いて、苦笑いするしかない。余一郎は、無精ひげを生やし、数日風呂に入らない事もある。布団をまめに干すわけも無く、部屋の掃除もした事がない。そんな現状を見かねた勘一郎が声を挙げる。代わりに住む部屋を探そうと。
「私の事は、お気になさらずに」
あんずは、勘一郎の急な申し出に、戸惑いを隠せない。
「そう言うな。これでも役人の端くれさ。何とかなろう」
遠慮するあんずに、勘一郎は容赦がない。元来、根が真面目で、困った者を放っておけない性質なのだろう。
「それはいいが、お前、何か用があって来たんじゃないか?」
余一郎の言葉に、勘一郎は、両手を鳴らす。そうであった。
「貴様の睨んだとおりだ。殺された一蔵は、元々小津藩士で、しかも勘定方に勤めていた。詳しくは、これから調べるが、何かありそうだ」
それだけ言うと、勘一郎は勤めがあると戻っていった。そして、勘一郎は、言葉通りにその日の内に、長屋の主人に事情を話し、表長屋の二階建ての一室を探してきて、そこにあんずを借住まいさせる事で話しをつけたのだった。
その日の午後に、余一郎は、急に出掛けると言い出した。あんずにもついて来いという。
「お前の父親に関する事が分かるやもしれん」
それだけ言うと、さっさと外に飛び出してしまう。慌てて、あんずは後を追いかけた。聞いても、どこに行くのか、何も答えない。仕方なく、後ろから付いて行く。
二里ほど歩いて城下街を通り過ぎた。そして、山の麓の丘にある高昌寺が行き先であった。百段もある石段を登ると、ようやく本堂が見えた。
「ここは…」
あんずには、この寺に見覚えがあった。しかも、最近来たことがある。父一蔵が埋蔵された寺だったからだ。
あんずは、父の墓参りの為に、余一郎が気を遣ってくれたのだと思った。あんずは、先を進もうとする。
「待て」
それだけ言うと、余一郎は顎に手をやったまま俯いて、その場に止まった。
「行きましょう」
あんずが急かしても、睨むように下を向いたままだ。仕方なく、先に行こうと、最後の一段を上ろうとした時であった。
「この罰当りが!何しに来よった」
急な怒声が降りかかり、あんずは驚いて、危うく石段から落っこちる所であった。
「あ、あの…」
驚いたあんずがどぎまぎしていると、
「何しにとは随分だな。糞坊主が」
いつの間にか、余一郎がすぐ後ろまで来ていて、倒れそうになるあんずを支えてくれていた。
「この余り者めが、とうとう人の道に外れて、そんな年端もいかぬ娘にまで、悪手を伸ばしよったか」
「馬鹿言うな。耄碌したか?糞坊主、これは客じゃ」
糞坊主と随分な言われ方をしているが、正貫和尚は、高昌寺の正式な住職である。そして、幼少期の余一郎が過ごしたのもこの寺であった。
「あんずと申すか?利発そうな可愛い娘じゃ。悪いことは言わぬ。この男はな、親に捨てられて、この寺に入ったのに、坊主になるのが嫌で、勝手に寺を抜けた不届き者じゃ。勝手に抜けて、侍になると言い出したかと思えば、今の様はなんじゃ?」
散々な言われようだが、いつも言われている様子で、余一郎は全く相手にしていない。そればかりか、お互いに悪態を付き合っている。そんな二人の様子に、堪らずあんずは笑い出してしまっていた。
「おぉあんずが笑った。俺に会ってから、初めて笑ったわ」
あんずの笑い顔を見て、余一郎も笑った。あんずは、それを見て、更に笑い、しまいには、何故か涙が出てきて、泣き笑いとなった。
「和尚、あんたなら、顔が広い。何か知っているかと思ってな」
檀家の多い、この寺の和尚ならば、何か分かるかもしれない。
「何かその娘にあったのか?ここに匿って欲しいのか?」
二人の様子に、何かを察して、正貫和尚が聞く。
「この娘の父親は、こないだ殺された一蔵だ」
余一郎の言葉に、和尚の顔色が変わる。
「そうか、この娘が…確かに、一蔵の葬式に見た顔じゃ。不憫な…」
和尚は、あんずを憐れむ目で見つめながら言う。その顔をきょとんとした表情であんずは見返していた。やはり、和尚は何かを知っているに違いない。
「くそぼ…正貫和尚、知っている事があれば、話してくれ」
余一郎の言葉に、和尚は振り向くと、大きく頷くのだった。
「一蔵は、元々は小津藩に仕える侍で、名を山本一蔵と言った」
和尚は、語り始めた。あんずも初めて知る父の姿を。
一蔵が勘定方であった事は、すでに勘一郎が調べてくれていた。しかし、和尚はそれよりもより詳しく知っていたのだ。
「一蔵には一人息子がおった。しかし、十三年前に起った、勘定奉行の横領事件に巻き込まれてのう…」
その事件は、あんずが産まれる半年前の事であった。一蔵は、すでに隠居の身であった。代わりに息子が勘定方で勤め始めていた。もうすぐ、孫も産まれてくる。一蔵は慎ましくも、実直な己の人生に満足していた事だろう。
「そんなおりだ。一蔵の息子が、勘定奉行の罪に連座して、捕らえられたのだ」
新入りで右も左も分からない息子に、奉行が目を付け、横領の帳簿を付けさせる事で、片棒を担がせたのだ。
もしかすると、事が露見した時に、罪を全て着せるつもりだったのかもしれない。勘定奉行は死罪。息子は永居謹慎となった。
「一蔵は、息子の罪を晴らそうと、奔走したそうな」
しかし、罪がそう簡単に解かれる事は無かった。何も知らなかったとはいえ、藩の公金に手をつけた片棒を担いだのだ。このまま永居謹慎である目算が強かった。
「一蔵の倅が自害したのは、妻が子を産むたった一月前だった」
そこまで話すと、和尚は深いため息を吐いた。和尚はじっとあんずを見つめる。
「その後、産まれたのが、あんず、お前だ」
和尚の急な言葉に、あんずは固まってしまう。私にそんな事が。父だと思っていた一蔵が、本当は祖父にであったとは。
失意の中、娘を産んだ母は、あんずが産まれて、二ヶ月後に息を引き取った。そして、侍に嫌気が差した一蔵は、刀を捨てた。息子夫婦の忘れ形見の孫娘の為に。養父となって守ろうとしたのだ。あんずは、生前の一蔵を思い出していた。私を見る祖父は、いつも笑顔でだった。その優しさ、強さに、私はこれまで護られてきたのだ。
「拙僧と一蔵とは、囲碁仲間での。あ奴が侍を捨ててからは、会った事は無かったが…」
そこまで話すと、和尚は空へ向かって、合掌する。
「何で一蔵は、小津を捨てなかったのかな?」
全ての話しを聞いた余一郎が持った疑問を解決する方法は無いのかもしれない。一蔵は生前、侍時代の話しを全くせず、長屋でも彼の出自を知る者はわずかだったそうだ。
「山本家は、代々加戸家に仕えた家柄。それは小津入府前まで遡る。忠義心篤い男だったからのう」
和尚は、空に向かって、あの世にいる一蔵に語りかけるような口振りをする。
余一郎は、ここまで分かるとは思わず、和尚に聞いてみたのだが、まさかあんずの過去にそのような生い立ちがあったとは、夢にも思わず、複雑な心境で、帰り道すがら、何度も娘の顔を見てしまう。
慰めるべきか、そっとしとくべきか、余り者の自分には、どうしていいかも分からず、ただただ、だまって歩く他なかったのだった。
二
「朝ですよ。起きて」
朝陽がまだ目に染みる早い時間、あんずはいつものように、余一郎の部屋へ来て、縁側の襖を開ける。そして、まだ寝足りない余一郎を起す為に、部屋中をはたきで掃除するのである。
「よせ、毎朝、毎朝」
悪態をついて、布団を被ろうとするが、すぐに引っぺがされる。
「今日は、霧がない良い天気ですからね。布団を干すよ」
何か言ってやろうと、寝起きの回らない頭で考えてみるのだが、あんずが作った朝餉の良い匂いを嗅いで、すぐに忘れてしまう。
「今日は、坂本屋に連れてってくれる約束じゃない?」
味噌汁を飲みながら、忘れてないという事を伝える為に、何度か首を縦に振る。
あんずは、ここ数日で明るくなった。なったというよりも、これが彼女本来の姿なのかもしれない。寺で聞いた話しを、あの日以来、二人で会話に出した事は無い。余一郎は、それが歯がゆくもあり、おっかなくもある。
不用意に話しをして、またあんずの顔から、笑顔が消えるのを恐れたのだ。
「女子(おなご)は強いものだのう…」
「何か言いましたか?」
ぎょっとして、味噌汁を多めに飲みこんで、むせてしまう。
「何でもない。味噌汁が美味いと言うたのじゃ」
背を擦られながら、少し大きな声で抗弁する。
「嫌ですよ、もう…」
照れ隠しなのか、擦ってくれた背中を強く叩かれ、今度は、大きく咽るのだった。
出掛ける時、あんずは、持っていた木箱より、そっと大事そうに、かんざしを取り出した。それを髪につけようとするが、中々、思い通りにならない。見かねた余一郎が貸してみろと言わんばかりに、強引に取り上げると、優しく付けてやった。
「これは、良い作りじゃのう。父の物か?」
あんずは、一つ頷く。一蔵の形見のかんざしであった。残した中で、一番出来のよい物だと。
「これを付けると、まるで父が生き返ったみたい」
そう言って、笑顔をみせるあんずは、無理をしているように見えた。
「このかんざしは、盗まれた物と対になっているの」
かんざしの細工を見てみると、盗まれた物と合わされば、そこに一つの模様となるような造りとなっていたのだという。
そこを見れば、盗まれた物か一目で分かる。あんずの意図を察して、余一郎はうなずくと、二人は急いで出かけるのだった。
万請負業を営む坂本屋は、小津城下の本町筋にあった。元々は、材木問屋を営む本家より、現当主の権兵衛の父の代で暖簾分けし、金貸しから始まって、次代の権兵衛になってからは、浪人や、日雇いの町人、大工などに仕事を斡旋する請負業を行っていた。口入れ屋や手配師ともいう。この時代、人材斡旋業は、言わば、裏の稼業と見なされ、人気が無かった。
坂本屋の二代目、権兵衛は、その辺りの世間の評判を弁えており、金儲けに走り過ぎない、話の分かる実直な商人として知られていた。
「おい、これはわしが先に見つけたのじゃ」
店先で、何やら二人の男が口論している様子。一人は浪人風で、一人は町人だが、屈強な身体つきで、とび職か大工のようだ。
「おっやっておるな。やっておるな」
騒ぎを聞きつけた野次馬の後ろで、あんずが心配そうに見ているのを余所に、余一郎は袖をまくると、その騒ぎの仲に入っていく。
「おい、何を揉めてやがる?店先で迷惑だろう?」
これ以上に無いと、本人は思っている務めて明るい笑顔で、後日、あんずが言った獲物を見る野盗の目で、二人に迫る。
「何だ貴様?こっちは、取り込み中なんだよ」
浪人の男が余一郎に凄むが、まだニコニコを崩さない。話しを聞いてやると、どうやら、斡旋される仕事をどちらが先に貰うかで揉めているらしい。
「なるほど、二つ紹介されたが、二人ともこっちの仕事が良いと?」
いつの間にか、野次馬が作る円の中に立っており、話しの中心となっている。
「俺はとび職だ。高い所の仕事は、俺だ」
「わしだって、得意じゃ」
双方が主張して、譲らない。余一郎は、それをじっと見ている。
「うん、こんなのはどうじゃ?」
ポンッと両手を鳴らすと、話し始める。
「二人で、二つとも一緒にするんじゃ。それで、賃金も半分で割ればよい。二人なら、仕事も半分で終わるし、一日で二つ終わる」
なるほど、それは妙案だと、円の中から、声が上がる。その様子に怪訝な様子だった当事者の二人も頷く。それで行くか。
「これで、一件落着だな。そうと決まれば、仲裁料で一割だ」
話しが纏まるのを待って、二人の前に右手を差し出す。その手を二人は、きょとんとした表情で、余一郎の顔と手を交互に見やる。
仲介料は、坂本屋に払う。何でお主に?と浪人が。いやいや、仲介料ではない。仲裁料だ。俺は喧嘩仲裁業の伊賀崎余一郎だ。
「今、仲裁した代金を払え」
つ先程の態度とは打って変わって、凄む余一郎の気迫にたじたじである。
「余侍様、店先では困りますよ」
店内から、声が聞こえた。余一郎はやれやれと言った様子で、振り返ると、そこに如何にも温厚そうな親父が立っている。坂本屋の主権兵衛だ。
「余侍様の声が、良く聞こえておりましたよ」
店先で騒ぎになっているのが聞こえて、さては、先程仕事を紹介した二人かと思い、止めに出ようとした矢先に、何やらもう一人の声が聞こえた。
「その仲裁料、私が立て替えましょう」
権兵衛はそう言うと、余一郎を店内に招き入れた。
店内に入ると、スッと前に紙きれを出される。見ると、何やら書いてある。地図のようだ。地図を見た後、権兵衛の顔を見ると、代わりに仕事を頼みたいと。
「伊賀崎様がいらっしゃれば、お渡しするよう、ある方より頼まれておりました」
権兵衛の言葉を聞いて、余一郎はバツの悪い顔をする。依頼者が誰か分かったからだ。断る。いいえ駄目でございます。何故なら、先程の仲裁料は、これを受けて頂くのが前提だからです。
「権兵衛、それはないぞ」
憤慨する。どうして、そこまで行きたくないのか?怒る余一郎を、あんずは不思議に思った。
「あんずちゃん、久しぶりだね」
怒る余一郎を余所に、権兵衛があんずに声をかける。元々、あんずに余侍を紹介したのは、権兵衛だ。
「今日は、父の事でお願いに来ました」
権兵衛の顔が曇る。一蔵とは、仕事の関係だったが、請けた仕事はやり遂げて、依頼主から苦情が来た事など一回も無い。惜しい男を亡くした。
「聞けば、父も喜びます」
謙虚な姿のあんずに心が痛む。だが、自分に何が出来るだろう?犯人を捜すような術は、しがない商人の自分には無い。
「私の部屋に狼藉に入った、数人の浪人たちを探したいんです」
あんずは、真っ直ぐに権兵衛を見つめている。だがどうやって探す。
「ここ数日で、そのような風体の男たちが、仕事を探しに来なかったか?」
余一郎は、長屋の連中から聞きこんだ狼藉犯の人相書きを作ってきていた。これを店先に貼ってくれないかと。
「なるほど、分かりました。それぐらいの事なら、お安い御用です」
同じものを勘一郎にも頼んで、番所に渡しているが、評判の悪い余一郎が出しゃばるのを役人たちは、良しとしないだろう。ならば、自分達でどうにかするしかない。
「私から、他の寄合なんかにも頼んでみますよ」
狭い街だから、きっと何か手がかりが掴めるでしょう。頼もしい事を権兵衛は言ってくれた。そう言いながら、例の地図をしっかりと手渡す。
「その地図が、通行手形変わりだそうです」
もっとも、場所など、とっくにご存じでしょうがね。権兵衛が、去り際に笑うのを苦々しい気持ちで、聞き流すしかなかった。
どうもあの主は喰えない。余一郎がそう思っているに違いないとあんずは思った。心で思っている事が、顔に出ているのが、丸わかりだ。
渡された地図の行き先は、城の三の丸がある武家屋敷の一角を示していた。その場所まで、権兵衛が言った通りに、余一郎は迷わずに歩いていた。
「知った所なの?」
あんずの問いに、余一郎は、黙ったままで、立派な白壁の通りを、さっきから、睨むように歩いていた。
「着いたよ。ここでしょ?」
知っている筈の余一郎より、先に門の前に立ったあんずが、指し示す。そこは、その通りにある武家屋敷の中でも、一層立派な門構えをした屋敷であった。
「ほら、こっちに」
いつまでも、門に近づこうとしてない、余一郎の手をむりやり引っ張り、門を叩くと、くぐり戸より、門番が現れる。地図を渡すと、あっさりと中へ入れた。門番を置いている屋敷になど、初めて入ったあんずは、心臓が音を立てるのを感じ取っていた。
「ようこそ、お越し下されました」
玄関前で、初老の男が待ち構えていた。余一郎は、その顔に見覚えがあった。田嶋吾郎佐衛門、藩の若殿の傅役を務める重臣である。
「こちらに」
吾郎佐衛門は、屋敷内ではなく、そのまま庭園に二人を誘導する。姫様がお待ちですと。姫様という言葉に、あんずの心は躍る。生まれてから、本物の姫様という人間に会った事が無いのだから。
「二人ともか?」
余一郎が吾郎佐衛門に短く問う。あんずも一緒で構わないか?と聞いてくれたのだ。それに、はい、と短く答えたので、その後に付いていく。
屋敷の横を通り抜けて、すぐに開けた素晴らしい庭園が広がる。池があり、立派な錦鯉が泳いでいるのが見えた。そして、その鯉を眺める綺麗な着物姿の若い女性の後ろ姿も見える。
「一郎殿、お久しぶりです」
その女性が、姫様である事は、あんずにもすぐに分かった。
「爺にお願いしたのです。貴方にお会いしたいと」
一郎?あんずの頭は混乱している。余一郎と姫様とは、どうやら旧知であるらしい。
「若様と姫様との婚儀が、整いましてございます」
「吾郎佐の爺、そんな事を言う為に、俺を呼んだのか?」
余一郎の言葉に、爺は少し、悲しそうな顔をする。
「東姫(あずひめ)様、御婚礼、謹んでお祝い致します。拙者、知らぬ事とは申せ、お祝いの品を何も用意しておらぬご無礼をお許し下さい」
余一郎は、その場に片膝をついて畏まる。しかし、その表情は、普段からは想像出来ない程、どこか冷たく感じられる。
「余一郎様、いきなりお呼び立てした無礼は、この爺が悪いのです。姫様は、ただ婚礼前に、幼馴染に会いたい一心にて」
「爺、よいのです。一郎に、こうして、また会えたのですから」
事情を知らないあんずは、一人取り残された様子で、黙って見ているしかない。
「そなたの名は?」
あんずにようやく気付いたかのように、東姫が声をかける。
「あんず、良い名です。私と似ていますね」
そう言って、にっこり笑う姫様は、とても美しいと思った。女の私から見ても、誰しもが、この姫の為に、何かしたいと思うだろうと、そう思わせる美貌があった。
「そのかみかざりは?見せてはくれまいか?」
「父の形見です」
あんずの付けているかみかざりを姫に差し出すと、姫は急に真顔になり、爺に何かを伝えると、爺はその場から去ってしまった。
「一郎殿と私とは、幼い頃から知っている仲なのですよ」
「いちいち、昔話などいいだろう?早く要件を言えよ」
悪態をつく、余一郎を余所に、あんずが知りたかった事を、あず姫は話してくれた。
「私は一郎の母君の生まれ郷と一緒の出です。そこで、一郎と知り合ったの。二人で野山を駆けまわって、川遊びもしたわ」
話しながら、童心に帰ったように、姫は話し続けた。いつの間にか、その頃の呼び名だったのだろう、余一郎を一郎と呼び捨てにしているのに、本人は気づいていない様子だ。
「私は京の貴族に養女として入る形を取って、この藩の若様に嫁ぐの」
それは、この藩の若殿である加戸富之助泰武(かととみのすけやすたけ)たっての希望であったという。
「若殿は、己の母君の御無念を、少しでも晴らしたかったのでしょう」
いつの間にか、戻ってきた爺がそう語るが、その意味があんずには分からなかった。
「あんずちゃん、これを」
爺から受け取った紙を姫は広げて見せた。そこには、あんずが付けているかんざしと同じような模様の下書きが記されていた。
「父の手に間違いありません」
あんずが断言した事で、姫は吾郎佐と顔を見合わせて、大きく頷き合う。
そして、爺は余一郎に言う。
「どうか、婚礼を無事終えるまで、姫様の警護をお願い申し上げます」
爺からの突然の申し出に、余一郎は言葉を失っていた。
「私からもお願い致します」
今度は、姫様まで、頭を下げる。もう何がなんだか、分からない事が多過ぎる。あんずは混乱の極致だ。
「警護役なら、藩から、精鋭が選ばれるだろう?それが信用出来ぬのか?」
言葉にしてから、余一郎はハッとなった。そんな事が分からぬ吾郎佐ではない。という事は、警護役が信用出来ない理由があるのだ。
「おい、東(あず)よ。いい加減理由を話せ」
姫様を呼び捨てにするとは、良い度胸である。
「あんずちゃんの父君に、かんざし造りを依頼したのは、私です」
あず姫は、申し訳なさそうな様子で、重い口を開き始めた。
「爺…」
あず姫が一声かけると、吾郎佐は、周囲を警戒する。ここには、警護の者や、屋敷の者たちが、誰もいない。最初から、こうなる事を想定して、人払いしていたに違いなかった。
「婚礼の前に、どうしても、一蔵が造るかんざしが欲しかった。これは、私の我儘が招いた悲劇なのです」
姫は元々、そこまで身分の高い出身では無く、藩の若様の正室になれる身分ではなかったが、若殿様に見初められて、身分の高い貴族の養女となる事で、結婚する事が出来るのであった。しかし、そんな結婚を認めたくない勢力が、藩内にいるのだ。
「だから、俺に姫を護れと言いたいのだろう?」
余一郎が溜息交じりに半ば諦めながら言う。
「お願い一郎!」
その真っ直ぐな眼差し。昔から苦手だった。だから、ここに来るのが嫌だったんだ。余一郎は、言いたい言葉を飲み込んだ。
「分かった。やってやるよ。姫を護っていれば、一蔵を殺した下手人が来るって事だろうからな」
余一郎は、あんずの顔を見る。あんずは、全てを理解したように、大きく頷いた。これで、かんざしの行方が分かるかもしれない。あんずは、胸が熱くなるのを抑えるように、力いっぱい、拳を胸に何度も押し付けるのだった。
三
帰り道、あんずは、不機嫌な様子の余一郎を心配していた。屋敷からの帰り際に、もう一悶着あったからだ。発端は、爺こと、吾郎佐の一言からであった。
「父君が婚礼の儀の際、密かにお会いしたいと申されております」
それを聞いた瞬間、余一郎は、今さら何のつもりか!と激昂し、そのまま屋敷を飛び出してしまったのだ。あんずは、怒り肩で、道を歩く、余一郎の後ろより、黙って付いていくしかない。
余一郎は、実の親に捨てられた男だと、正貫和尚様がおっしゃっていた。それは間違いないだろうから、その父上が生きていて、会いたいと願っているのだろう。
あんずは、立て続けに急展開される状況の変化を、頭の中で、整理しようと努めているのだが、途中で頭が痛くなってきたのでやめた。
「あんずは、気にするな」
不意に振り返えると、余一郎は、怒った表情のままで、それだけを言うと、また怒り肩のままで、道の真ん中をズンズンと進んでいく。クスッ、余一郎のその様子に、少し笑ってしまい、あんずは救われた気がしていた。
二人がこうして、帰路につこうと、屋敷の曲がり角を曲がって、裏路地に差し掛かった時であった。
「お前ら、何か用か?」
前方に二人の男、後方に三人の合計5人の浪人風の男達が、余一郎と、あんずを取り囲もうとしていた。
「問答無用って訳かい?」
男達は、一言も発せず、抜刀すると、すぐにでも襲ってくる様子を見せる。余一郎は、その只事ならない状況に、背に結び付けていた、杖を手に持つと、おもむろに、その杖の持ち手の部分を外した。すると、そこには、刃が鈍い光を放っていた。
今度は、反対の先端部分を外すと、こちらも、鋭い物が見える。余一郎が、いつも背負っていた物は、両端が刃になっている仕込み槍だったのだ。
「こうなっては、手加減は出来ねえからな。死にたい奴から参れ」
その言葉が、戦いの合図となった。
「一つ!二つ!」
余一郎は、怒号のような掛け声と共に、相手の肩や、手頸を狙って、双頭の槍を自在に扱う。余一郎が槍を振るう度に、敵が面白いように倒れる。手加減出来ないと言いつつも、相手の急所をわざと外して、敵を倒すだけの技量を余一郎は、持っていた。
そして、とうとう最後の一人を残すだけとなった。
「お前以外は、後で止めを刺してやろう。お前は色々聞いた後だ。それが嫌なら、正直に話せ」
喉元に突き付けられた、槍の鋭い牙が、今にもその威力を示そうとしていた。相手の男は、刀を捨てて、すでに戦意を失っている。
「久しぶりに、双頭の蛇の手並みを拝見した」
曲がり角の死角より、急に男が一人現れた。男はゆっくり余一郎に近づくと、腰の刀に手を当て、柄を握って、間合いを詰め始めた。
「香戸晋太郎(こうどしんたろう)、お前だったか…」
その男は、鋭い眼をし、額に特徴的な菱型をした傷があった。身の重心を低く取り、独特な構えは、居合である事が察せされた。
「答えろ!貴様が一蔵を殺し、かんざしを盗んだか。東姫に近づき、婚儀を邪魔するのは何故だ?」
香戸晋太郎は、戸田流居合術の達人である事を余一郎は熟知していた。そして、余一郎が、加戸家二代目の泰興公が創始した加戸家槍術の達人である事を相手も知っている。
「お主に答える義務は無いわ。だがな、東姫はお主には渡さぬ。あれは俺の女だ」
晋太郎は、徐々に摺り足で、右足を進めて、間合いを詰める。自分の刃が届く、絶対の領域に、余一郎を誘い込もうとしていた。
槍対居合いの場合、槍の方が長い分、有利ではあるが、居合いは、刀身を見せずに、瞬時に間を詰めて、相手の懐に飛び込み斬り殺す、必殺の業と言える。だからこそ、勝負は一瞬で決まる。そして、その刹那の一瞬の為に、業を繰り出す瞬間を狙う為、遣い手は、相当に神経を擦り減らす作業に耐えねばならない。
二人の間に、時間としては、僅かだが、体感としては、長い時間にも感じられる悠久の時が流れていた。二人の額に、汗が流れ始めていた。
「そこで、何をしているのです?」
声をした方を見ると、姫と爺の姿が見えた。
何故出てきた?危険だ。頭の中で、様々に思考が巡る。しかし、その姫を想う気持ちが、勝負の際には、命取りとなる。
隙を見せてしまった余一郎の槍を、ここぞとばかりに、晋太郎の刀が払い、槍はその足元へと転がってしまったのだ。余りの早い抜き業に、その場に居た者で、彼が刀を抜く所を見た者は居なかった程だ。
「俺の勝ちだ。とうとう貴様に勝ったわ」
剣先を余一郎の首元に近づけると、晋太郎は、勝利の余韻に浸る。
「貴様も、貴様の父親も弟も、いずれは、俺の足元へ、跪かせてやるわ」
晋太郎は、勝利の高笑いを続ける。屈辱に打ちのめされるが、剣先は尚も、自分の喉元へ突き付けられたままだ。
「晋太郎殿、お久しぶりですね」
そんな緊迫した男達の中で、悠然と、いつものゆったりとした口ぶりで、姫は余一郎と晋太郎の間に立ち、余一郎を庇うような恰好をする。
「東、何をしている。止めろ!」
慌てる余一郎と、姫を庇おうと、吾郎佐爺が跳びかからんばかりに、寄って来るが、姫は、それを両手で制する。
そして、さあ、と言うと、余一郎に突き付けられた剣先を、そのか細い両手で、無造作に掴み、今度は、それを自分の喉元へ突き付けてみせたのだ。
「何をする?俺が刀を引けば、お前の指は無くなるぞ?」
これには、動揺した晋太郎が、姫の血に染まる手を放そうとする。その血を見たあんずが、ひいっという短い悲鳴をあげた。
「私が欲しいなら、殺してからにして」
それは、姫からの強烈な拒否の意思表示であった。ようやく、姫の指を剥がし終えた晋太郎は、そこに棒立ちとなった。そして、その瞬間を余一郎は、逃しはしなかった。彼の無防備となった腹に、強烈な蹴りを見舞ったのだ。
晋太郎は、ひっくり返ると、余一郎の蹴りの威力に、すぐには動けず、その場でのた打ち回る。形勢逆転であった。
「ここまでだな、香戸晋太郎」
槍を再び手にした余一郎は、さっきやられたお返しとばかりに、地面に膝をついた格好の晋太郎の顔に、刃を向けた。
「終わりだ」
余一郎が槍を突こうとした、その時であった。後方より、何やら刃物のような物が跳んできて、槍の刃を弾いたのだ。そして、晋太郎の前に、屋敷の女中姿の女が立ち、小太刀を構えて、余一郎と牽制したのだ。
「晋太郎様、お時間です」
女は晋太郎を気遣うと、余一郎に急に斬りかかってくる。余一郎もそれを槍で躱しながら応戦する。二、三合打ち合い、この女も相当な手練れである事が、肌で感じられた。
「もうよい。退くぞ」
晋太郎の合図と共に、女も刀を退く。そして、去り際に晋太郎は、胸元から何かを取り出すと、姫に向かって投げた。
「東姫、また会おう。余一郎、決着は後日、つけてやる」
捨て台詞と共に、晋太郎と女は去った。それを見て、地面に転がっていた、手下どもも、一目散に散っていった。余一郎は追いかけなかった。さすがに多勢に無勢だし、あの二人相手では、苦戦は必死だ。
「これは…」
姫が投げられた包みを開くと、そこには見事な椿の花模様を施したかんざしがあった。これが、一蔵が姫の為に作った物であるのは、間違いなかった。
「あんずちゃん」
姫は、そのかんざしをそっと手に持つと、あんずが挿すかんざしと、並べるようにして見比べた。すると、そこには、連なる様に椿の花が咲いており、作り手の拘りを感じさせる見事な造りとなっていた。
「椿は加戸家を現す花と言われております」
したり顔で、爺が説明をする。
「あんずちゃん、これを持っていて」
姫は、例のかんざしをあんずに託そうとした。
「いけません。姫様、どうか」
あんずは、頑なに拒むが、輿入れの際まで、預けるだけと、無理矢理渡されてしまう。姫がそうするのは、一蔵を亡くしてしまった、あんずに対する償いの気持ちからであった。
「一郎殿、爺から聞きましたよ。父君との対面、拒否されたとか?」
姫の言葉に、槍を片付けている余一郎は、何も言わず、背を向けたままだ。
「怖いの?父であるお殿様とお会いするのが」
姫の言葉に、反射的に振り向き、何か言ってやろうとしたが、言葉が出てこない。
「殿は、一郎を捨てたのではない。護ったのですよ」
姫の言葉に、余一郎は、黙って目を閉じた。閉じたまま、暫く、そのまま立ち尽くしていた。
「弟君もお待ちです」
爺が近づきながら、余一郎に乞うように、問うた。余一郎は、目を開けると、大きく、一つ頷いた。それを見て、姫と爺は、心より安堵するのだった。
その日の夜は、濃い霧がかかっていた。どれぐらいの濃霧かと言えば、連なって建っている隣家が全く視界に入らない程と言えば良いだろか?四国の山奥にある小津地方は、山々の合間にある盆地に街を拓いた時から、この濃霧を隣人としてきた歴史があった。
「すっかり遅くなっちまったなぁ」
頼りない提灯の灯りにぼやくように、一蔵は呟く。辺りは、月明かりも無い夜の闇に、全くの濃霧とあっては、足元も不安であった。それでも一蔵が迷う事なく、帰路を進めるのは、この地方で暮らす人々のある意味特技のような物だったかもしれない。
「早く、これをあの御方に、身に付けて貰いたいものだな」
一蔵は、提灯を持っていない左手を懐に差し入れると、さも大事そうにポンポンと二回叩いた。
ふと前を見ると、霧の隙間から、ぼんやりと光が漏れている。どうやら、こんな霧の立ち込める夜に、一蔵以外にも通行人が居るらしい。
「こんばんわ。今夜も大変な霧ですね」
心細さに思わず声を掛けて、一蔵は後悔した。相手が侍だったからだ。顔見知りならまだしも、侍と言うだけで、意味もなく威張り散らす輩は、いつの時代でもいる。
「親父、一人で帰りか?大変だな」
しかし、一蔵が憂慮するまでも無く、男は気さくに声を掛けてきた。
「はい、お侍様もお帰りですか?」
男が話しかけてきた事で、一蔵はすっかり心を許してしまい、その場に足を止めた。
「かんざし職人の一蔵とはお前か?」
一蔵が立ち止まるのを見ると、急に男の顔が険しくなる。
「へぇ、そうですが?どちら様で?」
怪訝そうに男の顔を確認する為に、一蔵が提灯を男の顔に近づけた瞬間であった。
あっと思うが先か、提灯が地面に落ちるのが先か、一蔵の身体は、地面に倒れていた。そして、うつ伏せに倒れた顔の近くに提灯が落ちると、中で燃える炎が、提灯を燃やし始めて、その大きくなった炎が、地面に横になった一蔵の顔をより照らすのだった。
一蔵を一瞬にして斬った男は、一蔵の身体を蹴りながら、仰向きにする。そして、朱に染まったその懐に手を差し入れると、包みを取り出した。
「放せ親父」
男がその包みを完全に取り上げてしまう瞬間、一蔵は気力を振り絞って、男の腕を血まみれの手で掴んで放そうとはしない。
「こ、これ、これは…」
一蔵は話そうとするが、言葉にならない。そして、遂には、男に全てを奪われてしまった。足早に去り行く男の後ろ姿を、深い霧がすぐに覆い隠してしまうのだった。
(こんな所で、死ぬわけには…あんず…)
力なく、空を彷徨う一蔵の右手が地面に着地する時に、彼の命も尽きるのだった。
一
「お頼み申します。お頼み申します」
まだ昨日の深酒が残る身体を起したのは、家の前で女の声が聞こえたからだった。余一郎は、重い身体を無理に起こすと、女を見聞する為に、入口の戸を勢いよく開けた。
「なんだ、ガキか」
そこには、年の頃は、十二、三といった所の娘が立っていた。余一郎は、勝手に騙された気分になり、再び布団に潜り込むと、二度寝する事に決めたのだった。
「お頼み申します。お頼み申します」
娘の声が近くで聞こえる事で、入口を開けたままだった事に気が付いたが、余一郎は、その失態を、掛布団を頭から被る事で、乗り切ろうと試みるのだった。
「余侍(よざむらい)様、お頼み申します」
娘の声がだんだんと大きくなっていくのを自覚し、余一郎は、二度寝を諦めるしかなかった。
「俺を余り者と呼ぶんじゃねぇ」
布団の上で、あぐらをかく。昨晩の深酒の名残をどこかに追いやる為に、水を飲みたいが、瓶のある土間に行くのが億劫だ。
それを察した娘が、瓶から水を汲もうとするのだが、
「ぼうふらが…」
濁った水を見て、その手が止まる。しかし、すぐに何かを考えた様子で、外に飛び出して行った。取り残された形になった余一郎だったが、娘はすぐに戻ってきた。
「これ、水…」
お椀の中の水を恐る恐る差し出す両手を見て、余一郎は、降参の旗を心中で挙げる事にしたのだった。
「あんずと申します」
仕方なく、招き入れたその娘は、名前を丁寧に名乗る。
「俺の事を誰から聞いた?」
「坂本屋の御主人から」
あぁ権兵衛か…嘆息するように、その名を口にするが、頭は回らないままだ。あんずが隣家から貰って、汲んできた水を一気に身体に流し入れる。しばし、染み渡る心地を堪能する。
「万請負屋の権兵衛の紹介じゃ、仕方ねえが、俺は仲裁屋だ。お前は誰と喧嘩しておる?」
余一郎の問いに、あんずは一瞬戸惑うが、すぐに懐に入った小包を取り出すと、その中身をひっくり返した。そこから、様々なかんざしが転がる。
「一週間前に殺された父が持っていた、かんざしの行方をお探し下さい」
あんずは、一気に言い切ると、その場で深々と頭を下げる。
「そうかい、あの斬られたのは、お前の父親かい?」
余一郎の問いに、あんずは首を縦に振る。
「通り魔って話しだが、下手人は、分かってるのか?」
その問いに、今度は首を横に振る。
「なら、話しは別だ。俺は仲裁屋だ。下手人を捕まえたいなら、番所に言え」
余一郎は冷たくあしらう。
「私が求めるのは、かんざしです。番所には、そんな物は、最初から無かったと言われて…」
そう言うのがやっとで、あんずは泣き出してしまった。ばつが悪い恰好となった余一郎は、あれこれと話して、宥めてやるのだが、一向に埒が明かない。
「お前の話しが本当だとするなら、一蔵を殺した下手人が、そのかんざしを奪う為に斬ったと?それを番所の連中は、探しもせんという事か?」
泣きながら、途切れ途切れでも、懸命にあんずは、一蔵に起った悲劇を語る。
「さる高貴な御方に、お渡しするかんざしをその夜に持って帰る筈でした」
一蔵は、生前、注文されたかんざしを職人寄合のある作業場で作ると、最期の仕上げを自宅に持ち帰ってするのが、決まりだった。それをあんずも知っていて、その夜は、以って帰り、次の日に納める手筈だったという。そのかんざしが、どこにも見当たらない。
「伊賀崎余一郎様、お願い申します。一緒にかんざしを探して下さい」
父を亡くした哀れな娘からの必死の頼みに、余一郎は、苦虫を噛みつぶしたような顔でいた。
「余侍さんよ、こんだけ頼んでるんだ。どうにかしてやりなよ」
いつの間にか、余一郎の部屋の前に、話しを聞きつけた長屋の連中が、隙間より、中を覗いていた。
「お前らには、関係ねぇ」
手を横に広げながら、余一郎は、大声で追い払おうとするが、その数は、どんどん増えているようであった。
「どうせ、余り侍に頼む者なんぞ、誰もいやしねえよ」
「酒好き、女好き、喧嘩好きで、仲裁屋が一番煽ってら」
誰とも分からず、方々から声が上がる。それが、世間からの余一郎の評判であった。伊賀崎余一郎光泰は、その名から取られた渾名を余り侍と揶揄される存在だ。
「話しだけは、聞いてやる。だが、どうなるかは知らぬぞ」
諦めたように、余一郎が言うと、あんずはようやく顔を上げ、その泣き顔が、少し笑顔になる。その愛嬌のある可愛らしい笑顔に、後悔の嘆息を漏らす。長屋の外からは、余侍を見直す声と、揶揄する声が入り混じる。酒が抜けたら、一度、長屋の連中を懲らしめようと決意するのだった。
お天道様が真上に昇る前に、ようやく二日酔いが抜けた余一郎は、あんずと出掛ける事にした。
「お前の部屋へ案内しろ」
かんざしを探すとしても、手掛かり一つ無いのでは、話しにならない。そこで、詳しく聞いて、それから、この依頼を受けるかどうかを決めるつもりだ。
余一郎は、いつものように大小を差すと、愛用の杖を背に掛け、部屋を出る。出る際に、先程まで、散々好き放題言っていた長屋の連中へ、いちいち悪態をつくことを忘れない辺りが、余り侍と揶揄される所以かもしれない。
その後ろを歩くあんずは、悪態をつかれた方の人々に、一つ一つお詫びするように、頭を下げて付いて行くのだった。
「ここで、間違いないのだな?」
案内された先は、表長屋の職人たちが暮らす一角であった。あんずの家の前で、人だかりが出来ている。あんずが人混みをかき分けて、室内に入ると、部屋が荒らされた後であった。すぐに顔見知りを見かけて、訳を訪ねると、今朝方、あんずが出掛けた後に、浪人風の男たちが訪ねて来て、中を荒らして帰ったと。
「あんず、お前の父親は、元は侍か?」
野次馬を追い返し、二人室内に入ると、一しきり様子を探った後で、余一郎は、疑問をぶつけた。だがその問いに、あんずは、もじもじとするだけで、答えようとはしなかった。
「構う事はない。人にはそれぞれ事情があるものだ」
あんずは、年にしては、礼儀や口ぶりがしっかりしているし、そして、余一郎がそう思ったのは、今手にしたあんずの記したと思われる手習いの文字が書かれた物を見つけたからであった。一人娘とはいえ、女にここまで教育をかける職人は居ないだろう。
死んだ一蔵は、元が武士で、何等かの事情があって、それを捨てた。そして、かんざし職人となったが、侍時代のしがらみや、何等かの事件に巻き込まれたのかもしれない。
(俺の勘が正しければ、これは大事かもしれん…)
あんずの書いた紙を丸めて、ポンポンと自らの肩を叩く。そして、そのまま部屋を出ると、その紙を天高く放り投げた。地面に落ちたその紙には、希望と記されていた。
それから、二人の奇妙な同居生活が始まっていた。あんずの家を荒らした下手人も、一蔵を殺した男の行方もまだ分かってはいない。同一犯かもしれないし、違う事も考えられる。
分からない事が多いが、一つだけ分かっている事があった。あんずをこのまま一人にはしておけないという事だ。
聞けば、他に身寄りも、頼れる者も居ないので、仕方なく、余一郎の狭い長屋の部屋で、共に生活をする事となったのだ。
そんな奇妙な共同生活が始まって、数日経ったある日、
「御免、余一郎は居るか?」
土間の掃除をしていたあんずは、勢いよく開かれた戸の音に驚いたが、すぐに寝転がっている余一郎に声を掛ける。
「何じゃ?勘一郎か」
「何じゃはなかろう。人に頼みごとをしておいて」
訪ねて来た男は、井上勘一郎という番所勤めの小役人で、余一郎とは、同じ道場に通った仲である。
「貴様、いつから女中を雇える身分になった?」
働くあんずを見ながら、勘一郎が問う。
「この娘は、客じゃ」
「お前、客に働かせるのか?」
「仕方なかろう。他に行く所が無いんじゃ」
勘一郎は、余一郎とあんずを交互に見て、更にこの室内を見渡す。
「どうにも、よくないのう。まだ年端もいかぬ娘が、お主のような女好きの余り者の所で、暮らすのは」
友の言葉に、余一郎は、頭を掻いて、苦笑いするしかない。余一郎は、無精ひげを生やし、数日風呂に入らない事もある。布団をまめに干すわけも無く、部屋の掃除もした事がない。そんな現状を見かねた勘一郎が声を挙げる。代わりに住む部屋を探そうと。
「私の事は、お気になさらずに」
あんずは、勘一郎の急な申し出に、戸惑いを隠せない。
「そう言うな。これでも役人の端くれさ。何とかなろう」
遠慮するあんずに、勘一郎は容赦がない。元来、根が真面目で、困った者を放っておけない性質なのだろう。
「それはいいが、お前、何か用があって来たんじゃないか?」
余一郎の言葉に、勘一郎は、両手を鳴らす。そうであった。
「貴様の睨んだとおりだ。殺された一蔵は、元々小津藩士で、しかも勘定方に勤めていた。詳しくは、これから調べるが、何かありそうだ」
それだけ言うと、勘一郎は勤めがあると戻っていった。そして、勘一郎は、言葉通りにその日の内に、長屋の主人に事情を話し、表長屋の二階建ての一室を探してきて、そこにあんずを借住まいさせる事で話しをつけたのだった。
その日の午後に、余一郎は、急に出掛けると言い出した。あんずにもついて来いという。
「お前の父親に関する事が分かるやもしれん」
それだけ言うと、さっさと外に飛び出してしまう。慌てて、あんずは後を追いかけた。聞いても、どこに行くのか、何も答えない。仕方なく、後ろから付いて行く。
二里ほど歩いて城下街を通り過ぎた。そして、山の麓の丘にある高昌寺が行き先であった。百段もある石段を登ると、ようやく本堂が見えた。
「ここは…」
あんずには、この寺に見覚えがあった。しかも、最近来たことがある。父一蔵が埋蔵された寺だったからだ。
あんずは、父の墓参りの為に、余一郎が気を遣ってくれたのだと思った。あんずは、先を進もうとする。
「待て」
それだけ言うと、余一郎は顎に手をやったまま俯いて、その場に止まった。
「行きましょう」
あんずが急かしても、睨むように下を向いたままだ。仕方なく、先に行こうと、最後の一段を上ろうとした時であった。
「この罰当りが!何しに来よった」
急な怒声が降りかかり、あんずは驚いて、危うく石段から落っこちる所であった。
「あ、あの…」
驚いたあんずがどぎまぎしていると、
「何しにとは随分だな。糞坊主が」
いつの間にか、余一郎がすぐ後ろまで来ていて、倒れそうになるあんずを支えてくれていた。
「この余り者めが、とうとう人の道に外れて、そんな年端もいかぬ娘にまで、悪手を伸ばしよったか」
「馬鹿言うな。耄碌したか?糞坊主、これは客じゃ」
糞坊主と随分な言われ方をしているが、正貫和尚は、高昌寺の正式な住職である。そして、幼少期の余一郎が過ごしたのもこの寺であった。
「あんずと申すか?利発そうな可愛い娘じゃ。悪いことは言わぬ。この男はな、親に捨てられて、この寺に入ったのに、坊主になるのが嫌で、勝手に寺を抜けた不届き者じゃ。勝手に抜けて、侍になると言い出したかと思えば、今の様はなんじゃ?」
散々な言われようだが、いつも言われている様子で、余一郎は全く相手にしていない。そればかりか、お互いに悪態を付き合っている。そんな二人の様子に、堪らずあんずは笑い出してしまっていた。
「おぉあんずが笑った。俺に会ってから、初めて笑ったわ」
あんずの笑い顔を見て、余一郎も笑った。あんずは、それを見て、更に笑い、しまいには、何故か涙が出てきて、泣き笑いとなった。
「和尚、あんたなら、顔が広い。何か知っているかと思ってな」
檀家の多い、この寺の和尚ならば、何か分かるかもしれない。
「何かその娘にあったのか?ここに匿って欲しいのか?」
二人の様子に、何かを察して、正貫和尚が聞く。
「この娘の父親は、こないだ殺された一蔵だ」
余一郎の言葉に、和尚の顔色が変わる。
「そうか、この娘が…確かに、一蔵の葬式に見た顔じゃ。不憫な…」
和尚は、あんずを憐れむ目で見つめながら言う。その顔をきょとんとした表情であんずは見返していた。やはり、和尚は何かを知っているに違いない。
「くそぼ…正貫和尚、知っている事があれば、話してくれ」
余一郎の言葉に、和尚は振り向くと、大きく頷くのだった。
「一蔵は、元々は小津藩に仕える侍で、名を山本一蔵と言った」
和尚は、語り始めた。あんずも初めて知る父の姿を。
一蔵が勘定方であった事は、すでに勘一郎が調べてくれていた。しかし、和尚はそれよりもより詳しく知っていたのだ。
「一蔵には一人息子がおった。しかし、十三年前に起った、勘定奉行の横領事件に巻き込まれてのう…」
その事件は、あんずが産まれる半年前の事であった。一蔵は、すでに隠居の身であった。代わりに息子が勘定方で勤め始めていた。もうすぐ、孫も産まれてくる。一蔵は慎ましくも、実直な己の人生に満足していた事だろう。
「そんなおりだ。一蔵の息子が、勘定奉行の罪に連座して、捕らえられたのだ」
新入りで右も左も分からない息子に、奉行が目を付け、横領の帳簿を付けさせる事で、片棒を担がせたのだ。
もしかすると、事が露見した時に、罪を全て着せるつもりだったのかもしれない。勘定奉行は死罪。息子は永居謹慎となった。
「一蔵は、息子の罪を晴らそうと、奔走したそうな」
しかし、罪がそう簡単に解かれる事は無かった。何も知らなかったとはいえ、藩の公金に手をつけた片棒を担いだのだ。このまま永居謹慎である目算が強かった。
「一蔵の倅が自害したのは、妻が子を産むたった一月前だった」
そこまで話すと、和尚は深いため息を吐いた。和尚はじっとあんずを見つめる。
「その後、産まれたのが、あんず、お前だ」
和尚の急な言葉に、あんずは固まってしまう。私にそんな事が。父だと思っていた一蔵が、本当は祖父にであったとは。
失意の中、娘を産んだ母は、あんずが産まれて、二ヶ月後に息を引き取った。そして、侍に嫌気が差した一蔵は、刀を捨てた。息子夫婦の忘れ形見の孫娘の為に。養父となって守ろうとしたのだ。あんずは、生前の一蔵を思い出していた。私を見る祖父は、いつも笑顔でだった。その優しさ、強さに、私はこれまで護られてきたのだ。
「拙僧と一蔵とは、囲碁仲間での。あ奴が侍を捨ててからは、会った事は無かったが…」
そこまで話すと、和尚は空へ向かって、合掌する。
「何で一蔵は、小津を捨てなかったのかな?」
全ての話しを聞いた余一郎が持った疑問を解決する方法は無いのかもしれない。一蔵は生前、侍時代の話しを全くせず、長屋でも彼の出自を知る者はわずかだったそうだ。
「山本家は、代々加戸家に仕えた家柄。それは小津入府前まで遡る。忠義心篤い男だったからのう」
和尚は、空に向かって、あの世にいる一蔵に語りかけるような口振りをする。
余一郎は、ここまで分かるとは思わず、和尚に聞いてみたのだが、まさかあんずの過去にそのような生い立ちがあったとは、夢にも思わず、複雑な心境で、帰り道すがら、何度も娘の顔を見てしまう。
慰めるべきか、そっとしとくべきか、余り者の自分には、どうしていいかも分からず、ただただ、だまって歩く他なかったのだった。
二
「朝ですよ。起きて」
朝陽がまだ目に染みる早い時間、あんずはいつものように、余一郎の部屋へ来て、縁側の襖を開ける。そして、まだ寝足りない余一郎を起す為に、部屋中をはたきで掃除するのである。
「よせ、毎朝、毎朝」
悪態をついて、布団を被ろうとするが、すぐに引っぺがされる。
「今日は、霧がない良い天気ですからね。布団を干すよ」
何か言ってやろうと、寝起きの回らない頭で考えてみるのだが、あんずが作った朝餉の良い匂いを嗅いで、すぐに忘れてしまう。
「今日は、坂本屋に連れてってくれる約束じゃない?」
味噌汁を飲みながら、忘れてないという事を伝える為に、何度か首を縦に振る。
あんずは、ここ数日で明るくなった。なったというよりも、これが彼女本来の姿なのかもしれない。寺で聞いた話しを、あの日以来、二人で会話に出した事は無い。余一郎は、それが歯がゆくもあり、おっかなくもある。
不用意に話しをして、またあんずの顔から、笑顔が消えるのを恐れたのだ。
「女子(おなご)は強いものだのう…」
「何か言いましたか?」
ぎょっとして、味噌汁を多めに飲みこんで、むせてしまう。
「何でもない。味噌汁が美味いと言うたのじゃ」
背を擦られながら、少し大きな声で抗弁する。
「嫌ですよ、もう…」
照れ隠しなのか、擦ってくれた背中を強く叩かれ、今度は、大きく咽るのだった。
出掛ける時、あんずは、持っていた木箱より、そっと大事そうに、かんざしを取り出した。それを髪につけようとするが、中々、思い通りにならない。見かねた余一郎が貸してみろと言わんばかりに、強引に取り上げると、優しく付けてやった。
「これは、良い作りじゃのう。父の物か?」
あんずは、一つ頷く。一蔵の形見のかんざしであった。残した中で、一番出来のよい物だと。
「これを付けると、まるで父が生き返ったみたい」
そう言って、笑顔をみせるあんずは、無理をしているように見えた。
「このかんざしは、盗まれた物と対になっているの」
かんざしの細工を見てみると、盗まれた物と合わされば、そこに一つの模様となるような造りとなっていたのだという。
そこを見れば、盗まれた物か一目で分かる。あんずの意図を察して、余一郎はうなずくと、二人は急いで出かけるのだった。
万請負業を営む坂本屋は、小津城下の本町筋にあった。元々は、材木問屋を営む本家より、現当主の権兵衛の父の代で暖簾分けし、金貸しから始まって、次代の権兵衛になってからは、浪人や、日雇いの町人、大工などに仕事を斡旋する請負業を行っていた。口入れ屋や手配師ともいう。この時代、人材斡旋業は、言わば、裏の稼業と見なされ、人気が無かった。
坂本屋の二代目、権兵衛は、その辺りの世間の評判を弁えており、金儲けに走り過ぎない、話の分かる実直な商人として知られていた。
「おい、これはわしが先に見つけたのじゃ」
店先で、何やら二人の男が口論している様子。一人は浪人風で、一人は町人だが、屈強な身体つきで、とび職か大工のようだ。
「おっやっておるな。やっておるな」
騒ぎを聞きつけた野次馬の後ろで、あんずが心配そうに見ているのを余所に、余一郎は袖をまくると、その騒ぎの仲に入っていく。
「おい、何を揉めてやがる?店先で迷惑だろう?」
これ以上に無いと、本人は思っている務めて明るい笑顔で、後日、あんずが言った獲物を見る野盗の目で、二人に迫る。
「何だ貴様?こっちは、取り込み中なんだよ」
浪人の男が余一郎に凄むが、まだニコニコを崩さない。話しを聞いてやると、どうやら、斡旋される仕事をどちらが先に貰うかで揉めているらしい。
「なるほど、二つ紹介されたが、二人ともこっちの仕事が良いと?」
いつの間にか、野次馬が作る円の中に立っており、話しの中心となっている。
「俺はとび職だ。高い所の仕事は、俺だ」
「わしだって、得意じゃ」
双方が主張して、譲らない。余一郎は、それをじっと見ている。
「うん、こんなのはどうじゃ?」
ポンッと両手を鳴らすと、話し始める。
「二人で、二つとも一緒にするんじゃ。それで、賃金も半分で割ればよい。二人なら、仕事も半分で終わるし、一日で二つ終わる」
なるほど、それは妙案だと、円の中から、声が上がる。その様子に怪訝な様子だった当事者の二人も頷く。それで行くか。
「これで、一件落着だな。そうと決まれば、仲裁料で一割だ」
話しが纏まるのを待って、二人の前に右手を差し出す。その手を二人は、きょとんとした表情で、余一郎の顔と手を交互に見やる。
仲介料は、坂本屋に払う。何でお主に?と浪人が。いやいや、仲介料ではない。仲裁料だ。俺は喧嘩仲裁業の伊賀崎余一郎だ。
「今、仲裁した代金を払え」
つ先程の態度とは打って変わって、凄む余一郎の気迫にたじたじである。
「余侍様、店先では困りますよ」
店内から、声が聞こえた。余一郎はやれやれと言った様子で、振り返ると、そこに如何にも温厚そうな親父が立っている。坂本屋の主権兵衛だ。
「余侍様の声が、良く聞こえておりましたよ」
店先で騒ぎになっているのが聞こえて、さては、先程仕事を紹介した二人かと思い、止めに出ようとした矢先に、何やらもう一人の声が聞こえた。
「その仲裁料、私が立て替えましょう」
権兵衛はそう言うと、余一郎を店内に招き入れた。
店内に入ると、スッと前に紙きれを出される。見ると、何やら書いてある。地図のようだ。地図を見た後、権兵衛の顔を見ると、代わりに仕事を頼みたいと。
「伊賀崎様がいらっしゃれば、お渡しするよう、ある方より頼まれておりました」
権兵衛の言葉を聞いて、余一郎はバツの悪い顔をする。依頼者が誰か分かったからだ。断る。いいえ駄目でございます。何故なら、先程の仲裁料は、これを受けて頂くのが前提だからです。
「権兵衛、それはないぞ」
憤慨する。どうして、そこまで行きたくないのか?怒る余一郎を、あんずは不思議に思った。
「あんずちゃん、久しぶりだね」
怒る余一郎を余所に、権兵衛があんずに声をかける。元々、あんずに余侍を紹介したのは、権兵衛だ。
「今日は、父の事でお願いに来ました」
権兵衛の顔が曇る。一蔵とは、仕事の関係だったが、請けた仕事はやり遂げて、依頼主から苦情が来た事など一回も無い。惜しい男を亡くした。
「聞けば、父も喜びます」
謙虚な姿のあんずに心が痛む。だが、自分に何が出来るだろう?犯人を捜すような術は、しがない商人の自分には無い。
「私の部屋に狼藉に入った、数人の浪人たちを探したいんです」
あんずは、真っ直ぐに権兵衛を見つめている。だがどうやって探す。
「ここ数日で、そのような風体の男たちが、仕事を探しに来なかったか?」
余一郎は、長屋の連中から聞きこんだ狼藉犯の人相書きを作ってきていた。これを店先に貼ってくれないかと。
「なるほど、分かりました。それぐらいの事なら、お安い御用です」
同じものを勘一郎にも頼んで、番所に渡しているが、評判の悪い余一郎が出しゃばるのを役人たちは、良しとしないだろう。ならば、自分達でどうにかするしかない。
「私から、他の寄合なんかにも頼んでみますよ」
狭い街だから、きっと何か手がかりが掴めるでしょう。頼もしい事を権兵衛は言ってくれた。そう言いながら、例の地図をしっかりと手渡す。
「その地図が、通行手形変わりだそうです」
もっとも、場所など、とっくにご存じでしょうがね。権兵衛が、去り際に笑うのを苦々しい気持ちで、聞き流すしかなかった。
どうもあの主は喰えない。余一郎がそう思っているに違いないとあんずは思った。心で思っている事が、顔に出ているのが、丸わかりだ。
渡された地図の行き先は、城の三の丸がある武家屋敷の一角を示していた。その場所まで、権兵衛が言った通りに、余一郎は迷わずに歩いていた。
「知った所なの?」
あんずの問いに、余一郎は、黙ったままで、立派な白壁の通りを、さっきから、睨むように歩いていた。
「着いたよ。ここでしょ?」
知っている筈の余一郎より、先に門の前に立ったあんずが、指し示す。そこは、その通りにある武家屋敷の中でも、一層立派な門構えをした屋敷であった。
「ほら、こっちに」
いつまでも、門に近づこうとしてない、余一郎の手をむりやり引っ張り、門を叩くと、くぐり戸より、門番が現れる。地図を渡すと、あっさりと中へ入れた。門番を置いている屋敷になど、初めて入ったあんずは、心臓が音を立てるのを感じ取っていた。
「ようこそ、お越し下されました」
玄関前で、初老の男が待ち構えていた。余一郎は、その顔に見覚えがあった。田嶋吾郎佐衛門、藩の若殿の傅役を務める重臣である。
「こちらに」
吾郎佐衛門は、屋敷内ではなく、そのまま庭園に二人を誘導する。姫様がお待ちですと。姫様という言葉に、あんずの心は躍る。生まれてから、本物の姫様という人間に会った事が無いのだから。
「二人ともか?」
余一郎が吾郎佐衛門に短く問う。あんずも一緒で構わないか?と聞いてくれたのだ。それに、はい、と短く答えたので、その後に付いていく。
屋敷の横を通り抜けて、すぐに開けた素晴らしい庭園が広がる。池があり、立派な錦鯉が泳いでいるのが見えた。そして、その鯉を眺める綺麗な着物姿の若い女性の後ろ姿も見える。
「一郎殿、お久しぶりです」
その女性が、姫様である事は、あんずにもすぐに分かった。
「爺にお願いしたのです。貴方にお会いしたいと」
一郎?あんずの頭は混乱している。余一郎と姫様とは、どうやら旧知であるらしい。
「若様と姫様との婚儀が、整いましてございます」
「吾郎佐の爺、そんな事を言う為に、俺を呼んだのか?」
余一郎の言葉に、爺は少し、悲しそうな顔をする。
「東姫(あずひめ)様、御婚礼、謹んでお祝い致します。拙者、知らぬ事とは申せ、お祝いの品を何も用意しておらぬご無礼をお許し下さい」
余一郎は、その場に片膝をついて畏まる。しかし、その表情は、普段からは想像出来ない程、どこか冷たく感じられる。
「余一郎様、いきなりお呼び立てした無礼は、この爺が悪いのです。姫様は、ただ婚礼前に、幼馴染に会いたい一心にて」
「爺、よいのです。一郎に、こうして、また会えたのですから」
事情を知らないあんずは、一人取り残された様子で、黙って見ているしかない。
「そなたの名は?」
あんずにようやく気付いたかのように、東姫が声をかける。
「あんず、良い名です。私と似ていますね」
そう言って、にっこり笑う姫様は、とても美しいと思った。女の私から見ても、誰しもが、この姫の為に、何かしたいと思うだろうと、そう思わせる美貌があった。
「そのかみかざりは?見せてはくれまいか?」
「父の形見です」
あんずの付けているかみかざりを姫に差し出すと、姫は急に真顔になり、爺に何かを伝えると、爺はその場から去ってしまった。
「一郎殿と私とは、幼い頃から知っている仲なのですよ」
「いちいち、昔話などいいだろう?早く要件を言えよ」
悪態をつく、余一郎を余所に、あんずが知りたかった事を、あず姫は話してくれた。
「私は一郎の母君の生まれ郷と一緒の出です。そこで、一郎と知り合ったの。二人で野山を駆けまわって、川遊びもしたわ」
話しながら、童心に帰ったように、姫は話し続けた。いつの間にか、その頃の呼び名だったのだろう、余一郎を一郎と呼び捨てにしているのに、本人は気づいていない様子だ。
「私は京の貴族に養女として入る形を取って、この藩の若様に嫁ぐの」
それは、この藩の若殿である加戸富之助泰武(かととみのすけやすたけ)たっての希望であったという。
「若殿は、己の母君の御無念を、少しでも晴らしたかったのでしょう」
いつの間にか、戻ってきた爺がそう語るが、その意味があんずには分からなかった。
「あんずちゃん、これを」
爺から受け取った紙を姫は広げて見せた。そこには、あんずが付けているかんざしと同じような模様の下書きが記されていた。
「父の手に間違いありません」
あんずが断言した事で、姫は吾郎佐と顔を見合わせて、大きく頷き合う。
そして、爺は余一郎に言う。
「どうか、婚礼を無事終えるまで、姫様の警護をお願い申し上げます」
爺からの突然の申し出に、余一郎は言葉を失っていた。
「私からもお願い致します」
今度は、姫様まで、頭を下げる。もう何がなんだか、分からない事が多過ぎる。あんずは混乱の極致だ。
「警護役なら、藩から、精鋭が選ばれるだろう?それが信用出来ぬのか?」
言葉にしてから、余一郎はハッとなった。そんな事が分からぬ吾郎佐ではない。という事は、警護役が信用出来ない理由があるのだ。
「おい、東(あず)よ。いい加減理由を話せ」
姫様を呼び捨てにするとは、良い度胸である。
「あんずちゃんの父君に、かんざし造りを依頼したのは、私です」
あず姫は、申し訳なさそうな様子で、重い口を開き始めた。
「爺…」
あず姫が一声かけると、吾郎佐は、周囲を警戒する。ここには、警護の者や、屋敷の者たちが、誰もいない。最初から、こうなる事を想定して、人払いしていたに違いなかった。
「婚礼の前に、どうしても、一蔵が造るかんざしが欲しかった。これは、私の我儘が招いた悲劇なのです」
姫は元々、そこまで身分の高い出身では無く、藩の若様の正室になれる身分ではなかったが、若殿様に見初められて、身分の高い貴族の養女となる事で、結婚する事が出来るのであった。しかし、そんな結婚を認めたくない勢力が、藩内にいるのだ。
「だから、俺に姫を護れと言いたいのだろう?」
余一郎が溜息交じりに半ば諦めながら言う。
「お願い一郎!」
その真っ直ぐな眼差し。昔から苦手だった。だから、ここに来るのが嫌だったんだ。余一郎は、言いたい言葉を飲み込んだ。
「分かった。やってやるよ。姫を護っていれば、一蔵を殺した下手人が来るって事だろうからな」
余一郎は、あんずの顔を見る。あんずは、全てを理解したように、大きく頷いた。これで、かんざしの行方が分かるかもしれない。あんずは、胸が熱くなるのを抑えるように、力いっぱい、拳を胸に何度も押し付けるのだった。
三
帰り道、あんずは、不機嫌な様子の余一郎を心配していた。屋敷からの帰り際に、もう一悶着あったからだ。発端は、爺こと、吾郎佐の一言からであった。
「父君が婚礼の儀の際、密かにお会いしたいと申されております」
それを聞いた瞬間、余一郎は、今さら何のつもりか!と激昂し、そのまま屋敷を飛び出してしまったのだ。あんずは、怒り肩で、道を歩く、余一郎の後ろより、黙って付いていくしかない。
余一郎は、実の親に捨てられた男だと、正貫和尚様がおっしゃっていた。それは間違いないだろうから、その父上が生きていて、会いたいと願っているのだろう。
あんずは、立て続けに急展開される状況の変化を、頭の中で、整理しようと努めているのだが、途中で頭が痛くなってきたのでやめた。
「あんずは、気にするな」
不意に振り返えると、余一郎は、怒った表情のままで、それだけを言うと、また怒り肩のままで、道の真ん中をズンズンと進んでいく。クスッ、余一郎のその様子に、少し笑ってしまい、あんずは救われた気がしていた。
二人がこうして、帰路につこうと、屋敷の曲がり角を曲がって、裏路地に差し掛かった時であった。
「お前ら、何か用か?」
前方に二人の男、後方に三人の合計5人の浪人風の男達が、余一郎と、あんずを取り囲もうとしていた。
「問答無用って訳かい?」
男達は、一言も発せず、抜刀すると、すぐにでも襲ってくる様子を見せる。余一郎は、その只事ならない状況に、背に結び付けていた、杖を手に持つと、おもむろに、その杖の持ち手の部分を外した。すると、そこには、刃が鈍い光を放っていた。
今度は、反対の先端部分を外すと、こちらも、鋭い物が見える。余一郎が、いつも背負っていた物は、両端が刃になっている仕込み槍だったのだ。
「こうなっては、手加減は出来ねえからな。死にたい奴から参れ」
その言葉が、戦いの合図となった。
「一つ!二つ!」
余一郎は、怒号のような掛け声と共に、相手の肩や、手頸を狙って、双頭の槍を自在に扱う。余一郎が槍を振るう度に、敵が面白いように倒れる。手加減出来ないと言いつつも、相手の急所をわざと外して、敵を倒すだけの技量を余一郎は、持っていた。
そして、とうとう最後の一人を残すだけとなった。
「お前以外は、後で止めを刺してやろう。お前は色々聞いた後だ。それが嫌なら、正直に話せ」
喉元に突き付けられた、槍の鋭い牙が、今にもその威力を示そうとしていた。相手の男は、刀を捨てて、すでに戦意を失っている。
「久しぶりに、双頭の蛇の手並みを拝見した」
曲がり角の死角より、急に男が一人現れた。男はゆっくり余一郎に近づくと、腰の刀に手を当て、柄を握って、間合いを詰め始めた。
「香戸晋太郎(こうどしんたろう)、お前だったか…」
その男は、鋭い眼をし、額に特徴的な菱型をした傷があった。身の重心を低く取り、独特な構えは、居合である事が察せされた。
「答えろ!貴様が一蔵を殺し、かんざしを盗んだか。東姫に近づき、婚儀を邪魔するのは何故だ?」
香戸晋太郎は、戸田流居合術の達人である事を余一郎は熟知していた。そして、余一郎が、加戸家二代目の泰興公が創始した加戸家槍術の達人である事を相手も知っている。
「お主に答える義務は無いわ。だがな、東姫はお主には渡さぬ。あれは俺の女だ」
晋太郎は、徐々に摺り足で、右足を進めて、間合いを詰める。自分の刃が届く、絶対の領域に、余一郎を誘い込もうとしていた。
槍対居合いの場合、槍の方が長い分、有利ではあるが、居合いは、刀身を見せずに、瞬時に間を詰めて、相手の懐に飛び込み斬り殺す、必殺の業と言える。だからこそ、勝負は一瞬で決まる。そして、その刹那の一瞬の為に、業を繰り出す瞬間を狙う為、遣い手は、相当に神経を擦り減らす作業に耐えねばならない。
二人の間に、時間としては、僅かだが、体感としては、長い時間にも感じられる悠久の時が流れていた。二人の額に、汗が流れ始めていた。
「そこで、何をしているのです?」
声をした方を見ると、姫と爺の姿が見えた。
何故出てきた?危険だ。頭の中で、様々に思考が巡る。しかし、その姫を想う気持ちが、勝負の際には、命取りとなる。
隙を見せてしまった余一郎の槍を、ここぞとばかりに、晋太郎の刀が払い、槍はその足元へと転がってしまったのだ。余りの早い抜き業に、その場に居た者で、彼が刀を抜く所を見た者は居なかった程だ。
「俺の勝ちだ。とうとう貴様に勝ったわ」
剣先を余一郎の首元に近づけると、晋太郎は、勝利の余韻に浸る。
「貴様も、貴様の父親も弟も、いずれは、俺の足元へ、跪かせてやるわ」
晋太郎は、勝利の高笑いを続ける。屈辱に打ちのめされるが、剣先は尚も、自分の喉元へ突き付けられたままだ。
「晋太郎殿、お久しぶりですね」
そんな緊迫した男達の中で、悠然と、いつものゆったりとした口ぶりで、姫は余一郎と晋太郎の間に立ち、余一郎を庇うような恰好をする。
「東、何をしている。止めろ!」
慌てる余一郎と、姫を庇おうと、吾郎佐爺が跳びかからんばかりに、寄って来るが、姫は、それを両手で制する。
そして、さあ、と言うと、余一郎に突き付けられた剣先を、そのか細い両手で、無造作に掴み、今度は、それを自分の喉元へ突き付けてみせたのだ。
「何をする?俺が刀を引けば、お前の指は無くなるぞ?」
これには、動揺した晋太郎が、姫の血に染まる手を放そうとする。その血を見たあんずが、ひいっという短い悲鳴をあげた。
「私が欲しいなら、殺してからにして」
それは、姫からの強烈な拒否の意思表示であった。ようやく、姫の指を剥がし終えた晋太郎は、そこに棒立ちとなった。そして、その瞬間を余一郎は、逃しはしなかった。彼の無防備となった腹に、強烈な蹴りを見舞ったのだ。
晋太郎は、ひっくり返ると、余一郎の蹴りの威力に、すぐには動けず、その場でのた打ち回る。形勢逆転であった。
「ここまでだな、香戸晋太郎」
槍を再び手にした余一郎は、さっきやられたお返しとばかりに、地面に膝をついた格好の晋太郎の顔に、刃を向けた。
「終わりだ」
余一郎が槍を突こうとした、その時であった。後方より、何やら刃物のような物が跳んできて、槍の刃を弾いたのだ。そして、晋太郎の前に、屋敷の女中姿の女が立ち、小太刀を構えて、余一郎と牽制したのだ。
「晋太郎様、お時間です」
女は晋太郎を気遣うと、余一郎に急に斬りかかってくる。余一郎もそれを槍で躱しながら応戦する。二、三合打ち合い、この女も相当な手練れである事が、肌で感じられた。
「もうよい。退くぞ」
晋太郎の合図と共に、女も刀を退く。そして、去り際に晋太郎は、胸元から何かを取り出すと、姫に向かって投げた。
「東姫、また会おう。余一郎、決着は後日、つけてやる」
捨て台詞と共に、晋太郎と女は去った。それを見て、地面に転がっていた、手下どもも、一目散に散っていった。余一郎は追いかけなかった。さすがに多勢に無勢だし、あの二人相手では、苦戦は必死だ。
「これは…」
姫が投げられた包みを開くと、そこには見事な椿の花模様を施したかんざしがあった。これが、一蔵が姫の為に作った物であるのは、間違いなかった。
「あんずちゃん」
姫は、そのかんざしをそっと手に持つと、あんずが挿すかんざしと、並べるようにして見比べた。すると、そこには、連なる様に椿の花が咲いており、作り手の拘りを感じさせる見事な造りとなっていた。
「椿は加戸家を現す花と言われております」
したり顔で、爺が説明をする。
「あんずちゃん、これを持っていて」
姫は、例のかんざしをあんずに託そうとした。
「いけません。姫様、どうか」
あんずは、頑なに拒むが、輿入れの際まで、預けるだけと、無理矢理渡されてしまう。姫がそうするのは、一蔵を亡くしてしまった、あんずに対する償いの気持ちからであった。
「一郎殿、爺から聞きましたよ。父君との対面、拒否されたとか?」
姫の言葉に、槍を片付けている余一郎は、何も言わず、背を向けたままだ。
「怖いの?父であるお殿様とお会いするのが」
姫の言葉に、反射的に振り向き、何か言ってやろうとしたが、言葉が出てこない。
「殿は、一郎を捨てたのではない。護ったのですよ」
姫の言葉に、余一郎は、黙って目を閉じた。閉じたまま、暫く、そのまま立ち尽くしていた。
「弟君もお待ちです」
爺が近づきながら、余一郎に乞うように、問うた。余一郎は、目を開けると、大きく、一つ頷いた。それを見て、姫と爺は、心より安堵するのだった。
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