余り侍~喧嘩仲裁稼業~

たい陸

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再会と別れと

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 東姫が婚礼の為に、小津藩を発ったのは、戻ってから、僅か数日後の事であった。
「ほら、霧の海が見えますよ」
 
 早朝よりの慌ただしい出立でも、姫は嬉しそうにはしゃいだ声を出していた。姫にとっては、船に乗るのも、四国から出るのも、始めての経験だったからだ。
「姫様、霧は寒うございますゆえ、お戻り下さい」
 
 側に護衛として控える余一郎の言葉も、東姫には届かない。藩の他の者達の目もあるので、いつもの調子で言う訳にもいかない。それを姫も分かっている。分かっていて、わざと、無視しているのだ。

 表面上は、騒ぎながらも、姫の心の内は、出立の前日に、吾郎佐爺が言っていた事を思い出していた。
「姫様、爺めはお役目の為、ご一緒出来ませぬが、姫に何かあれば、この皺首に賭けても、敵を葬ってご覧に入れまする」

 東姫は、爺の泣く所を始めて見た。身寄りの無い姫にとって、爺だけが親代わりであった。居れば、口やかましく、鬱陶しく感じても、離れてみて、その有難味に気づくものだ。

 だから、この不安な気持ちを外に見せない為にも、せいぜい空元気を装わねばならない。こんな気持ちを余一郎は、恐らく察せていない。この鈍感男は、女心という物がどんなものかを分かろうとしないのだ。

「一郎殿、喉が渇きました。いえ、私は一郎殿に申し付けたのです」
 姫の言葉に、侍女が反応を示すと、姫は、殊更に余一郎を指名する。それを聞いて、仕方なく、侍女から水筒を受け取った余一郎が、両手で差し出す水筒を手に取った。

 だから、決めたのです。江戸に行くまでの間は、せいぜい、一郎殿をからかって、憂さを晴らそうと。余一郎が、姫からの無言の圧力を理解したかは、定かではない。

 小津藩が、所有する帆船で、長浜湾より、瀬戸内海を通って、堺より上陸し、陸路で京の都へ入る。京の都では、加戸家と縁戚関係にある徳大寺家で、一ヶ月ほど滞在し、養子縁組を取り交わした後、江戸へ向かう。形式上とはいえ、名家である徳大寺からの輿入れであるのだから、準備に時間がかかるのは、致し方ない事であった。

 東姫一行が江戸へ到着したのは、もう初夏が近づいた、梅雨の間の良く晴れた日であった。江戸へ着くと、落ち着く暇もなく、姫は、婚礼の日の為に、何やら準備に追われて、忙しい日々を送っていた。そんな姫を、護衛の藩士に扮した余一郎は、影ながら見守っている。

「よく似合っておりますよ」
 護衛の為とはいえ、正装した格好の余一郎をからかうのが、姫の日課となっていた。江戸に着いてから、余一郎は、父にも弟にも、まだ対面していない。

「俺は警護で来たのだからな」
 そう言って、頑なな余一郎を見て、こちらから出向いて、一言でも恨みを言ってやればいいと姫は思ったが、それを素直に聞く筈もない。

「一郎殿は、江戸の街は、もう見て周りました?」
 いや、まだだが?姫からの質問の意図を掴みかねた。では明日、見に行きましょう。

「お前、自分の立場が分かって…」
 思わず、大きな声をあげたのに、気付いて、小声になる。姫付の侍女たちが、怪訝な表情をして、こちらを見ていたからだ。

「警護をお願いします。伊賀崎殿」
 このお転婆めが。姫の性格を理解している余一郎は、心の中で毒づいた。

「おい、はぐれないようにしろ」
 他の従者に聞こえぬよう、小声で、姫に言う。街娘の恰好をした姫の後を、着かず離れずに行くのは、骨が折れた。姫が言い出したら、後に引かない性格なのを知ってはいるが、数日後に婚礼を控えた、一藩の正室になる人間のする事ではない。まして、姫は狙われる身であるのだから。

「これが、最後の我儘です」
 そう真っ直ぐな目で、懇願されると、断りきれない。仕方なく、付き合う。知り合ってから、この繰り返しなのだ。だから、嫌だったんだ。自分の性格を見透かした上で、頼んで来る姫を、煩わしくも、結局の所は、気に入ってもいるのだろうから。

 江戸の街は、迷子になりやすい。同じような長屋の建物が立ち並び、狭い場所に、多くの人達が、雑多に住んでいる。だから、子供が一度迷子になると、再び親元へ帰れない事もしばしばであった。迷子が多いと言う事は、かどわかしも多いという事だ。街を守る町奉行所も、行方不明者を探す余裕は無く、自力で何とかするしかない。

 だから、江戸に来て、間もない余一郎と姫が、はぐれてしまうと、大人とはいえ、再会するのは、簡単ではない。
「私は一郎殿ほど、方向音痴ではありませんよ」

 姫がからかう。こいつは、まだ昔の事を根に持っているのか。余一郎は、憮然とした表情で、昔を思い出していた。

 まだ二人が出会って間もない、子供時代の事だ。晋太郎を含めた三人は、ある日、かくれんぼをしていた。最初は、伊賀崎の屋敷内だけだったのが、いつしか、川や裏山にまで、範囲を広げて、最後は、遠く離れた神南山でも、かくれんぼをするようになっていた。

 山で隠れたら、子供一人を見つけるのは、容易ではない。一度やり出すと、その日は、夕暮れまで、山で隠れる事になる。そして、姫が言っていたのは、いつものようにかくれんぼをしていた時に、姫と余一郎が隠れて、晋太郎が鬼だった時の事だ。
 
 最初に、余一郎が簡単に見つかってしまった。木の上に隠れていたのを、鳥の羽ばたく音に驚いて、下に落ちたのを見つかったのだ。三人の決め事があって、隠れる役の二人は、それぞれが、どこに隠れるかを事前に教えあっておくという事があった。仮にも山の奥に、一人隠れて、迷子にならない為である。

 そして、その日は、いつもならすぐに見つかってしまう筈の東が、どこを探しても、見つからない。

「おい、余一郎、もう日暮れが近いぞ」
「分かった。東はあの右の源流にある岩場だ」
 
 晋太郎は、奇妙に思った。余一郎が言った隠れ場所は、もう探した後だったからだ。

「おい、本当だろうな?」
「嘘を言って、どうする?」
 二人は、その岩場に行ってみたが、どこを探しても東の姿は見えない。何度か、もう帰るぞ。どこだ?姿を見せろ。お前の勝ちだぞ。など、色々言ってみるが、どこにもいない。

「おい、やばいぞ。陽が暮れる」
「お前がさっさと見つけないからだ」
「何を言うか。お前が」

 焦るあまりか、二人は言い争いながらも、探していたのだが、いつしか、いつもの取っ組み合いになってしまい、お互いの顔が、立派に腫れ上がる頃には、すっかり陽が暮れた後であった。

 その後、事態の急を感じて、叱られる事を覚悟で、一度村へ戻って、大人達に一緒に探して貰おうとしたのだが、何と東は先に、伊賀崎の屋敷へ、戻っていたのだった。

「お帰り、遅かったのね」
 驚く二人を尻目に、美味しそうに味噌汁を啜る姿を見て、二人は力が抜けて、その場に座り込んだ。

「東、お前一体どこに隠れたたんだ?」
 晋太郎が問うと、左の水溜りのある岩場の影よ。と当然のように言った。
 それを聞いた晋太郎からの冷たい目線を感じて、余一郎は、頭を掻くしかない。水のある岩場は合っていたが、まさか右と左を間違えるとは。

「今日の味噌汁は、染みるなぁ」
 晋太郎と殴り合った際に、切れた唇を抑える。だが、他の二人は反応してくれない。余一郎は、気まずい夕食の時間を過ごすしかなかった。

 あの時も、今もずっと私を護ってくれる。東姫は、余一郎の顔を見た。余一郎もこちらを見ている。二人は、今同じ思い出を、同じ気持ちで考えているのだろうと思った。

 もう決して、戻らない日々の事を胸に秘めながら、姫は日常へと戻る決意を固めたのだった。 



 加戸富之助泰武と、東姫との婚儀は、滞りなく、盛大に催された。大勢の賓客と来客で、小津藩上屋敷は、賑わっている。白無垢を着た東姫を見た人々は、美しい花嫁姿に見惚れて、若君が是非にと望む筈だと噂し合った。皆が呑み喰らい唄う。

 その東姫の髪には、白無垢によく似合う一蔵造りのかんざしが光っている。今付けているかんざしは、あんずが元々持っていたかんざしの方であった。姫が記念にと、あんずに頼んで交換したのだ。

 そうする事で、一蔵の形見とも言える、あのかんざしは、あんずの手元に残る。そして、お互いを忘れない為に、そう願って交換したのだった。

 そんな婚儀の様子を、余一郎は、家来の一人に扮して、静かに見守っている。遠目で見える幼馴染のお転婆娘は、噂通りに、とても綺麗に見える。馬子にも衣装とはこの事だと、一人で可笑しさを堪えるのに必死であった。

 同時に、自分一人だけが、その場に取り残されたような、何とも言えない侘しさも味わっていた。

 酒宴は、三日三晩続いた。そして、それから数日した後の事である。余一郎は、そろそろ小津へ帰ろうと考えていた。元々が、姫が無事婚儀を終えるまでの護衛役だった。そして、無事婚儀を終えて、小津藩の次期藩主の正室となったのだ。自分のような、喧嘩仲裁屋が、いつまでも関わっていては、いけないだろう。

 そう思っていた矢先に、姫より呼び出された。他の家来の目があるので、慣れない手つきで、頭を下げる。

「伊賀崎殿、小津からの護衛役、誠にありがとうございました」
 余一郎のぎごちなさが分かったのであろう、姫はクスクスと笑っている。しかし、急に真顔になって言った言葉は、余一郎の虚をつくのに、十分であった。

「殿様と若様に、お会い頂けますか?」
 そう言う姫の顔は、いつになく、本気であった。これは、富之助様の立っての希望であると。

 余一郎は、内心できたなと思っていた。小津を出る時は、確かに、父と弟と再会する事を半ば、覚悟もしていたし、必然な事だとも考えていた。しかし、江戸に来てから、婚儀でバタバタとする毎日に、まだ江戸見物も出来ていない。そうこうする間に、婚儀は終わってしまった。自分は役目を終えたと思った。ならば、このまま逢わないで、いいのではないかと、最近では、そう考えていたのだ。

「会わずに、このまま帰るつもりだった?」
 小声で、余一郎にだけ聞こえるように、そう言う姫の顔は、いつものお転婆の姿に戻っていると余一郎は思った。じゃじゃ馬が、一生直るものか。余一郎は、心の中で、舌を出した。

 親子と兄弟の感動の?対面は、それから、更に数日して、秘密裡に、そして、急に行われた。夜、非番となって、自室で寛いでいた余一郎の元へ、姫より、呼び出しがあったのだ。

 奥の間へ続く廊下を歩く。途中ですれ違う女官たちが、その場に膝をついて、礼をとる。余一郎を若殿と勘違いしているのだろう。無理もない。江戸に来てから、こういう事は、何度かあった。奥の間に着くと、東姫一人だけだった。お付きの者の姿もない。

「すぐに来られますから」
 姫はそう言うと、余一郎に微笑む。余一郎は、考えていた。父と弟と、二人が来るのだろうか?それとも、一人ずつだろうか?俺は弟に頭を下げた方が良いのか、それとも、兄として、接すればよいのか。様々な事柄が、脳裏を過る。

 ほどなくして、しかし、余一郎には、長い時間そうしていたような気がするが、障子を開ける音がして、姫が頭を下げたので、入ってくる者が誰なのか分かった。足音は一つだけ。それも、足取りが若々しい。

 余一郎は、頭を下げず、入ってくる若者の顔をじっと正面から見た。その若者は、自分と同じ顔をしていて、当たり前のように、自分の正面、上座に腰を降ろした。

「兄上様、富之助に御座います。お会いしとうございました」
 初めて会う、いや、産まれてより、久方ぶりに再会した弟は、兄に深々と礼を取る。とても、凛々しく、爽やかな見事な若殿だ。

「余一郎だ。本当に同じ顔をしているのだな」
 自分でも、間の抜けた事を言っていると思ったが、他に言葉が出てこない。会って、いけすかない奴であったら、悪態の百個でも、言ってやろうと思っていたのに。

「父上は、本日はお越しになれませぬ。せっかくの機会に、申し訳ございませぬ。兄上の今までの御苦労と併せて、お詫び申し上げます。どうか、父上の事をお許し下さいませ」

 こんなお手本のような台詞は、自分なら、決して口に出来ないだろう。それをさらりと言ってみせて、しかも、嫌味がない。

 兄弟は、暫く見つめ合ったままで、言葉を口に出来ないでいた。今までどうやって暮らしてきたか?お互いの存在をいつ知ったのか。会いたくはなかったのか。様々な事がよぎるが、どれも、この場に適しているか、分からなくなる。もどかしい時間が流れる。

 その時である。部屋の外で、大きな爆発音が鳴り響いた。そして、障子の影に、艶やかな模様が浮かび上がる。花火だ。

「そう言えば、今日は、隅田川の花火大会でしたね」
 姫が思い出したように呟くと、廊下で、女官たちが騒いでいる。口ぐちに、花火を楽しむ様子が見てとれる。

「近くで見れば、もっと綺麗な物なのだろうか?」
 富之助が、屋敷から見える夜空の小さな夜の花を愛でるように呟く。祭りには、行った事はないのか?屋台で蕎麦や天ぷらを食したり、何か土産物を買ったり。

 余一郎の質問に、「ないです」と、当たり前のように答える。
「富之助、一緒に行くか?」

 不意に言葉が出た。この哀れな若様に、市中の祭りを体感して貰いたかった。いや、そうする事で、兄らしい事を一つしたかっただけかもしれない。
「はい」と元気よく、返事する弟は、とても嬉しそうな顔をして笑っている。
 
「良いですか、余り遅くなってはなりませんよ」
 夫に平侍の着流しの恰好をさせながら、東姫は、夫ではなく、その兄に言い渡す。本当は、姫も行きたいに違いない。しかし、屋敷内に知られないようにする為には、姫の所に、若様がお通りしているように、振舞うしかない。

「ああ、土産物は、亭主に頼みな」
 いつもの悪態をついて、屋敷を出た二人は、舟で隅田川を下ろうとしたが、多くの見物客で、舟を今から探せる余裕は無かった。仕方なく、歩いて向かいながら、頭上に輝く花々たちを楽しむ。多すぎる人の波で、少しずつしか進まない。

「こんなに多くの人の中を泳ぐのは、始めてでござる」
「ああ、俺もだ」
 二人は、人混みに酔いそうになりながら、我慢して歩を進めたが、途中見つけた屋台に、逃げ込む事にしたのだった。

 ざる蕎麦に、冷酒を一杯やりながら、花火を楽しむ。屋台の蕎麦も、手酌で酒を呑みのも始めての経験だと、富之助は話してくれた。このように、屋敷を抜け出して、市中を愉しむ事など、初めてだと。

「若様は、人生の半分も楽しんでおらぬ」
 見ろ、市中の民は、こんなにも謳歌している。世を愉しみのに、下も上もあるか。

「今夜は飲め。俺より呑まねば、承知せぬぞ」
 弟に注いでやりながら、自分も酒を一気に飲み干す。今夜は、何だが良く酔えそうだ。

「兄上、申し訳ございませぬ」
 気持ち良く呑んでいると、急に富之助が頭を下げる。今まで、私は兄上の苦労も知らず、家臣に守られる事が、当たり前でしたと。

「何を言いやがる。俺は今の暮らしを恨んだ事はないぞ。お前の事を見てるとな、さぞかし窮屈なんだろうと、同情しちまうよ」

 そう言うと、余一郎は、酒をまた一気に飲み干した。そして、弟の空になった杯に、再び酒を注いでやる。それは、気にするなと、兄からの無言の声であったろう。

「一つだけ、お前に確認したい事がある。何故、東姫だったのだ?」
 余一郎は、いつになく、真剣な表情で、真っ直ぐに富之助を見据える。そんな兄の意図を理解した富之助は、懐より、包みを取り出すと、それを広げて、そこに収められていた一つの紙を大事そうに、手渡した。

「これは、我らの母上です」
 西洋の写真という物で、生前の母上を写した物だそうです。絵で描かれた物じゃなく、人のありのままの姿を映す道具なのだと。

「これが、母上?」
 余一郎は、自分でも間抜けな声を出したと感じていた。その写真なる物に映っている女性の姿が、東姫に、うり二つであったからだ。

「父上に嫁ぐ前の御姿だそうです」
 どういう経緯で、二人の母が写真を取る事となったのかは分からない。
 だが、そこに映っているのは、在りし日の二人の母親に間違いなかった。優しく微笑む美しい女性の姿がある。

「これは、他言無用にお願い致す。もちろん東姫にも」
 二人の父親は、この写真なる物を好んではいないらしい。逆に毛嫌いしている。この写真を撮った事で、二人の母は、命を縮める事になったと、誰かから聞いた間違った噂を信じているらしかった。

「東姫の事を最初に知ったのは、吾郎佐からでした」
 そして、姫に会って、富之助は、この人を妻にしようと固く決意したのだという。そして、姫を正室の迎えられるように、手を尽くし、藩主の父を説得してくれたのは、正貫和尚であった。

「兄上の想い人を奪うようになってしまい、申し訳もござらぬ」
 富之助は、深々と頭を下げる。

「あれは、妹のような者だ。実の弟と、その妹が夫婦になったのだ。これが目出度い筈はなかろう」

 余一郎は、照れ隠しにまた酒を呑む。だが、二人への祝福の気持ちが嘘な筈もなく、富之助の東姫に対する気持ちも聞けた。余一郎は、大いに満足であった。

「兄上は、槍術の遣い手だそうですね」
 父上も槍術の達人で御座います。富之助が不意に父の話しを始める。少し気まずくなってしまった場の空気を変えたかったのかもしれない。

 最後を意味する一番大きな花火が上がり、夜空に今夜一の花を咲かせた。二人は、それを見て、酒を飲み干す。酒を呑むと、余一郎が、辺りの騒ぎを嗅ぎ付け、急に立ち上がり、その騒ぎに向かって走って行く。どうやら、酒に酔った町人同士の喧嘩が始まったようだ。

「おい、喧嘩か?喧嘩はこの仲裁屋の余一郎様に任せろ」
 喧嘩をしている町人の中に、嬉しそうに飛び込んで行く。そんな兄の様子を、静かに微笑みながら、弟は見ているのだった。



 余一郎が、実の父親である小津藩主加戸泰英に会ったのは、祭りから数日後の事であった。

「余一郎か、大儀である」
 それが、二十年ぶりとなる、父子の対面での会話の全てであった。対面は、屋敷内にある、他の大大名家に比べたら、遥かに小振りな造りの庭園の東屋にて、そこで、茶を飲みながら、寛ぐ泰英の元へ、呼ばれた家臣の若侍が、お目見えするような形式が取られた。

 余一郎から、話す事など許される訳もなく、父子の対面は、短時間で終わりを告げた。余一郎は、怒りを通り越した虚しさを味わっていた。

 余一郎は、出来れば、十三年前の事件の顛末を父である藩主に直に聞いてみたかったのだが、それも叶わぬ事であった。これでは、何の為に、江戸に来たのか、半分も意味をなさない。

「家臣の手前、致し方ございますまい。お察し下さい」
 姫の言葉に、怒りが再燃してきた。ならば、何故俺と会ったのだ?まだ怒りは収まらない。ならば、如何様にすれば、一郎殿は、ご満足なのですか?

 姫からの問いに、はたと我に返る。実際、自分はどうしたいのだろうか。苦労をかけたとでも言って貰いたかったのだろうか?そんな事で、今までの事を水に流せるものだろうか。

 そもそもが、今の暮らしを不自由と感じた事はない。自分は、誰の下のもつかず、己の意志で生きているのだ。これ以上の喜びが、この世にあるだろうか?

「次に会う時に、今までの迷惑料をたんまり頂いてやるさ」
 いつもの余一郎の様子に、姫は安堵しながらも、余一郎のたんまりとは、一体、如何ほどにもなろうかと、呆れた心地がするのだった。

 しかし、次の父子対面は、叶わぬ事となってしまった。泰英がその日の晩に、急死したのである。

 本当に突然過ぎる死であった。泰英は、まだ年寄りというには、満たない歳であった。持病もなく、壮健そのものだった。

 その夜、来客があって、いつもより遅く、就寝を迎えた泰英であったが、自室の灯りは、それからも暫く、点いていたという。余り遅い時間まで、灯りがある事に不審がった当直の家臣が、声を掛けたが、返事が無い。眠ってしまったのかと、そっと部屋に入ると、机に倒れ込みながら、絶命している殿様を発見したのだった。

 外傷は無く、幕府からの検分も、藩医の見立てでも、突然死としか言いようがなかった。
「その時、父上が認められていたのが、こちらです」

 そう言って、富之助が余一郎に見せてくれたのは、くしゃくしゃになっている一枚の紙であった。

 それを広げて、紙の皺を伸ばしていると、そこには、「余一郎殿、すまなかった。父の非力を許し…」そこで、途切れていた。余一郎は、その文を暫く、皺を伸ばし続けては、読んでいたのだった。何回も、何回も。

 富之助は、目の下に隅が出来ていた。無理もない。藩主が急死ともなれば、家臣が動揺する。幕府への対応もせねばならない。急に藩主としての務めが始まったのだから。

 父親の葬儀手配など、寝る間もないのだろう。それでも、兄にこれだけは伝えなければと、時間を割いて、会ってくれたのだ。

「それと、気になる事が、東の侍女が見知らぬ女中を見かけたというのです」
 話しを振られた姫が、頷くと、その侍女が室内に呼ばれる。

「殿様が亡くなられた晩に、私が厨に行きました所、見られぬ女中が一人居りまして」

 若い女中でした。その者は、最近、小津より来たばかりなので、屋敷の勝手が分からぬと言っておりました。別段、怪しい素振りはございませんでした。

 侍女は、畏まって話している。この者は、姫が小津より連れてきた長年仕えている者だ。まず信用が置ける。

「毒殺ではないのだな?」
 確認するように、富之助に問う。富之助は頷く。藩医も長年仕える代々の家臣だ。

 余一郎は、腕を組んで、じっと目を閉じている。新野の葦の者は、それと知られる事なく、人を殺める術に長けている者がいるという。しかし、新野藩の本家とも言うべき、小津藩主を毒殺する理由が、どこにあるのだろうか?

 晋太郎が自分に言った言葉を思い出していた。「貴様も貴様の父も弟も、いずれ跪かせてやるぞ」と。それが、何を意味するのか?晋太郎が泰英を殺したとして、それは何の為だったのか?香戸家が没落した事への復讐だったのだろうか。

 そして、それは、恐らく十三年前の事件が深く関わっているだろう。しかし、過去の事件を知っている筈の殿様は死んでしまった。真相は、再び闇の中だ。

 馬鹿親父が…

 余一郎は、心の中で、最初で最後の悪態を父についた。これから、何度か会っていく内に、お互いのしこりを無くしていけたかもしれない。しかし、その機会も、永久に閉ざされてしまった。

 余一郎は、ゆっくりと、目を開いた。

「小津に戻らねばならぬ」
 余一郎は宣言した。小津藩へ戻り、香戸晋太郎と、葦の女を見つけて、十三年前の事件の真相を明らかにせねばならないのだ。それしか、残された道はないだろう。

 だが、最も困難な仕事となるかもしれない。何せ、相手は神出鬼没な葦の女と、余一郎の宿敵で旧友でもある晋太郎なのだから。

「私も小津に行きます」
 富之助は、東姫を見た。姫も大きく頷く。富之助は、今度は、新藩主として、始めての小津入りを果たすべく、帰藩する。余一郎もそれに同行するのだ。そして、そこで、何かしらの敵の出方があるかもしれない。

「罠を張るのですね」
 姫が言う通りだ。罠を張って、そこに飛び込んで来るのを待つ。大きな賭けだが、新藩主の国入りという、大きな行事をあの晋太郎が逃す筈もない。

「小津に帰るまでに、何か策を考えねばなりません」
「また忙しくなるな」

 余一郎は、障子を勢いよく、開け放つ。手に持つ、父からの遺言が書かれた紙を握りしめながら、顔に江戸の強風が打ち付けるのもお構い無しで、小津のある南を、いつまでも睨み続けていた。
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かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし 長屋シリーズ一作目。 第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。 十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。 頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。 一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。

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