余り侍~喧嘩仲裁稼業~

たい陸

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影武者

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 小津の城下町は、湧き返っていた。急死した前藩主の泰英に替わって、若い新藩主となった富之助泰武の御国入りが行われるからである。我らが若い殿様を一目見ようと、藩中より、人が城下へ押し寄せていたのだ。

 その行列の中には、あんずと勘一郎の姿もあった。大名行列を見た事が無いあんずが、勘一郎に頼んだからだ。そうすれば、きっと余一郎の姿も、その行列の中にあるに違いないと、あんずは、考えていたのだった。

「凄い人だな」
 何度も前藩主の国入りの行列を見ている勘一郎も、このような人の波は、見たことも無かった。それだけ、人々の若い殿様に対する期待が大きい証拠だろう。

 殿様がお見えになられたぞ。誰かが後ろから声を掛ける。見れば、大きい馬に乗った、行列で一番立派な出で立ちをした若い侍が民の声援に、手を挙げて応えている。

「やっぱり、余一郎とそっくりじゃな。殿様の方が、数段ご立派であられるが」
 あんずの横で、しきりに勘一郎が頷いている。あんすは、殿様なんかよりも、余一郎の姿を行列に探すが、どうも見当たらない。

「あれ?余侍様??」
 余一郎を見つけられないあんずは、ふと馬に乗る殿様に、目線を合わせた。これは、双子の弟ではなくて、余一郎ではないのか?

 困惑するあんずに、勘一郎は、そんな訳はなかろう。双子なのだ。似ていて当然だと。しかし、あんずには、確信に近い物があった。あれは、絶対に余一郎に違いない。

「一緒に暮らした私が、間違える筈ありません」
 帰り道に、大声であんずがそう主張するので、勘一郎は、周りの目を気にして、あんずを宥めるのに苦労していた。

 分かった。あんずがそう言うのなら、そうかもしれない。だが、その訳をここで言っていても、埒が明かぬぞ。

 そう勘一郎に諭されて、その場を離れるあんずだったが、心では、後ろ髪が引かれていた。
「きっと戻ってくる」

 小津を離れる時の余一郎の言葉が脳裏を過ぎる。そうだ、きっと戻ってくる。これには、何か訳があるに違いない。このまま、ひょっとしたら、余一郎は、あの長屋へは戻ってこないんじゃないだろうか?江戸に行って、本当の家族と会えた事で、本来居るべき場所へ、行ってしまったのではないのだろうか?

 その方が、余一郎にとっては、幸せなことなのかもしれない。では、わたしはどうなるの?一体、誰が私を必要としてくれるの?

 帰り道、あんずは、何度も後ろを振り返る。見ると、群衆に馬上より、手を振る殿様がこちらを見た気がした。しかし、あんずには気づきもしない。

「余り侍の馬鹿野郎!」
 何故か涙が零れてくる。あんずは、歩を進められなくなってしまっていた。その場で蹲り、静かに嗚咽する。

 あんずの異変に気付いた勘一郎が駆け寄り、背を擦りながら、言葉を掛ける。屋台で何か買ってやろうなどと、色々慰めを言ってくれるが、あんずには、自分でもどうにも出来なかった。賑わう雑踏と乖離するかのように、まるで、あんずの世界だけが、そこに取り残されたようであった。

 長屋に着いてからも、あんずの気は晴れそうになかった。とっくに、夕餉の支度をせねばならない時間になっても、余一郎の部屋の隅で、一人蹲って座っているだけだ。番所へ一度戻っていた勘一郎が、心配になって、再び訪れても、あんずの体勢は変わらず、ただ座っているだけなのだ。

「お前、それは恋じゃな。あの余り者に、ホレちまったのさ」
 自分でも柄にない事を言ったと思ったのか、勘一郎は、頭を掻いて照れている。やめておけよ、お前が辛くなるだけだ。年も違うし、第一に余一郎の奴は、

「ええっあんな女好きの喧嘩好きで、お金に目の無い余り者、苦労が絶えませんからね」
 あんずは、言われてしまわない内に、ありったけの事を勘一郎にぶつける。それで、それ以上、この事に触れて欲しくなかったからだ。

 しかし、予想に反して、勘一郎は、反論めいた事は、何も言わなかった。そればかりか、あんずをとても悲しそうな顔をして、見つめている。

「身分違いだ…」
 勘一郎は、振り絞った声で、それだけを言った。ようやく、言えた言葉が、それだけだったのかもしれない。

 あんずにも分かっていた。自分が人生で初めて好きになった男は、好きになってはいけない男であった。

「余一郎の奴は、何も言わないが、本来なら、俺みたいな身分の低い藩士が、言葉を交わせる相手ではないのだ。まして…」

 勘一郎は、それ以上の言葉を飲み込んでしまい続けようとはしなかった。そして、黙って項垂れて、右手を強く握って、立ち尽くしている。

 そんな勘一郎の様子に、あんずは堪らなくなって、部屋を裸足で飛び出してしまった。辺りは、いつの間にか、陽が落ち始めて、綺麗な夕焼けと、鴉の声が聞こえてくる。

「そこの娘、そなたは、あんずという名ではないか?」
 不意に声を掛けられた方を見ると、夕焼けに照らし出された、よく見慣れた格好をした、見慣れた筈の顔と姿をした男が立っていた。

「あんずちゃん、余り侍が帰ってきたよ」
 男の姿に気づいた長屋の連中が、輪を作り始めていた。外の声に引かれた勘一郎も、表に出てきた。そして、余一郎らしき男に、親しげに声を掛ける。

「なんだ、やっぱり帰ってきたじゃないか。あんずの取りこし苦労だったのう。どうしたあんず、こっちへこいよ。照れておるのか?」

 勘一郎があんずに声を掛けると、周りで笑い声が木霊する。その輪の中心で、余一郎が笑っている。自分に向かって笑っているのだ。

 しかし、あんずには、それが余一郎ではない事が分かっていた。どうしてかは、分からないが、彼女には分かっていたのだ。

「ねえ、貴方は誰なの?」
 あんずからの、真っ直ぐな問いかけに、その男は、顔を強張らせる。

「おい、長い間放っておいたんで、あんずの奴、拗ねてやがるぞ」
 勘一郎が言うと、再び長屋の人々は笑いだした。長旅で疲れただろう。今夜はよく休んで、明日、呑み明かそう。そう口ぐちに言うと、それぞれの部屋へ帰っていった。

 残されたのは、あんずに勘一郎、そして、余一郎らしき人物の三人だけとなった。
「ねえ、貴方は一体誰なの?」

 再び問うあんずの言葉に、勘一郎も、何かを察し始めていた。
 
 長屋の余一郎の部屋へ戻った三人であったが、あんずと勘一郎と向き合うように座っている。

「私は、加戸富之助泰武と申す。余一郎殿とは双子の弟になる」
 勘一郎は、心中で唸っていた。思わず頭を深々と下げる。無理もない、新しい自分の主君が、今目の前に居るのだから。

 頭を下げたままの勘一郎に対して、あんずは、富之助を真っ直ぐ見つめたままであった。

「それで、貴方様の兄上は、今どうして居られますか?」
 あんずからすれば、当然の問いであっただろうが、これ、あんず無礼なるぞ。ここに居ますは、小津の殿様じゃ。

 勘一郎に、無理矢理に頭を下げさせられる。
「よいのだ井上よ、そなたの事も兄から聞いておる。あと、あんず殿の事もな。兄の余一郎は、今は小津の城で、私の代わりを務めて貰っておる」

 そう言うと、余一郎に扮した富之助は、あんずが煎れてくれた茶を旨そうに、口に運ぶのだった。



「殿、聞いておられまするか?」
 小津藩主の側用人である石田俊介利綱は、御国入り後の殿様の様子にほとほと困っていた。どうも、注意力が散漫というか、人の話しを聞いていないのだ。今も何度目かの注意をしていた所だが、富之助がまだ若殿だった時代から、小姓として仕えてきた自分が、まだ知らない姿であった。

「すまん、何だったかな?」
 富之助に扮した余一郎は、どうも人の顔と名前を覚えるのが、苦手であった。
 小津に帰ってからというもの、この石田俊介とかいう奴が、何事にも出しゃばってきて、どうにも具合が悪い。

 江戸を発つ数日前に、富之助から入れ替わらないかと提案を受けた時に、正直驚いたのだが、内心では、面白いと思ってしまった。そこに東姫が、殿様になれば、もてますよ。などと言った事を真に受けてしまった自分が恥ずかしい。

「話しが違うではないか…」
 入れ替わってからというもの、一人の自由な時間などある筈もなく、一刻の時間も惜しむように、知らない人達から、新藩主への挨拶を受けて、それに応える事の繰り返しであった。

「だから、あの野郎は、俺に押し付けやがったんだ」
 弟に対する恨みが、どうも湧いてくるみたいだ。

「殿、何か言われましたか?」
 俊介からの指摘に、何でもないとしか答えられない。これは、早く富之助と交代して、元に戻らないと、心身に異常をきたしそうだ。

「富之助…いや、伊賀崎は、どうしておるか?」
 え?誰でしょうか?ほら、あの細見だが、なかなかに男前な東姫の警護をしていた、あの男じゃ。

「ああ、あの目つきの悪い、髭を生やした嫌な感じの男ですか。それなら、御暇を取りましたから、城にはおりませんよ」

 おい、富之助よ、側近に言われているぞ。心中で笑いが込み上げるが、ん?ひょっとして、ずっとこのままって事はないだろうな…余一郎は、急に心配になってきた。

「殿、その顔は、またもや城を抜け出そうと考えておりまするな?」
 俊介の問いに、余一郎の殿は、首を横に振る。そんな事は、誓ってないぞ。そう言うが、先日も厠に行く振りをして、裏庭から逃げ出そうとした所を見つかった所だった。

「家臣へのお披露目の儀も近いのですから、頼みまするぞ。その時に、いつもの聡明な殿らしく、皆が驚くような大方針でも、お示し下され」
 不審な目で、余一郎を見る俊介の猜疑を逃れるように、必死に考える振りをする。

「方針とな?それなら、一つあるぞ。それはな、年貢米を減らすのじゃ」
 余一郎は、胸を張って、どうだと言わんばかりに、俊介に宣言した。

「殿、小藩中の小藩である我が小津が、年貢を減らしなどしたら、立ちどころに藩の財政が逼迫しますぞ」

 俊介は、呆れたように言葉を返すが、余一郎は、意に介そうとはしない。民の為に成る事をすれば、その内に、藩にも返ってくるさ。その逆も然りじゃ。

 そう言っては、俊介が見ていない隙に、鼻くそを俊介に向けて、飛ばすのを何度か試みたりして、楽しんでいる。

「なるほど、確かに言われてみれば、そうかもしれませぬ」
 俊介は、しきりに頷いていた。さすがは、富之助様。小津に帰るのが、嫌な余り、おかしくなられたのかと、私は心配しておりましたが、さすがは殿です。

 俊介の貶しているのか、誉めているのか、今一良く分からないお世辞を聞きながら、余一郎は、不穏な殿様生活を何とか過ごしていた。

 しかし、この時は、この余一郎の冗談のような話しが、その後に起る重大な事件のきっかけになるとは、この時は、誰にも分かる事ではなかったのであった。

 その頃、長屋にいる富之助がクシュンッと一つくしゃみをする。どうやら、俊介の奴が、城で私の悪態でもついているのだろう。あのいつもの調子でやられると、兄上も苦労しているだろうな。

 兄と側近の姿を思い浮かべて、富之助は、可笑しくなってしまった。そんな富之助の様子を怪訝な顔で、あんずと勘一郎が見ている。それに気付いて、すぐに咳払いで誤魔化す。

「それで、殿様はどうなさるので?」
 勘一郎は、不躾ながらに質問せずにはおられなかった。双子の兄弟の酔狂な遊びというなら、何も言いはしないし、決して口外などしない。だが、

「父の仇を報ずるつもりだ」
 やはり!富之助から出た言葉を聞いて、勘一郎は、顔を手で覆った。

「大殿様は、殺されたという事ですか?」
 富之助は、問いに一つ頷いた。毒殺だと考えていると。毒のような痕跡も怪しい者の目撃も無かったが、あるのは、新野藩より、前日に来たという女中が一人いただけだ。

「兄にもこの事は話しておらぬ」
 殿様がご自分で調べる事はないでしょう。それにどうやって、調べるのですか?もし、敵にご自身の身の上を気付かれたら?危のうございます。

「今の私は、喧嘩仲裁屋の伊賀崎余一郎だ。何の不足があるのだ?」
 この双子は、こういう頑固さだけはそっくりだと、不遜にも勘一郎は思わずにいられなかった。

「だから、あんず殿、しばらくここに厄介になるがいいかい?」
 そう言いながら、あんずに微笑む富之助の笑顔は、余一郎にとても良く似ていると、あんずは思っていた。

「わかりました。殿様の身辺は、私が責任をもって、当らせて頂きます」
 だから、私の父を殺した下手人も見つけて下さいませ。あんずは、頭を深々と下げた。こちらこそ宜しく頼むと、富之助も頭を下げる。それを見ていた勘一郎も、仕方なく頭を下げた。

 翌日から、余り侍に扮した富之助は、精力的に活動し始めた。とは言っても、市井に出て、情報を得ようとするのだが、全くの的外れな上に、慣れない余り侍を演じるので、周囲との関係がギクシャクしないか、傍から見ている勘一郎が、ハラハラする程だ。

 しかし、当の富之助は、民との会話や触れ合いを楽しんでいる様子で、周囲の奇異な目も気にしていない。俺の仕事が増える…勘一郎は、心中でぼやいてしまうが、これが、育ちの違いという物なのだろうと、双子で顔はそっくりでも、まるで性格が違う様子を見守るしかない。

「ほら、余侍様こっちだよ」
 そんな勘一郎を尻目に、あんずは、富之助とすぐに打ち解けて、色々と街を案内して周る役を自然に、買って出ていた。何とも面倒見のよい娘だろう。三人は、高昌寺へ向かっていた。

 富之助が是非にと望んだからだ。余一郎と富之助の叔父に当る正貫和尚に会うのは、実は始めての事であった。

「井上、私が的外れな事をやっていると思っているだろう」
 寺への行く道中、富之助は勘一郎にそんな事を言ってきた。藩主が何故、わざわざこんな事をするのかと。

「私も酔狂でやっているのではない。私は待っているのだ」
 富之助の言葉に、勘一郎は、いえ、拙者は何も…と答えるのが、精いっぱいであった。

「待っているって何を?」
 あんずの質問に、富之助は微笑むだけで、何も答えなかった。
 寺に着くと、和尚は不在であった。急に出て行かれましてと、年老いた寺男が教えてくれた。仕方ない、出直すしかないかと思っていたが、

「客人が居られるので、すぐに戻って来られるでしょう」
 そう言って、三人を寺内に通してくれた。

 通された一室に入ると、戸が開け放たれており、そこから、すっかりと紅葉した木々が室内より一望出来る。見ると、縁側に腰掛けて、茶を飲みながら、庭木を愛でている男がいた。先程言っていた先客であろう。

 勘一郎には、その客の顔に見覚えがあった。あったというよりも、忘れる筈は無い顔である。
「何故、貴様がここにいる?」
 腰かけているのは、香戸晋太郎であったのだ。

 勘一郎は、すぐに、富之助とあんずの前に進み出ると、腰の愛刀に手を伸ばし、構えを取る。室内に入ってきた三人の来客を認めると、晋太郎は、ゆっくりとこちらに視線を向ける。

「貴様らか、寺内で無粋な真似はよせ」
 晋太郎は、そう言うと、悠然として、茶を飲んでいる。そんな晋太郎の様子を見て、勘一郎は、警戒しながらも、刀の柄から、手を放す。

「この寺に何の用がある?」
「ここは、我が家の菩提寺でもある。何ら不思議はなかろう」

 自らした質問に、意外な答えが返ってきたので、勘一郎は絶句してしまい、それ以上何も言えなくなってしまった。

 そんな勘一郎を押しのけるように、富之助は、晋太郎の側へ赴くと、そこに座ったのだ。
 慌てた勘一郎が、我が殿を制止しようとするが、富之助に手で制されてしまった。

「ほう?余一郎かと思えば、違ったな」
 様子の違う余り侍に、晋太郎はそれが富之助だと気づいたようだ。

「私は加戸富之助泰武、余一郎の弟だ」
 富之助は、晋太郎に正対し、いささかも臆する事なく名乗った。初めましてと言うべきだろうか。しかし、それには、いささか変わった関係だとも言えた。

「香戸晋太郎直輔に御座る。お見知りおきを」
 意外にも、晋太郎は富之助に対して、礼に適った挨拶をする。これには、富之助も拍子抜けしてしまった。

「そなたは、一蔵の娘の…たしか…」
「あんずに御座います」
 勘一郎の隣に居たあんずは、晋太郎を睨んでいる。

「義父を殺したのは、貴方様ですか?」
 あんずのその真っ直ぐな眼差しと、真っ直ぐな問いに、少し和やかな空気が流れようとしていた一室に、即座に緊張が走った。

「そうだ、俺が殺した」
「何故、どうして?義父が…」
「我が父と、香渡家の仇だからだ!」
 問い詰めようとするあんずに対して、晋太郎は答える。仇とは?一体どういう事なのだ。富之助も勘一郎の頭にも、疑念が渦巻いた。

「十三年前、お主の義父である山本一蔵も、我が父直之を貶めた者達の仲間だ」
 衝撃的な言葉に、あんずは返す言葉を失ってしまった。

 いや、しかしあの一本気な義父が、そのような悪事に加担するとは思えないし、あんずの実の父親、つまりは、一蔵にとっての息子も、十三年前の事件で亡くしてしまったのだ。様々な疑念と思考が脳内を巡り、とっさに言葉を選べないでいた。

「それで、我が父泰英を殺したのも貴様か?」
 あんずと違って、富之助は冷静であった。そして、鋭い眼差しで、晋太郎の心底を見極めようとしていた。

「殺したかったさ。何せ十三年前の首謀者の一人なのだからな。しかし、俺が殺したんじゃない。口惜しいが…」
 そう言うと、晋太郎は、下唇を噛みしめて黙った。暫くの沈黙の後、御免!と言いながら、席を立つ。そのまま部屋を出ようする。

「おい、まだ話しは終わっちゃいねえぞ」
 勘一郎が止めようとするが、それを富之助が制する。しゃべり過ぎてしまった。それに、まだ足りぬな。

 それが、去り際の晋太郎の言葉であった。どういう意味でしょうか?勘一郎が、顎に手をやり思案していると、
「兄が居らぬからだろう」

 富之助の言葉に、二人は妙に納得してしまった。
「しかし、このまま奴を逃しては…」

 口惜しがる勘一郎に、寺内で斬る訳にもいかぬし、今あ奴を殺せば、様々な謎だけが残される。今はいい。それに、

「それに、香戸晋太郎と決着をつけるのは、余り侍の仕事だ」
 富之助の言葉に、二人は頷いた。

 正貫和尚が帰ってきたのは、晋太郎が去って、間もなくの事であった。
「叔父上様、お初にお目に掛かります」

 礼に適った富之助の挨拶に、和尚は目を細める。どこぞの余り侍とは、似ても似つかぬと笑っている。しかし、話しが晋太郎の件に及ぶと、笑い顔は鳴りを潜めて、すぐに難しい顔を取り戻していた。

「そうか、奴がそう言ったのか」
 話しは、晋太郎が前藩主で、余一郎と富之助の父である亡くなった泰英の事になっていた。晋太郎が言う事件の首謀者とは一体?

「戯言で御座ろう。適当な事を言って、逃げたに違いない」
 勘一郎は、話しに夢中な余り、殿の前で、無意識に胡坐をかいているのに気づいていない。

「あれは、嘘じゃないと思う」
 意外にもそう言うのは、あんずであった。晋太郎はあんずにとって、義父の仇という事が、今日明らかとなったばかりだというのに、まるで晋太郎を庇うかのような言葉だ。

 元来、晋太郎の奴は、一本気な性格で、策を弄するものではないって、
「そう余一郎様が言っていたの」
 あんずは、嬉しそうに余一郎の名を口にする。

「確かに、香渡晋太郎という男は、そういう男ではない。道を誤っているとは言えな。だからこそ…」
 拙僧は、確認しに行っておったのだ。どこに?誰に?和尚の言葉に、すぐに質問が飛ぶ。

「待て待て、田嶋吾郎佐衛門の所じゃ」
 意外な人物の名前が上がったが、富之助には、それだけで、何かを悟った様子だった。

 確か、田嶋が私の傅役となったのは、十三年前でした。
「私が産まれた時からの傅役が、亡くなったので、その後任にと」
 富之助は思い出しながら、ゆっくりと話し始める。傅役になるまでの田嶋は、藩の中枢に居て、確か藩の外交折衝をしていた筈だ。

「拙僧と彼の者は、子供の頃からの古い付き合いであっての」
 あの男の事は良く知っているが、悪事に手を染めるような男ではない。それが例え、お上からの命令であってもな。

「田嶋が何か知っていると?叔父上は、それを聞きに行っていたのですか?」
 富之助の問いに、正貫は首を横に振る。あ奴は何も話そうとせぬ。だが、かえってそれが、

「事件の真相に近づく鍵となるやもしれぬ」
 藩の重大事件を知っていて、吾郎佐が話せない事とは何か?謎は深まるばかりであった。

「拙僧の考えを聞いては下されぬか殿」
 そして、正貫が話し始めた内容は、驚くべき事であった。



「田嶋、大儀である。面を上げよ」
 ははっと少し緊張した面持ちで、吾郎佐は、顔を上げる。無理もない。久方の富之助との再会である。しかも、あの若殿が殿様になっての再会だ。前藩主の急死という悲しみはあったが、傅役を務めた吾郎佐にとって、歓びの方が勝っていると言うのは、不謹慎であろうが、誰にも言えない正直な気持ちでもあった。

「殿もご健勝の様子にて、祝着至極に御座りまする」
 吾郎佐は頭を上げて我が殿の顔を見る。久方ぶりの殿様は、以前よりも精悍な顔をしていると思った。しかし、その殿からの続きの言葉が無い。それどころか、皺くれな自分の顔を見て、ニヤニヤしている様子なのだ。

「殿?」
 吾郎佐は、いささか困惑している。

「分からぬか?分からぬだろうな」
 殿はそれだけ言うと、またニヤニヤを続けている。

「ほれ、俺じゃ、俺が殿じゃ」
 自らの顔を指差しながら、吾郎佐を笑う。その様子に、吾郎佐を始め、控える小姓や、重臣たちも、戸惑いを隠せない。

「ま、まさか?いや、しかし…」
 変わった殿様の様子に、ある疑念が湧き上る。まさか…

「二人だけで話したい」
 殿の命に大広間には、二人だけが残されていた。

「窮屈は嫌いじゃ」
 殿は吾郎佐と二人になった途端に、ドカドカと吾郎佐の元へ、近づくと、袴を脱ぎ捨てて、そのまま座り込んでしまった。だがそんな殿様の様子にも、吾郎佐はもう狼狽えはしていない。

「相変わらずですね余一郎様」
「どうじゃ?俺の殿様振りは」
 悪くはござりませぬが、少々型破りでござりまするな。余一郎が扮している事が分かり、吾郎佐は、いつもの歯に着せぬ口振りを取り戻していた。

「驚いたであろうが?」
 驚ろいたばかりではございませぬ。爺めの寿命が縮む心地でございまするぞ。悪戯にしては、度が過ぎており申しまする。

 吾郎佐は、余一郎に苦言と嫌味を言うが、余一郎はどこ吹く風だ。俺が言い出した事じゃないぞ。富之助の奴が是非にと申すから。

「その富之助様は?殿様は何処に」
 吾郎佐が言うと、余一郎は急に目線を泳がせ始める。それが、分からなくなってしまってな…そう言うのがやっとの様子だ。

 余一郎の様子に、吾郎佐は、自分が城に呼ばれた理由が分かった気がした。
「若を…いや、殿様をお探しせよと?」

「それもある…」
 それもあるが、十三年前の事件の真相を突き止めねばならない。それが、我が父や、あんずの義父ら、死んでいった者たちへの手向けになる。
 
 余一郎の顔が、珍しく真顔に変わっていた。それが、事態を切迫させている事実を吾郎佐に理解させるには、十分であった。

「分かり申した」
 吾郎佐は、そう言うと、余一郎に正対する。私が知る事を話しましょう。それが、何かのお役に立つのであれば…

「実は先刻、正貫和尚からも同様の事を尋ねられたので…」
 いや、これは話しが逸れ申した。正貫和尚の名が出た瞬間、余一郎が露骨に嫌な顔をしたのを吾郎佐は見逃さなかった。

 十三年前、私は貴方様の御父上である泰英様のお側近くにお仕えしており申した。その時に起ったのが、幕府より下賜された公金が、何者かに盗まれた事件でござる。

 参勤交代には、莫大な金がかかった。それは、各藩の持ち出しであった為に、藩の財政を圧迫していた。その為の施策であったから、当たり前であったが、時代を経て行く内に、藩への締め付けだけでは、統制を取る事が難しい事に気づいた幕府は、救済措置として、遠方の藩を対象に、路銀の足しにと、公金を下賜するようになったのであった。

「小藩である小津には、幕府から下賜された五千両は大金で御座った」
 それだけあれば、参勤交代をしても、上手く遣り繰りをすれば、御釣りが出るかもしれない。

「拙者が幕府との交渉に当り申した」
 様々な運動の末、小津藩と新野藩の両藩へと、見事公金を下賜される栄に浴したのだったが、その公金が何者かに盗まれてしまったのである。

「万が一でも、盗まれた事が幕府に漏れたら、御家断絶の危機」
 藩を挙げて、必死の捜索が行われた。疑わしい者は、苛烈な取り調べが行われたが、遂に犯人は見つからなかったのだ。

 そこで、前藩主の泰英は、時の勘定奉行に責任を取らせる形を取った。そして、新野藩では、晋太郎の父が、責任を取らされる事となったのだった。
「そして、あんずの父も、それに巻き込まれたのだな」

 余一郎の問いに、吾郎佐は、一つ頷いた。泰英様は、横領犯を仕立てる事で、この難を切り抜ける事に致しました。あくまで、藩の金を横領した犯人として。

「私はその事を泰英様に諫言致しました」
 しかし、その事で殿の逆鱗に触れて、それまでのお役を解かれてしまいました。しかし、ほどなくして、殿の怒りも治まったのか、富之助様の傅役を任されたので御座いまする。

 その後、失われた公金の穴埋めに、民に重税が課せられたのである。これが、吾郎佐が知る十三年前の全てであった。

「相分かった。爺よ、よくぞ申してくれた。礼を言うぞ」
 謹厳実直な吾郎佐にとって、十三年前の事件を他者に漏らす事は、憚れる事であっただろう。殿様を非難する事に繋がりかねないからだ。だが、事件の事を知る数少ない者として、これ以上犠牲者を増やす訳にもいかなかった。それが、余一郎と正貫に話した理由でもあった。

 それが分かっているからこそ、余一郎は、柄にもなく、素直に礼を述べたのだろう。
「爺からの話しを聞いて、俺がやれる事は一つじゃ。田嶋、大儀であった」
「ははっ」

 それから数日後である。小津藩の主だった家臣たちは、城の大広間に集められていた。今日は、新藩主のお披露目の日である。この大広間には、重臣一同を始め、田嶋吾郎佐も石田俊介の姿もあった。下段の間には、井上勘一郎の姿も見える。

 家臣一同が、殿様となって、上段に鎮座する余一郎の言葉を待っている。
「私が藩主になるに当たり、皆に一つ言っておきたい事がある」

 殿様からの言葉に、皆平伏している。余一郎の言葉が続く。
「十三年前より続く重税に、小津の民は、苦しんでいる。よって、これよりは、年貢米を減らし、民の心を安んずる事を旨とする」

 余一郎の言葉に、家臣達がざわつき始める。無理もない。今までの政策の逆をやると、若い殿様が急に言い始めたのだから。

「殿、それでは、小藩である我が藩の財政は、すぐに逼迫するのは必定に御座いまする」
 重臣の一人が、余一郎を小馬鹿にするような言い方で反論する。まるで、経験の浅い殿様を窘めるような口振りだ。それを皮切りに、口ぐちに反対意見が出る始末であった。

「古来より、税を減らして滅んだ国は無し。反対に重税で滅びた国はいくらでもあるぞ」
 余一郎は、得意顔だ。これは、正貫和尚からの受け売りであった。しかし、余一郎が思う、この世に生きる為政者の有るべき姿だと思っていた。

「この儀、如何に?」
 余一郎の迫力ある大喝に、大広間に再び静寂が訪れていた。伊賀崎余一郎一世一代の大芝居である。

 その姿を石田俊介は、本当に言いやがったあのバカ殿がという思いで聞いており、田嶋吾郎佐は、余一郎をどこか誇らしく感じて見守っていた。一番下段の間で、顔を上げる事も許されない身分の井上勘一郎は、心の中で、悪友の大いなる悪戯を、笑い転げたくなる気持ちを堪えるのに、必死な様子であった。
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