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エルツ王国の王都アルトハイム、その一等地に聳え立つ壮麗な屋敷。
かつてはバーンシュタイン伯爵邸と呼ばれたその場所は、今やアテルイと、彼女を慕う元ミラグロ王国の貴族たちの新たな城となっていた。
朝は、小鳥のさえずりと共に始まる。
腕利きの庭師が手入れした庭園には色とりどりの花が咲き乱れ、元宮廷魔術師団のフローラがかけた魔法によって、屋敷の中は常に快適な温度と清浄な空気が保たれている。
警備は、元近衛騎士団長のグレイフォード率いる騎士たちが完璧にこなし、蟻一匹侵入する隙もない。
食事は、王宮の料理長以上の腕を持つ侍女イゾルテが、毎日趣向を凝らしたメニューを用意する。
それは、まるで夢のような生活だった。
ミラグロ王国にいた頃よりも、遥かに穏やかで、満ち足りた日々。
元貴族たちは、敬愛するアテルイに仕える喜びに浸り、それぞれの能力を遺憾無く発揮していた。
そんな、ある晴れた日の午後。
庭園を見渡せる優雅なテラスで、アテルイは極上の紅茶を一口飲むと、ぽつりと呟いた。
「……わたくし、少し暇ですわ」
その一言は、穏やかな水面に投じられた小石のように、静かな波紋を広げた。
その場に控えていたイゾルテは、完璧な笑みを崩さない。
だが、近くで庭の手入れをしていた元庭師の耳にその言葉が入った瞬間、彼は持っていた剪定ばさみをカシャンと落とした。
その音を合図にしたかのように、屋敷中に緊張が走る。
アテルイ様が、暇。
アテルイ様が、退屈しておられる。
それは、彼女に仕える者たちにとって、国家の非常事態宣言にも等しい、一大事だった。
その日の夕食後、屋敷の大会議室に、主要な元貴族たちが全員集められた。
招集したのは、元財務大臣のケインズである。
「皆様、お聞きになりましたかな。アテルイ様が、『暇だ』と仰せられたことを」
ケインズの重々しい言葉に、その場にいる全員が神妙な顔で頷く。
「由々しき事態だ。我々の不徳の致すところ。アテルイ様に、一瞬たりとも退屈な思いをさせてはならないというのに」
グレイフォードが、悔しそうに拳を握りしめる。
「何か、アテルイ様が夢中になられるような娯楽をご用意するべきですわ。例えば、詩の朗読会や、小規模な演奏会などはどうでしょう?」
フローラが提案するが、ケインズはゆっくりと首を振った。
「いや、それでは根本的な解決にはなりますまい。アテルイ様は、ただ受け身で楽しむだけでは、すぐにお飽きになってしまうお方だ」
「では、どうすれば……」
会議は、紛糾した。
乗馬、狩り、観劇、カードゲーム……様々な案が出されたが、どれもアテルイを心から満足させられるとは思えなかった。
議論が行き詰まったその時、会議室の扉が静かに開き、当のアテルイ本人がひょっこりと顔を覗かせた。
「皆様、こんなに集まって、何のお話をしているのかしら?」
「ア、アテルイ様!」
元貴族たちは、慌てて椅子から立ち上がり、頭を下げる。
「まあ、そんなに畏まらないでくださいな。わたくしも、混ぜていただいてもよろしくて?」
アテルイは、にこにこと会議室に入ってくると、空いていた席にちょこんと座った。
そして、テーブルの上に広げられた議題のメモを見て、不思議そうに首を傾げる。
『アテルイ様を退屈させないための方策』
「まあ、わたくしのために?皆様、本当にわたくしのことが大好きですのね」
その、どこまでもポジティブな解釈に、元貴族たちは皆、胸を熱くする。
このお方のためならば、何でもできる、と。
「それで、皆様。わたくし、先ほどからずっと考えていたのですけれど」
アテルイは、人差し指を自分の頬に当てながら、言った。
「ただお屋敷で過ごしているだけでは、もったいないですわ。せっかくこんなに素敵な街に来たのですもの。何か、こう……わたくしたちの手で、新しいことを始めてみるのはどうかしら?」
新しいこと。
その言葉に、全員の視線がアテルイに集中する。
彼女の退屈を紛らわすための会議は、思いもよらない方向へと、大きく舵を切ろうとしていた。
かつてはバーンシュタイン伯爵邸と呼ばれたその場所は、今やアテルイと、彼女を慕う元ミラグロ王国の貴族たちの新たな城となっていた。
朝は、小鳥のさえずりと共に始まる。
腕利きの庭師が手入れした庭園には色とりどりの花が咲き乱れ、元宮廷魔術師団のフローラがかけた魔法によって、屋敷の中は常に快適な温度と清浄な空気が保たれている。
警備は、元近衛騎士団長のグレイフォード率いる騎士たちが完璧にこなし、蟻一匹侵入する隙もない。
食事は、王宮の料理長以上の腕を持つ侍女イゾルテが、毎日趣向を凝らしたメニューを用意する。
それは、まるで夢のような生活だった。
ミラグロ王国にいた頃よりも、遥かに穏やかで、満ち足りた日々。
元貴族たちは、敬愛するアテルイに仕える喜びに浸り、それぞれの能力を遺憾無く発揮していた。
そんな、ある晴れた日の午後。
庭園を見渡せる優雅なテラスで、アテルイは極上の紅茶を一口飲むと、ぽつりと呟いた。
「……わたくし、少し暇ですわ」
その一言は、穏やかな水面に投じられた小石のように、静かな波紋を広げた。
その場に控えていたイゾルテは、完璧な笑みを崩さない。
だが、近くで庭の手入れをしていた元庭師の耳にその言葉が入った瞬間、彼は持っていた剪定ばさみをカシャンと落とした。
その音を合図にしたかのように、屋敷中に緊張が走る。
アテルイ様が、暇。
アテルイ様が、退屈しておられる。
それは、彼女に仕える者たちにとって、国家の非常事態宣言にも等しい、一大事だった。
その日の夕食後、屋敷の大会議室に、主要な元貴族たちが全員集められた。
招集したのは、元財務大臣のケインズである。
「皆様、お聞きになりましたかな。アテルイ様が、『暇だ』と仰せられたことを」
ケインズの重々しい言葉に、その場にいる全員が神妙な顔で頷く。
「由々しき事態だ。我々の不徳の致すところ。アテルイ様に、一瞬たりとも退屈な思いをさせてはならないというのに」
グレイフォードが、悔しそうに拳を握りしめる。
「何か、アテルイ様が夢中になられるような娯楽をご用意するべきですわ。例えば、詩の朗読会や、小規模な演奏会などはどうでしょう?」
フローラが提案するが、ケインズはゆっくりと首を振った。
「いや、それでは根本的な解決にはなりますまい。アテルイ様は、ただ受け身で楽しむだけでは、すぐにお飽きになってしまうお方だ」
「では、どうすれば……」
会議は、紛糾した。
乗馬、狩り、観劇、カードゲーム……様々な案が出されたが、どれもアテルイを心から満足させられるとは思えなかった。
議論が行き詰まったその時、会議室の扉が静かに開き、当のアテルイ本人がひょっこりと顔を覗かせた。
「皆様、こんなに集まって、何のお話をしているのかしら?」
「ア、アテルイ様!」
元貴族たちは、慌てて椅子から立ち上がり、頭を下げる。
「まあ、そんなに畏まらないでくださいな。わたくしも、混ぜていただいてもよろしくて?」
アテルイは、にこにこと会議室に入ってくると、空いていた席にちょこんと座った。
そして、テーブルの上に広げられた議題のメモを見て、不思議そうに首を傾げる。
『アテルイ様を退屈させないための方策』
「まあ、わたくしのために?皆様、本当にわたくしのことが大好きですのね」
その、どこまでもポジティブな解釈に、元貴族たちは皆、胸を熱くする。
このお方のためならば、何でもできる、と。
「それで、皆様。わたくし、先ほどからずっと考えていたのですけれど」
アテルイは、人差し指を自分の頬に当てながら、言った。
「ただお屋敷で過ごしているだけでは、もったいないですわ。せっかくこんなに素敵な街に来たのですもの。何か、こう……わたくしたちの手で、新しいことを始めてみるのはどうかしら?」
新しいこと。
その言葉に、全員の視線がアテルイに集中する。
彼女の退屈を紛らわすための会議は、思いもよらない方向へと、大きく舵を切ろうとしていた。
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