裏切りの騎士は悪役令嬢を溺愛していた

桜井ことり

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「……っ、ローレンス、放して! 重いわよ、私!」

アテナは真っ赤な顔をして、自分を抱き上げるローレンスの胸板を叩いた。

しかし、鋼のような筋肉に阻まれ、彼女の拳は何の抵抗にもならない。
ローレンスは涼しい顔で、追っ手の衛兵を鋭い一蹴りで吹き飛ばした。

「重いなどと、冗談を。羽毛よりも軽いですよ。……もっとしっかり食べていただかないと、私の腕が余ってしまいますね」

「そんな余裕を言っている場合!? 後ろから近衛騎士団が来ているわ!」

「ああ、あのアリ共のことですか。気になさらないでください」

ローレンスは足を止めることなく、王城の長い回廊を突き進む。
背後からは、鎧の触れ合う音と「反逆者を逃すな!」という怒号が追いかけてくる。

だが、ローレンスの足取りは、まるで庭園を散歩しているかのように軽やかだった。

「止まれ! ローレンス卿、正気か! その女を渡せ!」

前方の角から、十人ほどの重装騎士が立ちふさがった。
かつてローレンスの部下だった者たちだ。

彼らの顔には、尊敬していた上司に向けられる困惑と恐怖が混じっている。
ローレンスは薄く笑い、アテナを落とさないよう抱き直した。

「悪いが、道を開けてくれないか。アテナ様が、この城の淀んだ空気に中てられて気分を害されている」

「何を……! 力ずくでも止めるぞ!」

「……やめなさい。貴方たちでは、彼に殺されるわ!」

アテナが叫んだが、騎士たちは槍を構えて突っ込んできた。

ローレンスは溜息をつくと、片手だけで腰の剣を抜き放つ。
瞬き一つの間に、銀光が閃いた。

「――がはっ!?」

斬撃ではない。峰打ちの一閃。
それだけで、十人の騎士たちは糸が切れた人形のように床に転がった。

「ローレンス、殺してはいないわね……?」

「ええ。貴女の慈悲深さを汚したくはありませんから。……ですが、次に来る奴らが無傷で済む保証は致しかねますよ」

ローレンスは剣を鞘に収めることなく、そのまま城のバルコニーへと飛び出した。
地上まではかなりの高さがあるが、彼は躊躇なく手すりに足をかける。

「ちょっと、待って。まさかここから飛ぶつもり!?」

「アテナ様。私を信じていただけますか?」

至近距離で見つめられる、深い琥珀色の瞳。
その中にあるのは、狂気にも似た深い献身だった。

アテナは思わず彼の首に腕を回し、顔を胸に埋めた。

「……信じるしかないじゃない、馬鹿」

「ふふ、最高の答えをありがとうございます」

ローレンスが地を蹴った。
夜風がアテナの髪を激しくなびかせ、浮遊感が全身を包む。

衝撃に備えて身を硬くしたが、着地は驚くほど静かだった。
ローレンスは膝のクッションを使い、音もなく城外の庭園へと降り立った。

「……降りられたの?」

「はい。さあ、馬を用意してあります。王都の門が閉じられる前に、一気に駆け抜けますよ」

城壁の影に繋がれていた漆黒の軍馬に、ローレンスはアテナを跨がせた。
そして、自分もその背後に乗り込み、彼女を後ろから包み込むように手綱を握る。

「……ローレンス、本当にいいのね? 貴方は、この国の英雄だった。私のせいで、全てを失うのよ」

馬が駆け出す直前、アテナは消え入るような声で問いかけた。
ローレンスは彼女の耳元に唇を寄せ、熱い吐息と共に囁く。

「全てを失う? いいえ、逆ですよ。私は今日、ようやく『世界の全て』を手に入れたのです」

「世界……?」

「私にとって、この国も、名誉も、命すらも。アテナ様、貴女の指先一本ほどの価値もありません」

「……っ」

「これからは、私の執着に覚悟しておいてくださいね。二度と、貴女を誰にも渡さない」

馬が爆発的な速さで夜の闇へと駆け出した。
遠ざかっていく王城の灯りを見つめながら、アテナは己の心臓の鼓動が、恐怖ではなく、かつてない高揚で跳ねていることに気づいてしまった。

裏切りの騎士と、追放された悪役令嬢。
二人の逃避行は、甘い香りを漂わせながら始まったばかりだった。
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