裏切りの騎士は悪役令嬢を溺愛していた

桜井ことり

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王都の騒乱が遠ざかり、夜の帳が周囲を深い闇で包み込んでいた。

軍馬の蹄の音だけが、静まり返った街道に規則正しく響いている。

アテナはローレンスの腕の中にすっぽりと収まったまま、流れていく景色をぼんやりと眺めていた。

「……アテナ様、寒くはありませんか?」

耳元で囁かれる低い声。
返事をする代わりに、アテナは小さく身震いをした。

夜風は鋭く、薄いドレス一枚の身には堪える。
それを察したローレンスは、手綱を片手で操りながら、自分の漆黒の外套を脱いでアテナの肩にかけた。

「あ……。貴方が寒くなってしまうわ、ローレンス」

「私は鍛え方が違います。それに、貴女を冷えさせるくらいなら、己の身を焼いた方がマシです」

「……相変わらず、大げさなんだから」

アテナは彼の外套をぎゅっと握りしめた。
騎士団長が身につけていたそれは、彼の体温が残っていて驚くほど温かい。

ふと、自分が公爵令嬢という身分を失った実感が、遅れてやってきた。

「ねえ、ローレンス。私はもう、公爵家の娘ではないのよ」

「ええ、存じております」

「家族も、名誉も、贅沢な暮らしも……。何もかも失って、今はただの追放者だわ。私と一緒にいても、貴方には何の利益もないのよ?」

「利益、ですか。アテナ様は私を商人のように思っていらっしゃるのですか?」

ローレンスの腕に、少しだけ力がこもる。
彼は馬を森の陰にある小さな開けた場所へと導き、そこで足を止めた。

「ここで少し休みましょう。馬も限界です」

ローレンスは先に馬から降りると、アテナを丁寧に地面へと下ろした。
まるで、壊れやすいガラス細工を扱うかのような手つきだ。

「……そんなに過保護にしなくても、一人で降りられるわ」

「私の趣味ですから、お気になさらず。……さあ、火を起こします」

手際よく枯れ枝を集め、魔法具で火を灯すローレンス。
瞬く間に小さな焚き火が二人を照らし出し、冷えた空気を和らげた。

アテナは火の傍に座り込み、膝を抱えた。
炎の揺らめきを見つめていると、城での屈辱が蘇り、視界が滲んでくる。

「……リリアの言うことを、みんな信じたわ。私が何を言っても、誰も耳を貸さなかった」

「彼らが愚かだっただけのことです」

「お父様もお母様も、私を見捨てたのよ。私という人間を信じてくれる人は、世界に一人もいないと思っていたわ」

「ここに、います」

ローレンスはアテナの前に膝をつき、彼女の濡れた瞳を覗き込んだ。

「私は貴女を信じています。貴女が誰かを傷つけるような方ではないことも、誰よりも気高く、優しい心を持っていることも」

「どうして……。どうして、そんな風に言ってくれるの? 貴方と私は、ただの主従だったはずでしょう?」

ローレンスは自嘲気味に、ふっと笑った。

「主従、ですか。……アテナ様、貴女は覚えていらっしゃらないかもしれませんが、私はあの日から、貴女に魂を縛られているのです」

「あの日……?」

「私がまだ、名もなき見習い騎士だった頃。大雨の中、怪我をした野良犬に傘を差し出し、泥まみれになりながら手当てをしていた少女がいました」

アテナはハッとしたように顔を上げた。
幼い頃の記憶の断片が、脳裏を掠める。

「……あれは、貴方だったの?」

「いいえ、私はそれを見ていた騎士です。誰も見ていない場所で、あんなにも慈愛に満ちた表情を浮かべる貴女を。……その瞬間、私の命は貴女のものになりました」

「そんな……昔の話じゃない」

「私にとっては昨日のことのようです。ですから、追放など恐れるに足りません。むしろ感謝しているほどですよ」

「感謝?」

ローレンスはアテナの手を取り、手の甲に熱い接吻を贈った。

「ようやく、誰にも邪魔されず、貴女を私のものにできるのですから。王家も、公爵家も、もう貴女を縛る鎖にはなれない」

「ローレンス……貴方、やっぱりどこかおかしいわ」

「愛ゆえの狂気と呼んでいただけますか?」

琥珀色の瞳に宿る、深く暗い情熱。
アテナは恐怖を感じるべきだったが、そのあまりにも一途な重さに、凍てついていた心が少しずつ溶かされていくのを感じていた。

「……もう、勝手にしなさい」

「はい。仰せのままに、一生勝手にさせていただきます」

夜の森に、小さな笑い声と、薪の爆ぜる音が響く。
これからの不安は消えないが、この強すぎる騎士の腕の中にいる限り、自分は守られているのだと、アテナは確信した。
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