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卒業パーティーから一夜明けた、ヴァン・クロムウェル公爵邸。
エルザは私室で、淡々と旅支度を整えていた。
「お嬢様、本当によろしいのですか? 旦那様は、無理に家を出る必要はないとおっしゃっておりますが」
長年彼女に仕えてきた侍女のアンが、心配そうに尋ねる。
「ええ。お父様には感謝しているけれど、あんな無能な王子がいる国に留まるメリットがないわ。それに、契約書は昨夜のうちに受理させたもの」
エルザは手元のトランクに、最低限の魔導具と書類を詰め込んだ。
「契約書……。あの、王太子殿下に無理やりサインさせた、婚約解消に伴う賠償の件ですか?」
「無理やりではないわ。彼はあのアドレナリンが出まくった状態で、『これにサインすれば自由になれるぞ!』と自らペンを取ったのよ。……救いようのない馬鹿ね」
その契約書には、エルザへの多額の慰謝料に加え、彼女がこれまで王家に無償で提供してきた「魔力回路の維持管理」および「外交ルートの譲渡」の停止が明記されている。
「さあ、アン。貴女も一緒に行くのでしょう? 準備を急いで」
「はい! どこまでもついて参りますわ!」
主従が軽快に屋敷を後にする頃、王宮の執務室では、悲鳴のような声が上がっていた。
「……なんだ、これは! この書類の山は一体どういうことだ!」
アルフォンスは、机の上に積み上げられた膨大な羊皮紙を前に、顔を引き攣らせていた。
「殿下、それは本日中に裁可をいただかなければならない、隣国との通商条約の更新書類です」
事務官が、冷や汗を拭いながら告げる。
「そんなものはエルザが……。あ、いや、あいつにやらせればいいだろう!」
「……殿下、お忘れですか? 昨夜、殿下は公衆の面前でエルザ様を断罪し、婚約を破棄されました。エルザ様はすでに王宮への立ち入りを禁じられております」
アルフォンスの手が止まった。
「な……。だが、あいつは未来の王妃教育として、これらを処理するのが義務だったはずだ!」
「それは『婚約者』であったからこその義務です。今の彼女は、ただの公爵令嬢……いえ、すでに国境へ向かわれたとの報告もございます」
「国境だと!? 勝手な真似を!」
アルフォンスが怒鳴る中、背後の扉が開き、ミリアが華やかなドレスで入ってきた。
「アルフォンス様ぁ、お疲れ様です。そんな難しい顔をしていないで、一緒にお庭を散歩しませんか?」
「ミリア……。ああ、そうだな。……いや、待て。この書類、君なら少しは分かるか?」
縋るような目で差し出された書類を、ミリアは一瞥して首を傾げた。
「えぇ? 何ですか、この難しい数字。私、こういうの苦手なんですぅ。エルザ様って、こんな可愛くないことばかりしていたんですね」
ミリアの屈託のない笑顔に、アルフォンスは初めて、胃の辺りに重苦しい不快感を覚えた。
「……おい、事務官。エルザがやっていた時、彼女はどうやってこれを処理していたんだ?」
「エルザ様は、隣国の担当者と個人的な人脈を築いておられました。彼女のサイン一つで、関税の免除や優先的な取引が決まっていたのです。……今朝、その全てのルートが『閉鎖』されたとの通知が来ました」
事務官の言葉に、アルフォンスの顔から血の気が引いていく。
「閉鎖……? どういうことだ。私が王太子だぞ?」
「隣国の担当者はこう言っております。『私たちはエルザ・ヴァン・クロムウェルという個人と取引をしていたのだ。彼女がいないなら、この国と関わる理由はない』と」
王務の重圧が、エルザという「盾」を失った王子の肩に、容赦なくのしかかり始めた。
一方、国境付近。
馬車の中で窓の外を眺めていたエルザは、ふっと優雅に微笑んだ。
「外野がいなくなって、ようやく静かになったと思ったら……。次は私の価値を、嫌というほど分からせてあげる番ね」
彼女を乗せた馬車は、迷うことなく隣国への門をくぐっていった。
エルザは私室で、淡々と旅支度を整えていた。
「お嬢様、本当によろしいのですか? 旦那様は、無理に家を出る必要はないとおっしゃっておりますが」
長年彼女に仕えてきた侍女のアンが、心配そうに尋ねる。
「ええ。お父様には感謝しているけれど、あんな無能な王子がいる国に留まるメリットがないわ。それに、契約書は昨夜のうちに受理させたもの」
エルザは手元のトランクに、最低限の魔導具と書類を詰め込んだ。
「契約書……。あの、王太子殿下に無理やりサインさせた、婚約解消に伴う賠償の件ですか?」
「無理やりではないわ。彼はあのアドレナリンが出まくった状態で、『これにサインすれば自由になれるぞ!』と自らペンを取ったのよ。……救いようのない馬鹿ね」
その契約書には、エルザへの多額の慰謝料に加え、彼女がこれまで王家に無償で提供してきた「魔力回路の維持管理」および「外交ルートの譲渡」の停止が明記されている。
「さあ、アン。貴女も一緒に行くのでしょう? 準備を急いで」
「はい! どこまでもついて参りますわ!」
主従が軽快に屋敷を後にする頃、王宮の執務室では、悲鳴のような声が上がっていた。
「……なんだ、これは! この書類の山は一体どういうことだ!」
アルフォンスは、机の上に積み上げられた膨大な羊皮紙を前に、顔を引き攣らせていた。
「殿下、それは本日中に裁可をいただかなければならない、隣国との通商条約の更新書類です」
事務官が、冷や汗を拭いながら告げる。
「そんなものはエルザが……。あ、いや、あいつにやらせればいいだろう!」
「……殿下、お忘れですか? 昨夜、殿下は公衆の面前でエルザ様を断罪し、婚約を破棄されました。エルザ様はすでに王宮への立ち入りを禁じられております」
アルフォンスの手が止まった。
「な……。だが、あいつは未来の王妃教育として、これらを処理するのが義務だったはずだ!」
「それは『婚約者』であったからこその義務です。今の彼女は、ただの公爵令嬢……いえ、すでに国境へ向かわれたとの報告もございます」
「国境だと!? 勝手な真似を!」
アルフォンスが怒鳴る中、背後の扉が開き、ミリアが華やかなドレスで入ってきた。
「アルフォンス様ぁ、お疲れ様です。そんな難しい顔をしていないで、一緒にお庭を散歩しませんか?」
「ミリア……。ああ、そうだな。……いや、待て。この書類、君なら少しは分かるか?」
縋るような目で差し出された書類を、ミリアは一瞥して首を傾げた。
「えぇ? 何ですか、この難しい数字。私、こういうの苦手なんですぅ。エルザ様って、こんな可愛くないことばかりしていたんですね」
ミリアの屈託のない笑顔に、アルフォンスは初めて、胃の辺りに重苦しい不快感を覚えた。
「……おい、事務官。エルザがやっていた時、彼女はどうやってこれを処理していたんだ?」
「エルザ様は、隣国の担当者と個人的な人脈を築いておられました。彼女のサイン一つで、関税の免除や優先的な取引が決まっていたのです。……今朝、その全てのルートが『閉鎖』されたとの通知が来ました」
事務官の言葉に、アルフォンスの顔から血の気が引いていく。
「閉鎖……? どういうことだ。私が王太子だぞ?」
「隣国の担当者はこう言っております。『私たちはエルザ・ヴァン・クロムウェルという個人と取引をしていたのだ。彼女がいないなら、この国と関わる理由はない』と」
王務の重圧が、エルザという「盾」を失った王子の肩に、容赦なくのしかかり始めた。
一方、国境付近。
馬車の中で窓の外を眺めていたエルザは、ふっと優雅に微笑んだ。
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彼女を乗せた馬車は、迷うことなく隣国への門をくぐっていった。
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