私の婚約を母上が勝手に破棄してしまいました

桜井ことり

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3話

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「はぁ……」

王宮へと向かう馬車の中、フウカは何度目になるか分からないため息をついた。
豪華な装飾が施された車内も、窓から見える王都の美しい街並みも、今の彼女の心には少しも響かない。

「何をそんなに溜息ばかりついている。幸せが逃げるぞ」

対面に座る母、フリンダが静かに言った。
今日も今日とて、その美貌は見る者を威圧するほどに冷たく、完璧だ。

「お母様が、ご自分でなさったことの結果でしょう……?」

フウカがじろりと睨むと、フリンダは悪びれるでもなく、こともなげに言い放つ。

「婚約破棄の報告なのだろう。事実をありのままに伝えればいいだけだ。もし陛下が何か文句を言うようなら、私が黙らせる」

「お願いですから、事を荒立てないでくださいまし! ただでさえ、お母様が一方的に破棄なさったのですから……」

「双方合意の上だ。念書もある」

「脅迫して書かせた念書に、どれほどの効力があるというのですか!」

「効力はある。現にあの男は震えながらサインした」

全く会話が噛み合わない。
フウカは早々に母との対話を諦め、再び窓の外に視線を戻した。
これから国王陛下に拝謁し、公爵家の娘として、自らの婚約が破談になったことを報告しなければならない。
考えただけで、胃が重くなる思いだった。


***


結論から言うと、国王陛下への謁見は、驚くほどあっさりと終わった。

「――という次第で、この度のディルト子爵家との縁談、解消と相成りました。私の監督不行き届きにより、陛下並びに王家にご心配をおかけしましたこと、誠に申し訳ございません」

父であるロイゼフ公爵の言葉に、玉座に座る国王は鷹揚に頷いた。

「うむ。ロイゼフ公。フリンダ夫人。面を上げよ」

「はっ」

「事情は理解した。フリンダ夫人の下した判断であれば、それが最善だったのであろう。余は其の方を信頼している。この件、これ以上問題にはせぬ」

「陛下の寛大なるご配慮に、感謝の念に堪えません」

あまりにあっけない幕切れに、フウカは内心で拍子抜けしていた。
(お母様への信頼が、絶対的なのね……)
それだけ、母がこれまで王家の『掃除屋』として積み上げてきた功績と信頼が絶大だということなのだろう。
何はともあれ、一番の懸案事項が片付き、フウカは心の底から安堵のため息を漏らした。

謁見が終わり、控えの間へ戻る途中、フリンダがぽつりと言った。

「少し、庭園を歩いていくか」

「え? よろしいのですか?」

「ああ。ここの警備体制を見ておきたい」

「……お母様、お願いですから、お仕事のことはお忘れになってください」

目的はともかく、母からの提案は意外で、少し嬉しかった。
王宮の庭園は、王国一と名高い名園だ。四季折々の花が咲き乱れ、その美しさは訪れる者の心を癒すと評判だった。

手入れの行き届いた庭園は、評判通りの美しさだった。
色とりどりの薔薇が甘い香りを漂わせ、噴水がキラキラと陽光を反射している。
重く沈んでいたフウカの心も、少しだけ軽くなるのを感じた。

「綺麗……」

思わず、感嘆の声が漏れる。
その時だった。
幾重にも重なった薔薇のアーチの、その影。
木漏れ日が降り注ぐ木陰のベンチに、何かがいるのが見えた。

銀色だった。
陽の光を浴びて、絹のように輝く、美しい銀色の毛並み。
大きな体躯をしなやかに横たえ、心地よさそうに微睡んでいる。

(……犬、かしら)

大きな、優雅な猟犬のようだった。
最近のフウカは、少々、人間不信気味だった。
元婚約者であるフリスクの下品な視線。品定めするような貴族たちの目。
そういうものに、疲れ果てていた。

だからだろうか。
その美しい生き物を見た瞬間、フウカの心はたまらない愛おしさで満たされた。
警戒心など、どこかへ消え失せていた。
ただ、触れたい。そのふわふわの毛並みに、この手で触れて、癒されたい。

フウカは、吸い寄せられるように、その銀色の生き物へと駆け寄っていた。

「わあ……!」

近づいてみると、その毛並みは想像以上に美しかった。
月の光をそのまま紡いだかのような、幻想的な銀色。

「なんて綺麗……。そうよ、あなたはポチよ! 今日から、あなたの名前はポチ!」

フウカはほとんど無意識のうちに、そう宣言していた。
そして、何の躊躇もなく、その銀色の頭へと手を伸ばす。

さらり、と指の間を滑る、極上の感触。
それは犬の毛というより、もっと繊細で、柔らかなものだった。

(気持ちいい……)

フウカはうっとりと目を細め、その頭を優しく撫で始めた。

「ポチ。いい子ね、ポチ。あなたは、私をいやらしい目で見たりしないわよね? 家柄や財産で、私を値踏みしたりしないわよね?」

日頃、胸の内に溜め込んでいた澱(おり)のようなものが、言葉となって溢れ出てくる。

「そうよね。あなたは優しい子だもの。私、あなたのこと、大好きよ、ポチ」

ぎゅっ、と。
フウカは衝動のままに、その大きな体に抱きついた。
銀色の髪に顔を埋め、すりすりと頬を寄せる。


その時、第一王子ポチ・グロリア?は、人生で最大の衝撃に見舞われていた。

(……なんなんだ、この状況は)

公務を抜け出し、お気に入りの休憩場所であるこのベンチで、つかの間の休息を取っていたはずだった。
完璧な王子を演じることに、少しだけ疲れていた。
ここにいれば、誰にも見つからない。そう、思っていたのに。

突然、どこからともなく絶世の美少女が現れた。
艶やかな黒髪、透き通るような白い肌。人形のように整った顔立ち。
噂に名高い『氷の人形』、フウカ・ロイゼフ嬢。
ポチは、彼女が息をのむほど美しいことを知っていたが、実物は噂を遥かに凌駕していた。

その彼女が、自分を見るなり駆け寄り、あろうことか、

『あなたは今日からポチよ!』

と、高らかに宣言したのだ。

(ポチ……? 私のことか……?)


訳が分からないまま硬直していると、彼女は遠慮なく自分の頭を撫で始めた。
そして今、そのか細い腕で、ぎゅっと抱きしめられている。
首筋にかかる、甘い吐息。耳元で囁かれる、優しい言葉。

「ポチ……」

冷静沈着で知られる王子の頭脳は、完全に処理能力の限界を超えていた。
正体を明かさなければ。王子であると、告げなければ。
そう思うのに、体が動かない。声が出ない。
それどころか、心臓が、今までに経験したことのないほどの速度で、激しく脈打っている。

(美しい……)

腕の中の少女は、儚く、可憐で、そしてあまりに無防備だった。
その憂いを帯びた瞳に、心を射抜かれてしまった。
これが、一目惚れというものか。

ポチ・グロリア?は、正体を名乗るタイミングを完全に逸し、ただただ絶世の美少女に『ポチ』と呼ばれ、抱きしめられ続けるのだった。

「フウカ。何をしている。そろそろ帰るぞ」

遠くから、母の静かな声が聞こえてきた。
フウカは名残惜しそうに「ポチ」から体を離すと、声のした方へ振り返った。

「はーい、お母様! 今、行きます!」
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