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19話
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父に、母の本当の気持ちを伝えてから、数日が過ぎた。
ロイゼフ公爵邸を覆っていた、重く、よどんだ空気は、まだ完全には晴れてはいない。
けれど、確かな変化の兆しは、あった。
父、トウカは、物思いに耽る時間が増えた。
しかし、その表情は、以前のような、自己嫌悪と絶望に満ちたものではなかった。
何かを、必死で考え、そして、これから自分がどうすべきかを、模索しているかのような、前向きな苦悩の色をしていた。
時折、母フリンダの姿を、遠くから、盗み見るように見つめている。その眼差しは、ひどく複雑で、けれど、どこか、幼い子供が母を求めるような、純粋な光を宿していた。
母は、相変わらず、何も変わらない。
けれど、そんな父の変化に、気づいていないはずはなかった。
彼女は、何も言わない。ただ、いつも通り、凛として、そこにいる。
夫が、自らの力で、答えを見つけ出すのを、静かに、そして、辛抱強く、待っているかのようだった。
フウカは、そんな両親の姿を、静かに見守っていた。
焦りはなかった。
時間がかかるかもしれない。けれど、きっと、いつか、二人は、本当の意味で、再び手を取り合うことができるだろう。
ポチが言ってくれたように、一歩ずつ、進んでいけばいいのだ。
そのポチとの関係もまた、穏やかに、そして、深く、育まれていた。
今や、二人が恋仲であることは、王宮の誰もが知る事実となっていた。
好奇の視線は、いつしか、祝福と羨望のそれへと変わり、二人が並んで庭園を歩いているだけで、周囲には、温かい空気が流れるほどだった。
侍女たちの間では、「いつ、正式なご婚約が発表されるのかしら」という噂話が、まことしやかに囁かれている。
フウカは、ポチのそばで、本当に、幸せだった。
彼の隣にいれば、どんな不安も、悲しみも、和らいでいく。
彼の笑顔を見るだけで、自分の心も、花が咲くように、明るくなる。
(この、穏やかな日々が、ずっと、続けばいいのに)
フウカは、自室の窓辺で、ポチにもらった、あの、少し不格好なクマのぬいぐるみを抱きしめながら、心から、そう願っていた。
彼女は、まだ、知らない。
その、ささやかで、けれど、かけがえのない日常を、打ち砕こうとする、新たな嵐が、すぐそこまで、迫っていることを。
***
王都の一角に、ひときわ悪趣味で、けばけばしい装飾の屋敷がある。
グロルシュ男爵の、館だ。
その、薄暗い一室で、主であるグロルシュ男爵は、不機嫌そうに、安物のワインを呷っていた。
彼は、放蕩の限りを尽くした結果、多額の借金を抱え、もはや、首が回らない状態に陥っていた。
「くそっ……! どこかに、手頃な、金蔓はいないものか……!」
その時、部下の一人が、一つの噂を、彼の耳に入れた。
「旦那様。ロイゼフ公爵家の一人娘、フウカ嬢が、最近、ポチ殿下と、懇意にされているとか」
「ロイゼフの娘だと?」
グロルシュの目が、ぎらり、と光った。
フウカ・ロイゼフ。あの、『氷の人形』と噂される、絶世の美女。
そして何より、王国でも一、二を争う、大富豪の、一人娘。
「ポチ殿下のお相手では、手が出せますまい」
「ふん、馬鹿を言え」
グロルシュは、鼻で笑った。
「王子の気まぐれな恋人ごっこなど、いずれは終わる。だがな、一度、汚された令嬢など、もはや、王子の妃にはなれん。俺様のものにしてしまえば、ロイゼフ公爵も、泣き寝入りするしかあるまいよ」
その思考は、あまりにも短絡的で、そして、下劣だった。
彼は、ポチのフウカへの想いの深さも、そして何より、その母親であるフリンダ・ロイゼフの、本当の恐ろしさも、全く、理解していなかった。
「あの女を手に入れれば、ロイゼフの莫大な財産は、いずれ、この俺様の物になる。そうと決まれば、話は早い」
グロルシュは、不気味な笑みを浮かべると、部下たちに、命令を下した。
「あの娘を、攫うぞ」
「へっ!? しかし、あの屋敷には、あの、フリンダ夫人が……」
部下の一人が、怯えたように言う。
フリンダの武勇伝は、裏社会のゴロツキたちの間でも、恐怖の伝説として語り継がれていた。
「だから、頭を使えと言っているんだ」
グロルシュは、舌打ちをした。
「あの女狐も、四六時中、娘のそばにいるわけではあるまい。それに、あの娘は、毎週、王都の教会で、慈善活動をしていると聞く。その帰り道が、狙い目だ」
彼は、壁に貼らせた、粗末な王都の地図を、指でなぞる。
「護衛の騎士も、数人しかおるまい。その程度の数、お前たちで、どうにでもなるだろう。騒ぎを起こし、その隙に、娘を馬車でさらう。簡単な仕事だ」
その計画は、あまりにも、杜撰で、そして、無謀だった。
彼は、全てを、甘く見ていた。
王子の、愛する女性を奪われた時の怒りを。
そして、何よりも……。
娘を傷つけられた、母親の、底なしの怒りを。
その数日後。
グロルシュの部下たちは、計画通り、フウカの行動を見張り始めていた。
教会へ向かう、穏やかな表情のフウカ。
彼女が、まさか、自分が、卑劣な陰謀の標的になっていることなど、知る由もない。
嵐は、確実に、近づいていた。
フウカの、ささやかな幸せを、木っ端微塵に打ち砕くために。
そして、眠れる獅子の、決して、踏み込んではならない領域に、土足で踏み込もうとしていた。
ロイゼフ公爵邸を覆っていた、重く、よどんだ空気は、まだ完全には晴れてはいない。
けれど、確かな変化の兆しは、あった。
父、トウカは、物思いに耽る時間が増えた。
しかし、その表情は、以前のような、自己嫌悪と絶望に満ちたものではなかった。
何かを、必死で考え、そして、これから自分がどうすべきかを、模索しているかのような、前向きな苦悩の色をしていた。
時折、母フリンダの姿を、遠くから、盗み見るように見つめている。その眼差しは、ひどく複雑で、けれど、どこか、幼い子供が母を求めるような、純粋な光を宿していた。
母は、相変わらず、何も変わらない。
けれど、そんな父の変化に、気づいていないはずはなかった。
彼女は、何も言わない。ただ、いつも通り、凛として、そこにいる。
夫が、自らの力で、答えを見つけ出すのを、静かに、そして、辛抱強く、待っているかのようだった。
フウカは、そんな両親の姿を、静かに見守っていた。
焦りはなかった。
時間がかかるかもしれない。けれど、きっと、いつか、二人は、本当の意味で、再び手を取り合うことができるだろう。
ポチが言ってくれたように、一歩ずつ、進んでいけばいいのだ。
そのポチとの関係もまた、穏やかに、そして、深く、育まれていた。
今や、二人が恋仲であることは、王宮の誰もが知る事実となっていた。
好奇の視線は、いつしか、祝福と羨望のそれへと変わり、二人が並んで庭園を歩いているだけで、周囲には、温かい空気が流れるほどだった。
侍女たちの間では、「いつ、正式なご婚約が発表されるのかしら」という噂話が、まことしやかに囁かれている。
フウカは、ポチのそばで、本当に、幸せだった。
彼の隣にいれば、どんな不安も、悲しみも、和らいでいく。
彼の笑顔を見るだけで、自分の心も、花が咲くように、明るくなる。
(この、穏やかな日々が、ずっと、続けばいいのに)
フウカは、自室の窓辺で、ポチにもらった、あの、少し不格好なクマのぬいぐるみを抱きしめながら、心から、そう願っていた。
彼女は、まだ、知らない。
その、ささやかで、けれど、かけがえのない日常を、打ち砕こうとする、新たな嵐が、すぐそこまで、迫っていることを。
***
王都の一角に、ひときわ悪趣味で、けばけばしい装飾の屋敷がある。
グロルシュ男爵の、館だ。
その、薄暗い一室で、主であるグロルシュ男爵は、不機嫌そうに、安物のワインを呷っていた。
彼は、放蕩の限りを尽くした結果、多額の借金を抱え、もはや、首が回らない状態に陥っていた。
「くそっ……! どこかに、手頃な、金蔓はいないものか……!」
その時、部下の一人が、一つの噂を、彼の耳に入れた。
「旦那様。ロイゼフ公爵家の一人娘、フウカ嬢が、最近、ポチ殿下と、懇意にされているとか」
「ロイゼフの娘だと?」
グロルシュの目が、ぎらり、と光った。
フウカ・ロイゼフ。あの、『氷の人形』と噂される、絶世の美女。
そして何より、王国でも一、二を争う、大富豪の、一人娘。
「ポチ殿下のお相手では、手が出せますまい」
「ふん、馬鹿を言え」
グロルシュは、鼻で笑った。
「王子の気まぐれな恋人ごっこなど、いずれは終わる。だがな、一度、汚された令嬢など、もはや、王子の妃にはなれん。俺様のものにしてしまえば、ロイゼフ公爵も、泣き寝入りするしかあるまいよ」
その思考は、あまりにも短絡的で、そして、下劣だった。
彼は、ポチのフウカへの想いの深さも、そして何より、その母親であるフリンダ・ロイゼフの、本当の恐ろしさも、全く、理解していなかった。
「あの女を手に入れれば、ロイゼフの莫大な財産は、いずれ、この俺様の物になる。そうと決まれば、話は早い」
グロルシュは、不気味な笑みを浮かべると、部下たちに、命令を下した。
「あの娘を、攫うぞ」
「へっ!? しかし、あの屋敷には、あの、フリンダ夫人が……」
部下の一人が、怯えたように言う。
フリンダの武勇伝は、裏社会のゴロツキたちの間でも、恐怖の伝説として語り継がれていた。
「だから、頭を使えと言っているんだ」
グロルシュは、舌打ちをした。
「あの女狐も、四六時中、娘のそばにいるわけではあるまい。それに、あの娘は、毎週、王都の教会で、慈善活動をしていると聞く。その帰り道が、狙い目だ」
彼は、壁に貼らせた、粗末な王都の地図を、指でなぞる。
「護衛の騎士も、数人しかおるまい。その程度の数、お前たちで、どうにでもなるだろう。騒ぎを起こし、その隙に、娘を馬車でさらう。簡単な仕事だ」
その計画は、あまりにも、杜撰で、そして、無謀だった。
彼は、全てを、甘く見ていた。
王子の、愛する女性を奪われた時の怒りを。
そして、何よりも……。
娘を傷つけられた、母親の、底なしの怒りを。
その数日後。
グロルシュの部下たちは、計画通り、フウカの行動を見張り始めていた。
教会へ向かう、穏やかな表情のフウカ。
彼女が、まさか、自分が、卑劣な陰謀の標的になっていることなど、知る由もない。
嵐は、確実に、近づいていた。
フウカの、ささやかな幸せを、木っ端微塵に打ち砕くために。
そして、眠れる獅子の、決して、踏み込んではならない領域に、土足で踏み込もうとしていた。
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