私の婚約を母上が勝手に破棄してしまいました

桜井ことり

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20話

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その日、フウカは、王都の教会が運営する孤児院を訪れていた。
幼い子供たちに、文字の読み書きを教えたり、物語の絵本を読んで聞かせたりする。
それは、フウカが、自らの意志で長年続けている、ささやかな慈善活動だった。

子供たちの、純粋で、曇りのない笑顔に触れていると、フウカの心もまた、洗われるようだった。
屋敷の中の、複雑で、重い空気のことなど、束の間、忘れることができる。

「フウカ先生、また、来週も来てくれる?」

「ええ、もちろんよ。来週は、面白いお菓子の絵本を持ってきましょうね」

名残惜しそうに手を振る子供たちに別れを告げ、フウカは、満たされた気持ちで、ロイゼフ家の馬車に乗り込んだ。
護衛は、いつものように、二名の騎士だけ。
まさか、王都の真昼間に、公爵家の令嬢が襲われるなど、誰も、考えてもいなかった。

(今日のことを、ポチ様にお話ししたら、どんな顔をなさるかしら)

きっと、また、「君は優しいな」と、あの、愛おしそうな顔で、頭を撫でてくれるだろう。
そんなことを考え、フウカが、一人、頬を緩ませていた、その時だった。

馬車が、ガタン、と、大きな音を立てて、急停止した。

「どうしたのですか?」

フウカが、窓から顔を出すと、御者が、困惑した顔で前方を指差した。
狭い路地の真ん中に、荷馬車が、車輪を壊して立ち往生している。

「申し訳ございません、お嬢様。道が、塞がれているようで……」

護衛の騎士の一人が、馬を降り、荷馬車の持ち主らしき男に、声をかけにいく。
全てが、仕組まれた罠だった。

その瞬間、道の両脇の、薄暗い路地裏から、十数名の、物騒な人相の男たちが、一斉に飛び出してきた。
手には、鈍く光る、剣や棍棒を握っている。

「なっ……! 貴様ら、何者だ!」

残った護衛の騎士が、剣を抜いて叫ぶ。
しかし、多勢に無勢。
ロイゼフ家の騎士は、もちろん、腕利きだった。だが、相手は、数を頼りに、躊躇なく、命を奪うことさえ厭わぬ、凶悪な輩だった。
数分も経たないうちに、悲鳴と、金属音が、やんだ。

フウカは、馬車の中で、恐怖に、体が凍りついていた。
何が、起きているのか。
理解が、追いつかない。

バンッ!!!

馬車の扉が、乱暴に、外からこじ開けられた。
そこに立っていたのは、下品な笑いを浮かべた、大柄な男だった。

「ひっ……!」

「へへっ、大人しくしろよ、お嬢ちゃん」

男の、太く、節くれだった腕が、フウカの体を、掴もうと伸びてくる。
フウカは、悲鳴を上げて、身を引いた。
しかし、狭い馬車の中では、逃げ場など、どこにもない。

乱暴に腕を掴まれ、馬車から引きずり出される。
抵抗しようにも、恐怖と、力の差で、体が、言うことを聞かない。
頭から、ざらりとした、埃臭い麻袋を被せられ、視界が、真っ暗になった。

「いやっ……! 離して……!」

フウカは、もがき、叫んだ。
しかし、その声は、麻袋の中で、くぐもって、消える。
そのまま、まるで、荷物のように、別の、ゴツゴツとした馬車の中へと、放り込まれた。

馬車が、乱暴に、走り出す。
暗闇の中、フウカは、恐怖に、全身を、わなわなと震わせていた。
フリスクや、アードラー子爵に向けられた、あの、不快な視線。
今、自分を攫った男たちの、下劣な欲望。
それらが、フウカの心に、再び、男性への、根源的な恐怖を、呼び起こさせる。

(怖い……。誰か……助けて……)

涙が、麻袋の中で、溢れ出す。
けれど。
その、恐怖のどん底で、フウカの心に、二つの顔が、はっきりと、浮かび上がった。

一つは、自分を「大切な人だ」と言って、その腕で、守ってくれた、愛しい人。
『私が、君の盾となる』と、誓ってくれた、ポチの、優しい笑顔。

そして、もう一つは、自分のために、素手で、壁を砕き、悪を、脅し、屈服させる、最強の母。
『私の娘に手を出すな』と、冷たく言い放つ、フリンダの、美しい横顔。

(……そうだわ)

フウカは、暗闇の中で、固く、唇を結んだ。

(ポチ様が……お母様が……。このまま、黙っているはずがない)

彼らは、必ず、助けに来てくれる。
わたくしを、こんな、汚い手から、取り戻しに来てくれる。
その、絶対的な信頼が、恐怖に押しつぶされそうになる、フウカの心を、内側から、強く、支えていた。
今は、ただ、信じて、待つのだ。


***


その頃、王宮の執務室で、ポチは、上機嫌で、書類に目を通していた。
早く、仕事を終わらせて、フウカに会いに行こう。
今日は、彼女の好きな、新しい詩集が手に入ったのだ。
そんなことを考えていると、扉が、ノックもなしに、勢いよく開かれた。

「殿下! 大変です!」

血相を変えて飛び込んできたのは、近衛騎士の一人だった。
その腕には、痛々しい、切り傷がある。

「騒がしいぞ。何事……」

ポチが、顔を上げた、その瞬間。
彼の視界に、騎士の背後で、担ぎ込まれてきた、傷だらけの男の姿が、入った。
その男が着ているのは、見覚えのある、ロイゼフ公爵家の、護衛騎士の制服だった。

ポチの顔から、すっと、表情が消えた。
手にしていた、ティーカップが、ピシリ、と、音を立てて、砕け散る。
部屋の温度が、急激に、数度、下がった。

「……フウカ嬢が……。フウカ様が……何者かに……!」

傷ついた騎士が、途切れ途切れに、報告する。

「……攫われました……!」

その言葉が、執務室に響き渡った、次の瞬間。
ポチの体から、凄まじいまでの、殺気が、放たれた。
それは、今まで、誰も見たことのない、第一王子の姿だった。

穏やかで、冷静沈着な、あの王子は、どこにもいない。
そこにいたのは、己の至宝を、何者かに汚され、踏み荒らされた、一頭の、怒り狂う、竜だった。

「……誰が」

ポチの声は、静かだった。
だが、それは、嵐の前の、不気味な静けさだった。

「誰が、やった?」

彼は、ゆっくりと立ち上がると、報告に来た騎士の胸倉を、掴み上げた。
その瞳は、青い炎を宿して、燃え上がっている。

「どこのどいつが、私のフウカに、手を出したッ!!」

それは、もはや、王子の声ではなかった。
獲物を求める、獰猛な、捕食者の、咆哮だった。

側近たちが、その、あまりの変貌ぶりに、恐怖で、立ち尽くす。
ポチは、騎士の返事を待たずに、部屋中に響き渡る声で、叫んだ。

「近衛騎士団、第一から第三部隊まで、全員、召集しろ! 今すぐにだ! 国王陛下の許可など、待つな!」
「王都の、全ての門を、封鎖しろ! 一匹の鼠たりとも、外へは出すな!」
「全ての情報を、ここに集めろ! 犯人を見つけ出せ! 見つけ出して、私の前に、引きずってこい!!」

矢継ぎ早に、的確な、しかし、あまりにも苛烈な命令が下される。
ポチ・グロリアは、完全に、冷静さを、失っていた。
彼の頭の中には、ただ一つ。
愛するフウカを、取り戻すこと。
そして、彼女を傷つけた、愚かな犯人を、この世で最も残酷な方法で、後悔させてやること。
その、二つのことしか、もはや、存在していなかった。
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