私の婚約を母上が勝手に破棄してしまいました

桜井ことり

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22話

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「……怪我は、ないか、フウカ」

母の、不器用で、けれど、心からの安堵がこもった声が、フウカの耳に届く。
フウカは、その温かい腕の中で、こく、こくと、何度も頷いた。
体は、どこも痛くない。
ただ、心が、恐怖と、そして、それを遥かに上回る、大きな安堵で、震えていた。

フリンダは、娘の無事を確かめると、ふっと、その体から、殺気を消した。
そして、いつもの、静謐な公爵夫人の顔に戻る。

「……王子殿下」

彼女は、すぐそばに立っていたポチに、視線を向けた。

「後始末は、お任せいたします。娘を、無事に、家まで送り届けてください」

それは、命令とも、依頼ともつかない、彼女らしい、簡潔な言葉だった。
ポチは、その言葉に、力強く頷く。

「お任せください、フリンダ夫人。必ず」

フリンダは、その返事に満足したかのように、一度だけ、頷き返した。
そして、娘の頭を、もう一度、優しく撫でると、くるりと、背を向けた。
まるで、最初からそこにいなかったかのように、音もなく、闇の中へと、その姿を消していく。
嵐は、去ったのだ。

後に残されたのは、呻き声を上げるゴロツキたちを、騎士たちが手際よく捕縛していく、騒々しい音と。
そして、愛する少女を前に、ただ、立ち尽くす、一人の王子だけだった。

ポチが、動いた。
彼は、まるで、夢から覚めたかのように、フウカの元へと、駆け寄った。
そして、次の瞬間。
フウカの体は、強い力で、彼の腕の中へと、引き寄せられていた。

ぎゅっと、息が詰まるほど、強く。
壊れ物を確かめるかのように、けれど、二度と手放さないという、強い意志を込めて。
ポチは、フウカを、抱きしめた。

その体は、フウカ自身のものと同じくらい、微かに、震えていた。

「……ポチ、様……?」

フウカが、驚いて、彼の名前を呼ぶ。
彼は、フウカの髪に顔を埋め、絞り出すような、掠れた声で、囁いた。

「……よかった……」

その声は、安堵と、そして、フウカが、今まで感じたことのないほどの、深い恐怖の色を、滲ませていた。

「本当に……よかった……。君に、何かあったらと……。私は……」

言葉が、続かない。
フウカは、その時、初めて、知った。
彼もまた、自分と同じように、いえ、それ以上に、怖かったのだと。
自分が、彼にとって、どれほど、大きな存在であったかを、その、体の震えが、痛いほどに、伝えてきていた。

「もう二度と、君を離さない」

彼の腕に、さらに、力がこもる。

「絶対に、誰にも、渡さない」

それは、あの夜会で聞いた、甘い囁きとは、全く違う。
彼の魂の、奥底からの、叫びだった。
その、あまりにも深く、そして、激しい愛情に、フウカの心は、完全に、溶かされていく。

恐怖は、もう、なかった。
代わりに、彼の、その震えを、止めてあげたいという、強い想いが、胸に込み上げてくる。
この、誰よりも、優しくて、強い人を、今度は、自分が、支えてあげたい。

フウカは、そっと、その腕を、ポチの背中に回した。
そして、精一杯の力で、彼を、抱きしめ返す。

「……ポチ様」

見上げて、彼の名前を呼ぶ。
その青い瞳は、まだ、不安の色に、揺れていた。
フウカは、その瞳を、まっすぐに見つめ返して、言った。

「わたくしも……あなたの、おそばに、いたいです」

それは、彼女の、初めての、はっきりとした、告白だった。

「ただ、あなたに、守られるだけではなくて。わたくしも、あなたの隣に、立ちたいのです」
「嬉しい時も、悲しい時も、あなたの、そのお心を、一番近くで、感じていたいのです」

涙が、再び、頬を伝う。
けれど、それは、もう、悲しみや、恐怖の涙ではなかった。

「ポチ様。……わたくし、あなたのことが、好きです。愛して、おります」

その言葉を聞いた瞬間、ポチの瞳から、揺らぎが、消えた。
そして、そこに、深い、深い、歓喜の光が、宿る。

彼は、ゆっくりと、その顔を、フウカに近づけた。
フウカは、そっと、目を閉じる。
次の瞬間、その唇に、柔らかく、そして、温かい感触が、触れた。

それは、初めての、口づけだった。
攫われた恐怖も、両親への憂いも、全てが、浄化されていくような、優しくて、そして、神聖なキス。
二人の心が、ようやく、完全に、一つになった、証だった。

唇が、離れる。
見つめ合う、二人の間には、もう、何の言葉も、必要なかった。

ポチは、自分が着ていた、純白の、豪奢なマントを脱ぐと、それで、フウカの体を、優しく包み込んだ。

「帰ろう、フウカ。……我々の、家に」

その、「我々の家」という言葉に、フウカは、はにかみながら、こくりと頷いた。

帰り道、ポチは、馬車を使わなかった。
彼は、自らの愛馬に跨ると、フウカを、その胸の前に、優しく、抱きかかえるようにして乗せた。
まるで、おとぎ話の、王子様とお姫様のように。
彼の、たくましい胸板に背中を預け、その心臓の鼓動を聞いていると、フウカは、この上ない、安らぎを感じた。

ロイゼフ公爵邸に着く頃には、東の空が、白み始めていた。
長い、長い夜が、明ける。

ポチは、フウカを馬から降ろすと、その頬に、もう一度、優しく触れた。

「……また、すぐに、会いに来る」

「はい。……お待ちしております、ポチ様」

二人は、言葉少なに見つめ合う。
その視線だけで、幾万の、愛の言葉が、交わされていた。

悪夢は、終わったのだ。
そして、二人の、本当の物語が、今、ここから、始まろうとしていた。
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