その辺にある悪意

江波広樹

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2009年 パート5

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 宮野が倉庫に入ってきたとき、隆は浅い眠りの中にいた。敦が宮野に声をかけるが、よく聴き取れない。意識的に目を大きく開けると、そこにはひとりの少女がいた。宮野が腕をひっぱり自分の方に連れてくる。次第に目が覚め、状況がつかめてくる。

「そこの男の隣に座ってろ。予定時刻まではまだ4時間ほどある。それまでそこで静かにしていれば、すぐに自由にしてやる」

 少女は隆の隣に座り、膝の中に顔を埋めた。見た目は6歳くらいだろう。

「最後の準備をしてくるから、お前はこのまま見張ってろ」

 宮野は敦に向かって言うと、すぐに出ていった。少しすると外からエンジン音が聞こえ、その音はじわじわと消えていった。

 倉庫の中はひどく冷たい。床は冷え切っているし、壁は薄い。エアコンなんて便利な物もない。けれど敦はとくに寒そうにはしていなかった。むしろこれくらいの寒さの方が体の調子がいいみたいだ。

 敦は宮野を見送ると、怠そうに椅子に座った。もうやることがないのだろう、とにかく暇そうに耳にイヤホンをはめ、すぐに外した。それから倉庫の中をぐるぐると歩きまわり、少女の前で止まった。

「君も運がなかったね。たまたまあの時間に公園にいなければ、君が選ばれることはなかったろうに。まあ、交通事故みたいなものだよ。運が悪かったのさ。でも、そもそもこの世に生まれること自体が運のないことだからね。すぐに死ねるというのはわりと運が良いということなのかもしれない」

 少女は顔を上げなかった。泣くことも喋ることもしない。

「君は手のかからない子なのかな。まあ、騒がれたらこっちも面倒だからね。その方がありがたい。儀式のときになったら嫌でも大泣きするだろうけど」

 敦は椅子に戻り、ウォークマンの画面を眺めた。

「君は音楽は聴く?」

 これは隆に言っているのだろう。視線は向けていないが、声のトーンでわかる。

「人並みには」

 隆は言った。

「レディオヘッドは聴いたことある?」

「レディオヘッド?」

「そうだよ、レディオヘッド。あの聴いてるだけで憂うつな気分になれるロック・バンドだよ。いいアルバムが何枚かあるんだけど。君は知らないのか」

「知らないね。昔のバンドでしょ?」

 一度も聴いたことのないバンド名だった。

「まだまだ現役だよ。まあ、昔といえば昔だけどね。イギリスのバンドだから、日本だとたいして有名ではないかな。日本人が知ってる海外のロック・バンドなんてビートルズかクイーンくらいのものだからね」

「洋楽は聴かないんだ」

「だろうね。そんな顔をしてるよ。ただ流行に乗っかって生きてきた人間の顔だ。ほんとうに自分の好きなものを知らない。最近の若者にありがちなことだ。もちろんそういった人間は昔からいるけどね。でも、最近はそれが顕著だ。やりたいことがない、というのが口癖なのさ」

 隆は目の前にいる人間のことがよくわからなくなってきた。いや、もとからわかっているわけではないが、より一層わからなくなった。この男はまるでただの一般人だ。高校生くらいの息子がいて、冷めた関係の妻とは同じベッドで寝ていない。不満ばかり漏らす妻にイライラし、反抗期の息子にイライラする。どこにでもいる、ありきたりな中年だ。愚痴ならいくらでも並べられる。使えない部下の欠点ならもっとたくさん並べられる。ただ自分の生きる意味と楽しみはひとつもわからない。どこにでもいる中年だ。

 そんな一般的な人間がなぜこんな犯罪をするのか。隆にはわからなかった。こんなことをしても損しかないはずだ。得られるものはなにもない。

「俺はこの平凡な毎日が心底嫌いなんだ」

 敦はなんの前触れもなくそう言った。本人も自分がそんな台詞を吐いたことに驚いているようだった。自分らしくない、と思っているのだろう。

「退屈なのさ。この世界には不満しかない。なに不自由ない生活はしているが、それでも不満しかない。食べるものには困らない、寝るところにも困らない、浮気ももちろんする。興奮できる女は必要だ。それでも満足はすることはありえない。三大欲求が満たされても満足することはない。どうしてだと思う?」

「知らないね。考えたこともない」

「まあ、そうだろうね。君はまだ若い。でも歳をとると考えるんだよ。どうして満たされないのか。答えは簡単さ。影響力の問題だ」

「影響力?」

 何を言っているのか、隆にはわからなかった。それかわざとわからないように言っているのかもしれない。

「そうだ、影響力だ。人は他人に影響を与えることに快感を覚える。だから自分が影響を与えることのできる存在は素晴らしいものだと考える。自分の子どもが一番いい例だろう。あれは最も自分の影響を受ける存在だからね。ひどく可愛く思える。歳をとって可愛く思えなくなるのは、親の影響を受けなくなるからだ。正確に言うなら尊敬にあたいする親からは歳をとっても影響を受けるけどね。大したことのない親はすぐに子どもへの影響力を失う」

 敦はそこで時間を空けた。頭の中で自分の喋っていることを整理しているようだった。きっとこういったことを喋るのは珍しいのだろう。もしかしたら彼もこの状況に興奮しているのかもしれない。あと少しで犯罪者になるという状況に。

「ペットが可愛い理由は自分の影響を受けるからだ。エサを与えなければペットは死ぬ。要するに、ペットの命を握っているということだ。影響力は抜群だ。だから可愛い。そしていま、俺たちは君らの命を握っている。ようするに影響力のある存在だ。だから今はとても幸福な気持ちに満たされている」

 彼はそこまで言うと、疲れたように口と目を閉じた。口と目を閉じた彼は、まるで死体のようだった。呼吸をしているようには見えない。ただの屍だ。体温を感じさせない。

 しばらくすると敦は椅子から立ち上がり、倉庫の隅に備えられているトイレに向かった。隆は彼がトイレの中に入ったことを確認してから少女に喋りかけた。

「ねえ、ちょっといいかな。これから君にしてもらいたいことがあるんだ」

 できる限り小声で喋った。聞こえていないかもしれないと思ったが、少女は顔を上げてこっちを振り向いた。

「名前はなんていうのかな?」

「桜」

 少女も隆にあわせて小声で喋った。

「苗字は?」

「荒川」

 隆はうなずくと、トイレの方を見た。まだ敦が出てくる気配はない。彼はトイレが長い。最低でも5分はかかる。まだ十分な時間があった。

「俺のポケットから携帯をとってほしい」

 少女は隆と違って手足を拘束されていない。警戒されていないのだ。彼らはひどく油断している。雑な犯行と言ってよかった。

 隆は少女の方に携帯の入っているポケットを向けた。少女は小さくうなずいてからポケットに手を入れ、すばやく携帯をとりだした。

「よし、番号を入れてくれ。110だ」

 少女はすばやく番号を入れた。思ったよりも冷静だ、と隆は思った。もっとパニック状態になっているかと思った。

 番号を入れると、少女は携帯を隆の耳にあてた。

「もしもし、警察ですか。細かい説明は省きます。いま、僕とひとりの少女が監禁されてます。僕の名前は佐藤隆で少女の名前は荒川桜です。場所はわかりません。どうにか通話記録から場所を特定してください。彼らに見つかるとまずいのでもう切ります」

 隆は少女に目配せし、電話を切らせた。警察は何かを言おうとしていたが、それを待っている余裕はなかった。いつ敦がトイレから出てくるかわからない。もしばれたらその場で殺されるかもしれない。

 これはちょっとした賭けでもあった。隆の予想ではすでに、あるいは遅かれ早かれ少女の捜索願が出されていると思ったのだ。そうすれば警察に喋った名前と一致し、すぐに動いてくれる。もし捜索願が出されていなければ、もしかすると迷惑電話と思われて無視されるかもしれない。

 少女は携帯を元通りポケットに入れた。入れたとほぼ同時に敦がトイレから出てきた。隆は彼に勘づかれないように、表情をできるだけなくした。少女も同じ気持ちだったのか、すぐに足に顔をうずめた。

 敦は椅子に座り、イヤフォンを耳にはめ、ゆっくりと目を閉じた。彼はまったくの無警戒だった。まるで自分たちが何か悪いことをしたという感覚がないように。それは敦たちにとってはありがたいことだったが、しかし、不気味でもあった。絶対に自分たちは大丈夫と思っている彼らの姿は、隆を不安にさせた。

 警察はそれから4時間たってもやってこなかった。
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