その辺にある悪意

江波広樹

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2009年 パート6

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「香織、はやく夕飯食べなさいよ」

 母はいつもの甲高い声で言った。香織はその声がひどく嫌いだった。聴いているだけでイライラする。しかし、怒りをぶつけるほどの理由はなかった。だからその怒りは自分の中で蓄積されつづける。

 香織は仕方なく部屋から出た。父はまだ帰ってきていないようだった。いちど車が駐車場に止まっているのを見たが、またなくなっていた。

 階段を降り、リビングに入る。いつもの光景だ。6時過ぎのニュース番組。テーブルの上の冴えない料理。ソファーでくつろぐ茶虎の猫。何度この光景を見ただろうか。なんの代わり映えもしない光景。安心感よりも退屈な感情のほうが大きい。何か起きないだろうかと心は闘争を求める。

 カーテンの外は暗かった。そしてひどく寒そうでもあった。リビングは暖房が効いているが、外はひどく寒いだろう。香織は猫をなでてから椅子に座った。納豆を混ぜ、ご飯にかける。母は納豆をご飯にかけるなんて気持ち悪いといつも言うが、香織からするとご飯にチーズを乗っける母の方が気持ち悪かった。

 ニュースでは息子を殺害した父親が映し出されていた。年齢は60をこえている。殺害された息子は40過ぎの無職だ。動機は無職の息子から受ける家庭内暴力に耐えられなかったと供述している。どうでもよかった。他人が殺害されようが、そんなことはどうでもいい。 次のニュースは妻子がいる50近くの男が女子中学生と援助交際をしていたというものだった。それもどうでもいいニュースだった。いつの時代にもある、あまりにもありふれたニュース。しかし、事件を起こした男の妻や子どもはこれからどう生きていくのかには興味があった。ずいぶんと生きづらいに違いない。すぐに苗字を変えるだろうか? そういうドキュメンタリー番組があったらぜひ見てみたかった。

 香織は夕飯を食べ終えると、猫といっしょに部屋に戻った。猫は部屋に戻ろうとする香織に勢いよくついてきた。いつものことだ。

 彼女がベッドに寝転ぶと、猫もすぐにベッドに上ってくる。猫は香織に体をもたれかけて、目を閉じた。なんどか体をなでてやると、小さくあくびをした。

 ふとバイト仲間に電話をしようかと考えた。彼氏ではないが、ちょっと良い感じになっている同い年の男の子だ。電話はたまにしているが、ほとんどはメールだ。バイトは週に二回くらい同じで、いつも彼が先に来ていた。

 携帯をとりだし、連絡帳のページを開く。数十人いる中から探しだし、選択する。携帯から電子音が鳴る。しかし、いくら待っても彼がでることはなかった。時刻は7時まえだ。ご飯を食べているのかもしれないし、風呂に入っているのかも知れない。あるいは外出していて電車の中なのかもしれない。彼は電車で電話をするほど非常識な人じゃない。とりあえず香織はメールを送ることしにした。

『大した用事じゃないから、折り返しの電話はしなくていいよ! 明日のバイトも頑張ろう!』

 香織はほとんど絵文字というものを使わなかった。絵文字は無理に元気を出している感じがして、使うのが恥ずかしかった。いまどきの若者とは少し外れているのかもしれない。他にも外れているところなから山ほどあるが。カラオケにもいかないし、プリクラだって撮ったことがない。そんな女子は自分だけだろう、と香織は思った。

 携帯をベッドに放り投げ、天井を見上げる。天井はいつも自分を上から見ている。パソコンをいじっているときも、寝ているときも、自慰するときも。これだけ自分のことを見てきているのだから、相談にのるなら天井がいいだろう、と香織は思っていた。もちろん天井はなにも答えないが、無言のうちになにかを伝えようとしているかもしれない。見えているものだけが真実だとは限らない。

 自分の空虚な人生がその天井に現れている気がした。白く、白だけなのに、ごちゃごちゃしている。他の色がないのに、ごちゃごちゃしている。とくに何もなくても、ごちゃごちゃするのだ。悩みはない、けれど、不思議と心は荒れている。もしかしたら気づいていないだけかもしれない。悩みとは重みなのだ。悩みがなければ人は地に足をつけることができない。悩みがあるから生きていけるのだ。

 真っ白な天井からゆるゆると何かが落ちてきた。それは紙くずのようにも見えたし、ティッシュのようにも見えた。電気の明かりでうまく見えなかったが、それは香織の胸のあたりに落ちた。香織は寝たまま胸のあたりを触った。しかし何もない。もういちど丁寧に下から上へと満遍なく触るが、結局なにもなかった。

 香織は不思議に思ったが、すぐにただの見間違えだろうと納得した。彼女はなんでもすぐに納得することができた。まあ、そういうこともあるだろうと。

 一時間ほど目を閉じていた。それ以外にすることがなかったのだ。そうしていると、ふと、なにかが心の中で失われた気がした。自分の人生にひどく影響を及ぼすなにかが。しかし、失われたものはひとつではない。ふたつある。ひとつは完全に失い、もうひとつは完璧にべつのものに変わっている。

 窓の外を見てみると、庭にある倉庫の明かりがついていた。前は工場として祖父が使っていたが、いまではただの物置だ。どうして明かりがついているのだろう、と不思議に思う。でも香織はすぐに自分を納得させた。まあ、そういうこともあるだろう。
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