月について語ってみようか

つきとねこ

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閑話 元執事との回想 ④

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「………そうだね、ショーティ……」

 今、僕は、ひとりではない。
 君が、僕を、かえてくれた。

 声にすると、少し気持ちが落ち着いた。そのためカップに手をのばし、紅茶を飲む。酒のほろ苦さがアクセントとなって、紅茶を彩っていた。

 そして温かなものが自分の中に、確かな熱をもって存在する。

 命の水だなと、思う。この馥郁とした香りも、口の中で拡がった紅茶と酒の味わいも、おそらく二度と忘れられないものになるだろう。
 そして、徐々に気持ちも落ち着いてきた。ショーティを欲して寂しさは増しているが、それでも自然に背筋を伸ばせる自分がいた。僕は、自分に一つ呼吸をした。

「チャーリィ、ありがとう」

 僕はカップを持って、キッチンへと行く。まめな元執事は、茶器を食洗機に並べていた。

「すまなかった。その…客人の前で…」
「なんのなんの!ああ、けれども……こう言うと失礼かもしれませんが、アーネスト様が少年に見えました。とても表情が豊かで。私は以前のあなた様も好きですが、今のあなたも好きですよ」

 新たな茶を手に、チャーリィはリビングに戻ってきてそう語る。

「……以前の、僕?何かがそんなに違うのかい?」
「お気づきでございませんか?前よりずっと表情が豊かですし、雰囲気も優しいですよ。………ショーティ様と、お幸せなのですね」

 何か……それこそ安心したような表情に見えた。今まで散々ショーティとの結婚は偽装かと周囲には野次られていたが、正面切ってそう言われたことは初めてで。
 これはスキャンダルの確認かなという思いが掠ったりもしたが、チャーリィを見ていると心底そう思っているように見えた。
 社会的信用を超えた何かを、彼らは僕にくれようとしたのだろうか。

「…………ああ、僕は幸福なんだ」
「それは、ようございました」

 にこりと、本当に幸せそうにチャーリィは笑った。
 ……ありがとうと、言葉がこぼれそうになった。思考があっての言葉ではなく、感謝の言葉がどんどん溢れてくる。ただただ、僕はその言葉が嬉しかったのだ。

「いつ、君は帰るの?」
「明後日に」
「そう……。もし僕がまた契約したいと言ったら、君は考え直してくれるのかな」

 チャーリィを見上げて、僕はそう伝える。
 しかしチャーリィはふっと軽く笑ってから、静かに首を横にふった。そして語る。

「アーネスト様、これからのあなた様を支えるには私では力不足です」
「そんなことは…」
「いえ、本当に。このコンドミニアムも…」
「そう。僕は適当に売却するよう君に頼んだが、君は売らなかった…。それは本当に助かったんだ。今手持ちはグリニッジビレッドやロングアイランドにもあるけど、アッパー・イースト・サイドの方が便利だからね」

 ふうと、ため息を一つつき、チャーリィは紅茶を足しながら静かに語った。

「アーネスト様、実は私は命じられた通りにここを売ろうとしたんです。……ですが、知り合いに止められまして。今地価が動いているからやめた方がいいと言われて」
「そうだったのかい?」
「はい」

 僕は解雇前に、チャーリィにニューヨークの物件をまとめて売却するよう依頼したのだ。それは見合いを壊そうと決めてからすぐのことで、その時僕はニューヨークに留まるつもりはなかったのだろう。素人のチャーリィに丸投げしたのだった。本当に…あの時は…全てどうでもよかったのだと思う。騙されたような価格でも構わなかったのだ。それで彼を責めることはなかったろうし。

 彼は、自分の考えではなかったと告げる。それが悔やまれるのだろうか?
 しかし…地価が動く?ここ半年何もなかったと思うけれど。ニューヨークの地価は世界でも高く、低くなることはまずない。

「どんな風に地価が動くと?」
「いえ、あのですね。執事のネットワークでは私がアーネスト様に仕えていることは有名でして。ですからもちろん主人の情報は流さなかったのですが。信頼する仲間の一人が、『ニューヨークの物件は、売りに出されたらほぼ買い戻せない。主人がどこかの国に居を構えるつもりならともかく、何も決まっていないなら売るべきではない。売るのはいつでもできる』とそう言われまして……」
「チャーリィ、まだあるだろう?その人物はなんと?」
「…………」
「チャーリィ?」
「…『本来のアーネスト・レドモンならば今は売らない。今なりふり構わず売るという選択をするのは、本来の彼ではないので、彼が彼に戻るまでは何もすべきではない』と」

 僕は、実際驚いた。そんなことを言う人物がいたのか。いや、まさにその人物の言う通りなのだけれども。そしてだからかなとも思う。

「だからチャーリィは向かないと思うのかい?」
「だからというわけではありませんが。あなた様が世界に羽ばたく時に、家財の判断ができない者はこれからのあなた様のためになりません」
「しかし、この件に関しては僕が判断を誤ったのだから君のせいでは」
「はい、それは重々に存じております。仮にニューヨークの物件を売ってそれが安くてもアーネスト様は何も仰らなかったでしょうから」

 よくわかっているじゃないかと思う。

「しかし、これからのあなたに必要なのは武骨な私のような者ではなく、家財管理もできる者がよろしいでしょう」
「……僕は、君がいいのだけれど」
「この老骨に過分なお言葉を、ありがとうございます。しかし私は十分にあなた様に評価を頂きました。もう十分なのです。故郷にもどって静かに余生を送りたいと思います」

 彼は、嬉しそうに静かに語った。
 そうか、と思う。彼も次の舞台に行くのだ。
 そして彼は、最後のお茶を僕に淹れてくれたのだった。


 ~~~~

 チャーリィが帰った後、いつしか夜の闇が帳をおろしていた。煌めく街並みが目の前にあり、正直じゃらじゃら飾られた宝石のようでうるさくもある。

 あの時から、間もなく1年。

 ショーティ、君に話してないけれど、僕はまたこの街で始めようと思ってるんだ。経済界は、僕を受け入れるだろうか。混乱させた事実があるため、評判が芳しくないことは当然なのだけれど。
 それでもここから、また始めてみようと思っている。

 でもショーティ、無様な姿は君に見せたくない。君はどんな僕でもいいと言うだろう。失敗して落ち込んだら、なぐさめてくれるだろう。それは十分にわかっているけど。

 もう、ひとりで歩くのに十分な時間をもらった。

 僕は、ひとりで戦ってみたいと思ったんだ。

 だから、君に知られたくない。
 この成功も失敗も、チャーリィの言葉ではないけれど、全て僕の財産だから。僕が実行して、僕が自分を評価する。なんだろう。それが楽しみで仕方ないんだ。こんなにわくわくしたのは月学園以来だと思う。
 だからショーティ、帰ってきたら話すから5月までは火星で大人しくしていてほしい。月や地球じゃ、君に筒抜けだから。

「かなん」
「わん!」

 呼び掛けにかなんが応え、まっすぐに僕に向かってくる。

「さあ、しばらく家が変わるよ。かなんは大丈夫かな」 

 かなんにそう問いかけると、わんと元気に返してくる。お前、わかっているのかい?と笑いたい気分だ。ショーティには内緒だけれども、かなんは今僕の寝室で寝かしていて、時々ベッドにも上がってくる。躾としてはいけないが、今だけはいいかな。

「さあ、この景色もいったん見納めだよ」

 明日にはロングアイランドに移ろう。そして…やれるだけやってみるよ、ショーティ。

    閑話 END


~・~・~・~・~

仕事を始めてたアーネスト。それを知らないショーティが火星より戻ってきます。
お付き合い頂けると幸いです!


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