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1巻
1-1
1
三月初旬。
株式会社不動旅行企画のオフィスビル内の社員食堂で、それは起きた。
「浮気は滅びろ、不倫は地獄行き」
物騒な発言と共に正面に、だん! とトレイが乱暴に置かれる。その衝撃でうどんを啜っていた野木春華は「けほっ」とむせた。
危ない。咳をするタイミングがあと少しでもずれていたら、人が大勢集まる社員食堂で鼻からうどん、なんて残念すぎる姿を晒すところだった。
「急にどうしたの、香?」
なんとか呼吸を整えた春華は戸惑いながら正面を見る。そこには、全身に不機嫌オーラを纏う同期兼友人の新里香がいた。食器トレイに春華と同じうどんを載せた香は、対面に座るなり眉間に皺を寄せて睨んでくる。
(え、怖い)
本当にどうしたというのだろう。いつも朗らかな笑顔を絶やさない友人が見せた険しい表情に戸惑っていると、香はゆっくりと口を開いた。
「……たの」
「なんて?」
「だから、浮気されたの」
テーブルは違えど周囲には他に社員もいるからか、その声はとても小さい。けれど、地面を這うような低い声は彼女の怒りをこれ以上なく表していた。春華もまた、〝浮気〟の一言にピクリと眉を動かす。
「今の彼氏とは、結婚を前提に付き合ってるって言ってたわよね?」
香は悔しそうに唇を引き結び、無言で頷いた。
香の恋人は、広告代理店勤務の二歳年上の男だったはず。一年前にマッチングアプリで知り合い、最近『そろそろ結婚に向けて同棲を考えてるんだ』と報告を受けた。そのときの香は同性の春華から見てもとても可愛らしくて、『結婚が決まったらお祝いさせてね』と気が早い返事をしたばかりだった。
(それなのに、浮気ですって?)
ふざけるな、いったいどういうことだ、問い詰めてやる――一気に怒りの感情が湧き上がり、自然と顔が険しくなる。香もそれに気づいたようだ。
「春華」
「何」
「私がするならともかく、どうしてあんたがそんなに怖い顔をしてるの?」
「大切な友人が馬鹿にされたんだから、怒るのは自然なことでしょ」
きっぱり言い切る。とある事情から学生時代をぼっちで過ごした春華にとって、香はかけがえのない友人だ。そんな彼女が無下に扱われたのに怒らないわけがない。
その思いは相手にも伝わったのか、香は一瞬面食らったように目を瞬かせた後、苦笑する。
「ありがと。そう言ってくれると少し救われるわ」
小さくため息をつき、香はことの次第を話し始めた。
「……会社の後輩と二股されてたの。しかも、それが発覚したのはついさっき」
「どういうこと?」
「浮気相手宛のメッセージを私に送ってきたのよ。『週末の温泉旅行、楽しみにしてる!』って浮かれた文章をね」
「ありえない」
春華はたまらず吐き捨てた。そのときの香の心情を想像しただけで胸が痛くなる。
「本当、ありえないわよね。ダサいのが、すぐに送信取り消しをしたのよ。まあ、速攻スクショを撮ったから意味はないんだけど。電話をして問い詰めたら、あっさり浮気を白状したわ。『出来心だ』って言ってたけど――」
「信じちゃダメよ、そんな言葉。香がいるのに他の女性と関係を持つなんて最低。そんな男に、香はもったいないわ。ブロック一択」
春華は最後まで聞くことなく切り捨てたが、すぐにしまったと我に返る。友人の彼氏を『最低』呼ばわりは、言葉が過ぎたかもしれない。でも、香には申し訳ないが、考えるより先に口をついて出てしまったのだ。
さすがに、滅びろ、地獄に行け――とまでは思わないけれど、春華も浮気は絶対に許せないと思っている。たとえ友人の話であっても自分ごとに感じるほどに、不貞行為に対する嫌悪感は強い。
「ごめんね、言いすぎたかも」
「全然!」
謝罪すると香は首を横に振った。春華が怒りを見せたことでいくらか落ち着いたのかもしれない。
香はわずかに肩の力を抜き、大きなため息をついて箸に手を伸ばす。
(よかった、食欲はあるみたい)
内心ホッとしつつ、春華もまた食事を再開する。
「結構好きだったんだけどなぁ。あー、しんど」
「早退しなくて大丈夫?」
浮気も失恋も未経験の春華にはわからないが、今の香は結婚を考えていた恋人に裏切られた直後。仕事どころではないのでは、と心配になるが、香は真顔で「早退なんてありえない」と答える。
「最低男が原因で、貴重な午後休を使いたくないもん。意地でも休まない」
きっぱりと言い切る姿は、春華の目にとても魅力的に映った。
「香ならすぐに新しい恋人ができるわよ。男の人はその人だけじゃないし」
「今まで一度も彼氏がいたことがない春華に言われてもね」
「うっ……それは、そうだけど」
慰めたつもりがまさかの反撃をくらってしまう。でも、事実なだけに何も言い返せなかった。
現在二十四歳の春華は、学生時代も含めて一度も異性との交際経験がない。一方、香は恋多き女性だ。彼女とは約二年の付き合いになるが、香に恋人がいなかった期間はほとんどない。『恋愛経験』という点において、春華は友人の足元にも及ばないのだ。
「でも、お世辞じゃないわ。香は可愛いから、付き合いたいと思う人はたくさんいるわよ」
交際経験がないのは事実だが、その言葉に嘘はない。そう伝えると、香はクスリと笑う。
「わかってる。意地悪言ってごめんね、冗談よ。ありがとう、春華」
くりっとした目を細めた香は、淡いピンクのルージュを引いた唇をふわりと綻ばせる。
(あ、可愛い)
明るい茶色の髪を肩のあたりでふんわりと巻いた香は、「モテ女」の見本のような容姿をしている。身長は百五十八センチ。華奢ながらも胸は大きく、実に女性らしい体つきが魅力的だ。
(香の半分でいいから、私にもこの可愛さがあればいいのに)
春華は髪を一度も染めたことがないし、腰まで伸びた黒のストレートロングはいつも簡単にひとつにまとめている。身長は百七十センチと女性にしては高めだ。
しかも、子どもの頃から脂肪のつきにくい体質のせいか、香のようなまろやかさはほとんどない。そのくせ胸だけは大きいのがかえってアンバランスで、思春期にはかなり気にしていた。
顔立ちも綺麗と言われることはあるが、きつい印象を与えがちなキリッとした眉や猫目は、自分ではあまり好きではない。見た目という点で言えば、香とは何もかもが正反対だ。
「でも、それを言うなら、春華と付き合いたい男こそたくさんいると思うけど」
矛先を向けられた春華は小さく肩をすくめる。
「まさか。そんな物好きな人いないわよ。それに私は今のところ恋愛する気はないし」
「またそんなこと言って。結局、春華みたいな清楚系が一番モテるのよ。しかも、あんたの場合は本物のお嬢様だし」
「それは……」
「野木製菓なんて、誰でも一度は名前を聞いたことがあるような大企業だもの。ご両親も立派な方なんでしょうね。ただのサラリーマン家系のうちとは違うわ」
「そんなことないわよ」
春華は曖昧な笑顔で受け流した。これ以上、実家の話題を広げたくなかったのだ。
春華の父は会社を経営しているし、その会社が国内でも有数の食品会社なのは事実である。父は経営者としては優秀なのだろう。でも父親としては違う、と春華は心の中で香の言葉を否定した。
(不倫するような人を尊敬なんてできない)
父が母以外の女性と関係を持ったのは、春華が十歳のときだった。父曰く不倫をしたのはそのときだけらしいが、その一度の不貞行為で春華の家庭はあっけなく壊れた。
夫の裏切りを許せなかった母は父を責め、家庭に居場所がなくなった父は仕事に逃げた。
それから今日までの間、春華は一度も一家団欒というものをしたことがない。
そんな家庭環境で育った春華にとって浮気は絶対悪。先ほど香の恋人を『最低』と言ってしまった理由もここにあった。『異性関係にだらしない男』はそれだけで恋愛対象外だ。
たとえ、相手が非の打ち所がないほど完璧な男だったとしても。
「あっ!」
不意に香が声を上げた。
「見て、不動副社長よ」
香は、興奮気味に輝かせた目を春華の後方に向けたまま、小さく感嘆の息をつく。けれど春華はそちらを見ることはしなかった。
「香、早く食べないとうどんが伸びるわよ」
伸び切った麺ほど残念なものはない。しかし、香は何を言っているんだと言わんばかりに顔を顰めた。
「うどんよりも不動副社長でしょ?」
「私は不動副社長よりうどんかな」
そう答えて、春華は最後に残った麺を啜る。やっぱりうちの社食のうどんは美味しい。
箸を置いた香は呆れたように小さく肩をすくめ、再び春華の後方に視線を戻した。
「いつ見ても素敵ねぇ。目の保養になるわ」
ついさっきまで浮気されたと嘆いていたのにえらい変わりようだ。でも、凹んでいるよりずっといい。春華が安堵と呆れの両方を感じていると、香はニコリと笑顔を見せた。
「春華もたまにはイケメン成分を摂取した方がいいわよ。じゃないとあっという間に枯れるから」
「イケメン成分って」
ある程度共感しないとこの話題は終わらないかもしれない。仕方なく春華が振り向けば、同様に同じ方向を見つめる女性社員がたくさんいることに気づいた。その視線が集まる先ではふたりの男性が食事をしている。
副社長の不動聡と、彼の専属秘書を務める木梨修吾だ。
そして、聡こそが女性社員の色めき立つ原因だった。その主な理由は三つある。
まずは、経歴。
春華と香の勤める不動旅行企画は、国内でも有数の大手旅行会社である。聡はその名からもわかる通り、創業者一族にして現社長のひとり息子。年齢は二十九歳と若いものの、いずれは父の後を継ぐことが決定している、いわば生粋の御曹司である。
だが、聡は名ばかりの後継者ではなかった。豊富な留学経験を持つ彼は、マルチリンガルで、日本の最高学府を卒業した後に不動旅行企画に入社し、数々の実績を打ち立て二年前に副社長に就任したやり手でもあるのだ。
次に、容姿。
聡は百八十五センチの高身長で、日本人離れしたスタイルの持ち主だ。すらりと伸びた長い手足に引き締まった体は、外国人モデルが撮影用のスーツを着ていると言われた方がしっくりくるほどだった。
その上、顔が抜群にいい。艶のある黒髪。キリッとした眉に切れ長の瞳。高く通った鼻筋や形のよい唇。美形という言葉がここまで似合う人は、そうそういないだろう。
そんな容姿端麗な彼は、社内の女性陣からアイドルのような扱いを受けている。
『遠くの推しより近くの推し』というのはそのうちのひとりである香の言だ。実物が間近で見られて、運が良ければ会話もできる。そんな不動聡は理想的な推しの相手なのだとか。
(言いたいことは理解できるけど、共感はできないのよね)
そんな感情が表情に出ていたのか、香は春華をちらりと見て再び小さく肩をすくめた。
「春華くらいじゃない? 不動副社長に興味がないの」
「目立つ人だな、とは思うわよ」
「もう、そうじゃなくて。『かっこいいな』とか『素敵だな』とか思わないの? それとも総務部にいるから見慣れてるとか?」
「そんなことないわ」
春華は苦笑して首を横に振る。
社長や副社長などの役員と接点があるのは秘書課だ。同じ総務部でも春華は人事課所属。どちらも同じフロアにあるが、秘書課と人事課は端と端に位置している。加えて専務以上の役員には専用の執務室があるから、春華のような一般社員が彼らと直接やりとりすることは皆無に等しい。
「接点のなさで言ったら他の部署と変わらないわよ」
言いながら心の中で付け足す。
(確かに〝顔だけ〟は文句なしにいいと思うけど)
もちろん口には出さない。そんなことしたら色めき立つ他の女性社員にどんな目を向けられるか、想像するだけで冷や汗ものだ。
女性陣が聡に見惚れるのは理解できるが、人の好みはそれぞれ。外見に重きを置く人もいれば、内面を重視する人もいる。春華の場合は圧倒的に後者だ。
「私は、いくら見た目がよくてお金持ちでも、女性関係にだらしない人は好みじゃないわ」
春華の言葉に、香は「確かに」と苦笑する。
「不動副社長、結婚したのに相変わらずいろんなところで噂が立ってるものね」
「そういうこと」
聡が有名である最後の理由。それは女性関係の華やかさだ。
社内で圧倒的人気を誇る彼は、実は既婚者だ。その証拠に左手の薬指には結婚指輪が常に嵌められている。それにもかかわらず、彼には女性関係の噂が常にあった。相手は取引先の令嬢だとか芸能関係者だとか言われているが、誰かは明確になったことはない。
とはいえ、噂が絶えないということは事実無根というわけでもないのだろう。学生時代はかなり派手に遊んでいたというし、あのルックスだ。浮気のひとつやふたつしていても不思議ではない。
「あーあ、副社長が既婚者じゃなければなぁ」
香の呟きに、春華は悪戯っぽく唇の端を上げた。
「狙ってた?」
「まさか」
香はすぐに否定する。
「私にとって副社長はあくまで推しよ。遠くできゃーきゃー言ってる分には楽しいけど、自分と……だなんて考えたこともないわ。恋人にするなら断然、木梨さんだもん」
香は聡の向かいに座る眼鏡の男性、木梨の名前を挙げる。
木梨は聡とは違ったタイプのイケメンだ。真面目で穏やかそうな風貌の彼は、香曰く「リアコ」枠らしい。香とは同じ大学の出身で、インターンシップでも世話になったのだと聞いている。
「私も、どちらかといえば木梨さんの方がタイプかも」
「ダメよ、木梨さんは私のものだから」
「そうなの?」
「そうなればいいなっていう願望。でも、彼氏とは別れるつもりだし、本気で狙ってみようかな」
何かと噂の絶えない聡が相手なら反対したかもしれないが、木梨なら安心だ。
「頑張って。応援してるわ」
そんな雑談をしながらふたりは昼食を終えた。ここからは午後の仕事がスタートだ。
春華は総務部へ、香は経理部へ戻らねばならない。
年度末を目前に控えた今はどの部署も慌ただしい。人事を担当している春華も、来月には新入社員との関わりがグンと増える。
午後も頑張ろうと互いをねぎらいながらふたりは席を立った。そして食堂を出ていく道すがら、春華は何とはなしに聡の方を見てハッとした。
聡と目が合ったのだ。しかも、ただ視線が合っただけではない。聡は不機嫌そうに春華を睨んでいるように見えた。
(気のせい?)
それにしてはまっすぐこちらに鋭い視線を向けていた。とはいえ足を止めるわけにもいかず、春華は動揺したまま出口へと向かう。だから気づかなかった。
「副社長?」
「……いや、なんでもない」
木梨に呼ばれた聡が、春華の後ろ姿を実に苦々しい表情で見つめていたことに。
その日の午後六時過ぎ。仕事を終えた春華はデスクトップパソコンの電源を切り、席を立った。
まだ残っている他の社員に挨拶をしてフロアを出ると、自然と肩の力が抜ける。しかし、それはどこか心地のよい疲労感だ。
来月の四月になれば、春華は社会人三年目に突入する。四月二十日の誕生日で二十五歳を迎えたら、晴れてアラサーの仲間入りだ。
(二年間、あっという間だったなぁ)
会社を出た春華は人目も憚らず大きく伸びをした。
現在所属している人事課では、主に採用の仕事を担当している。まだまだ経験不足だが、二年目になって後輩もでき、今のところは充実した社会人生活を送っていた。
――自ら稼いで給料を得る。それをもとに自活する。
多くの人にとっては自然なその行為が、春華は今でもときどき特別に感じる瞬間がある。
春華は昔から人一倍『自立したい』という気持ちが強かった。けれど、学生時代にアルバイトをすることは許されなかった。
だからだろうか。働くことができる現状が嬉しくて仕方ないのだ。
(香には引かれちゃったけど)
この話をした際、『信じられない』『社畜?』と目を丸くした友人の反応は記憶に新しい。
香は〝労働=自己時間を充実させるための代価〟と捉えている。〝充実=仕事〟な春華とはある意味、真逆の価値観だ。もちろん、人によって当然異なるものなので、おかしいこととは思わない。でも、春華がその価値観にいたった理由を友人に話すことは、多分この先もないだろう。
「野木さん!」
駅に向かって歩いていた春華は、後方からかけられた声に足を止めた。
振り返ると、ひとりの男性がこちらに向かって走ってくるのが見えた。同じ人事課に所属する一年後輩の岡崎絢斗だ。
「よかった、間に合った!」
春華の目の前に到着した岡崎はニコッと笑う。しかし、春華は笑えなかった。こんなにも全力ダッシュで追いかけてくるなんて只事ではないと思ったのだ。
「どうしたの、そんなに急いで。会社で何かあった?」
即座に頭の中でやり残した仕事がないかを振り返るが、何も浮かばない。
「違いますよ。野木さんが見えたから走ってきただけです。せっかくですし、一緒に帰りません?」
「それはいいけど、何事かと思ったわ」
「すみません、つい」
隣に並んだ岡崎が頬を緩める。それに拍子抜けした春華は苦笑し、共に駅に向かって歩き始めた。
岡崎は春華にとって初めての後輩だ。黒髪に焦茶色の瞳をした彼は、学生時代はサッカーに打ち込んでいた根っからのスポーツマンで、部署の中でも可愛がられている。明るい性格で、どこか大型犬を思わせる愛嬌のある男性だ。
年齢が近いこともあってか、岡崎は何かと春華を慕ってくれる。
「この後に予定がないなら、飯でも食いに行きません?」
「私と岡崎君のふたりで?」
「はい」
さて、どうしたものか。別にこれはデートの誘いではなく、同僚から食事に誘われただけだ。ふたりで夕食を共にすることにはなんの問題もないのだけれど――
「あっ、もしかして同居人と一緒に食べる約束でもしてました?」
就職をきっかけに実家を出た春華が知人とルームシェアを始めて、もうすぐ二年になる。それを知った上での質問だろうが、答えは『ノー』だ。同居人とは決して不仲ではないが、それでも夕食を共にしたことは数えられる程度だった。
それをどう説明しようかと、ためらっていたそのとき。
「あっ!」
突然、岡崎が声を上げた。その視線は通りの向こう側に向いている。
何事かと思いつつ同じ方向を見た春華は、目に飛び込んできた光景に『なるほど』と心の中で納得する。
「あれ、不動副社長ですよね?」
「……そうね」
あんなにも目立つ男を見間違えるはずもない。
通りを挟んだ対角線上にいたのは、不動聡。その隣には柔らかなベージュのパンツスーツを着た女性が立っていた。聡より頭ひとつ分以上背が低く、小柄だ。遠目にもわかるほど可愛らしい顔立ちのその女性は、聡を見上げて微笑んでいる。
親密な雰囲気を漂わせながらふたりは停車していたタクシーに乗り込むと、夜の街へと消えていった。時間にして十数秒にもかかわらず、映画のワンシーンのようだった。
「うわー、貴重なもの見ちゃったかも。あれって噂の奥さんですかね?」
遠ざかる車を見送りながら岡崎がやや興奮気味に呟く。
「奥さんではないと思うわよ」
岡崎とは対照的に春華は冷静に答えた。
聡が既婚者なのは有名な話だが、その相手が誰かまでは知られていない。一部ではあえて隠しているのではないか……とも噂されている。そんな相手と堂々とデートはしないだろう。
そう見解を述べると岡崎は「確かに」と頷いた。
「それじゃあ恋人かな。結婚してるから、浮気相手とか?」
「さあ、どうかしら」
「でも、既婚者なのに他の女性とデートって普通に不倫ですよね。やっぱり副社長の噂は本当だったかぁ。でもあれだけイケメンなら仕方な――」
「岡崎君」
なおも聡の話題を続けようとする岡崎を遮り、春華は声を上げた。
「やっぱり今日、ご飯に行く?」
「えっ!? いいんですか!」
「お酒は飲まないけど、それでもよければ」
「全然いいです!」
意気込んだ岡崎は「すぐに店を決めますから!」と言って、スマートフォンで店を検索し始める。
その様子を春華は微笑ましく思いながら見つめた。プライベートでは会社の人間と関わりたくない人は多くなっていると言われている中、春華と食事に行くだけでこうも喜ぶなんて可愛い後輩だと思う。春華はひとりっ子だが、弟がいたらこんな感じなのかもしれない。
「じゃあこの店でいいですか? 口コミの評価も高いし」
「ええ」
ものの数分で店は決まり、春華と岡崎は近くにある居酒屋に向かう。
明るくノリのいい後輩と過ごすのは純粋に楽しかった。ビールのジョッキを傾けながら、岡崎が尋ねる。
「そういえば結局、同居人の方は大丈夫でしたか? 俺は野木さんと食事に来られて嬉しいですけど」
「大丈夫よ。さっきは言わなかったけど、基本的には食事は別々だから。今日も外で済ませてくると思うし」
春華の答えに岡崎は目を瞬かせた。
「随分あっさりしてるんですね」
「そう? こんなものだと思うけど」
「そっか。まあ、同居と同棲は違うか」
ポツリと岡崎は呟いた。
「野木さんみたいな感じならうまくいったのかなぁ。いや、俺、大学生の頃に彼女と同棲したことがあるんですけど、住み始めてすぐにダメになったんですよね」
大学時代に恋人と同棲。大学と実家の行き来で四年間が終わった春華には、あまりに縁遠い話だ。
「最初は一緒にいられて嬉しかったのに、時間が経つにつれてストレスばかりが溜まっちゃって。そういうことありません?」
春華は自身の同居生活を振り返りながら、口を開いた。
「ストレスは別に溜まらない……かな。同居と言ってもそれぞれの部屋は別にあるし、お互い必要以上に干渉しないようにしているから」
「そうか、部屋数があれば違うのか。それに野木さんの同居人は女性ですもんね。俺は1DKだったし、喧嘩したが最後、逃げ場がなかったんですよね」
「ずっと同じ部屋なのは大変かもね」
そんなやりとりを交わしつつ、一時間ほどで店を後にした。ちなみに今日の食事代は春華が持った。会社の後輩にお金は出させられない。
「ごちそうさまでした。でも、次は俺が出しますからね」
「ふふっ、次があったらね」
「え、もうないんですか?」
大袈裟に肩を落とす仕草がおかしくて、春華が「冗談よ」と返せば、岡崎は「よかった」と小さく息を吐いた。
「野木さんの機嫌も直ったようだし」
意外な言葉に、春華は駅に向かう足をぴたりと止める。
「私、不機嫌そうに見えた?」
楽しく食事をしていたつもりだったが、岡崎には違って見えたのだろうか。そうだとしたら申し訳ないことをしたな……と反省していると、岡崎は「そうじゃなくて」と首を横に振る。
三月初旬。
株式会社不動旅行企画のオフィスビル内の社員食堂で、それは起きた。
「浮気は滅びろ、不倫は地獄行き」
物騒な発言と共に正面に、だん! とトレイが乱暴に置かれる。その衝撃でうどんを啜っていた野木春華は「けほっ」とむせた。
危ない。咳をするタイミングがあと少しでもずれていたら、人が大勢集まる社員食堂で鼻からうどん、なんて残念すぎる姿を晒すところだった。
「急にどうしたの、香?」
なんとか呼吸を整えた春華は戸惑いながら正面を見る。そこには、全身に不機嫌オーラを纏う同期兼友人の新里香がいた。食器トレイに春華と同じうどんを載せた香は、対面に座るなり眉間に皺を寄せて睨んでくる。
(え、怖い)
本当にどうしたというのだろう。いつも朗らかな笑顔を絶やさない友人が見せた険しい表情に戸惑っていると、香はゆっくりと口を開いた。
「……たの」
「なんて?」
「だから、浮気されたの」
テーブルは違えど周囲には他に社員もいるからか、その声はとても小さい。けれど、地面を這うような低い声は彼女の怒りをこれ以上なく表していた。春華もまた、〝浮気〟の一言にピクリと眉を動かす。
「今の彼氏とは、結婚を前提に付き合ってるって言ってたわよね?」
香は悔しそうに唇を引き結び、無言で頷いた。
香の恋人は、広告代理店勤務の二歳年上の男だったはず。一年前にマッチングアプリで知り合い、最近『そろそろ結婚に向けて同棲を考えてるんだ』と報告を受けた。そのときの香は同性の春華から見てもとても可愛らしくて、『結婚が決まったらお祝いさせてね』と気が早い返事をしたばかりだった。
(それなのに、浮気ですって?)
ふざけるな、いったいどういうことだ、問い詰めてやる――一気に怒りの感情が湧き上がり、自然と顔が険しくなる。香もそれに気づいたようだ。
「春華」
「何」
「私がするならともかく、どうしてあんたがそんなに怖い顔をしてるの?」
「大切な友人が馬鹿にされたんだから、怒るのは自然なことでしょ」
きっぱり言い切る。とある事情から学生時代をぼっちで過ごした春華にとって、香はかけがえのない友人だ。そんな彼女が無下に扱われたのに怒らないわけがない。
その思いは相手にも伝わったのか、香は一瞬面食らったように目を瞬かせた後、苦笑する。
「ありがと。そう言ってくれると少し救われるわ」
小さくため息をつき、香はことの次第を話し始めた。
「……会社の後輩と二股されてたの。しかも、それが発覚したのはついさっき」
「どういうこと?」
「浮気相手宛のメッセージを私に送ってきたのよ。『週末の温泉旅行、楽しみにしてる!』って浮かれた文章をね」
「ありえない」
春華はたまらず吐き捨てた。そのときの香の心情を想像しただけで胸が痛くなる。
「本当、ありえないわよね。ダサいのが、すぐに送信取り消しをしたのよ。まあ、速攻スクショを撮ったから意味はないんだけど。電話をして問い詰めたら、あっさり浮気を白状したわ。『出来心だ』って言ってたけど――」
「信じちゃダメよ、そんな言葉。香がいるのに他の女性と関係を持つなんて最低。そんな男に、香はもったいないわ。ブロック一択」
春華は最後まで聞くことなく切り捨てたが、すぐにしまったと我に返る。友人の彼氏を『最低』呼ばわりは、言葉が過ぎたかもしれない。でも、香には申し訳ないが、考えるより先に口をついて出てしまったのだ。
さすがに、滅びろ、地獄に行け――とまでは思わないけれど、春華も浮気は絶対に許せないと思っている。たとえ友人の話であっても自分ごとに感じるほどに、不貞行為に対する嫌悪感は強い。
「ごめんね、言いすぎたかも」
「全然!」
謝罪すると香は首を横に振った。春華が怒りを見せたことでいくらか落ち着いたのかもしれない。
香はわずかに肩の力を抜き、大きなため息をついて箸に手を伸ばす。
(よかった、食欲はあるみたい)
内心ホッとしつつ、春華もまた食事を再開する。
「結構好きだったんだけどなぁ。あー、しんど」
「早退しなくて大丈夫?」
浮気も失恋も未経験の春華にはわからないが、今の香は結婚を考えていた恋人に裏切られた直後。仕事どころではないのでは、と心配になるが、香は真顔で「早退なんてありえない」と答える。
「最低男が原因で、貴重な午後休を使いたくないもん。意地でも休まない」
きっぱりと言い切る姿は、春華の目にとても魅力的に映った。
「香ならすぐに新しい恋人ができるわよ。男の人はその人だけじゃないし」
「今まで一度も彼氏がいたことがない春華に言われてもね」
「うっ……それは、そうだけど」
慰めたつもりがまさかの反撃をくらってしまう。でも、事実なだけに何も言い返せなかった。
現在二十四歳の春華は、学生時代も含めて一度も異性との交際経験がない。一方、香は恋多き女性だ。彼女とは約二年の付き合いになるが、香に恋人がいなかった期間はほとんどない。『恋愛経験』という点において、春華は友人の足元にも及ばないのだ。
「でも、お世辞じゃないわ。香は可愛いから、付き合いたいと思う人はたくさんいるわよ」
交際経験がないのは事実だが、その言葉に嘘はない。そう伝えると、香はクスリと笑う。
「わかってる。意地悪言ってごめんね、冗談よ。ありがとう、春華」
くりっとした目を細めた香は、淡いピンクのルージュを引いた唇をふわりと綻ばせる。
(あ、可愛い)
明るい茶色の髪を肩のあたりでふんわりと巻いた香は、「モテ女」の見本のような容姿をしている。身長は百五十八センチ。華奢ながらも胸は大きく、実に女性らしい体つきが魅力的だ。
(香の半分でいいから、私にもこの可愛さがあればいいのに)
春華は髪を一度も染めたことがないし、腰まで伸びた黒のストレートロングはいつも簡単にひとつにまとめている。身長は百七十センチと女性にしては高めだ。
しかも、子どもの頃から脂肪のつきにくい体質のせいか、香のようなまろやかさはほとんどない。そのくせ胸だけは大きいのがかえってアンバランスで、思春期にはかなり気にしていた。
顔立ちも綺麗と言われることはあるが、きつい印象を与えがちなキリッとした眉や猫目は、自分ではあまり好きではない。見た目という点で言えば、香とは何もかもが正反対だ。
「でも、それを言うなら、春華と付き合いたい男こそたくさんいると思うけど」
矛先を向けられた春華は小さく肩をすくめる。
「まさか。そんな物好きな人いないわよ。それに私は今のところ恋愛する気はないし」
「またそんなこと言って。結局、春華みたいな清楚系が一番モテるのよ。しかも、あんたの場合は本物のお嬢様だし」
「それは……」
「野木製菓なんて、誰でも一度は名前を聞いたことがあるような大企業だもの。ご両親も立派な方なんでしょうね。ただのサラリーマン家系のうちとは違うわ」
「そんなことないわよ」
春華は曖昧な笑顔で受け流した。これ以上、実家の話題を広げたくなかったのだ。
春華の父は会社を経営しているし、その会社が国内でも有数の食品会社なのは事実である。父は経営者としては優秀なのだろう。でも父親としては違う、と春華は心の中で香の言葉を否定した。
(不倫するような人を尊敬なんてできない)
父が母以外の女性と関係を持ったのは、春華が十歳のときだった。父曰く不倫をしたのはそのときだけらしいが、その一度の不貞行為で春華の家庭はあっけなく壊れた。
夫の裏切りを許せなかった母は父を責め、家庭に居場所がなくなった父は仕事に逃げた。
それから今日までの間、春華は一度も一家団欒というものをしたことがない。
そんな家庭環境で育った春華にとって浮気は絶対悪。先ほど香の恋人を『最低』と言ってしまった理由もここにあった。『異性関係にだらしない男』はそれだけで恋愛対象外だ。
たとえ、相手が非の打ち所がないほど完璧な男だったとしても。
「あっ!」
不意に香が声を上げた。
「見て、不動副社長よ」
香は、興奮気味に輝かせた目を春華の後方に向けたまま、小さく感嘆の息をつく。けれど春華はそちらを見ることはしなかった。
「香、早く食べないとうどんが伸びるわよ」
伸び切った麺ほど残念なものはない。しかし、香は何を言っているんだと言わんばかりに顔を顰めた。
「うどんよりも不動副社長でしょ?」
「私は不動副社長よりうどんかな」
そう答えて、春華は最後に残った麺を啜る。やっぱりうちの社食のうどんは美味しい。
箸を置いた香は呆れたように小さく肩をすくめ、再び春華の後方に視線を戻した。
「いつ見ても素敵ねぇ。目の保養になるわ」
ついさっきまで浮気されたと嘆いていたのにえらい変わりようだ。でも、凹んでいるよりずっといい。春華が安堵と呆れの両方を感じていると、香はニコリと笑顔を見せた。
「春華もたまにはイケメン成分を摂取した方がいいわよ。じゃないとあっという間に枯れるから」
「イケメン成分って」
ある程度共感しないとこの話題は終わらないかもしれない。仕方なく春華が振り向けば、同様に同じ方向を見つめる女性社員がたくさんいることに気づいた。その視線が集まる先ではふたりの男性が食事をしている。
副社長の不動聡と、彼の専属秘書を務める木梨修吾だ。
そして、聡こそが女性社員の色めき立つ原因だった。その主な理由は三つある。
まずは、経歴。
春華と香の勤める不動旅行企画は、国内でも有数の大手旅行会社である。聡はその名からもわかる通り、創業者一族にして現社長のひとり息子。年齢は二十九歳と若いものの、いずれは父の後を継ぐことが決定している、いわば生粋の御曹司である。
だが、聡は名ばかりの後継者ではなかった。豊富な留学経験を持つ彼は、マルチリンガルで、日本の最高学府を卒業した後に不動旅行企画に入社し、数々の実績を打ち立て二年前に副社長に就任したやり手でもあるのだ。
次に、容姿。
聡は百八十五センチの高身長で、日本人離れしたスタイルの持ち主だ。すらりと伸びた長い手足に引き締まった体は、外国人モデルが撮影用のスーツを着ていると言われた方がしっくりくるほどだった。
その上、顔が抜群にいい。艶のある黒髪。キリッとした眉に切れ長の瞳。高く通った鼻筋や形のよい唇。美形という言葉がここまで似合う人は、そうそういないだろう。
そんな容姿端麗な彼は、社内の女性陣からアイドルのような扱いを受けている。
『遠くの推しより近くの推し』というのはそのうちのひとりである香の言だ。実物が間近で見られて、運が良ければ会話もできる。そんな不動聡は理想的な推しの相手なのだとか。
(言いたいことは理解できるけど、共感はできないのよね)
そんな感情が表情に出ていたのか、香は春華をちらりと見て再び小さく肩をすくめた。
「春華くらいじゃない? 不動副社長に興味がないの」
「目立つ人だな、とは思うわよ」
「もう、そうじゃなくて。『かっこいいな』とか『素敵だな』とか思わないの? それとも総務部にいるから見慣れてるとか?」
「そんなことないわ」
春華は苦笑して首を横に振る。
社長や副社長などの役員と接点があるのは秘書課だ。同じ総務部でも春華は人事課所属。どちらも同じフロアにあるが、秘書課と人事課は端と端に位置している。加えて専務以上の役員には専用の執務室があるから、春華のような一般社員が彼らと直接やりとりすることは皆無に等しい。
「接点のなさで言ったら他の部署と変わらないわよ」
言いながら心の中で付け足す。
(確かに〝顔だけ〟は文句なしにいいと思うけど)
もちろん口には出さない。そんなことしたら色めき立つ他の女性社員にどんな目を向けられるか、想像するだけで冷や汗ものだ。
女性陣が聡に見惚れるのは理解できるが、人の好みはそれぞれ。外見に重きを置く人もいれば、内面を重視する人もいる。春華の場合は圧倒的に後者だ。
「私は、いくら見た目がよくてお金持ちでも、女性関係にだらしない人は好みじゃないわ」
春華の言葉に、香は「確かに」と苦笑する。
「不動副社長、結婚したのに相変わらずいろんなところで噂が立ってるものね」
「そういうこと」
聡が有名である最後の理由。それは女性関係の華やかさだ。
社内で圧倒的人気を誇る彼は、実は既婚者だ。その証拠に左手の薬指には結婚指輪が常に嵌められている。それにもかかわらず、彼には女性関係の噂が常にあった。相手は取引先の令嬢だとか芸能関係者だとか言われているが、誰かは明確になったことはない。
とはいえ、噂が絶えないということは事実無根というわけでもないのだろう。学生時代はかなり派手に遊んでいたというし、あのルックスだ。浮気のひとつやふたつしていても不思議ではない。
「あーあ、副社長が既婚者じゃなければなぁ」
香の呟きに、春華は悪戯っぽく唇の端を上げた。
「狙ってた?」
「まさか」
香はすぐに否定する。
「私にとって副社長はあくまで推しよ。遠くできゃーきゃー言ってる分には楽しいけど、自分と……だなんて考えたこともないわ。恋人にするなら断然、木梨さんだもん」
香は聡の向かいに座る眼鏡の男性、木梨の名前を挙げる。
木梨は聡とは違ったタイプのイケメンだ。真面目で穏やかそうな風貌の彼は、香曰く「リアコ」枠らしい。香とは同じ大学の出身で、インターンシップでも世話になったのだと聞いている。
「私も、どちらかといえば木梨さんの方がタイプかも」
「ダメよ、木梨さんは私のものだから」
「そうなの?」
「そうなればいいなっていう願望。でも、彼氏とは別れるつもりだし、本気で狙ってみようかな」
何かと噂の絶えない聡が相手なら反対したかもしれないが、木梨なら安心だ。
「頑張って。応援してるわ」
そんな雑談をしながらふたりは昼食を終えた。ここからは午後の仕事がスタートだ。
春華は総務部へ、香は経理部へ戻らねばならない。
年度末を目前に控えた今はどの部署も慌ただしい。人事を担当している春華も、来月には新入社員との関わりがグンと増える。
午後も頑張ろうと互いをねぎらいながらふたりは席を立った。そして食堂を出ていく道すがら、春華は何とはなしに聡の方を見てハッとした。
聡と目が合ったのだ。しかも、ただ視線が合っただけではない。聡は不機嫌そうに春華を睨んでいるように見えた。
(気のせい?)
それにしてはまっすぐこちらに鋭い視線を向けていた。とはいえ足を止めるわけにもいかず、春華は動揺したまま出口へと向かう。だから気づかなかった。
「副社長?」
「……いや、なんでもない」
木梨に呼ばれた聡が、春華の後ろ姿を実に苦々しい表情で見つめていたことに。
その日の午後六時過ぎ。仕事を終えた春華はデスクトップパソコンの電源を切り、席を立った。
まだ残っている他の社員に挨拶をしてフロアを出ると、自然と肩の力が抜ける。しかし、それはどこか心地のよい疲労感だ。
来月の四月になれば、春華は社会人三年目に突入する。四月二十日の誕生日で二十五歳を迎えたら、晴れてアラサーの仲間入りだ。
(二年間、あっという間だったなぁ)
会社を出た春華は人目も憚らず大きく伸びをした。
現在所属している人事課では、主に採用の仕事を担当している。まだまだ経験不足だが、二年目になって後輩もでき、今のところは充実した社会人生活を送っていた。
――自ら稼いで給料を得る。それをもとに自活する。
多くの人にとっては自然なその行為が、春華は今でもときどき特別に感じる瞬間がある。
春華は昔から人一倍『自立したい』という気持ちが強かった。けれど、学生時代にアルバイトをすることは許されなかった。
だからだろうか。働くことができる現状が嬉しくて仕方ないのだ。
(香には引かれちゃったけど)
この話をした際、『信じられない』『社畜?』と目を丸くした友人の反応は記憶に新しい。
香は〝労働=自己時間を充実させるための代価〟と捉えている。〝充実=仕事〟な春華とはある意味、真逆の価値観だ。もちろん、人によって当然異なるものなので、おかしいこととは思わない。でも、春華がその価値観にいたった理由を友人に話すことは、多分この先もないだろう。
「野木さん!」
駅に向かって歩いていた春華は、後方からかけられた声に足を止めた。
振り返ると、ひとりの男性がこちらに向かって走ってくるのが見えた。同じ人事課に所属する一年後輩の岡崎絢斗だ。
「よかった、間に合った!」
春華の目の前に到着した岡崎はニコッと笑う。しかし、春華は笑えなかった。こんなにも全力ダッシュで追いかけてくるなんて只事ではないと思ったのだ。
「どうしたの、そんなに急いで。会社で何かあった?」
即座に頭の中でやり残した仕事がないかを振り返るが、何も浮かばない。
「違いますよ。野木さんが見えたから走ってきただけです。せっかくですし、一緒に帰りません?」
「それはいいけど、何事かと思ったわ」
「すみません、つい」
隣に並んだ岡崎が頬を緩める。それに拍子抜けした春華は苦笑し、共に駅に向かって歩き始めた。
岡崎は春華にとって初めての後輩だ。黒髪に焦茶色の瞳をした彼は、学生時代はサッカーに打ち込んでいた根っからのスポーツマンで、部署の中でも可愛がられている。明るい性格で、どこか大型犬を思わせる愛嬌のある男性だ。
年齢が近いこともあってか、岡崎は何かと春華を慕ってくれる。
「この後に予定がないなら、飯でも食いに行きません?」
「私と岡崎君のふたりで?」
「はい」
さて、どうしたものか。別にこれはデートの誘いではなく、同僚から食事に誘われただけだ。ふたりで夕食を共にすることにはなんの問題もないのだけれど――
「あっ、もしかして同居人と一緒に食べる約束でもしてました?」
就職をきっかけに実家を出た春華が知人とルームシェアを始めて、もうすぐ二年になる。それを知った上での質問だろうが、答えは『ノー』だ。同居人とは決して不仲ではないが、それでも夕食を共にしたことは数えられる程度だった。
それをどう説明しようかと、ためらっていたそのとき。
「あっ!」
突然、岡崎が声を上げた。その視線は通りの向こう側に向いている。
何事かと思いつつ同じ方向を見た春華は、目に飛び込んできた光景に『なるほど』と心の中で納得する。
「あれ、不動副社長ですよね?」
「……そうね」
あんなにも目立つ男を見間違えるはずもない。
通りを挟んだ対角線上にいたのは、不動聡。その隣には柔らかなベージュのパンツスーツを着た女性が立っていた。聡より頭ひとつ分以上背が低く、小柄だ。遠目にもわかるほど可愛らしい顔立ちのその女性は、聡を見上げて微笑んでいる。
親密な雰囲気を漂わせながらふたりは停車していたタクシーに乗り込むと、夜の街へと消えていった。時間にして十数秒にもかかわらず、映画のワンシーンのようだった。
「うわー、貴重なもの見ちゃったかも。あれって噂の奥さんですかね?」
遠ざかる車を見送りながら岡崎がやや興奮気味に呟く。
「奥さんではないと思うわよ」
岡崎とは対照的に春華は冷静に答えた。
聡が既婚者なのは有名な話だが、その相手が誰かまでは知られていない。一部ではあえて隠しているのではないか……とも噂されている。そんな相手と堂々とデートはしないだろう。
そう見解を述べると岡崎は「確かに」と頷いた。
「それじゃあ恋人かな。結婚してるから、浮気相手とか?」
「さあ、どうかしら」
「でも、既婚者なのに他の女性とデートって普通に不倫ですよね。やっぱり副社長の噂は本当だったかぁ。でもあれだけイケメンなら仕方な――」
「岡崎君」
なおも聡の話題を続けようとする岡崎を遮り、春華は声を上げた。
「やっぱり今日、ご飯に行く?」
「えっ!? いいんですか!」
「お酒は飲まないけど、それでもよければ」
「全然いいです!」
意気込んだ岡崎は「すぐに店を決めますから!」と言って、スマートフォンで店を検索し始める。
その様子を春華は微笑ましく思いながら見つめた。プライベートでは会社の人間と関わりたくない人は多くなっていると言われている中、春華と食事に行くだけでこうも喜ぶなんて可愛い後輩だと思う。春華はひとりっ子だが、弟がいたらこんな感じなのかもしれない。
「じゃあこの店でいいですか? 口コミの評価も高いし」
「ええ」
ものの数分で店は決まり、春華と岡崎は近くにある居酒屋に向かう。
明るくノリのいい後輩と過ごすのは純粋に楽しかった。ビールのジョッキを傾けながら、岡崎が尋ねる。
「そういえば結局、同居人の方は大丈夫でしたか? 俺は野木さんと食事に来られて嬉しいですけど」
「大丈夫よ。さっきは言わなかったけど、基本的には食事は別々だから。今日も外で済ませてくると思うし」
春華の答えに岡崎は目を瞬かせた。
「随分あっさりしてるんですね」
「そう? こんなものだと思うけど」
「そっか。まあ、同居と同棲は違うか」
ポツリと岡崎は呟いた。
「野木さんみたいな感じならうまくいったのかなぁ。いや、俺、大学生の頃に彼女と同棲したことがあるんですけど、住み始めてすぐにダメになったんですよね」
大学時代に恋人と同棲。大学と実家の行き来で四年間が終わった春華には、あまりに縁遠い話だ。
「最初は一緒にいられて嬉しかったのに、時間が経つにつれてストレスばかりが溜まっちゃって。そういうことありません?」
春華は自身の同居生活を振り返りながら、口を開いた。
「ストレスは別に溜まらない……かな。同居と言ってもそれぞれの部屋は別にあるし、お互い必要以上に干渉しないようにしているから」
「そうか、部屋数があれば違うのか。それに野木さんの同居人は女性ですもんね。俺は1DKだったし、喧嘩したが最後、逃げ場がなかったんですよね」
「ずっと同じ部屋なのは大変かもね」
そんなやりとりを交わしつつ、一時間ほどで店を後にした。ちなみに今日の食事代は春華が持った。会社の後輩にお金は出させられない。
「ごちそうさまでした。でも、次は俺が出しますからね」
「ふふっ、次があったらね」
「え、もうないんですか?」
大袈裟に肩を落とす仕草がおかしくて、春華が「冗談よ」と返せば、岡崎は「よかった」と小さく息を吐いた。
「野木さんの機嫌も直ったようだし」
意外な言葉に、春華は駅に向かう足をぴたりと止める。
「私、不機嫌そうに見えた?」
楽しく食事をしていたつもりだったが、岡崎には違って見えたのだろうか。そうだとしたら申し訳ないことをしたな……と反省していると、岡崎は「そうじゃなくて」と首を横に振る。
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