1 / 17
1巻
1-1
しおりを挟む
1
三月初旬。
株式会社不動旅行企画のオフィスビル内の社員食堂で、それは起きた。
「浮気は滅びろ、不倫は地獄行き」
物騒な発言と共に正面に、だん! とトレイが乱暴に置かれる。その衝撃でうどんを啜っていた野木春華は「けほっ」とむせた。
危ない。咳をするタイミングがあと少しでもずれていたら、人が大勢集まる社員食堂で鼻からうどん、なんて残念すぎる姿を晒すところだった。
「急にどうしたの、香?」
なんとか呼吸を整えた春華は戸惑いながら正面を見る。そこには、全身に不機嫌オーラを纏う同期兼友人の新里香がいた。食器トレイに春華と同じうどんを載せた香は、対面に座るなり眉間に皺を寄せて睨んでくる。
(え、怖い)
本当にどうしたというのだろう。いつも朗らかな笑顔を絶やさない友人が見せた険しい表情に戸惑っていると、香はゆっくりと口を開いた。
「……たの」
「なんて?」
「だから、浮気されたの」
テーブルは違えど周囲には他に社員もいるからか、その声はとても小さい。けれど、地面を這うような低い声は彼女の怒りをこれ以上なく表していた。春華もまた、〝浮気〟の一言にピクリと眉を動かす。
「今の彼氏とは、結婚を前提に付き合ってるって言ってたわよね?」
香は悔しそうに唇を引き結び、無言で頷いた。
香の恋人は、広告代理店勤務の二歳年上の男だったはず。一年前にマッチングアプリで知り合い、最近『そろそろ結婚に向けて同棲を考えてるんだ』と報告を受けた。そのときの香は同性の春華から見てもとても可愛らしくて、『結婚が決まったらお祝いさせてね』と気が早い返事をしたばかりだった。
(それなのに、浮気ですって?)
ふざけるな、いったいどういうことだ、問い詰めてやる――一気に怒りの感情が湧き上がり、自然と顔が険しくなる。香もそれに気づいたようだ。
「春華」
「何」
「私がするならともかく、どうしてあんたがそんなに怖い顔をしてるの?」
「大切な友人が馬鹿にされたんだから、怒るのは自然なことでしょ」
きっぱり言い切る。とある事情から学生時代をぼっちで過ごした春華にとって、香はかけがえのない友人だ。そんな彼女が無下に扱われたのに怒らないわけがない。
その思いは相手にも伝わったのか、香は一瞬面食らったように目を瞬かせた後、苦笑する。
「ありがと。そう言ってくれると少し救われるわ」
小さくため息をつき、香はことの次第を話し始めた。
「……会社の後輩と二股されてたの。しかも、それが発覚したのはついさっき」
「どういうこと?」
「浮気相手宛のメッセージを私に送ってきたのよ。『週末の温泉旅行、楽しみにしてる!』って浮かれた文章をね」
「ありえない」
春華はたまらず吐き捨てた。そのときの香の心情を想像しただけで胸が痛くなる。
「本当、ありえないわよね。ダサいのが、すぐに送信取り消しをしたのよ。まあ、速攻スクショを撮ったから意味はないんだけど。電話をして問い詰めたら、あっさり浮気を白状したわ。『出来心だ』って言ってたけど――」
「信じちゃダメよ、そんな言葉。香がいるのに他の女性と関係を持つなんて最低。そんな男に、香はもったいないわ。ブロック一択」
春華は最後まで聞くことなく切り捨てたが、すぐにしまったと我に返る。友人の彼氏を『最低』呼ばわりは、言葉が過ぎたかもしれない。でも、香には申し訳ないが、考えるより先に口をついて出てしまったのだ。
さすがに、滅びろ、地獄に行け――とまでは思わないけれど、春華も浮気は絶対に許せないと思っている。たとえ友人の話であっても自分ごとに感じるほどに、不貞行為に対する嫌悪感は強い。
「ごめんね、言いすぎたかも」
「全然!」
謝罪すると香は首を横に振った。春華が怒りを見せたことでいくらか落ち着いたのかもしれない。
香はわずかに肩の力を抜き、大きなため息をついて箸に手を伸ばす。
(よかった、食欲はあるみたい)
内心ホッとしつつ、春華もまた食事を再開する。
「結構好きだったんだけどなぁ。あー、しんど」
「早退しなくて大丈夫?」
浮気も失恋も未経験の春華にはわからないが、今の香は結婚を考えていた恋人に裏切られた直後。仕事どころではないのでは、と心配になるが、香は真顔で「早退なんてありえない」と答える。
「最低男が原因で、貴重な午後休を使いたくないもん。意地でも休まない」
きっぱりと言い切る姿は、春華の目にとても魅力的に映った。
「香ならすぐに新しい恋人ができるわよ。男の人はその人だけじゃないし」
「今まで一度も彼氏がいたことがない春華に言われてもね」
「うっ……それは、そうだけど」
慰めたつもりがまさかの反撃をくらってしまう。でも、事実なだけに何も言い返せなかった。
現在二十四歳の春華は、学生時代も含めて一度も異性との交際経験がない。一方、香は恋多き女性だ。彼女とは約二年の付き合いになるが、香に恋人がいなかった期間はほとんどない。『恋愛経験』という点において、春華は友人の足元にも及ばないのだ。
「でも、お世辞じゃないわ。香は可愛いから、付き合いたいと思う人はたくさんいるわよ」
交際経験がないのは事実だが、その言葉に嘘はない。そう伝えると、香はクスリと笑う。
「わかってる。意地悪言ってごめんね、冗談よ。ありがとう、春華」
くりっとした目を細めた香は、淡いピンクのルージュを引いた唇をふわりと綻ばせる。
(あ、可愛い)
明るい茶色の髪を肩のあたりでふんわりと巻いた香は、「モテ女」の見本のような容姿をしている。身長は百五十八センチ。華奢ながらも胸は大きく、実に女性らしい体つきが魅力的だ。
(香の半分でいいから、私にもこの可愛さがあればいいのに)
春華は髪を一度も染めたことがないし、腰まで伸びた黒のストレートロングはいつも簡単にひとつにまとめている。身長は百七十センチと女性にしては高めだ。
しかも、子どもの頃から脂肪のつきにくい体質のせいか、香のようなまろやかさはほとんどない。そのくせ胸だけは大きいのがかえってアンバランスで、思春期にはかなり気にしていた。
顔立ちも綺麗と言われることはあるが、きつい印象を与えがちなキリッとした眉や猫目は、自分ではあまり好きではない。見た目という点で言えば、香とは何もかもが正反対だ。
「でも、それを言うなら、春華と付き合いたい男こそたくさんいると思うけど」
矛先を向けられた春華は小さく肩をすくめる。
「まさか。そんな物好きな人いないわよ。それに私は今のところ恋愛する気はないし」
「またそんなこと言って。結局、春華みたいな清楚系が一番モテるのよ。しかも、あんたの場合は本物のお嬢様だし」
「それは……」
「野木製菓なんて、誰でも一度は名前を聞いたことがあるような大企業だもの。ご両親も立派な方なんでしょうね。ただのサラリーマン家系のうちとは違うわ」
「そんなことないわよ」
春華は曖昧な笑顔で受け流した。これ以上、実家の話題を広げたくなかったのだ。
春華の父は会社を経営しているし、その会社が国内でも有数の食品会社なのは事実である。父は経営者としては優秀なのだろう。でも父親としては違う、と春華は心の中で香の言葉を否定した。
(不倫するような人を尊敬なんてできない)
父が母以外の女性と関係を持ったのは、春華が十歳のときだった。父曰く不倫をしたのはそのときだけらしいが、その一度の不貞行為で春華の家庭はあっけなく壊れた。
夫の裏切りを許せなかった母は父を責め、家庭に居場所がなくなった父は仕事に逃げた。
それから今日までの間、春華は一度も一家団欒というものをしたことがない。
そんな家庭環境で育った春華にとって浮気は絶対悪。先ほど香の恋人を『最低』と言ってしまった理由もここにあった。『異性関係にだらしない男』はそれだけで恋愛対象外だ。
たとえ、相手が非の打ち所がないほど完璧な男だったとしても。
「あっ!」
不意に香が声を上げた。
「見て、不動副社長よ」
香は、興奮気味に輝かせた目を春華の後方に向けたまま、小さく感嘆の息をつく。けれど春華はそちらを見ることはしなかった。
「香、早く食べないとうどんが伸びるわよ」
伸び切った麺ほど残念なものはない。しかし、香は何を言っているんだと言わんばかりに顔を顰めた。
「うどんよりも不動副社長でしょ?」
「私は不動副社長よりうどんかな」
そう答えて、春華は最後に残った麺を啜る。やっぱりうちの社食のうどんは美味しい。
箸を置いた香は呆れたように小さく肩をすくめ、再び春華の後方に視線を戻した。
「いつ見ても素敵ねぇ。目の保養になるわ」
ついさっきまで浮気されたと嘆いていたのにえらい変わりようだ。でも、凹んでいるよりずっといい。春華が安堵と呆れの両方を感じていると、香はニコリと笑顔を見せた。
「春華もたまにはイケメン成分を摂取した方がいいわよ。じゃないとあっという間に枯れるから」
「イケメン成分って」
ある程度共感しないとこの話題は終わらないかもしれない。仕方なく春華が振り向けば、同様に同じ方向を見つめる女性社員がたくさんいることに気づいた。その視線が集まる先ではふたりの男性が食事をしている。
副社長の不動聡と、彼の専属秘書を務める木梨修吾だ。
そして、聡こそが女性社員の色めき立つ原因だった。その主な理由は三つある。
まずは、経歴。
春華と香の勤める不動旅行企画は、国内でも有数の大手旅行会社である。聡はその名からもわかる通り、創業者一族にして現社長のひとり息子。年齢は二十九歳と若いものの、いずれは父の後を継ぐことが決定している、いわば生粋の御曹司である。
だが、聡は名ばかりの後継者ではなかった。豊富な留学経験を持つ彼は、マルチリンガルで、日本の最高学府を卒業した後に不動旅行企画に入社し、数々の実績を打ち立て二年前に副社長に就任したやり手でもあるのだ。
次に、容姿。
聡は百八十五センチの高身長で、日本人離れしたスタイルの持ち主だ。すらりと伸びた長い手足に引き締まった体は、外国人モデルが撮影用のスーツを着ていると言われた方がしっくりくるほどだった。
その上、顔が抜群にいい。艶のある黒髪。キリッとした眉に切れ長の瞳。高く通った鼻筋や形のよい唇。美形という言葉がここまで似合う人は、そうそういないだろう。
そんな容姿端麗な彼は、社内の女性陣からアイドルのような扱いを受けている。
『遠くの推しより近くの推し』というのはそのうちのひとりである香の言だ。実物が間近で見られて、運が良ければ会話もできる。そんな不動聡は理想的な推しの相手なのだとか。
(言いたいことは理解できるけど、共感はできないのよね)
そんな感情が表情に出ていたのか、香は春華をちらりと見て再び小さく肩をすくめた。
「春華くらいじゃない? 不動副社長に興味がないの」
「目立つ人だな、とは思うわよ」
「もう、そうじゃなくて。『かっこいいな』とか『素敵だな』とか思わないの? それとも総務部にいるから見慣れてるとか?」
「そんなことないわ」
春華は苦笑して首を横に振る。
社長や副社長などの役員と接点があるのは秘書課だ。同じ総務部でも春華は人事課所属。どちらも同じフロアにあるが、秘書課と人事課は端と端に位置している。加えて専務以上の役員には専用の執務室があるから、春華のような一般社員が彼らと直接やりとりすることは皆無に等しい。
「接点のなさで言ったら他の部署と変わらないわよ」
言いながら心の中で付け足す。
(確かに〝顔だけ〟は文句なしにいいと思うけど)
もちろん口には出さない。そんなことしたら色めき立つ他の女性社員にどんな目を向けられるか、想像するだけで冷や汗ものだ。
女性陣が聡に見惚れるのは理解できるが、人の好みはそれぞれ。外見に重きを置く人もいれば、内面を重視する人もいる。春華の場合は圧倒的に後者だ。
「私は、いくら見た目がよくてお金持ちでも、女性関係にだらしない人は好みじゃないわ」
春華の言葉に、香は「確かに」と苦笑する。
「不動副社長、結婚したのに相変わらずいろんなところで噂が立ってるものね」
「そういうこと」
聡が有名である最後の理由。それは女性関係の華やかさだ。
社内で圧倒的人気を誇る彼は、実は既婚者だ。その証拠に左手の薬指には結婚指輪が常に嵌められている。それにもかかわらず、彼には女性関係の噂が常にあった。相手は取引先の令嬢だとか芸能関係者だとか言われているが、誰かは明確になったことはない。
とはいえ、噂が絶えないということは事実無根というわけでもないのだろう。学生時代はかなり派手に遊んでいたというし、あのルックスだ。浮気のひとつやふたつしていても不思議ではない。
「あーあ、副社長が既婚者じゃなければなぁ」
香の呟きに、春華は悪戯っぽく唇の端を上げた。
「狙ってた?」
「まさか」
香はすぐに否定する。
「私にとって副社長はあくまで推しよ。遠くできゃーきゃー言ってる分には楽しいけど、自分と……だなんて考えたこともないわ。恋人にするなら断然、木梨さんだもん」
香は聡の向かいに座る眼鏡の男性、木梨の名前を挙げる。
木梨は聡とは違ったタイプのイケメンだ。真面目で穏やかそうな風貌の彼は、香曰く「リアコ」枠らしい。香とは同じ大学の出身で、インターンシップでも世話になったのだと聞いている。
「私も、どちらかといえば木梨さんの方がタイプかも」
「ダメよ、木梨さんは私のものだから」
「そうなの?」
「そうなればいいなっていう願望。でも、彼氏とは別れるつもりだし、本気で狙ってみようかな」
何かと噂の絶えない聡が相手なら反対したかもしれないが、木梨なら安心だ。
「頑張って。応援してるわ」
そんな雑談をしながらふたりは昼食を終えた。ここからは午後の仕事がスタートだ。
春華は総務部へ、香は経理部へ戻らねばならない。
年度末を目前に控えた今はどの部署も慌ただしい。人事を担当している春華も、来月には新入社員との関わりがグンと増える。
午後も頑張ろうと互いをねぎらいながらふたりは席を立った。そして食堂を出ていく道すがら、春華は何とはなしに聡の方を見てハッとした。
聡と目が合ったのだ。しかも、ただ視線が合っただけではない。聡は不機嫌そうに春華を睨んでいるように見えた。
(気のせい?)
それにしてはまっすぐこちらに鋭い視線を向けていた。とはいえ足を止めるわけにもいかず、春華は動揺したまま出口へと向かう。だから気づかなかった。
「副社長?」
「……いや、なんでもない」
木梨に呼ばれた聡が、春華の後ろ姿を実に苦々しい表情で見つめていたことに。
その日の午後六時過ぎ。仕事を終えた春華はデスクトップパソコンの電源を切り、席を立った。
まだ残っている他の社員に挨拶をしてフロアを出ると、自然と肩の力が抜ける。しかし、それはどこか心地のよい疲労感だ。
来月の四月になれば、春華は社会人三年目に突入する。四月二十日の誕生日で二十五歳を迎えたら、晴れてアラサーの仲間入りだ。
(二年間、あっという間だったなぁ)
会社を出た春華は人目も憚らず大きく伸びをした。
現在所属している人事課では、主に採用の仕事を担当している。まだまだ経験不足だが、二年目になって後輩もでき、今のところは充実した社会人生活を送っていた。
――自ら稼いで給料を得る。それをもとに自活する。
多くの人にとっては自然なその行為が、春華は今でもときどき特別に感じる瞬間がある。
春華は昔から人一倍『自立したい』という気持ちが強かった。けれど、学生時代にアルバイトをすることは許されなかった。
だからだろうか。働くことができる現状が嬉しくて仕方ないのだ。
(香には引かれちゃったけど)
この話をした際、『信じられない』『社畜?』と目を丸くした友人の反応は記憶に新しい。
香は〝労働=自己時間を充実させるための代価〟と捉えている。〝充実=仕事〟な春華とはある意味、真逆の価値観だ。もちろん、人によって当然異なるものなので、おかしいこととは思わない。でも、春華がその価値観にいたった理由を友人に話すことは、多分この先もないだろう。
「野木さん!」
駅に向かって歩いていた春華は、後方からかけられた声に足を止めた。
振り返ると、ひとりの男性がこちらに向かって走ってくるのが見えた。同じ人事課に所属する一年後輩の岡崎絢斗だ。
「よかった、間に合った!」
春華の目の前に到着した岡崎はニコッと笑う。しかし、春華は笑えなかった。こんなにも全力ダッシュで追いかけてくるなんて只事ではないと思ったのだ。
「どうしたの、そんなに急いで。会社で何かあった?」
即座に頭の中でやり残した仕事がないかを振り返るが、何も浮かばない。
「違いますよ。野木さんが見えたから走ってきただけです。せっかくですし、一緒に帰りません?」
「それはいいけど、何事かと思ったわ」
「すみません、つい」
隣に並んだ岡崎が頬を緩める。それに拍子抜けした春華は苦笑し、共に駅に向かって歩き始めた。
岡崎は春華にとって初めての後輩だ。黒髪に焦茶色の瞳をした彼は、学生時代はサッカーに打ち込んでいた根っからのスポーツマンで、部署の中でも可愛がられている。明るい性格で、どこか大型犬を思わせる愛嬌のある男性だ。
年齢が近いこともあってか、岡崎は何かと春華を慕ってくれる。
「この後に予定がないなら、飯でも食いに行きません?」
「私と岡崎君のふたりで?」
「はい」
さて、どうしたものか。別にこれはデートの誘いではなく、同僚から食事に誘われただけだ。ふたりで夕食を共にすることにはなんの問題もないのだけれど――
「あっ、もしかして同居人と一緒に食べる約束でもしてました?」
就職をきっかけに実家を出た春華が知人とルームシェアを始めて、もうすぐ二年になる。それを知った上での質問だろうが、答えは『ノー』だ。同居人とは決して不仲ではないが、それでも夕食を共にしたことは数えられる程度だった。
それをどう説明しようかと、ためらっていたそのとき。
「あっ!」
突然、岡崎が声を上げた。その視線は通りの向こう側に向いている。
何事かと思いつつ同じ方向を見た春華は、目に飛び込んできた光景に『なるほど』と心の中で納得する。
「あれ、不動副社長ですよね?」
「……そうね」
あんなにも目立つ男を見間違えるはずもない。
通りを挟んだ対角線上にいたのは、不動聡。その隣には柔らかなベージュのパンツスーツを着た女性が立っていた。聡より頭ひとつ分以上背が低く、小柄だ。遠目にもわかるほど可愛らしい顔立ちのその女性は、聡を見上げて微笑んでいる。
親密な雰囲気を漂わせながらふたりは停車していたタクシーに乗り込むと、夜の街へと消えていった。時間にして十数秒にもかかわらず、映画のワンシーンのようだった。
「うわー、貴重なもの見ちゃったかも。あれって噂の奥さんですかね?」
遠ざかる車を見送りながら岡崎がやや興奮気味に呟く。
「奥さんではないと思うわよ」
岡崎とは対照的に春華は冷静に答えた。
聡が既婚者なのは有名な話だが、その相手が誰かまでは知られていない。一部ではあえて隠しているのではないか……とも噂されている。そんな相手と堂々とデートはしないだろう。
そう見解を述べると岡崎は「確かに」と頷いた。
「それじゃあ恋人かな。結婚してるから、浮気相手とか?」
「さあ、どうかしら」
「でも、既婚者なのに他の女性とデートって普通に不倫ですよね。やっぱり副社長の噂は本当だったかぁ。でもあれだけイケメンなら仕方な――」
「岡崎君」
なおも聡の話題を続けようとする岡崎を遮り、春華は声を上げた。
「やっぱり今日、ご飯に行く?」
「えっ!? いいんですか!」
「お酒は飲まないけど、それでもよければ」
「全然いいです!」
意気込んだ岡崎は「すぐに店を決めますから!」と言って、スマートフォンで店を検索し始める。
その様子を春華は微笑ましく思いながら見つめた。プライベートでは会社の人間と関わりたくない人は多くなっていると言われている中、春華と食事に行くだけでこうも喜ぶなんて可愛い後輩だと思う。春華はひとりっ子だが、弟がいたらこんな感じなのかもしれない。
「じゃあこの店でいいですか? 口コミの評価も高いし」
「ええ」
ものの数分で店は決まり、春華と岡崎は近くにある居酒屋に向かう。
明るくノリのいい後輩と過ごすのは純粋に楽しかった。ビールのジョッキを傾けながら、岡崎が尋ねる。
「そういえば結局、同居人の方は大丈夫でしたか? 俺は野木さんと食事に来られて嬉しいですけど」
「大丈夫よ。さっきは言わなかったけど、基本的には食事は別々だから。今日も外で済ませてくると思うし」
春華の答えに岡崎は目を瞬かせた。
「随分あっさりしてるんですね」
「そう? こんなものだと思うけど」
「そっか。まあ、同居と同棲は違うか」
ポツリと岡崎は呟いた。
「野木さんみたいな感じならうまくいったのかなぁ。いや、俺、大学生の頃に彼女と同棲したことがあるんですけど、住み始めてすぐにダメになったんですよね」
大学時代に恋人と同棲。大学と実家の行き来で四年間が終わった春華には、あまりに縁遠い話だ。
「最初は一緒にいられて嬉しかったのに、時間が経つにつれてストレスばかりが溜まっちゃって。そういうことありません?」
春華は自身の同居生活を振り返りながら、口を開いた。
「ストレスは別に溜まらない……かな。同居と言ってもそれぞれの部屋は別にあるし、お互い必要以上に干渉しないようにしているから」
「そうか、部屋数があれば違うのか。それに野木さんの同居人は女性ですもんね。俺は1DKだったし、喧嘩したが最後、逃げ場がなかったんですよね」
「ずっと同じ部屋なのは大変かもね」
そんなやりとりを交わしつつ、一時間ほどで店を後にした。ちなみに今日の食事代は春華が持った。会社の後輩にお金は出させられない。
「ごちそうさまでした。でも、次は俺が出しますからね」
「ふふっ、次があったらね」
「え、もうないんですか?」
大袈裟に肩を落とす仕草がおかしくて、春華が「冗談よ」と返せば、岡崎は「よかった」と小さく息を吐いた。
「野木さんの機嫌も直ったようだし」
意外な言葉に、春華は駅に向かう足をぴたりと止める。
「私、不機嫌そうに見えた?」
楽しく食事をしていたつもりだったが、岡崎には違って見えたのだろうか。そうだとしたら申し訳ないことをしたな……と反省していると、岡崎は「そうじゃなくて」と首を横に振る。
三月初旬。
株式会社不動旅行企画のオフィスビル内の社員食堂で、それは起きた。
「浮気は滅びろ、不倫は地獄行き」
物騒な発言と共に正面に、だん! とトレイが乱暴に置かれる。その衝撃でうどんを啜っていた野木春華は「けほっ」とむせた。
危ない。咳をするタイミングがあと少しでもずれていたら、人が大勢集まる社員食堂で鼻からうどん、なんて残念すぎる姿を晒すところだった。
「急にどうしたの、香?」
なんとか呼吸を整えた春華は戸惑いながら正面を見る。そこには、全身に不機嫌オーラを纏う同期兼友人の新里香がいた。食器トレイに春華と同じうどんを載せた香は、対面に座るなり眉間に皺を寄せて睨んでくる。
(え、怖い)
本当にどうしたというのだろう。いつも朗らかな笑顔を絶やさない友人が見せた険しい表情に戸惑っていると、香はゆっくりと口を開いた。
「……たの」
「なんて?」
「だから、浮気されたの」
テーブルは違えど周囲には他に社員もいるからか、その声はとても小さい。けれど、地面を這うような低い声は彼女の怒りをこれ以上なく表していた。春華もまた、〝浮気〟の一言にピクリと眉を動かす。
「今の彼氏とは、結婚を前提に付き合ってるって言ってたわよね?」
香は悔しそうに唇を引き結び、無言で頷いた。
香の恋人は、広告代理店勤務の二歳年上の男だったはず。一年前にマッチングアプリで知り合い、最近『そろそろ結婚に向けて同棲を考えてるんだ』と報告を受けた。そのときの香は同性の春華から見てもとても可愛らしくて、『結婚が決まったらお祝いさせてね』と気が早い返事をしたばかりだった。
(それなのに、浮気ですって?)
ふざけるな、いったいどういうことだ、問い詰めてやる――一気に怒りの感情が湧き上がり、自然と顔が険しくなる。香もそれに気づいたようだ。
「春華」
「何」
「私がするならともかく、どうしてあんたがそんなに怖い顔をしてるの?」
「大切な友人が馬鹿にされたんだから、怒るのは自然なことでしょ」
きっぱり言い切る。とある事情から学生時代をぼっちで過ごした春華にとって、香はかけがえのない友人だ。そんな彼女が無下に扱われたのに怒らないわけがない。
その思いは相手にも伝わったのか、香は一瞬面食らったように目を瞬かせた後、苦笑する。
「ありがと。そう言ってくれると少し救われるわ」
小さくため息をつき、香はことの次第を話し始めた。
「……会社の後輩と二股されてたの。しかも、それが発覚したのはついさっき」
「どういうこと?」
「浮気相手宛のメッセージを私に送ってきたのよ。『週末の温泉旅行、楽しみにしてる!』って浮かれた文章をね」
「ありえない」
春華はたまらず吐き捨てた。そのときの香の心情を想像しただけで胸が痛くなる。
「本当、ありえないわよね。ダサいのが、すぐに送信取り消しをしたのよ。まあ、速攻スクショを撮ったから意味はないんだけど。電話をして問い詰めたら、あっさり浮気を白状したわ。『出来心だ』って言ってたけど――」
「信じちゃダメよ、そんな言葉。香がいるのに他の女性と関係を持つなんて最低。そんな男に、香はもったいないわ。ブロック一択」
春華は最後まで聞くことなく切り捨てたが、すぐにしまったと我に返る。友人の彼氏を『最低』呼ばわりは、言葉が過ぎたかもしれない。でも、香には申し訳ないが、考えるより先に口をついて出てしまったのだ。
さすがに、滅びろ、地獄に行け――とまでは思わないけれど、春華も浮気は絶対に許せないと思っている。たとえ友人の話であっても自分ごとに感じるほどに、不貞行為に対する嫌悪感は強い。
「ごめんね、言いすぎたかも」
「全然!」
謝罪すると香は首を横に振った。春華が怒りを見せたことでいくらか落ち着いたのかもしれない。
香はわずかに肩の力を抜き、大きなため息をついて箸に手を伸ばす。
(よかった、食欲はあるみたい)
内心ホッとしつつ、春華もまた食事を再開する。
「結構好きだったんだけどなぁ。あー、しんど」
「早退しなくて大丈夫?」
浮気も失恋も未経験の春華にはわからないが、今の香は結婚を考えていた恋人に裏切られた直後。仕事どころではないのでは、と心配になるが、香は真顔で「早退なんてありえない」と答える。
「最低男が原因で、貴重な午後休を使いたくないもん。意地でも休まない」
きっぱりと言い切る姿は、春華の目にとても魅力的に映った。
「香ならすぐに新しい恋人ができるわよ。男の人はその人だけじゃないし」
「今まで一度も彼氏がいたことがない春華に言われてもね」
「うっ……それは、そうだけど」
慰めたつもりがまさかの反撃をくらってしまう。でも、事実なだけに何も言い返せなかった。
現在二十四歳の春華は、学生時代も含めて一度も異性との交際経験がない。一方、香は恋多き女性だ。彼女とは約二年の付き合いになるが、香に恋人がいなかった期間はほとんどない。『恋愛経験』という点において、春華は友人の足元にも及ばないのだ。
「でも、お世辞じゃないわ。香は可愛いから、付き合いたいと思う人はたくさんいるわよ」
交際経験がないのは事実だが、その言葉に嘘はない。そう伝えると、香はクスリと笑う。
「わかってる。意地悪言ってごめんね、冗談よ。ありがとう、春華」
くりっとした目を細めた香は、淡いピンクのルージュを引いた唇をふわりと綻ばせる。
(あ、可愛い)
明るい茶色の髪を肩のあたりでふんわりと巻いた香は、「モテ女」の見本のような容姿をしている。身長は百五十八センチ。華奢ながらも胸は大きく、実に女性らしい体つきが魅力的だ。
(香の半分でいいから、私にもこの可愛さがあればいいのに)
春華は髪を一度も染めたことがないし、腰まで伸びた黒のストレートロングはいつも簡単にひとつにまとめている。身長は百七十センチと女性にしては高めだ。
しかも、子どもの頃から脂肪のつきにくい体質のせいか、香のようなまろやかさはほとんどない。そのくせ胸だけは大きいのがかえってアンバランスで、思春期にはかなり気にしていた。
顔立ちも綺麗と言われることはあるが、きつい印象を与えがちなキリッとした眉や猫目は、自分ではあまり好きではない。見た目という点で言えば、香とは何もかもが正反対だ。
「でも、それを言うなら、春華と付き合いたい男こそたくさんいると思うけど」
矛先を向けられた春華は小さく肩をすくめる。
「まさか。そんな物好きな人いないわよ。それに私は今のところ恋愛する気はないし」
「またそんなこと言って。結局、春華みたいな清楚系が一番モテるのよ。しかも、あんたの場合は本物のお嬢様だし」
「それは……」
「野木製菓なんて、誰でも一度は名前を聞いたことがあるような大企業だもの。ご両親も立派な方なんでしょうね。ただのサラリーマン家系のうちとは違うわ」
「そんなことないわよ」
春華は曖昧な笑顔で受け流した。これ以上、実家の話題を広げたくなかったのだ。
春華の父は会社を経営しているし、その会社が国内でも有数の食品会社なのは事実である。父は経営者としては優秀なのだろう。でも父親としては違う、と春華は心の中で香の言葉を否定した。
(不倫するような人を尊敬なんてできない)
父が母以外の女性と関係を持ったのは、春華が十歳のときだった。父曰く不倫をしたのはそのときだけらしいが、その一度の不貞行為で春華の家庭はあっけなく壊れた。
夫の裏切りを許せなかった母は父を責め、家庭に居場所がなくなった父は仕事に逃げた。
それから今日までの間、春華は一度も一家団欒というものをしたことがない。
そんな家庭環境で育った春華にとって浮気は絶対悪。先ほど香の恋人を『最低』と言ってしまった理由もここにあった。『異性関係にだらしない男』はそれだけで恋愛対象外だ。
たとえ、相手が非の打ち所がないほど完璧な男だったとしても。
「あっ!」
不意に香が声を上げた。
「見て、不動副社長よ」
香は、興奮気味に輝かせた目を春華の後方に向けたまま、小さく感嘆の息をつく。けれど春華はそちらを見ることはしなかった。
「香、早く食べないとうどんが伸びるわよ」
伸び切った麺ほど残念なものはない。しかし、香は何を言っているんだと言わんばかりに顔を顰めた。
「うどんよりも不動副社長でしょ?」
「私は不動副社長よりうどんかな」
そう答えて、春華は最後に残った麺を啜る。やっぱりうちの社食のうどんは美味しい。
箸を置いた香は呆れたように小さく肩をすくめ、再び春華の後方に視線を戻した。
「いつ見ても素敵ねぇ。目の保養になるわ」
ついさっきまで浮気されたと嘆いていたのにえらい変わりようだ。でも、凹んでいるよりずっといい。春華が安堵と呆れの両方を感じていると、香はニコリと笑顔を見せた。
「春華もたまにはイケメン成分を摂取した方がいいわよ。じゃないとあっという間に枯れるから」
「イケメン成分って」
ある程度共感しないとこの話題は終わらないかもしれない。仕方なく春華が振り向けば、同様に同じ方向を見つめる女性社員がたくさんいることに気づいた。その視線が集まる先ではふたりの男性が食事をしている。
副社長の不動聡と、彼の専属秘書を務める木梨修吾だ。
そして、聡こそが女性社員の色めき立つ原因だった。その主な理由は三つある。
まずは、経歴。
春華と香の勤める不動旅行企画は、国内でも有数の大手旅行会社である。聡はその名からもわかる通り、創業者一族にして現社長のひとり息子。年齢は二十九歳と若いものの、いずれは父の後を継ぐことが決定している、いわば生粋の御曹司である。
だが、聡は名ばかりの後継者ではなかった。豊富な留学経験を持つ彼は、マルチリンガルで、日本の最高学府を卒業した後に不動旅行企画に入社し、数々の実績を打ち立て二年前に副社長に就任したやり手でもあるのだ。
次に、容姿。
聡は百八十五センチの高身長で、日本人離れしたスタイルの持ち主だ。すらりと伸びた長い手足に引き締まった体は、外国人モデルが撮影用のスーツを着ていると言われた方がしっくりくるほどだった。
その上、顔が抜群にいい。艶のある黒髪。キリッとした眉に切れ長の瞳。高く通った鼻筋や形のよい唇。美形という言葉がここまで似合う人は、そうそういないだろう。
そんな容姿端麗な彼は、社内の女性陣からアイドルのような扱いを受けている。
『遠くの推しより近くの推し』というのはそのうちのひとりである香の言だ。実物が間近で見られて、運が良ければ会話もできる。そんな不動聡は理想的な推しの相手なのだとか。
(言いたいことは理解できるけど、共感はできないのよね)
そんな感情が表情に出ていたのか、香は春華をちらりと見て再び小さく肩をすくめた。
「春華くらいじゃない? 不動副社長に興味がないの」
「目立つ人だな、とは思うわよ」
「もう、そうじゃなくて。『かっこいいな』とか『素敵だな』とか思わないの? それとも総務部にいるから見慣れてるとか?」
「そんなことないわ」
春華は苦笑して首を横に振る。
社長や副社長などの役員と接点があるのは秘書課だ。同じ総務部でも春華は人事課所属。どちらも同じフロアにあるが、秘書課と人事課は端と端に位置している。加えて専務以上の役員には専用の執務室があるから、春華のような一般社員が彼らと直接やりとりすることは皆無に等しい。
「接点のなさで言ったら他の部署と変わらないわよ」
言いながら心の中で付け足す。
(確かに〝顔だけ〟は文句なしにいいと思うけど)
もちろん口には出さない。そんなことしたら色めき立つ他の女性社員にどんな目を向けられるか、想像するだけで冷や汗ものだ。
女性陣が聡に見惚れるのは理解できるが、人の好みはそれぞれ。外見に重きを置く人もいれば、内面を重視する人もいる。春華の場合は圧倒的に後者だ。
「私は、いくら見た目がよくてお金持ちでも、女性関係にだらしない人は好みじゃないわ」
春華の言葉に、香は「確かに」と苦笑する。
「不動副社長、結婚したのに相変わらずいろんなところで噂が立ってるものね」
「そういうこと」
聡が有名である最後の理由。それは女性関係の華やかさだ。
社内で圧倒的人気を誇る彼は、実は既婚者だ。その証拠に左手の薬指には結婚指輪が常に嵌められている。それにもかかわらず、彼には女性関係の噂が常にあった。相手は取引先の令嬢だとか芸能関係者だとか言われているが、誰かは明確になったことはない。
とはいえ、噂が絶えないということは事実無根というわけでもないのだろう。学生時代はかなり派手に遊んでいたというし、あのルックスだ。浮気のひとつやふたつしていても不思議ではない。
「あーあ、副社長が既婚者じゃなければなぁ」
香の呟きに、春華は悪戯っぽく唇の端を上げた。
「狙ってた?」
「まさか」
香はすぐに否定する。
「私にとって副社長はあくまで推しよ。遠くできゃーきゃー言ってる分には楽しいけど、自分と……だなんて考えたこともないわ。恋人にするなら断然、木梨さんだもん」
香は聡の向かいに座る眼鏡の男性、木梨の名前を挙げる。
木梨は聡とは違ったタイプのイケメンだ。真面目で穏やかそうな風貌の彼は、香曰く「リアコ」枠らしい。香とは同じ大学の出身で、インターンシップでも世話になったのだと聞いている。
「私も、どちらかといえば木梨さんの方がタイプかも」
「ダメよ、木梨さんは私のものだから」
「そうなの?」
「そうなればいいなっていう願望。でも、彼氏とは別れるつもりだし、本気で狙ってみようかな」
何かと噂の絶えない聡が相手なら反対したかもしれないが、木梨なら安心だ。
「頑張って。応援してるわ」
そんな雑談をしながらふたりは昼食を終えた。ここからは午後の仕事がスタートだ。
春華は総務部へ、香は経理部へ戻らねばならない。
年度末を目前に控えた今はどの部署も慌ただしい。人事を担当している春華も、来月には新入社員との関わりがグンと増える。
午後も頑張ろうと互いをねぎらいながらふたりは席を立った。そして食堂を出ていく道すがら、春華は何とはなしに聡の方を見てハッとした。
聡と目が合ったのだ。しかも、ただ視線が合っただけではない。聡は不機嫌そうに春華を睨んでいるように見えた。
(気のせい?)
それにしてはまっすぐこちらに鋭い視線を向けていた。とはいえ足を止めるわけにもいかず、春華は動揺したまま出口へと向かう。だから気づかなかった。
「副社長?」
「……いや、なんでもない」
木梨に呼ばれた聡が、春華の後ろ姿を実に苦々しい表情で見つめていたことに。
その日の午後六時過ぎ。仕事を終えた春華はデスクトップパソコンの電源を切り、席を立った。
まだ残っている他の社員に挨拶をしてフロアを出ると、自然と肩の力が抜ける。しかし、それはどこか心地のよい疲労感だ。
来月の四月になれば、春華は社会人三年目に突入する。四月二十日の誕生日で二十五歳を迎えたら、晴れてアラサーの仲間入りだ。
(二年間、あっという間だったなぁ)
会社を出た春華は人目も憚らず大きく伸びをした。
現在所属している人事課では、主に採用の仕事を担当している。まだまだ経験不足だが、二年目になって後輩もでき、今のところは充実した社会人生活を送っていた。
――自ら稼いで給料を得る。それをもとに自活する。
多くの人にとっては自然なその行為が、春華は今でもときどき特別に感じる瞬間がある。
春華は昔から人一倍『自立したい』という気持ちが強かった。けれど、学生時代にアルバイトをすることは許されなかった。
だからだろうか。働くことができる現状が嬉しくて仕方ないのだ。
(香には引かれちゃったけど)
この話をした際、『信じられない』『社畜?』と目を丸くした友人の反応は記憶に新しい。
香は〝労働=自己時間を充実させるための代価〟と捉えている。〝充実=仕事〟な春華とはある意味、真逆の価値観だ。もちろん、人によって当然異なるものなので、おかしいこととは思わない。でも、春華がその価値観にいたった理由を友人に話すことは、多分この先もないだろう。
「野木さん!」
駅に向かって歩いていた春華は、後方からかけられた声に足を止めた。
振り返ると、ひとりの男性がこちらに向かって走ってくるのが見えた。同じ人事課に所属する一年後輩の岡崎絢斗だ。
「よかった、間に合った!」
春華の目の前に到着した岡崎はニコッと笑う。しかし、春華は笑えなかった。こんなにも全力ダッシュで追いかけてくるなんて只事ではないと思ったのだ。
「どうしたの、そんなに急いで。会社で何かあった?」
即座に頭の中でやり残した仕事がないかを振り返るが、何も浮かばない。
「違いますよ。野木さんが見えたから走ってきただけです。せっかくですし、一緒に帰りません?」
「それはいいけど、何事かと思ったわ」
「すみません、つい」
隣に並んだ岡崎が頬を緩める。それに拍子抜けした春華は苦笑し、共に駅に向かって歩き始めた。
岡崎は春華にとって初めての後輩だ。黒髪に焦茶色の瞳をした彼は、学生時代はサッカーに打ち込んでいた根っからのスポーツマンで、部署の中でも可愛がられている。明るい性格で、どこか大型犬を思わせる愛嬌のある男性だ。
年齢が近いこともあってか、岡崎は何かと春華を慕ってくれる。
「この後に予定がないなら、飯でも食いに行きません?」
「私と岡崎君のふたりで?」
「はい」
さて、どうしたものか。別にこれはデートの誘いではなく、同僚から食事に誘われただけだ。ふたりで夕食を共にすることにはなんの問題もないのだけれど――
「あっ、もしかして同居人と一緒に食べる約束でもしてました?」
就職をきっかけに実家を出た春華が知人とルームシェアを始めて、もうすぐ二年になる。それを知った上での質問だろうが、答えは『ノー』だ。同居人とは決して不仲ではないが、それでも夕食を共にしたことは数えられる程度だった。
それをどう説明しようかと、ためらっていたそのとき。
「あっ!」
突然、岡崎が声を上げた。その視線は通りの向こう側に向いている。
何事かと思いつつ同じ方向を見た春華は、目に飛び込んできた光景に『なるほど』と心の中で納得する。
「あれ、不動副社長ですよね?」
「……そうね」
あんなにも目立つ男を見間違えるはずもない。
通りを挟んだ対角線上にいたのは、不動聡。その隣には柔らかなベージュのパンツスーツを着た女性が立っていた。聡より頭ひとつ分以上背が低く、小柄だ。遠目にもわかるほど可愛らしい顔立ちのその女性は、聡を見上げて微笑んでいる。
親密な雰囲気を漂わせながらふたりは停車していたタクシーに乗り込むと、夜の街へと消えていった。時間にして十数秒にもかかわらず、映画のワンシーンのようだった。
「うわー、貴重なもの見ちゃったかも。あれって噂の奥さんですかね?」
遠ざかる車を見送りながら岡崎がやや興奮気味に呟く。
「奥さんではないと思うわよ」
岡崎とは対照的に春華は冷静に答えた。
聡が既婚者なのは有名な話だが、その相手が誰かまでは知られていない。一部ではあえて隠しているのではないか……とも噂されている。そんな相手と堂々とデートはしないだろう。
そう見解を述べると岡崎は「確かに」と頷いた。
「それじゃあ恋人かな。結婚してるから、浮気相手とか?」
「さあ、どうかしら」
「でも、既婚者なのに他の女性とデートって普通に不倫ですよね。やっぱり副社長の噂は本当だったかぁ。でもあれだけイケメンなら仕方な――」
「岡崎君」
なおも聡の話題を続けようとする岡崎を遮り、春華は声を上げた。
「やっぱり今日、ご飯に行く?」
「えっ!? いいんですか!」
「お酒は飲まないけど、それでもよければ」
「全然いいです!」
意気込んだ岡崎は「すぐに店を決めますから!」と言って、スマートフォンで店を検索し始める。
その様子を春華は微笑ましく思いながら見つめた。プライベートでは会社の人間と関わりたくない人は多くなっていると言われている中、春華と食事に行くだけでこうも喜ぶなんて可愛い後輩だと思う。春華はひとりっ子だが、弟がいたらこんな感じなのかもしれない。
「じゃあこの店でいいですか? 口コミの評価も高いし」
「ええ」
ものの数分で店は決まり、春華と岡崎は近くにある居酒屋に向かう。
明るくノリのいい後輩と過ごすのは純粋に楽しかった。ビールのジョッキを傾けながら、岡崎が尋ねる。
「そういえば結局、同居人の方は大丈夫でしたか? 俺は野木さんと食事に来られて嬉しいですけど」
「大丈夫よ。さっきは言わなかったけど、基本的には食事は別々だから。今日も外で済ませてくると思うし」
春華の答えに岡崎は目を瞬かせた。
「随分あっさりしてるんですね」
「そう? こんなものだと思うけど」
「そっか。まあ、同居と同棲は違うか」
ポツリと岡崎は呟いた。
「野木さんみたいな感じならうまくいったのかなぁ。いや、俺、大学生の頃に彼女と同棲したことがあるんですけど、住み始めてすぐにダメになったんですよね」
大学時代に恋人と同棲。大学と実家の行き来で四年間が終わった春華には、あまりに縁遠い話だ。
「最初は一緒にいられて嬉しかったのに、時間が経つにつれてストレスばかりが溜まっちゃって。そういうことありません?」
春華は自身の同居生活を振り返りながら、口を開いた。
「ストレスは別に溜まらない……かな。同居と言ってもそれぞれの部屋は別にあるし、お互い必要以上に干渉しないようにしているから」
「そうか、部屋数があれば違うのか。それに野木さんの同居人は女性ですもんね。俺は1DKだったし、喧嘩したが最後、逃げ場がなかったんですよね」
「ずっと同じ部屋なのは大変かもね」
そんなやりとりを交わしつつ、一時間ほどで店を後にした。ちなみに今日の食事代は春華が持った。会社の後輩にお金は出させられない。
「ごちそうさまでした。でも、次は俺が出しますからね」
「ふふっ、次があったらね」
「え、もうないんですか?」
大袈裟に肩を落とす仕草がおかしくて、春華が「冗談よ」と返せば、岡崎は「よかった」と小さく息を吐いた。
「野木さんの機嫌も直ったようだし」
意外な言葉に、春華は駅に向かう足をぴたりと止める。
「私、不機嫌そうに見えた?」
楽しく食事をしていたつもりだったが、岡崎には違って見えたのだろうか。そうだとしたら申し訳ないことをしたな……と反省していると、岡崎は「そうじゃなくて」と首を横に振る。
0
あなたにおすすめの小説
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
ヤンデレエリートの執愛婚で懐妊させられます
沖田弥子
恋愛
職場の後輩に恋人を略奪された澪。終業後に堪えきれず泣いていたところを、営業部のエリート社員、天王寺明夜に見つかってしまう。彼に優しく慰められながら居酒屋で事の顛末を話していたが、なぜか明夜と一夜を過ごすことに――!? 明夜は傷心した自分を慰めてくれただけだ、と考える澪だったが、翌朝「責任をとってほしい」と明夜に迫られ、婚姻届にサインしてしまった。突如始まった新婚生活。明夜は澪の心と身体を幸せで満たしてくれていたが、徐々に明夜のヤンデレな一面が見えてきて――執着強めな旦那様との極上溺愛ラブストーリー!
【R18】純粋無垢なプリンセスは、婚礼した冷徹と噂される美麗国王に三日三晩の初夜で蕩かされるほど溺愛される
奏音 美都
恋愛
数々の困難を乗り越えて、ようやく誓約の儀を交わしたグレートブルタン国のプリンセスであるルチアとシュタート王国、国王のクロード。
けれど、それぞれの執務に追われ、誓約の儀から二ヶ月経っても夫婦の時間を過ごせずにいた。
そんなある日、ルチアの元にクロードから別邸への招待状が届けられる。そこで三日三晩の甘い蕩かされるような初夜を過ごしながら、クロードの過去を知ることになる。
2人の出会いを描いた作品はこちら
「純粋無垢なプリンセスを野盗から助け出したのは、冷徹と噂される美麗国王でした」https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/443443630
2人の誓約の儀を描いた作品はこちら
「純粋無垢なプリンセスは、冷徹と噂される美麗国王と誓約の儀を結ぶ」
https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/183445041
愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
ヤンデレ王子を闇落ちから救ったら愛執まみれの独占欲に囚われました
大江戸ウメコ
恋愛
幼い頃に精霊の祝福である未来視の力が開花し、「夫である第二王子ナハルドに殺される」という己の運命を知った伯爵令嬢ツィーラ。この悲惨な未来を変えるべく、ツィーラは彼を避けようとしたが、ひょんなことから婚約者に選ばれてしまった! ならば、ナハルドが将来闇落ちしないよう、側で彼を支えることを決意する。そんな努力の甲斐あって、ツィーラへの好意を隠さず伝えてくるほど、ナハルドとの関係は良好になった。だけど、彼の並々ならぬ執着心のすべてを、ツィーラはまだ知らなくて――
独占欲全開の肉食ドクターに溺愛されて極甘懐妊しました
せいとも
恋愛
旧題:ドクターと救急救命士は天敵⁈~最悪の出会いは最高の出逢い~
救急救命士として働く雫石月は、勤務明けに乗っていたバスで事故に遭う。
どうやら、バスの運転手が体調不良になったようだ。
乗客にAEDを探してきてもらうように頼み、救助活動をしているとボサボサ頭のマスク姿の男がAEDを持ってバスに乗り込んできた。
受け取ろうとすると邪魔だと言われる。
そして、月のことを『チビ団子』と呼んだのだ。
医療従事者と思われるボサボサマスク男は運転手の処置をして、月が文句を言う間もなく、救急車に同乗して去ってしまった。
最悪の出会いをし、二度と会いたくない相手の正体は⁇
作品はフィクションです。
本来の仕事内容とは異なる描写があると思います。
敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される
clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。
状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。
王子を身籠りました
青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。
王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。
再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。
過去1ヶ月以内にエタニティの小説・漫画・アニメを1話以上レンタルしている
と、エタニティのすべての番外編を読むことができます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
番外編を閲覧することが出来ません。
過去1ヶ月以内にエタニティの小説・漫画・アニメを1話以上レンタルしている
と、エタニティのすべての番外編を読むことができます。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。