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1巻
1-2
「店に行く前……不動副社長が女性と一緒にいるのを見たとき、なんとなく怒ってるように感じたんです。もしかしたら野木さん、副社長が気になってるのかなって――」
「まさか」
即座に否定する。思いの他強い口調になってしまったが、これだけはきちんと伝えておかなければ。
聡が誰とどこで何をしていようと春華にはまったく関係ない。お盛んね、とは思うがそれだけだ。
「副社長がモテるのは有名な話だし、そもそも私が気にすることじゃないもの」
春華の答えに、岡崎は「それもそうですね」と安心したような顔をする。
「変なことを言ってすみません」
そんなやりとりをしていると、やがて会社の最寄り駅に到着した。
「それじゃあ、また来週」
「ええ、お疲れさま」
岡崎と別れた春華は電車に乗り込みドアの近くに立つと、車窓越しに過ぎゆく都会の街並みを見つめた。
(今週も頑張ったなぁ)
所狭しと建ち並ぶビル群、目がチカチカするほど派手な電飾の看板、駅に停車するたびに忙しなく乗り降りする乗客。
きっと多くの人にとっては見慣れた、なんてことない光景。しかし、春華にとっては違う。
今でこそ当たり前のように電車通勤をしているが、就職する前はほとんど電車に乗ることがなかった。最初のうちなんて、朝の満員電車で何度窒息しそうになったことか。
(あれには今でも慣れないけど)
夏場は汗や香水など色々な匂いが車内に充満するので、かなりしんどいときもある。それでも春華は嫌だと感じたことはなかった。むしろ電車通勤できることに喜びすら感じている。
それから十五分ほど電車に揺られて降車し、春華は改札を抜けた。しかし、駅の外に出る必要はない。なぜなら春華の自宅マンションは駅に直結しているからだ。おかげで天気に左右されることなくまっすぐ帰宅できる。
「おかえりなさいませ」
エントランスキーを解除してマンションのロビーに入ると、コンシェルジュの男性が迎えてくれた。春華は小さく会釈をし、自室へと向かう。
ここは、都心に聳える地上四十階建ての高層マンション。その高層階の一室が春華の自宅だ。そこに行くには、専用のカードキーをエレベーターに翳す必要がある。
交通アクセスは抜群でセキュリティもばっちり。さらには周囲の環境も申し分ない。
マンションの中には住民専用のジムやプールが併設されていて、敷地内にはスーパーマーケットやドラッグストア、病院などが入る複合施設も存在する。その他にカフェや書店なども充実していて、生活するには十分すぎる環境が整っていた。
当然だが、その分賃料は高い。いかに春華が大企業勤めとはいえ、二十四歳のいち会社員が住めるような場所ではない。それにもかかわらず春華がここに住めているのは、同居人の所有物件だからだった。さて、その同居人は帰っているだろうか――
「ただいま」
玄関のドアを開けるが、返事はない。靴もないし、やはりまだ帰宅していないようだ。
大理石が敷き詰められた玄関でパンプスを脱いだ春華は、手洗いなどを済ませると、いったん自分の部屋に入り荷物を置いた。八畳の部屋に三畳のウォークインクローゼットがついたこの部屋が、春華のプライベート空間だ。ちなみに他の個室は、同居人の寝室、書斎、ゲストルームもある。
この部屋の金額を春華は知らないが、都心の一等地に聳える高級タワーマンションで4LDKとなれば数億円は下らないだろう。それを所有する同居人はやはりただものではないなと思いながら、春華はバスルームに向かった。
事前にアプリでお湯を溜めておいたおかげで、すぐに湯船に浸かれるのはありがたい。お気に入りの入浴剤を入れて四肢を伸ばすと、一週間の疲れがお湯に溶けていくような気がした。
「はぁ。生き返る……」
解放感からため息が漏れる。今日の出来事を振り返っていると、ふと同期と後輩の言葉が頭に浮かんだ。
『もう、そうじゃなくて。「かっこいいな」とか「素敵だな」とか思わないの?』
『もしかしたら野木さん、副社長が気になってるのかなって――』
不動聡に興味がないのか。
その問いに対して、春華は『興味がない』と返した。確かに文句なしの美形だと思うし、女性にモテるのも当然だと思う。だがそもそもの話、浮気性の男は春華の恋愛対象外だ。
「……誠実なのが一番よ」
一途さに勝るものはないと春華は考えている。
(ろくに恋愛をしたこともないのに、何言ってるんだって感じだけど)
温まった後は、体を拭いて部屋着に着替える。そうして鏡に映るのは、上下三千円のグレーのスウェットを着て、髪の毛を適当にくくった自分だ。バスルームのラグジュアリーな雰囲気にはまるで似合っていない。
(こんなところ、お母さんには見せられないな)
見られたが最後、母は激怒するか、下手したら絶叫しかねない。その姿がありありと想像できるだけに、春華はこのゆるゆるのスウェットを着られる今の生活が心地よくてたまらないのだ。
(さて、と。この後はどうしよう)
金曜日の夜ほど心躍る日はないのだと、春華は社会人になって初めて知った。
平日は控えているお酒を飲みながら、気になっていた映画を見るもよし。お菓子を手に先日まとめ買いした漫画をスマホで読むもよし。どうせならアイスを食べてしまおうか。お風呂にも入ったし、最悪リビングで寝落ちしたところでそれを咎める人は誰もいない。
せいぜい翌朝、鏡に映る浮腫んだ顔にショックを受けるくらいだろう。でも、明日が休みなら関係ない。
(決めた! 今日はお酒とお菓子と映画にしよ!)
春華はリビングに戻り、うきうきとアイスとお菓子を用意する。そしてL字形のソファに座ると、大型テレビの向こうに都内の夜景が一望できた。東京タワーとスカイツリーが同時に見られるのだから、つくづく贅沢な空間だと思う。
そうしてルンルン気分でお菓子の袋を開けようとしたそのとき、遠くで玄関が開く音がした。どうやら同居人が帰ってきたようだ。
(えっ、今日は遅いんじゃなかったの?)
特に連絡が来ていたわけではないが、てっきり帰ってくるのは日付が変わってからだと思っていた。春華が突然の帰宅に動揺していると、すぐにリビングのドアが開かれる。
「あ……おかえりなさい」
「ただいま」
仏頂面で答えたのは、同居人こと不動聡だった。
〝不動聡の妻は、総務部人事課の野木春華である〟
このことを社内で知っているのはごく一部の社員だけ。当事者の他には、義父の不動社長と聡の腹心の部下である木梨修吾、そして春華の上司の総務部長だ。
当然、香や岡崎は知らないし、この先も知らせるつもりはない。
なぜなら春華と聡がしたのはただの結婚ではない。
春華は実家を出て自由を手に入れるため。
聡は〝既婚者〟という社会的ステータスを得ることで煩わしい見合い話を避け、仕事に専念するため。
それぞれの目的のために〝結婚〟という名の契約をした、いわば仮面夫婦なのだ。
実際、夫婦になってもうすぐ丸二年になるが、ふたりの間に男女の触れ合いは一切ない。当然、寝室は別々だ。基本的には食事も別々だし、家事も互いに適当にやっている。
唯一、年に一度の結婚記念日だけはデートをすることにしているが、それさえも結婚という契約を更新するか否かを決めるための場でしかない。
よって、ふたりは戸籍上は夫婦であるものの、友人でもなければ恋人でもなかった。
あえてこの関係に名前をつけるなら、〝同居人〟が一番しっくりくる。だから『彼氏はいない』と香に言った言葉に嘘はない。ただ、『夫がいる』というだけで。
聡とのビジネスライクな関係は比較的うまくいっていたし、特に喧嘩などもしたことはない。喧嘩するほど深い話をしたことがない、と言った方が正しいのかもしれないけれど。
「お仕事、お疲れさまでした」
聡は、最後に見たときと同じネイビーのスーツ姿だった。
春華はそれが既製品ではなくオーダーメイド品であると知っている。なぜならあのスーツは、昨年の結婚記念日に春華が聡へプレゼントしたものなのだから。
「今日は早いんですね」
仕事、プライベート共に多忙を極める聡と家で顔を合わせることは稀だ。
金曜日の夜、しかも日付が変わる前に帰ってくることは滅多にない。今日だって小柄な美女とデートをしていたのだから、朝帰りになるだろうと思っていた。
だからこそ春華はそう言ったのだけれど、聡は「ああ」とぶっきらぼうに答えるだけだった。
(何?)
気のせいだろうか。今の聡は見るからに不機嫌そうだ。ソファでくつろぐ春華を見て無言で眉間に皺を寄せるのは、妻の怠惰な姿が許せないからだろうか。
(でも、そんなの今さらだろうし……)
聡は春華のよれよれスウェット姿なんて見慣れているはず。それに、天下の不動旅行企画副社長はそこまで心は狭くない。となると、小柄美女に振られたとか?
「聡さん、何かありましたか?」
「どうして」
「どうして、って……」
質問に質問で返されて内心戸惑う。これから華金タイムを楽しもうと思っていたので、面倒な話ならあまり聞きたくない。しかし、こちらから切り出した手前放っておくこともできず、春華は口を開いた。
「機嫌が悪そうなので」
聡はこれには何も答えなかった。無言でこちらに向かってくると、そのままどすんと春華の隣に腰を下ろす。同時にふわりと甘い香りが漂ってきて、春華はつい顔を顰めた。聡の愛用する香水とはまるで違う香りは、おそらくあの小柄美女のものだろう。
〝基本的に婚姻期間中の不貞行為は禁止〟
契約上は一応そうなっているが、それが守られているかは定かではない。なぜなら、今日のように聡から女性の気配を感じるのは珍しくないからだ。とはいえはっきりとした証拠はないし、匂わせ程度なので春華は見て見ぬふりをしてきた。
自分が聡と男女の行為をする気がない以上、口を出すのは憚られたし、今のところ何か迷惑を被っているわけではない。極論、結婚生活が続けられるのであれば、書類上の夫がどこで誰と何をしようと春華には関係のない話だ。けれど、自分が贈ったスーツから他の女性の香りがするのは、あまり気持ちのいいものではない。
「眉間に皺が寄ってますよ」
「面白くないことがあったからな」
だからそれが何かと聞いているのだけれど。
(やっぱり彼女に振られちゃった?)
それとも何か別の嫌なことでもあったのか。どちらでもかまわないが、八つ当たりや面倒ごとはやめてほしい。内心そんなことを思っていると、拗ねたような顔をした聡に睨まれた。
「春華は、木梨みたいな男がタイプなんだって?」
「はい?」
目を丸くする春華に、聡は険のある声で続ける。
「昼間、社食で話していたそうじゃないか。木梨が新里さんから聞いたと言っていた」
「新里って、香から?」
「ああ。新里さんは俺と木梨と同じ大学出身だろ。俺は個人的な付き合いはないが、木梨は何かと接点があるらしい。今日木梨と飲んでいるときに、『春華ちゃんは俺の方がタイプみたいだ。悪かったね』って自慢された。何が『春華ちゃん』だ、馴れ馴れしい」
部下への愚痴をこぼす夫の姿に春華はポカンとした。つまりは、なんだ。
(私の言葉を聞いて、木梨さんに負けた気がして不機嫌になってるってこと?)
嫌な予感はしていたが、本当に面倒な話だった。
何事かと身構えていた春華は一気に脱力した。目の前の缶チューハイに手を伸ばしたい気持ちをグッと堪えて、ため息をつく。
「別に、そんなのどうでもいいじゃないですか」
投げやりな春華の態度に、聡はますます眉間の皺を深くした。せっかくの美形が台無しだ。そんなことを春華が思っているとは露ほども知らない聡は真顔で詰め寄る。
「どうでもよくない。他の男ならともかく、木梨と比べられて黙っていられるか。しかも、俺よりあいつの方がいいとかありえない」
「いつものライバル意識ですか?」
「そんなところだ」
聡と木梨は副社長と副社長秘書という立場だが、プライベートでは高校・大学時代の同級生で、親友だというのは春華も知っている。ふたりは学生時代からのライバルでもあり、しかも昔から木梨の方がモテていたということも。聡からそれを聞いたとき、春華はそれはそうだろうと思った。
パッと見の華やかさなら聡に軍配が上がるが、木梨はそんな彼に負けず劣らず整った顔をしているし、加えて穏やかで紳士的な雰囲気の持ち主なのだからモテないわけがない。
でも、それを馬鹿正直に聡に話すことはしない。
(これ以上の面倒ごとはごめんだわ)
しかし、春華の表情から内心が透けて見えたのだろう。聡はいっそう不機嫌そうに顔を顰める。
「春華」
「えっ!?」
聡が突然、両手で春華の肩をがっしり掴んだ。さらには顔をグッと近づけてくるものだから、春華は小さく悲鳴を上げた。
「な、なんですか?」
「いいか、よく聞け」
腹に響くような低い声に一気に心臓が跳ね上がるが、これは断じてときめいたわけではない。聡ほどの美形が眼前に迫れば誰だってこうなるはずだ。
そう誰に対してでもなく心の中で言い訳をする春華に、聡は言った。
「木梨は人畜無害そうな顔をしているが、本当はものすごく腹黒い男だ。だから悪いことは言わない、木梨だけはやめておけ。な?」
続けて聡は「世の中にはもっとまともな男はたくさんいる」「男は顔が全てじゃない」と的外れなアドバイスをしてくる。
それを春華は呆気に取られながら聞いていた。
(どこから突っ込めばいいの……?)
大前提として、春華は別に木梨が好きなわけではない。聡とどちらがタイプかと問われて、ただ誠実そうな木梨を選んだだけだ。それなのに聡は真面目な顔で「木梨はダメだ」と重ねて訴えてくる。そのあまりに必死な様子に面倒臭さを一瞬忘れて、春華は問うた。
「もしかして、嫉妬ですか?」
「は?」
これに今度は聡の方が目を丸くした。鳩が豆鉄砲をくらったような間の抜けた顔を見て、春華は噴き出しそうになるのをなんとか堪える。
聡は数秒間固まった後、何を言っているんだと言わんばかりに片眉を上げた。
「嫉妬? 俺が?」
「はい」
「まさか、ありえない」
一蹴される。まがりなりにも妻相手になんて態度だ……とは思わない。
「ですよね。そうだと思いました」
聡が春華を女として見ていないのはわかっている。それにもかかわらずこうも彼がこだわるのは、単に木梨に負けたのが悔しいからだ。それ以上でもそれ以下でもない。
それはいいとして、今の春華には何よりも気になることがあった。
――近いのだ。
聡の両手はいまだ春華の肩に置かれたまま。さらには、彼の吐息が唇に触れるほど顔が間近にある。体勢だけを見ればキスを迫られているようだ。それだけではない。
「……お酒と香水の匂いがします」
一度はスルーしたもののやはり気になって、春華は指摘した。直後、聡はバッと身を引き立ち上がる。両手を上げて、彼は「悪い」と気まずそうに謝罪した。
「マナー違反だったし、近すぎた。肩も強く掴んでしまったかもしれない。痛かったか?」
春華は首を横に振る。正直に言えば少しじんじんするが、酔っ払い相手に文句を言っても意味はない。だから問題ないと答えたのだけれど、聡はまた面白くなさそうな顔をする。
(なんなの?)
今日の彼は少し情緒不安定なように見える。ビジネスライクな夫婦関係といえど、二年も一緒にいれば多少の心の機微は見て取れる。
「やっぱり振られたんですか?」
「振られたって、誰に」
「今日、デートだったんですよね。女性と一緒にタクシーに乗るところを見ました」
この指摘に、聡は一転してばつの悪そうな顔をする。
「……彼女はただの仕事相手だ。付き合いで飲みに行っただけでデートじゃないし、恋人じゃないから振られようもない」
意外だった。とても親密そうな雰囲気だったし、男女の関係なのかと思っていた。
「信じてないな?」
疑わしそうに問われて春華は反応に困る。
「飲みの席には木梨もいた。やましいことは何もないし、なんなら木梨に確認してくれてもいい」
「いえ、別に大丈夫です」
そこまで興味がないので、とは言わない。これ以上ややこしくなるのは避けたかった。自分はこれから映画とお酒の華金タイムを満喫したいのだ。
とにかくこの妙な雰囲気を変えたくて、春華はあえて明るい口調で問いかける。
「そうだ、聡さんもよかったら一緒に映画を見ますか? 恋愛映画なので、興味があるかはわかりませんが」
本当はひとりでダラダラするつもりだったが仕方ない。
立ったままでは疲れるだろうと思い、春華は自分の隣をポンポンと叩く。しかし、聡はそこに腰を下ろすことなく顰めっ面でため息をついた。
「……いい。風呂に入って寝る」
「そうですか」
やった、おひとりさま時間ゲット! という心の声をグッと呑み込む。自室にはテレビもパソコンもあるが、どうせ見るならリビングの大型テレビで堪能したいのだ。
そうと決まったら早速……と嬉々としてリモコンに手を伸ばす。しかし、それを聡に止められた。
「なぁ、春華。その部屋着、そろそろ買い替えないのか?」
聡の視線は上下三千円のゆるゆるスウェットに向けられている。今さらなぜそんなことを言われるのかわからない。これはもう一年以上着ているし、彼も見慣れているはずなのに。
「別に、まだ着られますけど……」
困惑する春華をよそに彼は続けた。
「でも、だいぶくたびれてるし、色も地味だし。もっと明るい色の方が春華には似合うよ。せっかく綺麗な顔をしてるのにもったいない」
「え?」
「別に好きでそれを着てるならかまわないけど、新しくする気があるなら変えたらどうだ?」
「なんで、そんな――」
「春華は可愛いんだから、あえて枯れた格好をする必要もないだろ?」
綺麗。可愛い。さらりと立て続けに言われたそれらに、春華は言葉を失った。
聡がこうもはっきり春華を褒めることは滅多にない。もちろんけなすこともないが、彼は常に春華に〝女性〟ではなく〝同居人〟として接している。それなのにこんなことを言うなんて、聡はよほど酔っているようだ。
所詮は酔いの上での戯言。そう、わかっているのに。
「なんだ、急に赤くなって。もしかして照れてる?」
ふっと微笑む夫の姿に、春華は自分の頬が赤くなっているのを感じた。
「ち、違います」
「可愛い」
誰かこの酔っ払いをなんとかしてほしい。
(女たらし、色気の暴力!)
名ばかりの妻を口説くなんてどういうつもりか。否、聡にそんな気はないのだろう。その証拠に彼の形の良い唇の端はニヤリと上がっている。要は、からかっているのだ。
「そうだ、どうせなら俺とお揃いにするか? プレゼントするよ」
「お断りします。だいたい、聡さんしか見ないのに、ちゃんとした部屋着を着ても仕方ないでしょ」
苦し紛れに口をついて出たのは、可愛げの欠片もない反論だった。
「ま、それもそうだな」
聡はあっさり答えてリビングを出ていく。バタン、とドアが閉まり、足音が遠ざかるのを確認した春華は脱力してソファの上に横になった。そのままクッションを抱き抱えて顔を埋める。
「……なんなのよ、もう」
突然褒められて情緒が追いつかない。なんとか気分を変えたくて映画を再生するが、ものの十分と経たずにテレビを消した。まったく集中できないのだ。
仕方なくテーブルの上に置いたお菓子とお酒を片付け、早々にリビングを後にする。だが、今日の春華はつくづくタイミングに恵まれなかった。自室に向かう途中の廊下で、風呂上がりの聡とばったり会ってしまったのだ。
「あれ、もう寝るのか?」
話しかけられたが、春華は返事ができなかった。
(なんで裸なの!?)
ズボンこそはいているものの、聡は上半身裸だった。太く引き締まった二の腕や盛り上がった胸筋、六つに割れた腹筋。一切無駄のない肉体美に思わず目を奪われる。
「春華?」
「な……んでもありません! おやすみなさい、もう寝ます!」
「おい、ちょっと待っ――」
最後まで聞くことなく春華は自室に逃げ込み、そのままベッドにダイブした。
きつく瞼を閉じるが、先ほどの光景が目に焼き付いて離れない。勝手に胸の鼓動が速まって痛いほどだった。こんなところ、とても香や岡崎には見せられない。
彼らに『副社長に興味はない』と言った言葉は本当だ。香にも話した通り、春華のタイプは一途な男であって遊び人ではないのだ。その点、聡は圧倒的に後者である。
結婚してもうすぐ二年。形式上の妻になってからも、春華の耳には夫の華やかな女性関係の噂が飛び込んできた。だからそれなりに遊んでいるのだろうと思っていたけれど、それに対して抗議したことは一度もない。嫉妬なんて論外だ。
一方、春華はプライベートではなるべく異性とふたりきりにならないようにしている。もちろん自分なりのケジメとしてそうしているだけで、聡から言われたわけではない。
ただ、これまで噂は聞いていても、今日のように決定的な瞬間を見たのは実は初めてだったりする。一応既婚者なので、聡もそのあたりのラインは越えないよう気をつけていたのかもしれない。だから正直なところかなり驚いた。
悩んでいた岡崎の食事の誘いをついOKする程度には動揺したし、少し……ほんの少しだけイラッとした。要は、面白くなかったのだ。
(でも、これは嫉妬じゃないわ)
絶対――多分、きっと、驚いただけだ。だって、今の春華は聡に恋しているわけではない。
週終わりという疲労が蓄積されたタイミングで、初めての光景を目撃して混乱したのだろう。こういうときはさっさと眠ってしまうに限る。
おひとりさまを満喫できなかったのは残念だが、諦めよう。
春華は無理やり気持ちを切り替えると、部屋の照明を落として瞼を閉じた。
いつになく聡との接触が多かったからだろうか。その夜、春華は懐かしい夢を見た。
初めて恋をし、敗れた、甘く苦いひと夏の思い出。そして、再び出会った日の夢を。
2
その年の夏は、近年稀に見る異常気象だったと記憶している。
日本各地で連日四十度を超え、「九月に入っても猛暑は続くだろう」というニュースを聞いたとき、春華は心の底からうんざりした。
夏休みに入ると学校は一か月間以上も休みになる。これといって出かける予定があるわけでもないが、暑いという事実だけでげんなりするというものだ。
「……夏休みなんて早く終わればいいのに」
自室のベッドに横たわり、春華はひとりごちた。今頃、クラスメイトは大いに夏を満喫しているのだろう。瞼を閉じれば、夏休み前の浮かれた女子の声が蘇ってきた。
七月に入ると、教室の中では自然と夏休みの過ごし方が話題になる。春華の通う高校は都内でも屈指のお嬢様学校として有名で、出てくる話題はいずれも華やかなものばかりだ。
耳にした行き先だけでも、軽井沢、ハワイ、ウィーン、ニース……と様々だった。しかし、春華が彼女たちの会話に加わることはなかった。旅行話に花を咲かせるクラスメイトの声が耳に入っただけ。
何せ、春華には友人がいないのだ。
だから夏休みが一日でも早く終わってほしい理由は、クラスメイトに会いたいからではない。
この家に……母と一緒にいたくないからだった。
父は国内外に別荘を所有しているから、その気になれば春華はいくらでも避暑地に行ける。けれど、春華が行く場所には必ず母がついてくるのだ。
「まさか」
即座に否定する。思いの他強い口調になってしまったが、これだけはきちんと伝えておかなければ。
聡が誰とどこで何をしていようと春華にはまったく関係ない。お盛んね、とは思うがそれだけだ。
「副社長がモテるのは有名な話だし、そもそも私が気にすることじゃないもの」
春華の答えに、岡崎は「それもそうですね」と安心したような顔をする。
「変なことを言ってすみません」
そんなやりとりをしていると、やがて会社の最寄り駅に到着した。
「それじゃあ、また来週」
「ええ、お疲れさま」
岡崎と別れた春華は電車に乗り込みドアの近くに立つと、車窓越しに過ぎゆく都会の街並みを見つめた。
(今週も頑張ったなぁ)
所狭しと建ち並ぶビル群、目がチカチカするほど派手な電飾の看板、駅に停車するたびに忙しなく乗り降りする乗客。
きっと多くの人にとっては見慣れた、なんてことない光景。しかし、春華にとっては違う。
今でこそ当たり前のように電車通勤をしているが、就職する前はほとんど電車に乗ることがなかった。最初のうちなんて、朝の満員電車で何度窒息しそうになったことか。
(あれには今でも慣れないけど)
夏場は汗や香水など色々な匂いが車内に充満するので、かなりしんどいときもある。それでも春華は嫌だと感じたことはなかった。むしろ電車通勤できることに喜びすら感じている。
それから十五分ほど電車に揺られて降車し、春華は改札を抜けた。しかし、駅の外に出る必要はない。なぜなら春華の自宅マンションは駅に直結しているからだ。おかげで天気に左右されることなくまっすぐ帰宅できる。
「おかえりなさいませ」
エントランスキーを解除してマンションのロビーに入ると、コンシェルジュの男性が迎えてくれた。春華は小さく会釈をし、自室へと向かう。
ここは、都心に聳える地上四十階建ての高層マンション。その高層階の一室が春華の自宅だ。そこに行くには、専用のカードキーをエレベーターに翳す必要がある。
交通アクセスは抜群でセキュリティもばっちり。さらには周囲の環境も申し分ない。
マンションの中には住民専用のジムやプールが併設されていて、敷地内にはスーパーマーケットやドラッグストア、病院などが入る複合施設も存在する。その他にカフェや書店なども充実していて、生活するには十分すぎる環境が整っていた。
当然だが、その分賃料は高い。いかに春華が大企業勤めとはいえ、二十四歳のいち会社員が住めるような場所ではない。それにもかかわらず春華がここに住めているのは、同居人の所有物件だからだった。さて、その同居人は帰っているだろうか――
「ただいま」
玄関のドアを開けるが、返事はない。靴もないし、やはりまだ帰宅していないようだ。
大理石が敷き詰められた玄関でパンプスを脱いだ春華は、手洗いなどを済ませると、いったん自分の部屋に入り荷物を置いた。八畳の部屋に三畳のウォークインクローゼットがついたこの部屋が、春華のプライベート空間だ。ちなみに他の個室は、同居人の寝室、書斎、ゲストルームもある。
この部屋の金額を春華は知らないが、都心の一等地に聳える高級タワーマンションで4LDKとなれば数億円は下らないだろう。それを所有する同居人はやはりただものではないなと思いながら、春華はバスルームに向かった。
事前にアプリでお湯を溜めておいたおかげで、すぐに湯船に浸かれるのはありがたい。お気に入りの入浴剤を入れて四肢を伸ばすと、一週間の疲れがお湯に溶けていくような気がした。
「はぁ。生き返る……」
解放感からため息が漏れる。今日の出来事を振り返っていると、ふと同期と後輩の言葉が頭に浮かんだ。
『もう、そうじゃなくて。「かっこいいな」とか「素敵だな」とか思わないの?』
『もしかしたら野木さん、副社長が気になってるのかなって――』
不動聡に興味がないのか。
その問いに対して、春華は『興味がない』と返した。確かに文句なしの美形だと思うし、女性にモテるのも当然だと思う。だがそもそもの話、浮気性の男は春華の恋愛対象外だ。
「……誠実なのが一番よ」
一途さに勝るものはないと春華は考えている。
(ろくに恋愛をしたこともないのに、何言ってるんだって感じだけど)
温まった後は、体を拭いて部屋着に着替える。そうして鏡に映るのは、上下三千円のグレーのスウェットを着て、髪の毛を適当にくくった自分だ。バスルームのラグジュアリーな雰囲気にはまるで似合っていない。
(こんなところ、お母さんには見せられないな)
見られたが最後、母は激怒するか、下手したら絶叫しかねない。その姿がありありと想像できるだけに、春華はこのゆるゆるのスウェットを着られる今の生活が心地よくてたまらないのだ。
(さて、と。この後はどうしよう)
金曜日の夜ほど心躍る日はないのだと、春華は社会人になって初めて知った。
平日は控えているお酒を飲みながら、気になっていた映画を見るもよし。お菓子を手に先日まとめ買いした漫画をスマホで読むもよし。どうせならアイスを食べてしまおうか。お風呂にも入ったし、最悪リビングで寝落ちしたところでそれを咎める人は誰もいない。
せいぜい翌朝、鏡に映る浮腫んだ顔にショックを受けるくらいだろう。でも、明日が休みなら関係ない。
(決めた! 今日はお酒とお菓子と映画にしよ!)
春華はリビングに戻り、うきうきとアイスとお菓子を用意する。そしてL字形のソファに座ると、大型テレビの向こうに都内の夜景が一望できた。東京タワーとスカイツリーが同時に見られるのだから、つくづく贅沢な空間だと思う。
そうしてルンルン気分でお菓子の袋を開けようとしたそのとき、遠くで玄関が開く音がした。どうやら同居人が帰ってきたようだ。
(えっ、今日は遅いんじゃなかったの?)
特に連絡が来ていたわけではないが、てっきり帰ってくるのは日付が変わってからだと思っていた。春華が突然の帰宅に動揺していると、すぐにリビングのドアが開かれる。
「あ……おかえりなさい」
「ただいま」
仏頂面で答えたのは、同居人こと不動聡だった。
〝不動聡の妻は、総務部人事課の野木春華である〟
このことを社内で知っているのはごく一部の社員だけ。当事者の他には、義父の不動社長と聡の腹心の部下である木梨修吾、そして春華の上司の総務部長だ。
当然、香や岡崎は知らないし、この先も知らせるつもりはない。
なぜなら春華と聡がしたのはただの結婚ではない。
春華は実家を出て自由を手に入れるため。
聡は〝既婚者〟という社会的ステータスを得ることで煩わしい見合い話を避け、仕事に専念するため。
それぞれの目的のために〝結婚〟という名の契約をした、いわば仮面夫婦なのだ。
実際、夫婦になってもうすぐ丸二年になるが、ふたりの間に男女の触れ合いは一切ない。当然、寝室は別々だ。基本的には食事も別々だし、家事も互いに適当にやっている。
唯一、年に一度の結婚記念日だけはデートをすることにしているが、それさえも結婚という契約を更新するか否かを決めるための場でしかない。
よって、ふたりは戸籍上は夫婦であるものの、友人でもなければ恋人でもなかった。
あえてこの関係に名前をつけるなら、〝同居人〟が一番しっくりくる。だから『彼氏はいない』と香に言った言葉に嘘はない。ただ、『夫がいる』というだけで。
聡とのビジネスライクな関係は比較的うまくいっていたし、特に喧嘩などもしたことはない。喧嘩するほど深い話をしたことがない、と言った方が正しいのかもしれないけれど。
「お仕事、お疲れさまでした」
聡は、最後に見たときと同じネイビーのスーツ姿だった。
春華はそれが既製品ではなくオーダーメイド品であると知っている。なぜならあのスーツは、昨年の結婚記念日に春華が聡へプレゼントしたものなのだから。
「今日は早いんですね」
仕事、プライベート共に多忙を極める聡と家で顔を合わせることは稀だ。
金曜日の夜、しかも日付が変わる前に帰ってくることは滅多にない。今日だって小柄な美女とデートをしていたのだから、朝帰りになるだろうと思っていた。
だからこそ春華はそう言ったのだけれど、聡は「ああ」とぶっきらぼうに答えるだけだった。
(何?)
気のせいだろうか。今の聡は見るからに不機嫌そうだ。ソファでくつろぐ春華を見て無言で眉間に皺を寄せるのは、妻の怠惰な姿が許せないからだろうか。
(でも、そんなの今さらだろうし……)
聡は春華のよれよれスウェット姿なんて見慣れているはず。それに、天下の不動旅行企画副社長はそこまで心は狭くない。となると、小柄美女に振られたとか?
「聡さん、何かありましたか?」
「どうして」
「どうして、って……」
質問に質問で返されて内心戸惑う。これから華金タイムを楽しもうと思っていたので、面倒な話ならあまり聞きたくない。しかし、こちらから切り出した手前放っておくこともできず、春華は口を開いた。
「機嫌が悪そうなので」
聡はこれには何も答えなかった。無言でこちらに向かってくると、そのままどすんと春華の隣に腰を下ろす。同時にふわりと甘い香りが漂ってきて、春華はつい顔を顰めた。聡の愛用する香水とはまるで違う香りは、おそらくあの小柄美女のものだろう。
〝基本的に婚姻期間中の不貞行為は禁止〟
契約上は一応そうなっているが、それが守られているかは定かではない。なぜなら、今日のように聡から女性の気配を感じるのは珍しくないからだ。とはいえはっきりとした証拠はないし、匂わせ程度なので春華は見て見ぬふりをしてきた。
自分が聡と男女の行為をする気がない以上、口を出すのは憚られたし、今のところ何か迷惑を被っているわけではない。極論、結婚生活が続けられるのであれば、書類上の夫がどこで誰と何をしようと春華には関係のない話だ。けれど、自分が贈ったスーツから他の女性の香りがするのは、あまり気持ちのいいものではない。
「眉間に皺が寄ってますよ」
「面白くないことがあったからな」
だからそれが何かと聞いているのだけれど。
(やっぱり彼女に振られちゃった?)
それとも何か別の嫌なことでもあったのか。どちらでもかまわないが、八つ当たりや面倒ごとはやめてほしい。内心そんなことを思っていると、拗ねたような顔をした聡に睨まれた。
「春華は、木梨みたいな男がタイプなんだって?」
「はい?」
目を丸くする春華に、聡は険のある声で続ける。
「昼間、社食で話していたそうじゃないか。木梨が新里さんから聞いたと言っていた」
「新里って、香から?」
「ああ。新里さんは俺と木梨と同じ大学出身だろ。俺は個人的な付き合いはないが、木梨は何かと接点があるらしい。今日木梨と飲んでいるときに、『春華ちゃんは俺の方がタイプみたいだ。悪かったね』って自慢された。何が『春華ちゃん』だ、馴れ馴れしい」
部下への愚痴をこぼす夫の姿に春華はポカンとした。つまりは、なんだ。
(私の言葉を聞いて、木梨さんに負けた気がして不機嫌になってるってこと?)
嫌な予感はしていたが、本当に面倒な話だった。
何事かと身構えていた春華は一気に脱力した。目の前の缶チューハイに手を伸ばしたい気持ちをグッと堪えて、ため息をつく。
「別に、そんなのどうでもいいじゃないですか」
投げやりな春華の態度に、聡はますます眉間の皺を深くした。せっかくの美形が台無しだ。そんなことを春華が思っているとは露ほども知らない聡は真顔で詰め寄る。
「どうでもよくない。他の男ならともかく、木梨と比べられて黙っていられるか。しかも、俺よりあいつの方がいいとかありえない」
「いつものライバル意識ですか?」
「そんなところだ」
聡と木梨は副社長と副社長秘書という立場だが、プライベートでは高校・大学時代の同級生で、親友だというのは春華も知っている。ふたりは学生時代からのライバルでもあり、しかも昔から木梨の方がモテていたということも。聡からそれを聞いたとき、春華はそれはそうだろうと思った。
パッと見の華やかさなら聡に軍配が上がるが、木梨はそんな彼に負けず劣らず整った顔をしているし、加えて穏やかで紳士的な雰囲気の持ち主なのだからモテないわけがない。
でも、それを馬鹿正直に聡に話すことはしない。
(これ以上の面倒ごとはごめんだわ)
しかし、春華の表情から内心が透けて見えたのだろう。聡はいっそう不機嫌そうに顔を顰める。
「春華」
「えっ!?」
聡が突然、両手で春華の肩をがっしり掴んだ。さらには顔をグッと近づけてくるものだから、春華は小さく悲鳴を上げた。
「な、なんですか?」
「いいか、よく聞け」
腹に響くような低い声に一気に心臓が跳ね上がるが、これは断じてときめいたわけではない。聡ほどの美形が眼前に迫れば誰だってこうなるはずだ。
そう誰に対してでもなく心の中で言い訳をする春華に、聡は言った。
「木梨は人畜無害そうな顔をしているが、本当はものすごく腹黒い男だ。だから悪いことは言わない、木梨だけはやめておけ。な?」
続けて聡は「世の中にはもっとまともな男はたくさんいる」「男は顔が全てじゃない」と的外れなアドバイスをしてくる。
それを春華は呆気に取られながら聞いていた。
(どこから突っ込めばいいの……?)
大前提として、春華は別に木梨が好きなわけではない。聡とどちらがタイプかと問われて、ただ誠実そうな木梨を選んだだけだ。それなのに聡は真面目な顔で「木梨はダメだ」と重ねて訴えてくる。そのあまりに必死な様子に面倒臭さを一瞬忘れて、春華は問うた。
「もしかして、嫉妬ですか?」
「は?」
これに今度は聡の方が目を丸くした。鳩が豆鉄砲をくらったような間の抜けた顔を見て、春華は噴き出しそうになるのをなんとか堪える。
聡は数秒間固まった後、何を言っているんだと言わんばかりに片眉を上げた。
「嫉妬? 俺が?」
「はい」
「まさか、ありえない」
一蹴される。まがりなりにも妻相手になんて態度だ……とは思わない。
「ですよね。そうだと思いました」
聡が春華を女として見ていないのはわかっている。それにもかかわらずこうも彼がこだわるのは、単に木梨に負けたのが悔しいからだ。それ以上でもそれ以下でもない。
それはいいとして、今の春華には何よりも気になることがあった。
――近いのだ。
聡の両手はいまだ春華の肩に置かれたまま。さらには、彼の吐息が唇に触れるほど顔が間近にある。体勢だけを見ればキスを迫られているようだ。それだけではない。
「……お酒と香水の匂いがします」
一度はスルーしたもののやはり気になって、春華は指摘した。直後、聡はバッと身を引き立ち上がる。両手を上げて、彼は「悪い」と気まずそうに謝罪した。
「マナー違反だったし、近すぎた。肩も強く掴んでしまったかもしれない。痛かったか?」
春華は首を横に振る。正直に言えば少しじんじんするが、酔っ払い相手に文句を言っても意味はない。だから問題ないと答えたのだけれど、聡はまた面白くなさそうな顔をする。
(なんなの?)
今日の彼は少し情緒不安定なように見える。ビジネスライクな夫婦関係といえど、二年も一緒にいれば多少の心の機微は見て取れる。
「やっぱり振られたんですか?」
「振られたって、誰に」
「今日、デートだったんですよね。女性と一緒にタクシーに乗るところを見ました」
この指摘に、聡は一転してばつの悪そうな顔をする。
「……彼女はただの仕事相手だ。付き合いで飲みに行っただけでデートじゃないし、恋人じゃないから振られようもない」
意外だった。とても親密そうな雰囲気だったし、男女の関係なのかと思っていた。
「信じてないな?」
疑わしそうに問われて春華は反応に困る。
「飲みの席には木梨もいた。やましいことは何もないし、なんなら木梨に確認してくれてもいい」
「いえ、別に大丈夫です」
そこまで興味がないので、とは言わない。これ以上ややこしくなるのは避けたかった。自分はこれから映画とお酒の華金タイムを満喫したいのだ。
とにかくこの妙な雰囲気を変えたくて、春華はあえて明るい口調で問いかける。
「そうだ、聡さんもよかったら一緒に映画を見ますか? 恋愛映画なので、興味があるかはわかりませんが」
本当はひとりでダラダラするつもりだったが仕方ない。
立ったままでは疲れるだろうと思い、春華は自分の隣をポンポンと叩く。しかし、聡はそこに腰を下ろすことなく顰めっ面でため息をついた。
「……いい。風呂に入って寝る」
「そうですか」
やった、おひとりさま時間ゲット! という心の声をグッと呑み込む。自室にはテレビもパソコンもあるが、どうせ見るならリビングの大型テレビで堪能したいのだ。
そうと決まったら早速……と嬉々としてリモコンに手を伸ばす。しかし、それを聡に止められた。
「なぁ、春華。その部屋着、そろそろ買い替えないのか?」
聡の視線は上下三千円のゆるゆるスウェットに向けられている。今さらなぜそんなことを言われるのかわからない。これはもう一年以上着ているし、彼も見慣れているはずなのに。
「別に、まだ着られますけど……」
困惑する春華をよそに彼は続けた。
「でも、だいぶくたびれてるし、色も地味だし。もっと明るい色の方が春華には似合うよ。せっかく綺麗な顔をしてるのにもったいない」
「え?」
「別に好きでそれを着てるならかまわないけど、新しくする気があるなら変えたらどうだ?」
「なんで、そんな――」
「春華は可愛いんだから、あえて枯れた格好をする必要もないだろ?」
綺麗。可愛い。さらりと立て続けに言われたそれらに、春華は言葉を失った。
聡がこうもはっきり春華を褒めることは滅多にない。もちろんけなすこともないが、彼は常に春華に〝女性〟ではなく〝同居人〟として接している。それなのにこんなことを言うなんて、聡はよほど酔っているようだ。
所詮は酔いの上での戯言。そう、わかっているのに。
「なんだ、急に赤くなって。もしかして照れてる?」
ふっと微笑む夫の姿に、春華は自分の頬が赤くなっているのを感じた。
「ち、違います」
「可愛い」
誰かこの酔っ払いをなんとかしてほしい。
(女たらし、色気の暴力!)
名ばかりの妻を口説くなんてどういうつもりか。否、聡にそんな気はないのだろう。その証拠に彼の形の良い唇の端はニヤリと上がっている。要は、からかっているのだ。
「そうだ、どうせなら俺とお揃いにするか? プレゼントするよ」
「お断りします。だいたい、聡さんしか見ないのに、ちゃんとした部屋着を着ても仕方ないでしょ」
苦し紛れに口をついて出たのは、可愛げの欠片もない反論だった。
「ま、それもそうだな」
聡はあっさり答えてリビングを出ていく。バタン、とドアが閉まり、足音が遠ざかるのを確認した春華は脱力してソファの上に横になった。そのままクッションを抱き抱えて顔を埋める。
「……なんなのよ、もう」
突然褒められて情緒が追いつかない。なんとか気分を変えたくて映画を再生するが、ものの十分と経たずにテレビを消した。まったく集中できないのだ。
仕方なくテーブルの上に置いたお菓子とお酒を片付け、早々にリビングを後にする。だが、今日の春華はつくづくタイミングに恵まれなかった。自室に向かう途中の廊下で、風呂上がりの聡とばったり会ってしまったのだ。
「あれ、もう寝るのか?」
話しかけられたが、春華は返事ができなかった。
(なんで裸なの!?)
ズボンこそはいているものの、聡は上半身裸だった。太く引き締まった二の腕や盛り上がった胸筋、六つに割れた腹筋。一切無駄のない肉体美に思わず目を奪われる。
「春華?」
「な……んでもありません! おやすみなさい、もう寝ます!」
「おい、ちょっと待っ――」
最後まで聞くことなく春華は自室に逃げ込み、そのままベッドにダイブした。
きつく瞼を閉じるが、先ほどの光景が目に焼き付いて離れない。勝手に胸の鼓動が速まって痛いほどだった。こんなところ、とても香や岡崎には見せられない。
彼らに『副社長に興味はない』と言った言葉は本当だ。香にも話した通り、春華のタイプは一途な男であって遊び人ではないのだ。その点、聡は圧倒的に後者である。
結婚してもうすぐ二年。形式上の妻になってからも、春華の耳には夫の華やかな女性関係の噂が飛び込んできた。だからそれなりに遊んでいるのだろうと思っていたけれど、それに対して抗議したことは一度もない。嫉妬なんて論外だ。
一方、春華はプライベートではなるべく異性とふたりきりにならないようにしている。もちろん自分なりのケジメとしてそうしているだけで、聡から言われたわけではない。
ただ、これまで噂は聞いていても、今日のように決定的な瞬間を見たのは実は初めてだったりする。一応既婚者なので、聡もそのあたりのラインは越えないよう気をつけていたのかもしれない。だから正直なところかなり驚いた。
悩んでいた岡崎の食事の誘いをついOKする程度には動揺したし、少し……ほんの少しだけイラッとした。要は、面白くなかったのだ。
(でも、これは嫉妬じゃないわ)
絶対――多分、きっと、驚いただけだ。だって、今の春華は聡に恋しているわけではない。
週終わりという疲労が蓄積されたタイミングで、初めての光景を目撃して混乱したのだろう。こういうときはさっさと眠ってしまうに限る。
おひとりさまを満喫できなかったのは残念だが、諦めよう。
春華は無理やり気持ちを切り替えると、部屋の照明を落として瞼を閉じた。
いつになく聡との接触が多かったからだろうか。その夜、春華は懐かしい夢を見た。
初めて恋をし、敗れた、甘く苦いひと夏の思い出。そして、再び出会った日の夢を。
2
その年の夏は、近年稀に見る異常気象だったと記憶している。
日本各地で連日四十度を超え、「九月に入っても猛暑は続くだろう」というニュースを聞いたとき、春華は心の底からうんざりした。
夏休みに入ると学校は一か月間以上も休みになる。これといって出かける予定があるわけでもないが、暑いという事実だけでげんなりするというものだ。
「……夏休みなんて早く終わればいいのに」
自室のベッドに横たわり、春華はひとりごちた。今頃、クラスメイトは大いに夏を満喫しているのだろう。瞼を閉じれば、夏休み前の浮かれた女子の声が蘇ってきた。
七月に入ると、教室の中では自然と夏休みの過ごし方が話題になる。春華の通う高校は都内でも屈指のお嬢様学校として有名で、出てくる話題はいずれも華やかなものばかりだ。
耳にした行き先だけでも、軽井沢、ハワイ、ウィーン、ニース……と様々だった。しかし、春華が彼女たちの会話に加わることはなかった。旅行話に花を咲かせるクラスメイトの声が耳に入っただけ。
何せ、春華には友人がいないのだ。
だから夏休みが一日でも早く終わってほしい理由は、クラスメイトに会いたいからではない。
この家に……母と一緒にいたくないからだった。
父は国内外に別荘を所有しているから、その気になれば春華はいくらでも避暑地に行ける。けれど、春華が行く場所には必ず母がついてくるのだ。
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