契約妻のはずが豹変した夫の激愛に浸されています

結祈みのり

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1巻

1-3

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〝ひとりになりたい〟
〝母から離れたい〟

 結局のところ、その願いを叶えられる場所は実家の自室しかなかった。

(夏休みの間、ずっとお母さんと一緒なんてうんざりする)

 春華の母・野木菫のぎすみれは、過剰なほどに娘に干渉する性格だった。娘の習い事、進学先、果ては友人関係まで全てを自分の監視下に置きたがっていた。
 それを春華は今日まで受け入れてきた。本当は嫌でたまらなかったけれど、母が執拗なまでに自分に執着する理由も、そうなった過程も身にしみて知っているから。

(……お父さんさえ馬鹿なことをしなければ)

 春華が十歳のとき、父の野木わたるは不倫した。そして、酒に酔って起こした一夜限りの過ちを母は決して許さなかった。
 母は名家の生まれで、幼い頃から蝶よ花よと育てられた生粋きっすいのお嬢様。両親が結ばれた経緯は、母に一目惚れした父があの手この手で口説き落としたからだと聞いている。
 幼い頃の両親は、ときに見ているこちらが恥ずかしくなるほど仲の良い夫婦だった。妻をお姫様のように扱う父と、夫に全幅ぜんぷくの信頼を置く母。仲睦なかむつまじいふたりは春華の憧れで、自分もいつか結婚するなら両親のようになりたいと思ったほどだ。
 実際、母もよくそのようなことを言っていた。

『お父さんは私がいなくちゃダメなの』
『春華も、結婚するならお父さんみたいに奥さんを大切にする人を選ぶのよ』

 父について語る母は、娘から見てもとても綺麗だった。愛されている女性というのは内側からも輝くことを、幼心に知った瞬間でもある。
 だからこそ、父の不倫を知ったとき、春華は世界が終わってしまったような絶望感に襲われた。でも、母の衝撃はその比ではなかった。
 夫に愛され続けた母にとって、父の裏切りはとても受け入れがたいものだったのだと思う。
 母は空気が震えるほどの大声で父を責め、視界に入ったありとあらゆるものを父に向かって投げつけた。壁に掛けられた絵画は落下し、窓ガラスは何枚も割れた。母が大切にしていたアンティークの食器も粉々に砕け、リビングに飾られていたたくさんの家族写真は床へと落ちた。
 それらをの当たりにしながら、春華は家族が……家庭が壊れる音を確かに聞いた。
 人が変わったように暴れる母を、父も春華も止めることができなかった。

『信じていたのに!』

 嵐が過ぎ去ったように突然静かになった母は、次いで床に膝をつき泣き叫んだ。

『あなたなんて大嫌い! 夫としても、父親としても失格よ!』
『裏切り者!』
『離婚なんて絶対にしませんから……!』

 そうして母は心と体をんで入院した。数か月の入院生活の後、家に戻ってきた母は春華の知る母ではなかった。母は、徹底的に父を〝いないもの〟として扱ったのだ。
 父が話しかけても無視を貫き、見向きもしない。最初のうちはあの手この手で妻に振り向いてもらおうとしていた父も、やがて諦めてほとんど家に帰ってこなくなった。
 一方で、母は過度なまでに春華に執着するようになった。
 当時の春華は共学の私立小学校に通っていたが、なかば無理やり女子校に転校させられたのだ。そこは幼稚舎から大学まである一貫校で、母の母校でもあった。

『もうお母さんには春華しかいないの。春華までダメな人間にならないように、お母さんがよく見ていないといけないわ。わかるでしょう?』

 友達と別れるのが嫌だと春華は拒んだが、鬼気迫る母にそう詰め寄られては断り切れなかった。
 もし、また母が以前のように暴れたらと思うと怖かったのだ。
 学校への送迎は当たり前。季節外れの転校生でなかなかクラスに馴染めない中、ようやく友人ができても、母が認めてくれなければそこで終わり。

『うちの子とはあまり関わらないでね』

 母は友人に容赦なくそう言い放った。
 門限なんて必要なかった。平日は学校と家の往復だけ。習い事には必ず母が同行し、週末もどこに行くにも母が一緒。スマートフォンのGPS機能は常にオンで、母がチェックする。
 中学に進学してもそれは変わらなかった。
 いじめられこそしなかったものの、友人なんてできるはずもない。春華が仲良くなりたいと思う子がいても、母が迷惑をかけたらと思うと勇気が出なかった。
 一度、過干渉な母に耐えきれずに父に相談したことがある。でも、無駄だった。

『……お母さんは春華のためを思ってしているんだ。受け入れてやりなさい』

 不倫以降、ほとんど家に寄り付かなくなった父が母をたしなめることはなかった。
 多分、妻に対する負い目があったからだろう。最も、仮に父が母を注意したところで空気として扱われるだけだっただろうけれど。
 結果的に、春華は特に親しい友人がいないまま高校生になった。
 これまで、何度も抵抗しようと思った。それでも我慢してきたのは、不倫された母が可哀想だと思ったから。その上、娘の自分まで母を拒絶したらどうなってしまうのか……そう思うと怖くて反抗できなかったのだ。
 おかげで華の女子高生となった今も、親しい友人のひとりもいない。
 真っ昼間にもかかわらずベッドの上でごろごろしている自分の怠惰さは、自覚している。
 出かけるのは習い事のときくらいで、しかも運転手の送迎付きだから、実質外に出ているのは車の乗り降りだけ。帰宅しても、食事と風呂を済ませたらすぐに部屋に戻るから、ほとんど引きこもりのような生活をしている。
 教科書なんて夏休みに入ってから一度も開いておらず、成績は二年生になってから下降の一途を辿っている。入学当初は学年順位が一桁だったが、二年生一学期の期末テストの順位は後ろから数えた方が早かった。
 その惨状に母は酷く怒っていたけれど、春華は『かまうものか』と開き直っていた。
 どうせ必死に勉強したところで、自分は行きたい大学には行けない。春華の第一志望は共学だが、母は高校一貫校の女子大に進学するようにと常々言っている。

(勉強するだけ無駄だもの)

 そう投げやりになっていた春華だが、母は違った。
 それを知ったのはその日の午後。突然、母に呼ばれたのだ。

「最近のあなたはだらけすぎよ。家庭教師の先生をお呼びしたから、今から客間にいらっしゃい」

 家庭教師を呼ぶなんて聞いていない、と訴えても無駄で、母は「お待たせしてはいけないでしょう」とうながすばかりで取り付く島もない。
 かといって、自分のために来てくれたという客人を放置することもできなくて、春華はかされるまま客間に向かった。すると――

「春華」

 不動聡が、そこにいた。
 春華が聡と初めて顔を合わせたのは、中学生の頃に父に連れられて会社同士の集まりに参加したときだ。
 不動旅行企画は野木製菓の主要取引先のひとつで、不動夫人と春華の母が学生時代の友人ということもあり、顔を合わせる機会がたびたびあった。とはいえ、聡とは個人的に連絡を取り合うような仲ではなかったはずだ。それなのにどうして――

「聡さんなら、私も安心してあなたを任せられるわ」

 驚きのあまりその場に立ち尽くす春華をよそに、母は聡が最高学府に通う優秀な人間であること、友人でもある彼の母親に頼んで家庭教師を依頼したことを揚々と語る。
 一方、手放しに褒められた聡は苦笑しつつも春華に微笑んだ。

「そういうわけで、今日から君の家庭教師を務めることになった。よろしくな」


 彼と過ごしたひと夏は、春華を変えた。

「母親を理由に勉強しないで後々後悔するのは春華だ。自分から馬鹿になってどうする? 余計な口実を与えないためにも勉強するんだよ」

 母の過干渉を理由に怠ける春華に、聡は活を入れた。

「我慢するなとは言わない。でも、俺の前でくらい弱音を吐けよ。春華は笑ってる顔が一番可愛いんだから」

 彼は春華の心を救ってくれた。共に過ごした時間はたったの一か月だったけれど、たくさんのことを春華に教えてくれた。
 でも、聡が与えたのは甘い気持ちだけではなかった。
 好きな人が自分を見てくれないもどかしさも、他の女性に対する嫉妬心も、どうしようもなく触れたいのに、それができない悔しさも。教えたのは、全て彼だった。
 週に三日訪れる聡からは、ときどき甘い香水の香りがした。
 彼にはまるで似合わない人工的な匂いの陰で、顔も知らない女の存在がちらついた。
 そのたびに春華は激しい嫉妬に襲われた。少しでも彼に追いつきたくて、名前も顔も知らない女に負けたくなくて、勉強を頑張った。化粧を覚えてお洒落しゃれをして、精一杯背伸びをした。

『可愛い』
『綺麗』

 そう言われたかったのだ。そしてその願いは、夏の終わりに叶った。
 聡は、春華を生まれて初めての花火大会に連れて行ってくれた。浴衣を着た春華を見た彼は、とても嬉しそうに微笑んだ。

「へぇ……だいぶ雰囲気が変わるな。その浴衣も髪も本当に似合ってる。すごく可愛い」

 お世辞だとわかっていた。それでも心の底から嬉しかった。
 だがそれはすぐに落胆に変わった。
 まさに花火が始まろうというそのとき、ひとりの女性が彼を見つけて駆け寄ってきたのだ。
 親しそうに彼に話しかけるその人からは、たまに彼から香るのと同じ甘い香水の匂いがした。
 恋人のようには見えない。でも、男女の仲なのは聞かずともわかった。
 ……耐えられなかった。
 自分史上最高に可愛いと思った浴衣姿が、途端に色褪せて見えた。それは女性も同様だったのだろう。彼女は春華を見て鼻で笑った。その瞬間、負けたと思った。

「この子、聡の妹さん? でも顔が似てないか。まさか付き合ってる……なんてことないわよね。こんなに純粋そうな子をたぶらかしちゃダメよ。本気になったらどうするの?」
「春華とはそんな関係じゃない」

 きっぱりと否定した彼は、女性と別れた後、苦笑しながら春華の髪を優しく撫でた。

「変なところを見せてごめんな。俺が春華を女として見ることはないから、心配するな」

 きっと、聡は異性経験のない春華を安心させるためにそう言ったのだろう。だが、それは春華の恋心を打ち砕くには十分すぎた。
 女として見るなんてありえない――そう言われたような気がしたのだ。
 そのときの春華にできたのは、虚勢を張ることだけだった。

「大丈夫です。私が聡さんを好きになることはありませんから」

 作り笑顔と共に伝えると、聡は明らかに安心した顔を見せた。きっと春華のような子どもに言い寄られなくて済む、とでも思ったのだろう。それこそが春華を何よりも傷つけたことを、彼はきっと知らない。
 結局、聡が家庭教師をしたのは十七歳のひと夏だけだった。その後の春華は聡と会うこともなく、変わり映えのしない日々を……母に干渉される毎日を過ごした。
 けれど、それから五年後、転機が訪れた。


 大学四年生の十月。いつものように朝食の席に着いた春華は、母と目が合うなり身構えた。
 母には、春華を見ると夫に対する愚痴や不満を漏らす癖がある。それが一言二言で終わることはまずない。蛇口をひねるまで水が止まることがないように、延々と夫の悪口を言い続けるのだ。
 今朝はどんな話を聞かされるのだろう。愚痴っぽい母とふたりきりの食事はただでさえ気を遣うのに、朝から気分の悪くなる言葉を浴びたくはない。家政婦の田中たなかが作ってくれた美味おいしい料理が台無しになってしまう。
 そんなことを頭の片隅で考える春華のことなど知るよしもなく、箸を置いた母は切り出した。

「春華。あなた、私に黙って就職活動をしていたそうね。しかも内定も出ていたというじゃない」

 半年間ひた隠しにしてきたことを指摘されて、春華は息を呑んだ。

「……どうして、それを知ってるの」

 心臓がバクバクと嫌な音を立てるのを感じながら、春華は声を絞り出す。母はそんな娘を冷ややかに見据えた。

「最近、様子がおかしいから調べさせたの」

 調べさせた?
 春華が耳を疑う中、母は顔色ひとつ変えずに淡々と続ける。

「驚いたわ。勝手に就職活動をしていただけでも信じられないのに、よりによって内定先が無名の出版社だなんて」

 驚愕と混乱で二の句が継げないでいた春華だが、母のこの言葉で我に返った。

(無名の出版社?)

 微かに怒りの感情が心に宿る。

「……秘密にしていたことはごめんなさい。謝ります。でも、無名の出版社じゃないわ」
「一度も聞いたことがない会社だったけど」
「海外の絵本や児童書を主に出版している会社なの。一般的には知名度の低い会社かもしれないけど、五十年以上の歴史があって、ベストセラーだって何冊も出しているし――」
「興味ないわ」

 春華が必死に説明するが、母は聞く価値もないと言わんばかりに遮った。

「なんにしても、もうあなたには関係のない会社よ。昨日、内定辞退の連絡をしておいたから」

 辞退?

(何を言ってるの?)

 頭の中が真っ白になる。しかし、対面の母が得意げな笑みを浮かべているのに気づいた瞬間、激しい感情が心の内側から一気に沸き上がった。視界が赤く染まるような感覚がする。
 人は、許容範囲を超える怒りを感じると怒鳴ることもできないのだと初めて知った。しかし、顔を真っ青にしてきつくこぶしを握る娘を前に、母は眉ひとつ動かさない。

「親に隠れて就職活動なんてするのがいけないのよ。お母さんは、春華が働きたがっているなんて知らなかったわ」
「言ったら反対したでしょう!?」

 ダメだ。声を荒らげてもなんの意味もない。そうわかっているのに感情が制御できない。

「私が働きたいと言ったらお母さんは絶対に反対する、だから隠れて就活するしかなかったの!」
「そんなことないわ。お母さんが決めた会社なら賛成したわよ」

 母は聞き分けのない子どもに言い聞かせるような口調で言い、呆れた顔をする。見下しているのが明らかな態度に、それまでこらえていた我慢の糸がぷつんと切れたのを自覚した。

「『お母さんが決めた会社』?」
「そうよ」

 堂々と頷く姿に吐き気さえも感じた。

「春華は働かなくていいの。ずっとこの家にいればいいのよ。どうしても働きたいと言うのなら、お父さんの会社で働きなさい。わざわざ得体の知れない出版社を選ぶ必要はないわ」
「だからっ……!」

 たまらず春華は立ち上がった。その勢いで椅子が大きな音を立ててひっくり返り、キッチンから家政婦の田中が慌てて飛んでくる。

「座りなさい。食事中なのにお行儀が悪いわよ」

 たしなめられるといっそう苛立ちが募った。なぜ、どうして、こうも話が通じないのだろう。目の前にいるのは血を分けた実母なのに、まるで宇宙人と会話しているようだ。
 この感覚を味わうのはこれが初めてではなかった。子どもの頃から何十回、何百回と数えられないほど経験してきた。そのたびに春華は言い返したくなる気持ちをグッと抑えた。でも、今回ばかりはとても黙って受け入れられない。

「お母さんは、いつもそう」

 泣きたくない。それなのに声は震えてしまう。

「習い事も、友達も、学校も、自分の思い通りにして、私の意見を聞いてくれたことなんてないじゃない!」

 春華はその現状から脱したくて秘密裏ひみつりに就職活動をしてきた。そうして念願叶って憧れの出版社の内定を勝ち取った。それを勝手に辞退の連絡をしただなんて許せるはずがない。

「……のよ」

 ぽつりとつぶやく。

「何? 聞こえないわ」
「そうやって自分のことばかり考えているから、お父さんに不倫なんてされるのよ!」
「春華っ!」

 それまで余裕を保っていた母の顔色が変わった。この瞬間、春華は自分が母の逆鱗げきりんに触れたことを自覚した。その証拠に母は眉を吊り上げ、真っ赤な顔で春華を睨んでいる。
 絶対に言ってはいけない言葉だとわかっていた。だから十年以上口には出さずにいたけれど、限界だった。
 視線が絡み合うこと数秒。先に視線を逸らしたのは母の方だった。

「……朝から大きな声を出さないで。頭が痛くなるわ」

 母は、鬱陶うっとうしそうにため息をつくと静かに席を立つ。

「逃げるの!?」
「違うわ。話にならないから出ていくの。とにかく、お母さんはそんな得体の知れない出版社で働くことは許しません。あなたも少し頭を冷やしなさい。――田中さん、お料理を下げてくださる? 食欲がなくなったの。せっかく作ってくれたのにごめんなさいね」

 母は田中に声をかけ、春華には一瞥いちべつもくれることなく食堂を後にした。
 その場に残されたのは立ち尽くす春華と、オロオロする田中だけ。春華は母を呼び止めることはしなかった。しても無駄なのは、もう十分すぎるほどわかっていたから。

「お嬢様……」

 気遣わしげな田中に話しかけられて、春華は泣きたい気持ちをグッとこらえて席に着く。

「騒いでごめんなさい。朝ご飯、いただきますね」
「無理に召し上がらなくても――」
「無理なんてしてないわ。田中さんのご飯を残すなんてもったいないもの」

 春華は小さく笑い、静かに朝食を食べ始めた。白いご飯と味噌汁、煮魚におひたし、フルーツ。見た目にも美味おいしいそれを食べていく。そうして米粒ひとつ残さずに朝食を終えると、「ごちそうさま」と笑顔で礼を言って食堂を後にした。
 でも、ここまでだった。

「なんでっ……!」

 自室のドアを閉めた直後、再度限界は訪れた。
 立ち尽くしたまま両手のこぶしを強く握る。爪が皮膚に食い込んで痛い。
 それでも感情を抑えることはできなくて、春華は衝動のままにソファのクッションを手に取った。それを壁に投げつけようと大きく腕を振り上げて……やめた。こんなことをしてもなんの意味もない。

(どうしていつもこうなの)

 春華はその場にしゃがみ込んだ。うつむくと、涙が頬を滑り落ちた。ひとたび涙を自覚するとそれはとめどなく溢れてくる。
 怒り、苛立ち、無力感。言葉では表せないほどの悲しみが心を満たす。

(やっと、今の状態から抜け出せると思ったのに)

 春華は別に虐待されているわけではない。裕福な家庭に生まれ、衣食住に困らず、学校にも通えている。とても恵まれた環境で育ったと言えるだろう。
 たとえ友達がいなくとも、両親の関係が冷え切っていても。
 ――私が我慢すれば、全部が丸く収まる。
 逃げたい衝動に駆られるたびに、春華はおのれにそう言い聞かせて生きてきた。けれど、自由な生活への憧れは捨てきれない。
 母は、春華が働く必要はないと言っている。でも、そんなのはごめんだった。自分は母を拒絶できないが、これから先もずっと母の監視下で生きることもできない。

(もう十年以上、我慢してきた)

 これまで春華は母に従順であり続けた。内定を得て就職先が決まってしまえば、さすがに母も認めてくれると思った。
 しかし、甘かった。母は、どこまで行っても自分を自由にしてくれなかった――

(でも、諦めたくない)

 春華は一縷いちるの望みを懸けて、内定先の出版社に連絡をした。
 母の無礼を詫びて、内定辞退を取り消してもらおうと考えたのだ。だが、そこで春華は新たな事実を知った。母は勝手に内定を辞退しただけでなく、電話に出た採用担当者を酷くなじったのだという。さらには会社のことまでもののしったのだとか。
 ――同じだ。
 幼い頃、せっかくできた友人に娘と付き合うなと言い放ったときと何も変わっていない。
 電話口の採用担当者が呆れ、苛立っているのは電話口からでも伝わってきた。そんな経緯を知ってしまえば、「母が勝手にしたことです」なんて言えるわけがない。

「ご迷惑をおかけして本当に申し訳ありませんでした」

 そう言って春華は電話を切った。涙ももう出なかった。


 きっと、本気で家が嫌なのならば家出でもなんでもすればよかった。けれど、そうした場合の母がどうなるかを考えると、どうしても行動に移せなかった。
 母を見限ることも、自分の意志を貫くこともできない。結局のところ、春華はどこまでいっても中途半端でしかなかった。そんな自分が大嫌いだ。
 内定辞退以降、春華は引きこもりがちになった。必要な単位はほぼ取り終えているから、大学に行くのも週に一度程度でいい。やる気も食欲も湧かず、無気力なまま日々が過ぎていく。
 しかし、十二月に入ったある日の夜、変化が起きた。

「春華」

 父が春華の部屋を訪れたのだ。父に話しかけられた春華は心底驚いた。

「何?」
「少し話があるんだ。入ってもいいかな」

 家にいるときの父は文字通り空気だ。最後に向かい合って話をしたのがいつか思い出せないほどに存在感がない。そんな父が、話?

「……どうぞ」

 いったい何事かと思いつつも春華が答えると、どこか気まずそうな表情の父が顔を覗かせた。
 春華はとりあえずソファを勧め、父が腰を下ろしたのを見てから自分はベッドに座る。

「どうしたの?」
「いや……最近、春華が元気がないと田中さんに聞いたから。食事の量も減っているし、大学も休みがちだと心配していたよ」

 母からではなく家政婦から聞いたと言うあたりがなんとも父らしくて、春華は乾いた笑みを浮かべる。父はそんな娘を痛々しげに見つめた。

「……本当に痩せたな」

 その声には心配の色が滲んでいる。

(やめてよ)

 春華は心の中で吐き捨てた。生活できているのは父のおかげだから、その点は感謝している。しかし、不倫してから今日までずっと、父は春華に関しての全てを母に押し付けてきた。
 何を相談しても『お母さんに聞きなさい』『お母さんに任せているから』ばかりで、いつしか春華は父を頼りにすることをやめた。それなのに今さら心配するなんて遅すぎる。

「勝手に内定を辞退されて、元気でいる方が難しいわ」

 春華の投げやりな答えに父の顔がいっそう悲痛に歪む。

「……そうだな」

 ポツリとつぶやいた父の視線が不意に本棚へと向かったので、春華もそちらを見た。綺麗に並ぶ絵本のほとんどは幼い頃――まだ両親が春華の憧れだった頃に父から贈られたものだ。

「出版社の内定が取れていたそうだね。出版業界は特に倍率が高いから、大変だっただろう。春華は昔から海外の絵本が好きだったから……本当に残念なことだと思う」

 春華は視線を本棚から父へと戻した。

(覚えていたの?)

 子どもの頃、父はよく寝る前に読み聞かせをしてくれた。父から贈られた海外の絵本は、大切に本棚に並べて保管している。今もふとしたときに手に取っては、心躍るストーリーや美しい装丁に癒されていた。
 思わぬ形で忘れかけていた懐かしい記憶を呼び起こされて、春華は動揺する。

「できることならなんとかしてあげたいが、こればかりはお父さんにも難しい。でも、手助けすることはできる」
「どういうこと?」
「春華にその気があるなら、就職先を紹介しようと思っている。お父さんの会社ではないが、お母さんにも反対されないところだ。春華は、不動聡君を覚えているかい?」
〝不動聡〟

 久しぶりに耳にするその名前に、たまらず体が震えた。

「……もちろん覚えているわ」

 高校二年生の夏に淡い恋心を抱いた相手。でも、彼と会ったのはあのときが最後で、それ以降は話すどころか顔すら見ていない。

「私の就職と聡さんとどう関係があるの?」
「実は少し前に仕事で聡君と話すことがあってね。そのとき流れで春華の話題になったんだ」

 なんでも父は、妻が勝手に娘の内定を辞退したこと、それによって娘が酷く塞ぎ込んでいることを話したのだという。

「それを知った聡君が、春華さえよければ不動旅行企画で働くのはどうかと言ってくれたんだ」

 春華と聡の母親同士は友人で、なおかつ聡は過去に春華の家庭教師を務めた経験がある。自分がいる会社なら春華の母も反対しないのでは……そう聡は父に言ったらしい。

「仮に入社する場合は、特別扱いはせずに他の新入社員と同じ条件で雇用すると聡君は話していた。もし春華にその気があるのなら、私ではなく春華自身の口から答えを聞きたい、ともね」

 話を聞き終えた春華はすぐに言葉が出なかった。

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