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1巻
1-2
しおりを挟む「あの?」
「それが必要なのは、君の方だと思うけど」
「え……?」
「目が赤いよ」
「こ、これは!」
小百合は慌てて顔を背けようとする。しかしその寸前、男性の指先が小百合の顎に触れた。
「それに……今にも泣きそうな顔をしてる」
予期せぬ行動に逃れる隙もなかった。男性は、目を見開く小百合の顎を親指でくいっと持ち上げたのだ。
「綺麗なドレスを着た女性がホテルのバーで一人飲んでいる。その上、涙目ときた。どうしたの? もしかして失恋でもした?」
「なっ……あなたには、関係ありません!」
小百合はパシン! と男性の手を払った。
(なんて失礼な人なの)
図星をさされてかっとなる。赤い目をして睨む小百合を、男性は余裕たっぷりの様子で見返した。
「その様子だと、正解か」
本当に、どこまでもデリカシーのない男だ。こういう輩に遠慮はいらない。
「酔っぱらいに絡まれるのは好きじゃないの。それにもう一度言うけれど、私が泣いていようと……それがどんな理由であろうと、あなたには関係ないわ」
「ああ、ないね。でも、気にするなって言う方が無理な話だ」
「……どうして?」
偶然、隣に居合わせただけの自分を、なぜそんなに気にかけるのか。
「だって、酷い顔だ」
返ってきた声はやはり、からかうような響きがあった。その声に小百合は無言で立ち上がる。
「さっきの彼女があなたを叩いた理由がよく分かったわ。あなた、失礼過ぎるのよ。……最低ね」
「待って、君――」
背中を向ける小百合を呼び止める声がしたけれど、振り返ることはない。
(最悪だわ)
触れられた場所が熱く感じるのも、心臓がドキドキしているのもきっと気のせいだ。
Ⅱ
姉夫婦の結婚式から三ヵ月。九月のとある日曜日、小百合は炎天下に晒されていた。
「暑い……」
黒の日傘を片手にため息をつく。近年稀に見る猛暑に加え、連日最高気温が各地で更新されていて、九月はまだまだ夏の気配が色濃く残っている。
(ああ、ビールが飲みたい……)
昔から暑いのは、大の苦手だ。アスファルトに反射した熱がなんとも憎らしい。日傘に加えて全身には日焼け止め、両手にはしっかりとアームカバー。日焼け対策は万全だが、全身をガードしているのが暑苦しくて、一歩歩くごとにうんざりする。
こんな炎天下の中、小百合が向かう先は実家である。小百合のマンションから実家までは電車と徒歩で三十分。仕事ならばタクシーを使用するけれど、プライベートでは節約出来る部分は極力するようにしている。経営者とはいえ、会社はまだまだ軌道に乗り始めたばかり。贅沢は敵だ。
今日、実家に帰る理由は他でもない、母に呼び出しをされたからだ。母の美冬は、三ヵ月前の結婚式にいたく感動したらしい。それはいいのだが、厄介なのは、その熱が今度は小百合に向かってしまったことだ。
「……母さんったら、お見合いは考えてないって何度も言ったのに」
姉の結婚式以来、小百合は、母から頻繁にお見合いの話を持ち掛けられていた。
確かに披露宴の時「紹介したい人がいる」と言っていたが、そんなことすっかり忘れていた。
(まさか、あれが本気だったとはね)
あまりにも勧めてくるものだから、おかげでここ最近は、すっかり実家から足が遠のいている。
しかし母は、諦めなかった。
(母さんも、私のことは放っておいてくれればいいのに)
連日の電話の帰省要求。結局、折れたのは小百合だった。電話でいくら断っても、母は諦めない。ならば直接、自分の口からはっきりと断ろうと決めた。
「……やっと着いた」
額に滲んだ汗をハンカチで拭うと自然とため息が漏れる。
最寄りの駅から約十五分。閑静な住宅街の中で一際存在感を放つ建物が小百合の実家だ。
美冬の趣味で建てられた洋風の家は、まさにお屋敷。小百合は門の前に立つと呼吸を整え、インターホンを押した。すると何秒も経たないうちに、『小百合ちゃん!』と嬉しそうな声が返ってくる。
『わざわざ押さなくてもいいのに。すぐに開けるわね』
小百合が玄関のドアに手をかけるより前に、内側から開かれた。
「おかえりなさい! 結婚式以来ね、会いたかったわ」
中から現れたのは、スーツ姿の美貴子だ。彼女は軽く小百合にハグをしたのち、にこりと笑う。
「全然顔を見せないから心配してたのよ。お仕事が忙しいって母さんから聞いているけれど、ちゃんと食べてるの?」
過保護な姉に小百合は苦笑した。
「大丈夫よ。それより姉さんこそ、その格好。日曜日なのに、今から会社にでも行くの?」
「そうなの。ほら、結婚して恵介さんもうちに入社したでしょう? これを機に私も父さんから少しずつ業務を引き継いでいるの。その関係で少しバタバタしていてね」
「その……恵介さんも、今日は出社してるの?」
「ええ。夫婦揃って休日出勤ね」
美貴子は肩をすくめた。一方、小百合は内心ほっとする。吹っ切ったとはいえ、結婚式以来の恵介との再会に密かに緊張していたのだ。
「でも、出かける前に会えて良かった。近いうちにまた顔を出してね」
「分かった、約束するわ」
美貴子は「絶対よ?」と念を押した後、小百合の横を通り過ぎようとする。その時、気づけば小百合は「姉さん!」と呼び止めていた。
「姉さんは今、幸せ?」
不意打ちの質問に、美貴子は驚いたように大きく見開いた後、
「幸せよ。とっても」
と、ふわり、と花が綻ぶように微笑んだのだった。
「小百合さん、おかえりなさい!」
両親は――特に美冬は、娘の三ヵ月ぶりの帰省を歓迎した。
姉と揃って大袈裟だなあと内心苦笑しつつも、帰りを喜んでくれるのは嬉しい。
「ただいま、母さん。父さんは?」
「リビングにいるわ。さあ、早く上がって。お茶の準備は出来てるわよ!」
若干テンションの高い母と静かに微笑む父親。この雰囲気ならば、「お見合いは今のところ考えていない」と切り出しやすい。
しかし、甘かった。母親がご機嫌な理由は、他にあったのだ。
それは、リビングルームのソファに座り、両親と談笑して少し経った頃だった。
「それでね、小百合さん。電話で話していたお見合いのことだけれど……」
――来た。
ソファに座った小百合は身構える。
(ここではっきりと断っておかないと)
今日は、そのためにわざわざ帰ってきたのだから。
「母さん。私、やっぱりまだ結婚するつもりは――」
「来週の水曜日、二十時。場所は逢坂ホテルで決まったから、よろしくね」
一瞬、時間が止まった。
「……今、なんて?」
空耳だ。空耳に決まっている。
今の小百合は、グラスの中のアイスティーを零さないようにするのがやっとだった。ほんの少しでも気を抜いたら、間違いなく絨毯はびしょ濡れになっていただろう。
「だから、来週の――」
「そうじゃなくて! 来週お見合いがあるなんて聞いてないわ!」
「あら、今言ったわ」
美冬は、あっさりと答える。
「先方が、お仕事の関係でどうしても休日は時間が取れないから、平日を希望されているの。小百合さんも、その日は落ち着いているって言っていたでしょう?」
「それは、言ったけど……そうじゃなくてっ!」
来週の仕事はそれほど立て込んでいない。近々の予定を聞かれた時にそう答えたのは確かだが、その時は母がこんな強硬手段に出るなんて思わなかったのだ。
「時間まで約束してあるなんて、嘘でしょう……?」
その上まさか、本人の知らないうちに日程まで決定しているなんて。お願いだから、自分の聞き間違いであってほしい。しかし対面のソファに座った美冬は、「本当よ」とにこにこと微笑む。
まるで悪びれる様子もない母の態度に、小百合は怒るより前に毒気を抜かれてしまった。
「お相手のお名前は、逢坂瑞樹さんとおっしゃるの」
「ちょっと待って、逢坂ってまさか……」
「その『まさか』よ。逢坂ホテルの跡取りでいらっしゃるわ。年齢は、小百合さんの二歳年上で三十歳。ちょうどいいと思わない?」
一体、何が「ちょうどいい」というのか。
断るつもりのお見合いが既に決定していて、しかも相手はあの逢坂ホテルの御曹司……
(あ、頭痛い)
あまりの展開に理解が追いつかない。その間も「本当に良い方なのよ!」と揚々と続ける美冬に、小百合はたまらず母の隣で苦笑する父・宮里正史をじろりと見た。
「……父さんは、どう思ってるの。こんなの急過ぎるわ」
娘の低い声に、正史は肩をすくめる。
「確かに急なのは間違いないね。でもまあ、小百合も初めからはね付けないで、話だけでも聞きなさい。母さんだって、良かれと思ってしたことなんだから」
「だからって、いくらなんでも展開が早過ぎるのよ……」
父は、昔から母にとても甘い。何年経っても妻を大事にする父は素敵だと思う。でも、それとこれとは話が別だ。小百合がいよいよ凹んでいると、父は苦笑しつつ続ける。
「今回の話は、逢坂さんから『是非に』と持ち掛けてきたんだ」
「どうして? 姉さんならともかく、私は宮里グループの人間じゃないわ。逢坂瑞樹さん……? その人に会ったこともないのに」
不思議なのはそこだ。逢坂ホテルの御曹司なら結婚相手は引く手数多のはず。仮に宮里グループとの関係を強固にしたいのであれば、社外の人間である小百合は対象外のはずだ。
「『一目惚れ』だそうだ。美貴子の結婚式で小百合を見て以来、ずっと気になっているんだって」
「……待って。私、逢坂さんとお話しした記憶なんてないわ。大体、挙式に招待したのは逢坂社長――逢坂瑞樹さんのお父様で、息子さんの名前はなかったはずよ」
「彼は、逢坂ホテルの跡継ぎなんだ。あの日、ホテルにいても何もおかしいことはないだろう?」
「それは、そうだけど……」
「もう! そんなこと気にしなくていいじゃない。一目惚れなんて、素敵だと思わない?」
父の隣で美冬がうっとりと片手を頬にあてる。だが、冗談じゃないと小百合は思った。
この時小百合の脳裏に過ったのは、記憶の奥底に押し込んでいた存在だった。
(同じことを、あの人も言っていたわ)
初めて付き合った人も、「一目惚れ」したと小百合に告白した。当時、世間知らずの小百合はそんな一言に舞い上がって、浮かれて……その結果が、今だ。
一目惚れなんて、小百合が最も信用出来ない言葉のうちの一つだ。
(結局は、見た目が好みだった、ってだけじゃない)
無意識に拳に力が入る。顔を強張らせる娘に父は穏やかに続けた。
「逢坂ホテルと宮里グループの付き合いが長いのは、小百合も知っているね?」
小百合は小さく頷く。新卒で一般企業に就職した小百合は、家業にはほとんど関わっていないけれど、逢坂ホテルと懇意にしているのは知っていた。
「正直、逢坂ホテルは大口の取引先でもあるし、一度承諾したことをこちらの都合で『やっぱりなしに』とは言いにくい部分もある」
「それは……確かに、そうだろうけど」
小百合も会社を経営する身。会社にとって信頼がいかに大切かは、多少なりとも分かっているつもりだ。だからこそ、「そんなの私に関係ないわ」とは、言えなかった。
「小百合が絶対に嫌だというのなら無理強いはしないよ。でも、私も彼を知っているが本当に気持ちの良い男性でね。どうだろう。一度だけでも会ってみないか?」
性急な母とは違う父の勧めに、わずかに良心が揺れる。
「もちろん、実際にお会いして小百合が『違う』と感じるようであれば、仕方ない。その時は、父さんから先方にお断りする」
「でも……」
やはり、急なお見合いなんて気乗りがしなくて、小百合は渋る。そんな娘に、正史はすっと目を細めて言った。
「――それとも、どうしてもお見合い出来ない理由があるのかな?」
「え……?」
「例えば、私や母さんが知らないだけで、実はお付き合いしている人がいるとか。まさか、親に言えないような相手じゃないだろうね?」
何を言うかと思えば、見当違いもいいところだ。
「そんな人、いません」
小百合が否定すると、正史は「なら良かった」と笑みを深める。
(……何?)
この時、小百合は違和感を覚えた。小百合に語りかける父の声は穏やかだけれど、目の奥は笑っていないように見えたのだ。そしてそれは、気のせいではなかった。
「もしかしたら、小百合は恵介君のことが好きなんじゃないかと思ってね」
「……え?」
――父は今、なんと言った?
固まる小百合と、笑みを湛える正史。
「やだわ、あなたったら!」
沈黙を破ったのは、美冬だった。彼女は呆れたと言わんばかりに肩をすくめる。
「そんなことあるわけないじゃない。ねえ、小百合さん?」
「え……あ……」
同意を求められて、答えに詰まる。
――父は、私の恵介さんへの気持ちに気づいていた?
一気に心臓が早鐘を打ち始める。小百合は、頬が強張りそうになるのをくっと堪えた。
(落ち着いて)
深呼吸をしてなんとか気持ちを整える。正史がなぜ突然こんなことを言ったのかは分からない。でも、ここで動揺した姿を見せてはいけないことだけは、間違いなかった。
「恵介さんのことは好きよ。もちろん、『家族』としてね」
目の奥を光らせる正史を、小百合は見返す。そんな娘を正史はじっと見据えた後、にこりと笑んだ。
「それもそうか。いやなに、母さんじゃないが、小百合があまりに男性と縁遠いように見えたから、まさかと思ってね。それに昔から随分と恵介君を慕っているようだから」
「私が高校生の時からお世話になってるんだもの、当然だわ」
「確かに、それもそうか」
その答えにほっとする。この流れでお見合い話もなかったことにならないか――そう思ったのも、つかの間だった。
「――それなら、お見合い出来ない理由はないということだ」
「……あ」
(ど、どうしよう)
これ以上頑なにお見合いを断れば、今度こそ父に不審がられる。この状況で小百合が返せる答えは、一つだけだ。
「……母さんには何度も言ったけど、今は仕事を一番に頑張りたいし、まだ結婚するつもりはないの。そんな状態でお会いしても先方に失礼だと思うけど、それでもいいのね?」
「もちろん、それで構わないよ」
「……分かったわ。一度だけでいいなら、お会いします」
かくして、小百合の初めてのお見合いが決まったのである。
◇―*◆*―◇
そして、約束の水曜日。小百合の会社、株式会社マリエ・リリーズの入るオフィスからお見合い会場の逢坂ホテルは、電車を乗り継いで三十分の距離だ。
(待ち合わせは、二十時。十九時に出れば余裕ね)
父の手前、遅刻なんてもっての外。会うだけ会って、早めに終わらせようと心に決める。
終業時刻の十八時、業務用のパソコンに視線を落としていた小百合は、顔を上げる。
「三村さん、相川君。お疲れ様、時間よ。今日はもう上がれそう?」
小百合の声かけに、向かって右側のデスクにいる三村が「んー!」と大きく両手を上げて伸びをする。
「急ぎの案件もないですし、私はこれで上がらせてもらいます。あー疲れた、肩がばっきばき!」
それを見て苦笑するのは、向かって左側のデスクにいる相川だ。
「三村さん、年よりくさいですよ。一応、まだ二十代でしょ」
「……相川君。それ、私だから許すけど、他の会社で言ったらセクハラ案件だから」
「はいはい、気を付けます」
大袈裟に怒った表情を見せる三村と、そんな彼女を適当に宥める相川。見慣れたいつものやりとりに小百合は苦笑する。
株式会社マリエ・リリーズの社員は、全部で三名。社長の小百合と事務担当の三村、そして営業担当の相川である。三村と相川とは、小百合が新卒で入社した会社で知り合った。
三村は小百合の一年、相川は二年後輩。いずれも小百合が独立すると決めた時、自らついてくると言ってくれた、いわば小百合の同志のようなものである。立場的には経営者と従業員ではあるものの、二人は親しみを込めて未だに「社長」ではなく「小百合さん」と呼んでいる。
「小百合さん、俺も今日はこれで上がれます。もし何か手伝うことがあれば、残りますけど」
「ありがとう、でも大丈夫よ。私もこの後予定があるし、十九時には帰るつもりだから」
「そうですか? じゃあ、失礼しますね。お疲れ様でしたー」
相川が帰ると、待ってましたとばかりに三村が「小百合さん!」と身を乗り出してくる。
「三村さん、どうかした?」
「ズバリ聞きます。小百合さん、もしかして……彼氏、出来ました?」
「ど、どうしたの、急に」
不意打ちの問いに小百合は固まる。それを三村は肯定と捉えたらしい。
「やっぱり! そうだと思ったんです、いつもはパンツスーツなのに今日に限ってスカートなんですもん。お化粧もいつもよりバッチリだし、ネイルも変えましたよね」
確かに今日の小百合の格好は、普段よりも気合の入ったものだ。
普段は動きやすさを重視したパンツスーツが多いが、今日は夜の予定を意識してワンピースを着ている。普段は簡単にハーフアップにしている髪の毛は、編み込んでアップにした。昨夜、仕事終わりにネイルサロンに行ったのも合っている。
「今日はやけに目が合うなあと思ったけど……よく気づいたわね?」
「そりゃそうですよ! 小百合さん、仕事の時はシンプル系が多いでしょう? でも、今日はそんなに可愛いから」
さすがにお見合いにいつもの格好で行くのは憚られる。先方も小百合が仕事終わりで行くのは承知しているので、あまり華美にならない程度にお洒落してみたのだけれど。
「……変かしら?」
「全然! すごく可愛いです!」
やけに力説する三村に小百合は「ありがとう」と苦笑した。以前の会社からの知り合いということもあり、三村との付き合いは深い。昼休みにランチに行くのはしょっちゅうだし、休日に買い物に出かけたこともある。そんな気安さもあり、小百合は素直に言った。
「実は今日、この後見合いがあるの。だから最低限、失礼にあたらない格好をしてきただけよ」
残念ながら彼氏が出来たわけではないのだ、と伝えると、三村はぽかん……と小百合を見つめる。
「お見合いって。小百合さん、結婚するんですか……?」
「両親の仕事関係で仕方なくね。でも、お断りするつもり」
今回のお見合いは、あくまで両親の顔を立てるためのものだ。それだって、父に恵介への気持ちを疑われてさえいなければ、断っていたかもしれない。
「適当に食事を楽しんで、すぐに終わると思うわ」
「なーんだ、やっぱりそういうことかあ」
「『やっぱり』って?」
「あっ、ごめんなさい! 深い意味はないんです。ただ小百合さん、結婚には興味なさそうだったから、『お見合い』なんて意外で少し驚いて。でもご両親の関係なら納得です」
一流企業のご令嬢だとそういうお付き合いもあるんですね、と三村はうんうんと頷く。
「でもせっかくの機会ですし、初めからお断り前提ってもったいなくないですか? 小百合さんずーっと彼氏いないですし、もしかしたらこれが運命の出会いになるかも!」
「運命の出会いって……そんな、漫画や小説じゃないのよ?」
苦笑すると、三村は「何を言ってるんですか!」とビシッと指を小百合に突きつける。
「出会いは一期一会! だからこそお客様同士の出会いも大切に! ……これ、前の会社に入った時、小百合さんが初めて私に教えてくれたことですよ? なのに小百合さんったら、自分のことはてんで無頓着なんですもん。ダメですよ、お客さんだけじゃなくて、自分も大切にしなきゃ!」
「粗末に扱ってるつもりはないけど……」
「とにかく、もっと自分に興味を持たないと! せっかくのお見合い、楽しまなきゃ損ですよ?」
余計なお世話、と思えないのはやはり気安さ故だろう。小百合は「分かったわ」と曖昧な笑みを向けて、今日は友人と食事をする予定だという三村を見送った。
賑やかな三村が帰ると、途端にオフィスは静寂に包まれる。
「『やっぱり』かあ……」
三村の言葉に他意はないと分かっている。しかしそう言われてしまうのもどうなのだろう。
結婚を斡旋する立場の人間が、自身の結婚には無頓着。
実際、「社長が未婚」であることが仕事に影響を与えたことも、なくはなかった。
結婚相談所を利用しても、残念ながら成婚に至らない例は当然存在する。その中には、稀に「マリエ・リリーズに原因がある」と主張する人もいた。そんな中、小百合が言われて最も困るのは、この一言。
社長が未婚だと知っていたら、登録なんてしなかった、というものだ。
とはいえ、婚活コンサルタントは既婚でなければならない、なんて決まりはない。それでも気にしてしまうのは、全て自分の問題。人の結婚は前向きに捉えられるのに、自分は結婚したいと――恋人が欲しいと思わない。
恋人が出来れば肉体的な関係も発生する。それは、小百合にとってはトラウマ同然だ。
キスまでなら、多分、大丈夫。でもそれ以上――異性と素肌を触れ合うのは、怖い。
あの時の経験は、小百合の中に深く根付いてしまった。普段は、仕事と自分は切り離して考えている。でもふと冷静になった時、恋をしたいと思わない自分を、まるで欠陥品のように感じてしまうことがある。
小百合の好みのメイクや服装は、清楚系よりセクシー系。そんな見た目もあって、過去の恋人たちは、小百合が異性との肉体経験がないとは思わなかったらしい。しかし初体験の苦い記憶を理由に小百合は、彼らと深く付き合うことを拒んでしまった。でも、それだけではない。
(心のどこかで、恵介さんと比べてしまってた)
別れの原因は、誠実に向き合うことのなかった小百合にも十分にある。
(……吹っ切った、つもりなんだけどなあ)
恵介への気持ちは、結婚式の夜を最後に思い出にした。でも、だからと言ってすぐに「さあ、彼氏を作ろう!」とも思えなくて。
――もしも、感情の全てを持っていかれるような恋が出来たら。
――この人しかいらない、そんな人が現れたら。
恵介への気持ちは淡くて幼いものだった。だから小百合は、「この人だけが欲しい」なんて強い感情は知らない。でももしも、そんな人が目の前に現れたら……?
(……なんて、ね)
そんな人物がいたら、今回のお見合いを受けることも、そもそも父に恵介への気持ちを疑われることもなかっただろう。そんなことを考えているうちに、時間は予定の十九時。小百合はオフィスを出たのだった。
時間には余裕をもって出たが、ホテルの最寄り駅まであと一駅、というところでそれは起きた。
『お客様にお知らせいたします。ただいまこの列車は――』
車内にアナウンスが響く。どうやら次の駅でトラブルが起きたらしく、小百合を乗せた電車は、目的の一つ前の駅で停車してしまったのだ。その後も電車が動き出す様子はなく、駅のホームには乗車を待つ人が溢れてきている。小百合は腕時計に視線を落とした。十九時二十分。時間には少しだけ余裕はあるが、このまま待っていたら遅刻してしまうかもしれない。ならば、と小百合は一駅手前のここで降りて、タクシー乗り場へと向かった。
だが駅の改札から出た瞬間、足が止まる。タクシー乗り場には、既に乗車を待つ人の大行列が出来ていた。この時点で十九時三十分。順番が来る頃には待ち合わせ時刻を過ぎてしまうかもしれない。小百合はスマホのアプリを立ち上げて、ホテルまでの道順を確認する。
(この時間なら、歩けばまだ間に合うわ)
列から離脱すると、足早に歩き出す。しかし今日に限って、ワンピースに合わせて高めのヒールを履いているため、なんとも歩きにくい。ホテルに着いて、身だしなみを整える間もなくお見合い開始……なんてことは、絶対に避けたい。そのためにも、せめて五分前には到着したかった。
そんな小百合の願いが通じたのだろうか。進行方向からこちらに向かってくるタクシーが目に入る。「空車」と表示されているのを見て、ほっとした。
(良かった、なんとか間に合いそう!)
片手を挙げてタクシーを止めようとした、その時だった。不意に小百合の目の前に、スーツ姿の男性が割り込んでくる。その人物は、呆気に取られる小百合をよそに大きく手を挙げた。
タクシーは、当然のように彼の前に停車する。小百合は慌てて男性を呼び止めた。
「ちょっと、それには私が……」
私が乗ろうと思っていたのよ――そう言いかけた言葉は、振り返った男性の顔を見た瞬間、どこかに行ってしまった。
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