シングルママは極上エリートの求愛に甘く包み込まれる

結祈みのり

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1巻

1-2

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 祖父母などの直系親族の場合は、裁判所の許可なしに養子とすることができるが、叔母の場合は少々煩雑はんざつな手続きが必要になる。
 当初、花織は遥希を養子に迎えることだけを考えていた。
 しかし、未成年者を引き取る手続きについて調べるうちに考えが変わった。
 姉が母親でいられたのは一年十ヶ月だけだったけれど、遥希をどれほど愛していたかを花織は知っている。そして、遥希が「ママ」と呼ぶのも夏帆だけだ。

『ママ』

 それは、遥希が一歳半を過ぎた頃に初めて発した言葉でもある。
 たとえ記憶はほとんどなくとも、彼にとっての母親は姉なのだ。
 そして自分は姉の代わりに遥希を育てている。
 ならば、あえて養子縁組にこだわらずともいいと思った。
 だから、遥希が自分で選択できる十五歳になった時に、改めて養子について考えればいい。その時、もしも彼が自分の子どもになることを望んでくれるのなら、喜んで養子に迎えようと思った。
 とはいえ気持ちの上では我が子同然に思っている。
 それこそ、給与の使い道で真っ先に思いつくくらいに。
 花織の給料は特別高いわけではない。しかし、大手企業勤務に加えて営業の成績が好調なこともあり、二十九歳の女性としてはそれなりに多い方だろう。
 会社から家賃補助も出ているから、今のところ遥希と二人食べていく分には困らない。
 しかし、シングルであるのに加え、遥希が成長するにつれてかかる費用が増えていくのも事実だ。今後の教育資金をしっかり貯めておくためにも贅沢ぜいたくはしていられない。

(気持ちだけで言えば、好きなおもちゃをたくさん買ってあげたいところだけど、あげすぎもよくないし……。旅行とかに行ってみる?)

 夏には子ども向けのイベントがあちこちで開かれるだろうし、旅行を兼ねて遠出してみるのもいいかもしれない。
 遥希と過ごす夏について考えるだけで自然と頬が緩んだ。
 女手一つで子どもを育てるのは、思っていた以上に大変なことの連続だった。それでも子どもの笑顔には、日々の苦労を簡単に吹き飛ばすくらいのパワーがある。もちろん、悩みも尽きないのだけれど。
 目下の悩みは遥希と過ごす時間の少なさだ。
 最近は、繁忙期はんぼうきということもあり連日残業が続いていた。
 保育園のお迎えも閉園ぎりぎりに滑り込む日が多く、帰宅して夕飯と入浴を済ませたらあっという間に寝かしつけの時間が来てしまう。
 朝も始業時間に間に合わせるためには、七時過ぎに家を出て保育園に送り届ける必要がある。
 おかげで平日は遥希とゆっくり過ごす時間がほとんど取れていなかった。
 この一ヶ月、奇跡的に遥希が体調を崩さなかったおかげで仕事に集中できたものの、寂しい思いをさせているのは間違いない。
 何よりも花織自身、遥希が圧倒的に不足しているのを感じている。
 今の花織にとっての生きる意味は遥希だ。
 遥希に美味しいものを食べさせたい。楽しい経験をたくさんさせてあげたい。
 可愛い洋服だって着せたいし、おもちゃも買ってあげたい。
 遥希には生まれた時から父親がおらず、たった一人の母親さえも事故で亡くしてしまった。だからこそ、唯一の家族である自分が彼を幸せにしなければならないと思っている。
 電車に揺られながら、花織は営業用のバッグからスマホを取り出した。
 今の待受は、車掌の格好をした遥希がピースサインをしている画像だ。
 現在四歳。来月には五歳を迎えるおいっ子の今のブームは、蒸気機関車をはじめとした鉄道全般。
 二歳頃、遥希はイギリス発の某有名鉄道アニメに大ハマりした。
 そこで試しに図鑑を買い与えてみたところ、かなり気に入ったらしい。
 年少頃まではアニメを楽しんでいたが、今ではすっかり小さな鉄道オタクとなり、最近ではSLが変形するロボットアニメを夢中になって楽しんでいる。
 そんなに好きなら……と先月、花織は遥希を連れて群馬県高崎市におもむいた。
 運行日は限られているものの、今も高崎駅と水上みなかみ駅の間には蒸気機関車が走っているのを知ったからだ。そして実際にD51形蒸気機関車――通称「デゴイチ」に乗せてみた時の遥希の喜びようは、それはもうすごいものだった。
 腹の底に響くような汽笛きてきの音や、目の前が見えなくなるくらいの黒煙に驚いてはいたものの、車内ではずっとニコニコしていたのが記憶に残っている。子ども用の車掌服を着て満面の笑みを浮かべた時なんて愛らしくてたまらなかった。

(遥希をぎゅうってしたい……)

 幼児特有の温かい体温と柔らかい体を思い出すと、自然と頬が緩むのを感じる。

『ぎゅってして!』
『ほっぺ、くっつけよ!』

 遥希は花織に抱きしめられたり、頬をくっつけるのが大好きで、そう言ってよく甘えてくる。
 それにこたえると本当に嬉しそうにニコニコと笑うのだ。

(決めた。今日は何がなんでも定時で帰る!)

 そして遥希を思い切り抱きしめて、たくさん甘やかすのだ。


「おかえり、花織」

 帰社した花織が自席に戻ると、待っていましたとばかりに向かい側の席から声がかかる。
 話しかけてきたのは、同い年の野村のむら沙也加。
 花織と同じ営業職の彼女は、百七十センチの長身と華やかな見た目の持ち主で、東京支社一の美女としても知られている。とはいえその美貌を鼻にかけることのない、さっぱりした性格の沙也加は、花織にとって気心の知れた友人だ。

「沙也加もおつかれさま。今からお昼?」
「そう。今から社食に行こうと思ってたところ。花織も一緒にどう?」
「ありがとう。でも今日はお弁当を持ってきてるから」
「あっ、そうか。今日は金曜日だから、保育園がお弁当の日ね」
「そういうこと」

 沙也加とはプライベートでも遊ぶ仲だ。元保育士の沙也加は、子どもの扱いに慣れていて、遥希も「さやちゃん」と呼んですっかりなついている。沙也加も沙也加で「遥希」と呼んで可愛がってくれていた。

「ちなみに今日は何を作ったの?」
「オムライス、タコさんウインナー、卵焼きとほうれん草の胡麻和ごまあえ」
「いつもの遥希のリクエスト?」

 頷く花織に、「いいなあ」と沙也加が呟いた。

「私も花織のお弁当が食べたいわ。花織の料理すっごく美味しいんだもん。今度私にも作ってくれない? お代は増しで払うから」
「お金なんて取らないわよ。でも、普通の家庭料理よ?」
「その『普通の家庭料理』がいいのよ。私は家事全般が苦手だから、花織を見てるとすごいなって感心する。可愛くて優しくて、仕事もできて料理もできるなんて最高じゃない。私が男ならすぐにでもプロポーズするわ」

 友人の軽口に苦笑する。

「そう? 私が男の人なら、自分より沙也加を選ぶけど」
「あら、どうして?」
「だって、こんなに美人で性格もよくて、さっぱりした子はなかなかいないもの」

 素直に答えれば、沙也加は恥ずかしそうにはにかむ。その姿を見て素直に「いいな」と花織は思った。
 パッと見は気の強そうな美女なのに、こうして時折見せる可愛らしさがたまらない。遥希に感じるのとはベクトルの違う可愛さだ。

「――っと、独り身同士め合ってても仕方ないわね。社食、行ってくるわ」
「ふふっ、行ってらっしゃい」

 沙也加は財布を片手に席を立ち、フロアを出ていった。

(あいかわらず元気だなぁ。私も見習わないと)

 保育士から転職してきた沙也加は、同い年だが会社では後輩ということになる。
 初めて彼女を見た時、その圧倒的なオーラに『上手くやっていけるだろうか』と不安になったのが今となってはなつかしい。
 沙也加はよく『花織は私のいやし』と言って持ち上げてくれるが、あいにく花織は特筆すべき点のないごくごく平凡なアラサー女性だ。
 身長は日本人女性の平均とほぼ同じ百五十八センチ。沙也加のような人目を引く美貌はなく、「愛嬌あいきょうのある顔だね」と言われるような顔だ。
 肌の白さやきめ細かさをめられることはあるものの、せいぜいその程度だと自覚している。
 昔は背中まで伸ばしていた髪を今はショートボブにしているからか、ただでさえ子どもっぽい顔に拍車をかけている。
 初対面の相手に年齢を伝えれば驚かれるし、実年齢の二十九歳に見られることはまずない。
 沙也加と並ぶと十中八九年下に見られるのは花織の方だ。
 実のところ、昔から実年齢より低く見られがちなのが、密かにコンプレックスだったりする。
 以前、沙也加にそうこぼしたところ『若く見られるなんて最高じゃない』と目を丸くされたが、営業職をしていると必ずしもいいことばかりではなかった。
 女性の活躍がうたわれて久しい昨今、季和文具でも積極的に女性管理職の登用を推進したり、産休育休後に復帰しやすいよう時短勤務を推奨したり……とさまざまな取り組みが行われている。
 中にはリモートワークが主になりつつある部署もあるくらいだ。
 勤務形態もフレックスタイム制を採用しており、午前十時から午後三時までのコアタイムの間さえ勤務していれば、それ以外の時間は各人の裁量に一任されていた。
 営業という職業柄、花織は取引先に合わせて午前八時から午後五時という時間で働いているが、それでもシングルマザー――正確には違うけれど――にとって働きやすい会社であるのは間違いない。
 しかし、そんな季和文具であっても営業職はまだまだ男性社員の割合が多く、東京支社営業部も女性の営業職は部署全体の三割にも満たない。
 営業先でも『今度の担当さんは女の人か』とがっかりされることも珍しくなかった。
 ただでさえ男社会の中での童顔は、仕事上有利に働くことはほとんどない。実際、新入社員の頃は、取引先に顔をしかめられるたびに泣きたくなったものだ。
 それでも辞めずにいるのは、純粋に営業という仕事が好きだから。
 そして、そう思わせてくれた人がいたからだ。
 ――大室悠里。
 花織の元教育係で、婚約者であった人。

『……少し、考える時間をくれ』

 結局、あれが「恋人」として交わした最後の会話となった。
 あの日以降、花織と悠里は仕事上では必要最低限の会話しかせず、プライベートでの接触は一切なかった。ロンドンに渡る前に悠里から連絡が来ていたけれど、花織がそれに返事をすることはなかった。話し合いをしたところで平行線なのはわかっていたし、どうあっても自分たちの行き先が交差することはないのだから。
 結果、二人の関係は自然消滅のような形で終わり、悠里はロンドンへ発ったのだった。

(……悠里さん、元気にしているかな)

 別れてから今日までの三年間、悠里とは一度も連絡を取っていない。
 もちろん向こうから電話やメールが来たこともない。
 だがそれも当然のことだと思う。
 彼はあんなにも花織を大切にしてくれたのに、自分は一方的に婚約破棄を突きつけたのだ。
 そんな女のことなんて思い出したくないと思うのが普通だし、むしろ恨まれていても不思議ではない。
 それでも花織の耳には、しばしば悠里の話題が飛び込んできた。
 というのも、彼が出向して以降、ロンドン事業所の売り上げは右肩上がりだからだ。
 近年、品質がよくデザイン性や技能性にも優れた日本製の文具は海外でも人気がある。
 海外での需要を踏まえて季和文具が国外への販路を広めようとしている中、悠里は見事にその役割を果たしてみせたのだ。
 もともと彼は、日本にいる時からとても有名な社員だった。
 社内随一の営業成績、敵を作らない人好きのする穏やかな性格。そして何よりも見る人の目を奪わずにはいられない端整な顔立ち。
 天から二物も三物も与えられた存在。それが大室悠里という男だった。
 そんな彼と花織がかつて交際していたことを知る人はほとんどいない。
 社内恋愛はただでさえ周囲から詮索せんさくされたり揶揄やゆされたりする。同じ部署に勤める以上、それは避けたいと二人で話し合い、交際を隠すことに決めたのだ。
 今となってはそれでよかったと思っている。
 別れた当時、花織は仕事と育児に目が回るような日々を送っていた。その上、噂の的になっていたらとてもじゃないが、心が持たなかっただろう。

(本当に、私にはもったいない人だった)

 別れてから三年も経ったのだから、きっと今の悠里には素敵な恋人がいるだろう。
 それを想像すると胸がざわめく。

(……何を、今さら)

 彼と生きる未来を自ら捨てておきながら、「辛い」だなんて自分本位過ぎる。
 花織は深呼吸することで速まる鼓動を落ち着かせると、弁当箱をしまい化粧室に向かう。
 そうして歯磨きと化粧直しを済ませて再びフロアに戻った時、違和感に気づいた。
 先ほどまで閑散としていたフロアがやけに騒々しい。
 誰も彼もがパソコンのディスプレイを凝視して、身近な社員とひそひそ何かを話している。
 不思議に思いながら自席につくと、先に戻ってきていた沙也加が向かい側から顔を覗かせた。その表情がどことなくかげっている。それに花織は目を丸くした。

「どうかしたの?」
「さっき、社内メールで人事異動が発表されたのよ」
「ああ、そういえばもうそんな時期ね」

 季和文具では四半期ごとに人事異動が行われる。四月一日付の異動は例年三月下旬に通知されるから、ちょうど花織が席を外している間にメールが来たようだ。
 それにしたってこんなにざわつくものだろうか。
 不思議に思いながら花織はデスクトップパソコンでメールを開く。
 そして、息を呑んだ。
 同時に沙也加の表情の意味も理解する。


【人事異動社内通知書】
 大室悠里
 海外事業部ロンドン事業所営業担当の任を解き、東京支社商品企画部課長を命じる。


 メールの添付ファイルには、そう記されていたから。

「……大丈夫?」

 公私共に親しい沙也加は、花織と悠里の過去の関係を知る社内で唯一の人物だ。別れるにいたった経緯も知っている。心配そうにこちらを見ていたのもそのためだろう。

「顔が真っ青よ。一緒に医務室に行こうか?」
「……ありがとう。でも、平気。ちょっと驚いただけだから」

 花織はなんとか笑顔で答える。それが虚勢なのは沙也加にもわかっていただろうが、彼女は「無理はしないでね」と言うだけで、それ以上会話を続けることはなかった。
 友人の気遣いに感謝しつつも、体は冷えきっていた。
 さあっと全身から血の気が引いていき、ドクドクと心臓が激しく鼓動し始める。
 駐在期間は二年から三年と聞いていた。そして間もなく悠里が日本を発って丸三年。
 そう遠くないうちに彼が帰国するだろうことは花織も予測していた。それなのに。

(……悠里さんが、帰ってくる)

 その事実にどうしようもなく心が揺れた。


 それから退勤までの時間、花織は無駄口一つ叩くことなく仕事に集中した。
 少しでも気を抜いたが最後、悠里のことで頭がいっぱいになってしまいそうだったからだ。そのおかげで、当初の予定通り午後五時には退社することができた。
 早足で駅に向かい、電車に揺られること約二十分。
 自宅の最寄り駅に到着した花織は、駅前の駐輪場に停めていた自転車に乗って、駅から五分ほどの保育園へ向かう。
 園児の引き渡し場所である正面玄関に行くと、他にも何人か迎えの保護者たちがいた。
 顔見知りの保護者と簡単な挨拶あいさつを交わし、入り口にいた先生に遥希の迎えであることを伝える。すると、すぐに「遥希くん、お迎えが来たよー!」と教室に向かって声掛けをしてくれた。
 それから程なくして先生と共に園児服を着た遥希がやってくる。花織を見るなりぱあっと顔を輝かせた遥希は、パタパタと駆けてきた勢いのまま飛びついてきた。

「かおちゃん!」
「遥希」

 それを正面から受け止めた花織は、胸下の位置にある丸くて形のいい後頭部を撫でながら、視線を先生に向ける。「お世話になりました」と軽く礼をすれば、花織と同年代の女性保育士はにこりと笑う。

「先生、さようならー!」

 二人で手を繋いで自転車置き場へと向かう。遥希を抱き上げ、自転車の後ろのチャイルドシートに座らせ、ヘルメットとシートベルトを締めてやる。

「よーし。じゃあ行くよ。ちゃんと掴まっててね」
「はーい」

 元気のいい挨拶あいさつに小さく笑い、帰路につく。
 荷台から感じる重みは、この三年で随分と増した。

(大きくなったなぁ)

 今は当たり前の送迎の日々も、あと何年かすればなつかしい思い出に変わるのだろうか。
 頭の片隅でそんなことを考えていると、少しだけ感傷的な気分になってしまう。

「かおちゃん!」

 すると、そんなことは知らない遥希が、大きな声で後ろから呼びかけてくる。

「今日の夜ごはん、なに? オムライスがいい!」
「えぇ? でも、お弁当もオムライスだったよ?」
「だって好きなんだもん!」
「うーん……じゃあ、オムライスはまた今度作ってあげる。だから今日はハンバーグでもいい?」
「いいよー、ハンバーグも好きだし」
「決まりだね」

 そんなやりとりをしていると、自然と思考が母親モードに切り替わる。
 そうして自転車を走らせること約十分。帰宅したのは築二十年ほどの三階建てマンション。二年前に引っ越してきた、花織と遥希の小さな城だ。
 1LDKの間取りはけっして広いとは言えないものの、近くには昔ながらの商店街があって買い物をするのに便利だし、徒歩圏内にはかかりつけの小児科もある。
 最寄り駅には大型のショッピングモールが併設されていて、子育てをするにはとても環境のいい場所だ。

「手洗いとうがい、しっかりしてね」
「はーい」
「服も着替えちゃおう」
「ぬいだのはカゴに入れちゃっていい?」
「いいよ、ありがとう」

 四歳にして帰宅後の流れは慣れたものだ。
 靴を脱いだ遥希はまっすぐ脱衣所に向かうと、踏み台にのぼって手洗いうがいをしっかりする。
 そうして下着以外の服を全て脱ぎ捨て洗い物用のカゴに入れると、花織が手渡した部屋着に着替え始めた。小さい体で一生懸命身支度を整えた遥希は、リビングのソファに座ってタブレットで動画を観始める。
 花織はそれをカウンターキッチンの中で見守りながら、早速夕飯の準備を開始した。
 今夜のメニューはハンバーグと味噌汁、ポテトサラダだ。
 週末に下準備をしておいたハンバーグのタネを冷凍庫から取り出し、レンジで解凍している間、味噌汁用の玉ねぎを切り、乾燥わかめを水で戻す。
 味噌汁作りと並行してハンバーグを焼きながら、花織はリビングに視線を向けた。

「遥希、ハンバーグに何かのせる? チーズとか、目玉焼きとか」
「どっちも!」

 おっとそうきたか、と花織はクスリと笑う。

「わかった、両方ね」

 そんな会話をしながらハンバーグをひっくり返す。

(そうだ、お風呂のお湯を張らないと)

 蒸し焼きにしている合間に風呂場を簡単に掃除して、浴槽にお湯を入れ始める。
 平日の帰宅後はいつだって慌ただしい。この三月は特に忙しく、帰ってきて食事を作る段階で八時近くになるのもざらだった。しかし今日はまだ六時半を過ぎたばかり。
 この時間に家にいるのは久しぶりだ。

「できたよー」
「えー。でもまだこれみたい!」
「気持ちはわかるけど、ご飯は温かいうちに食べた方が美味しいよ」

 気軽に観られる動画配信サービスは四歳児にとって面白くて仕方ないらしい。
 花織がうながして素直に食卓につくのはだいたい五割くらいで、『まだみてるの!』と引かないこともざらにある。
 さて、今日はどちらだろうか。
 見守っていると、遥希はタブレットをローテーブルに置いてくるりとこちらに向かってくる。

「もー。しょうがないなー」

 そして、はぁ、とわざとらしいため息をつきながら椅子に座った。
 その様子に思わず笑ってしまった。言い方といい、ため息をつく姿といい、自分とそっくりだったからだ。本当に子どもは大人のことをよく見ている。

「いただきます」
「いただきます!」

 向かい合って夕食を食べ始めてすぐのことだった。

「かおちゃん!」
「ん、どうしたの?」
「ハンバーグ、すっごくおいしい! ありがとね」

 遥希は満面の笑みを浮かべた。
「かおちゃん」の料理が大好きなおいっ子は、しばしば『おいしい』『ありがとう』と言ってくれる。そのたびに彼の素直さと愛らしさに喜ぶ花織だが、今日だけはすぐに反応できなかった。

『今日も美味しいよ。いつもありがとう、花織』
『君の料理、やっぱり好きだな』

 その声を。言葉を。笑顔を。
 ――かつて愛した人と共に囲んだ食卓を思い出してしまったから。

「かおちゃん?」
「あっ……うん、ありがとう」

 たくさん食べて大きくなってね、と続ければ遥希はにっこりと笑ったのだった。


 夕食後、一緒に風呂に入った後は早々にベッドに入る。遥希お気に入りの鉄道図鑑を一通り読み終えてから電気を消せば、五分と経たないうちに静かな寝息が聞こえてきた。

(こんなに早く寝るなんて、お姉ちゃんが見たら驚くだろうな)

 赤ん坊の頃の遥希は本当に寝ない子どもだった。
 生後半年頃までは、二時間から三時間おきに目覚めては泣いていた。
 オムツを変えてミルクをあげて、ようやく寝かしつけたと思った頃には二時間が経っている。そこから再びミルクの時間が始まる。あの頃は常に寝不足だった。一晩通して眠るようになったのは生後半年を超えた頃で、姉と二人でホッとしたのは記憶に新しい。

「……遥希も頑張ってるんだよね」

 幸い保育園には楽しく通ってくれているが、朝八時前から夕方六時頃まで保護者と離れるのは四歳児にとってはとても長い時間だろう。保育園というコミュニティで、この小さい体で頑張っているのだと思うと、それだけで胸がぎゅっと締め付けられた。
 もうすぐ五歳。四月生まれの遥希は、同学年の子どもの中では大きい方で、何よりも本当におしゃべりな子だった。
 今日だって食事の時もお風呂の時も、花織が聞く前に保育園であったことを話してくれた。
 ――本当に大きくなった。
 一方で、バンザイをして眠るところは赤ん坊の時と変わらない。真っ白ですべすべの肌も、さらさらとした髪の毛もそう。
 時にわがままを言って花織を困らせたり、頑固なところもあるけれど、おしゃべりで優しくて可愛い、自慢のおいっ子だ。
 姉の忘れ形見である彼は、これまで大きな病気や怪我もなく、すくすくと育ってくれている。
 遥希は腹を痛めて産んだ子ではないし、自分は彼の後見人であって母親でもない。
 遥希も幼いながらにそれは理解しているようで、花織を「ママ」と呼ぶことは一度もなかった。
 それでも、花織はこの子のためならいくらでも頑張ることができる。

(今は、遥希のことだけを考えないと)

 今の自分に終わった恋をなつかしむ余裕はない。
 別れてからも、ふとした時に悠里のことを考えることはあった。しかし、今日のように言葉が出なくなるほどはっきり思い出したのは随分と久しぶりだった。

「悠里さん……」

 無意識にその名前を唇に乗せる。
 だからだろうか。その晩、花織は悠里の夢を見た。
 出会ったばかりの頃の夢を。


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