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1巻
1-1
しおりを挟むPrologue
――就職活動は、今日で最後!
表面上は落ち着きを保って、しかし内心ではそう強く意気込みながら、籠宮凛は深呼吸をした。
(大丈夫。今日こそ絶対、大丈夫)
本日何度目か分からない自己暗示をかけた凛は、鏡に映る自分を確認する。
駅構内の化粧室の一角。鏡の中には、どこか不安そうな表情の女がいる。
その顔は、とても二十四歳とは思えない疲れ切ったものだった。薄ら塗ったファンデーションと色付きリップでかろうじて化粧はしているものの、よくよく見れば目の下には隠し切れない隈があるし、顔色もお世辞にも良いとは言えない。
面接に挑むのなら、本当はもう少しはっきり化粧をした方がいいのかもしれない。しかしこれが、今の凛にできる最大限のメイクだ。
今どき就活生でも着ないような黒のリクルートスーツは、細身な凛の体形に合っていない上に、薄い生地の安っぽい代物だ。リサイクルショップでようやく見つけたそれは上下合わせて二千円。値段を考えれば致し方ない。
(口紅くらい、買えば良かったかなあ)
安いプチプラコスメにも可愛いものがたくさんあるのは、もちろん知っている。しかし、ここ一週間、一日一食の日が続いているのだ。口紅なんて買えるはずがなかった。
「あ、そのグロス新色?」
「そうそう。CMのモデルがカッコよくて気になってたの。発色もいいしおススメだよ」
隣に並んだ女性二人組のやりとりに、凛はちらりと視線を向ける。
「外国の男の人ってなんであんなに格好いいんだろう。骨格レベルで違う気がする」
凛より少し年下に見える彼女たちは、綺麗に染めた茶色の髪を、そろってふわりと巻いていた。
ばっちり施されたメイクはそれぞれとても似合っている。ジェルネイルで彩られた指先が摘むそのグロスは、凛も街頭で流れるCMを見て気になっていたものだ。バッグもブランド物で、恐らく十万円はくだらない。二人の持ち物、服装全てが凛とは真逆だった。
「あの……何か?」
怪訝そうに眉根を寄せる彼女たちの表情に、凛は無意識にそちらを凝視していたことに気づいた。
咄嗟に一歩後ずさり、言葉を詰まらせる。女性たちは不機嫌な様子を隠そうともせず、凛を上から下まで眺めた後、ふっと嗤った。
「行こ。……だっさ」
去り際に吐き捨てられた言葉は、自分でも思っていたことだ。それでもやはり、他人にはっきりと言われると辛いものがある。
ズキンと響いた胸の痛みにぎゅっとスカートの裾を握るけれど、すぐに手を離した。皺の寄ったスカートで面接に向かう訳にはいかない。それに彼女たちを見つめてしまったのは、何も羨ましかったからではないのだ。
「……懐かしかった、だけだもの」
ブランド物のバッグ、流行りの化粧品。そんなもの、数年前の凛は数え切れないほど持っていた。
(でも、今同じものを買おうとしたら、どれくらい働けばいいんだろう)
考えるとぞっとする。以前は値段など気にせず好きなだけ購入していたが、もし今お金が手に入ったら、間違ってもブランド品なんて買わないだろう。それより、お腹いっぱい好きな物を食べてみたい。
(美味しいお酒とお肉が食べられたら、他に何もいらないかも)
再度鏡を見る。人と比較した後だからだろうか。自分の姿は、先ほど以上に野暮ったく映った。
「……っと、もう行かなくちゃ」
腕時計の時間を確認すると、十時半。もうすぐ最初の会社の面接の時間だ。
一社目は家族経営の小さな印刷会社の事務。そして二社目は、世界的にも名の知れた外資系企業の総務事務だ。凛の本命は前者の印刷会社。後者については試しに応募してみただけで、履歴書が通ったことに驚いたほどだ。面接を切り抜けられるとは到底思えず、こちらはあまり期待していない。
一社目の面接は十一時。面接会場は駅から徒歩十分ほどの場所なので、今から向かえばちょうどいい。
深呼吸をして沈みかけた気持ちを引き上げる。
確かに今の格好はダサいし、野暮ったい。しかし清潔感はあるはずだ。昔『日本人形みたい』と言われたこともある黒髪はきっちり一つに纏めたし、綺麗な姿勢には自信がある。
(連敗記録は、今日で終わり)
大丈夫。今日こそいける――そう自分に言い聞かせて化粧室を出た、その時だった。
「きゃっ!」
「……っと!」
何かにぶつかって倒れそうになったところを正面から抱き留められる。ふわり、と爽やかな香りがした。
「す、すみません!」
眼前の白シャツに顔を押し付ける形になった凛は、慌てて上を向き――息を呑んだ。
――人は、本物の『イケメン』を目の前にすると、言葉も出ないらしい。
今この瞬間、そう確信した。呆気に取られる凛をのぞき込む大きな瞳は、薄ら赤みがかったヘーゼル色をしている。髪は、柔らかそうな栗色。すっと通った鼻筋も形のいい唇も、全てが完璧な造作だ。間近で見る血色の良い滑らかな肌には、染み一つない。
(外国の人……?)
そうとも見えるし、日本人にも見える。どちらにせよ、こんなに整った顔立ちの男性を見るのは初めてだ。その一方でなぜか見覚えがあるような気がした。
「――大丈夫?」
少し掠れて艶のある低い声が発したのは、日本語だった。何語で話しかけるべきかと迷っていた凛は、すぐに「ごめんなさい!」と頭を下げる。ここ数年で身に着けた九十度の完璧なお辞儀に、男性は驚いたように目を瞬かせた後、「顔を上げて」とそっと凛の肩に触れた。
「俺の方こそごめんね。君、痛いところはない?」
男性は凛と視線が合うと、ほっとしたように微笑んだ。そういえば、先ほどの女子大生が言っていたグロスのCMに出ている外国人モデルに似ているかもしれない。
「大丈夫です。あなたにお怪我はありませんか?」
こうして対面すると、彼自身モデルであっても不思議ではないスタイルだということがわかる。身長も百八十センチ以上あるだろうか。凛より頭一つ分は高い。
「もちろん。君は、羽のように軽かったからね」
白い歯を覗かせたその笑顔はあまりに様になっていて、凛は思わず見惚れた。
「そんな、ことは……」
ただのお世辞と分かっていても、異性からの甘い言葉を久しく聞いていなかった凛には、刺激が強すぎた。
「――ねえ、本当に大丈夫?」
「だ、大丈夫です」
「顔、赤いけど」
「だって、それはっ!」
どこか楽しそうに小首を傾げるその姿は、可愛いのに色っぽくて。
「近いから、ですっ……!」
わずかでも動けば唇が触れてしまいそうな距離に、凛は悲鳴にも似た声で言った。
そんな凛とは対照的に、余裕たっぷりの男性は「ごめんね」と苦笑する。
「日本に帰って来たばかりで、まだ人との距離感が掴めてないみたいだ」
「日本の方じゃないんですか……?」
現在話している日本語に違和感はないが、やはり外国人だったのだろうか。
頬を赤らめたままきょとんと目を瞬かせる凛に、男性は「半分はそうだよ」と肩をすくめる。
「半分?」
「イギリス人とのハーフだから。一応、英国紳士」
「……自分で言うなんて、おかしな人ね」
少し落ち着くと、彼の顔立ちを眺める余裕もできる。凛はふわりと笑んで身体を離した。
「とにかく、私の不注意でごめんなさい。お怪我がないようで良かったです」
その時、男性の表情がなぜか一瞬固まったように見えた。
気にはなったものの、そろそろ行かなければ。ぶつかったのが話しやすい人で良かった。
この後の面接も上手くいけばいいなと思いつつ、凛は「それじゃあ」と背を向けた。
「――待って!」
不意に腕を引かれて振り返る。視線の先には、なぜか真剣な面持ちの男性がいた。
「あの、まだ何か?」
男性はその問いには答えず、代わりに凛の全身を――自他ともに『ダサい』と認める格好を眺めた。次いで凛の顔を正面から見据えて一言、言ったのだ。
「君、どうして『そんな』格好をしてるの?」
「……っ!」
何を、今更。
「あなたには関係ありません、失礼します!」
「待っ……!」
凛は渾身の力で腕を振り切ると、男性の制止も無視して走り出した。
前言撤回。――今日は、厄日だ。
Ⅰ
それは、今から二年前、大学卒業を目前に控えた二月のこと。自由気ままな女子大生ライフも残すところあと少し、と浮かれていた凛の人生は、その日を境に一変した。
――父・籠宮伊佐緒の経営する会社が、倒産したのだ。
その一報を受けた時、凛が真っ先に心配したこと。それは、
(イタリア卒業旅行は行けるのかしら?)
ということだった。
会社が無くなったのは確かに大変だ。生活スタイルも変わってしまうだろうし、残念だけれど旅行は厳しいかもしれない。しかし動揺する母や家人らとは対照的に、凛はおおむね楽観的だった。
四月からは父に紹介された旅行会社で働くことが内定している。しかもそこの社長とは、昔から家族ぐるみで懇意にしており、凛も幼い頃から『おじさま』と慕っている人物だ。
多少不自由するかもしれないけど、普通に生活していくぶんには問題ないだろう。新社会人としての不安はあるが、きっとなんとかなるはずだ。何か困ったことがあれば、おじさまを頼ればいい。
そう、思っていたのだけれど。
「申し訳ないが、今回の話はなかったことにしてほしい。理由は、分かるね?」
大好きなおじさまから遠回しに内定辞退を求められて初めて、凛は事態の深刻さを知った。
時を同じくして、友人だと思っていた子からも、パーティーの度に凛に言い寄ってきた男性たちからも、一切の連絡がなくなった。
家に戻らない父。娘を残して実家に帰ってしまった母。
けれど両親の不在はさして問題ではなかった。彼らは凛の欲しがる物を何でも買い与え、どんな我儘も許していたけれど、そこに『家族の愛情』を感じたことは、ほとんどなかったのだから。
使用人たちは蜘蛛の子を散らすように屋敷を出ていき、広い屋敷には凛一人が残された。
その家からもたくさんの家財が運び出されていく。
来客の度に自慢していた父の絵画コレクションも、先々代から受け継がれてきたアンティークの家具も、電化製品から、それこそ凛の持っていたブランド品の数々に至るまで、ありとあらゆるものが差し押さえられたのだ。当然、屋敷にそのまま住んでいられるはずもない。
凛に残されたのは、最低限の身の回りの品と古いアパートの一室。そして、慎ましく暮らせばなんとか数ヶ月は過ごせるだろう預金残高が記帳された通帳だけだ。通帳を凛に手渡したのも、アパートへの入居手続きも、全ては父ではなく、秘書が代理で行ってくれた。
学費を全額前納していた大学を卒業できたことだけは幸いだったが、卒業式には参加していない。式のために新しく仕立てた本振袖は既に凛のものではなかったし、可愛く着飾った級友たちを笑顔で祝福できるほど、当時の凛に余裕はなかったのだ。
その後の一人暮らしは、右も左もわからなかった。
朝の起床も髪形のセットもお手伝いさんに任せるのが当たり前だったし、幼稚舎から大学までの通学は運転手付きの車で送迎。
『してもらって当たり前』の生活。
日々のそれにお礼を言ったこともなければ、特にありがたいと思ったこともない。
だから、初めは本当に大変だった。そもそも『慎ましい暮らし』がどういうものなのか、凛には分からない。預金残高はあっという間に底を尽きかけた。
このままでは来月の家賃も払えない。それどころか、光熱費だってぎりぎりだ。
そうなって初めて、凛は自ら職探しを始めた。もちろん目指すは正社員。しかし、当然ながら『典型的』お嬢様の凛を雇ってくれるところはどこにもなかった。
収入がなければ生活が成り立たない。正社員になるまでの繋ぎでいい、とにかく働かなくては。
焦った凛が最初のアルバイトに選んだのは、ファミリーレストランの接客業。
しかしそこは、カルチャーショックの連続だった。
まず、あの値段で食事ができるのが信じられない。店内は騒がしく、休日ともなれば目が回るような忙しさだ。けれどそれ以前に、凛は『頭を下げる』ことができなかった。
(なんで、そんなにペコペコしなくちゃいけないの?)
(こんなに働いて、これだけしかお給料をもらえないの?)
お客様に注意されればむっとして、バイト仲間に注意されると機嫌を損ねて無視をする。
今までの凛はずっと人の輪の中心にいた。周りが凛に合わせるのが当たり前。
級友たちにも一目置かれ、異性だってみんな凛の気を引きたがったのだ。バイトを解雇されても、凛は自分が悪いとは露ほども思わなかった。だが、その後も様々なバイト先を続けてクビになり、凛はようやく自覚した。
(間違っているのは、私の方……?)
以来、凛は心を入れ替えて働こうとしたけれど、身に着いた仕草や考え方はそうそう簡単に変わらない。いくつかのバイトを掛け持ちしたり、短期契約社員として働いたりしたこともあるが、やはり正社員への道は厳しかった。何度も面接を受けては落ち、落ちては受けを繰り返す。時間は瞬く間に過ぎて、おんぼろアパートにも愛着も感じるようになった今、気づけば二年の月日が経っていた。
◇―*◆*―◇
「籠宮凛さん、二十四歳。職歴は……アルバイトと派遣だけ?」
白髪交じりの面接官の失笑に、凛はすぐに悟った。
(この面接、ダメかもしれない)
駅でのいざこざはあったものの、凛は気持ちを切り替えて面接に臨んだ。
就職活動を始めた当初は、自己紹介をするだけで精いっぱいだった。しかしある程度数をこなすと対応にも慣れ始め、今では最初のやりとりでなんとなく結果を予想できるまでになっている。そして残念ながら、その的中率は現在のところ百パーセントだ。
「一つ目のアルバイトを始めるまで空白の期間があるけど、大学を卒業してからは何をしていたの?」
「家事手伝いをしていました」
「それって、ようはニートだったってことだよね。その後はいくらか働いていたとはいえ、学生時代にアルバイト経験もないみたいだし、……ちょっとそういうのは、ねえ」
「あのっ! 確かに勤務経験は少ないですが、やる気は十分あります! あと、御社の応募要項には職歴不問、とあったと思うのですが……」
「確かにそう求人は出したけど、それは言葉のあやというか、まあ、常套句だよね」
時間の無駄。目の前の人がそう思っているのは、悲しいけれど手に取るように分かった。
「それに、これ何? 趣味・特技欄がここまでぎっしり書かれてるのは初めて見たよ。華道に茶道、日舞にピアノ? バレエに書道って、これ本当?」
「はい! 十年以上、習っていました」
「へえ。語学にも堪能なんだ。何語がいけるの?」
「英語と、あとはフランス語はある程度話せます」
「で、それが何かの役に立つの? うちが一部上場の一流企業っていうならいいと思うよ? 社長秘書とか、受付嬢とか、君の『ご趣味』を活かしてくれる部署もたくさんあるだろうね。でもうちがそうじゃないことくらい、分かるよね? 欲しいのは実務のできる人なの。……それにねえ」
面接官は、凛を頭から足先まで嘗め回すように眺めた後、ふっと鼻で笑った。
「仮にうちが大企業でも、『君みたいな』子は受付に座らせられないね」
君みたいなダサい子、どこの会社も取らないよ。そう、言外に示されたような気がした。
――恥ずかしい。しかし、面接官の言っていることも、正しいのだと思う。
確かに一般事務の仕事に、綺麗な花の生け方なんて役に立たない。
今日も言われるのだろうなと覚悟はしていた。しかし改めて現実を突きつけられると、自分のこれまでの生き方を全て否定されたようで、喉の奥がひゅっと詰まるような感覚がした。
「あなたが幼稚舎から大学まで通っていたところ、有名なお嬢様学校だよね。で、経歴を見てもその通りだ。その上『籠宮』ときた。間違っていたら申し訳ないけど、あなた、籠宮社長の血縁者?」
面接で家族について聞くのはマナー違反。大学卒業後から就職活動を始めた凛でも、それくらいは知っている。だからこの質問に対する答えは簡単。にっこり笑ってごまかせばいい。
「……はい。籠宮伊佐緒は、私の父です」
しかし、何度同じ質問をされても凛はこう答えてしまう。
「――ご苦労様。結果はまた改めて連絡しますよ」
面接官と視線が合うことは、二度となかった。
(……また、ダメだった)
二社目の面接を終えた凛は、半分ぼんやりとした状態のまま、会社のエントランスを後にする。
一社目のやりとりを引きずって臨んだ二社目の面接では、集中力も切れて散々だった。
面接内容に特段変わった質問はない。氏名と年齢、経歴。趣味や特技、あとは業務内容の確認。
唯一印象的だったのは、担当の男性が終始にこにこしていたことだろうか。
秘書室長の斉木と名乗ったその人は、凛の名前を聞くなり一瞬驚いたように見えた。
彼も『籠宮』の姓に反応したのだろうけれど、触れられなかったのはありがたい。
「――着信?」
鞄から取り出したスマートフォンに目をやると、着信履歴が一件残っていた。最初の会社だと気づいた凛はすぐにかけ直す。面接からまだわずか数時間。こんなに早く結果が出るのは珍しい。
ドキドキしながら待っていると、コールが五回ほど鳴ってようやく応答があった。
電話口の女性のけだるそうな声に一瞬怯みそうになるけれど、明るい声を作って電話をもらった旨を告げる。繋がったのは、あの面接官だった。
『あー……籠宮さん?』
「はい! 先ほどはお電話に出られず申し訳ありませんでした」
『いいえ。で、結果からお伝えします。せっかく来てもらって悪いけど、今回は御縁がなかったということで。それじゃ、これで失礼しますよ』
凛の返事を待たずに電話はぶつりと切れた。
予想していたはずだ。しかしいざこうなると、今度は別の意味でドキドキが止まらない。
六月下旬。梅雨時の今、湿度は高く、スーツの下にじんわりと汗をかいている。肌は不快な生ぬるさとこの時期特有の暑さを感じているのに、身体の芯はひんやりと冷たい。
(……大丈夫)
面接に落ちるのなんて慣れっこだ。今回はたまたま、父のことを言われたせいで、凹んだだけ。落ち込んでいる暇はない、すぐに次の会社を受けないと。それでもダメなら日雇いのアルバイトを見つけなければ、住む場所さえなくしてしまう。
――とにかく、何かを胃に入れていったん落ち着こう。
視線の先にはちょうど、アメリカの大手コーヒーチェーン店がある。
新作フェアが始まったばかりらしく、生クリームのたっぷり乗ったコーヒーフローズンの写真にそそられた。昔は生意気にも『あんなもの』と敬遠していたくせに、今では『贅沢なもの』として目に映る。財布に余裕はないが、今だけは自分のことを甘やかしてあげたかった。
入店して季節限定のそれを注文すると、少しだけ気分が浮上した。このまま散歩がてら帰るのもいいかもしれない。近くに公園があるし、そこでのんびり一休みしよう。そうすれば、この悶々とした気持ちも晴れるような気がした。
(気持ち、切り替えなきゃ)
凛がカップを片手に店を出ようとした、その時だった。手元のスマホに視線を落として向かってくる男性が視界に入る。避けようとしたが、下を向いた男性は、そのまま凛にぶつかってきた。
「いたっ……!」
正面から強い衝撃を感じた凛は、バランスを崩してその場に倒れ込んでしまう。
「――あっぶねえな! どこ見てんだ、このブス!」
顔を上げると、舌打ちをして凛を見下ろす中年男性と目が合った。ぶつかってきたのは、明らかに男性の方だ。それにも拘らず、彼は謝罪するどころかそう吐き捨てた。
尻餅をついたせいでお尻がじんじんと痛い。さらに上半身にびっしょりと濡れた感触があった。
混乱するまま自分の身体を見下ろせば、白いブラウスは零れたコーヒーと生クリームを浴びて酷い有様だ。右手に握ったままのカップから中身がぼたぼたと零れ、手首を伝っていく。
男性は立ち去る気配もなく、凛を罵倒し続ける。
何か言わなければと思うけれど、喉の奥が張り付いてしまったように声が出ない。
――ぶつかって来たのはあなたの方でしょう、謝りなさい!
そんな風にはっきりと言えたのはもう、過去の自分だ。
今の凛は、ただ小さくなって嵐が過ぎるのを待つことしかできなかった。
「ちっ、なんとか言ったら……」
「――今のは、明らかにあなたの不注意だろう」
誰もが見て見ぬフリをする中、その声は確かに凛の耳に届いた。
凛は、顔を上げる。そこには数時間前に別れたばかりの人物がいた。
「大丈夫?」
駅で会った時と同じように、彼は柔らかく笑む。予期せぬ再会に驚く凛に、彼はそっと水色のハンカチを差し出した。
「これを使って。少しだけ待っててね」
反射的に受け取ると、彼は「大丈夫、すぐに終わるよ」と凛を背にかばって男と向かい合う。
「彼女に、謝罪を」
「……はあ? んだてめえ、関係ないやつが口出すんじゃねえよ!」
「聞こえなかったの?」
凛に背中を向けたまま、彼は無表情に言い放った。
「――謝れ、と言っている」
強い言葉に、対面した中年男性の肩が一瞬びくんと震える。それ以上の反論を許さず、彼は淡々と続けた。
「俺は、あなたからぶつかったのをはっきりと見たよ。もちろん、他にも証人はいるだろう。この店の店員にも、客にもね」
「……ちっ、だから何だって――」
「耳だけじゃなく頭も悪いの?」
その瞬間、声が一変した。
「するべき謝罪もできないなら、今すぐ消えろ」
一切の抑揚を打ち消して彼は言った。顔を真っ赤にしていきりたつ中年と冷静な態度を崩さない男性。二人の違いは誰の目にも明らかだった。
「それとも警察を呼んで出るとこに出ようか? 希望するならいつまでも付き合ってあげるよ」
口調こそ丁寧なものの、低く据わった声色に、中年は最後に舌打ちをして、逃げるように去っていったのだった。
「待たせてごめんね」
凛の方を振り返った彼の雰囲気は、一転して穏やかなものへと変わっていた。ズボンの膝が汚れるのも構わず地面に片膝を突くと、彼は未だ座り込んだままの凛を心配そうに見つめる。
「あの、わたし」
「……立てる?」
言われて気づいた。足に力が入らない。耳の奥に残る怒鳴り声に、まだ足が震えていたのだ。もしも彼が助けてくれなかったら、凛は今も怒鳴られていたかもしれない。
(……怖かった)
震えをなんとか抑えようとぐっと拳を握ったその時、凛の身体がふわりと浮いた。
「あ、やっぱり軽い」
彼は、流れるように自然な仕草で凛を抱き上げていた。横抱きのいわゆる『お姫様抱っこ』の状態に凛が呆気に取られていると、彼は改めて「危ないから動かないでね」と凛をぎゅっと抱き寄せる。密着したことで、零れたコーヒーの汚れが彼のシャツにも移ってしまった。
「は、放してください! 服、汚れますから!」
凛は慌てて彼の胸を押すが、見た目よりもずっと引き締まった身体はびくともしない。
「そんなの、どうでもいい……それよりも」
彼は左手を凛の後頭部にそっと添え、いっそう優しく抱え込んだ。
「君が泣きそうな顔をしている方が、ずっと気になる」
「――っ!」
一度会っただけの関係で、『そんな格好』なんて馬鹿にしてきたくせに、どうして優しい言葉をかけてくれるの。
面接の時からずっと気を張っていたからだろうか。不意に触れた優しさに、氷のように固く閉ざされていた凛の心はいともたやすく溶かされてしまった。
「もう、いやっ……私だって頑張ってるのに、なんでっ……怖かった……!」
シャツが汚れるのも構わず抱き締められた途端、凛の気持ちは決壊した。
店の入り口であれだけの騒ぎを起こしたのだ。今も通行人の遠慮のない視線は四方から凛を突き刺していく。しかし彼は、それら全てから守るように、凛を強く優しく包み込んだのだった。
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