初恋・ビフォーアフター

結祈みのり

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1巻

1-2

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   ◇―*◆*―◇


「――落ち着いた?」
「……はい」

 近くの公園のベンチにそっと下ろされた凛は、うつむいたまま小さな声で答える。
 今日会ったばかりの男性に横抱きにされて、その上子供のように泣いてしまった。
 みっともないところばかり見られて、どんな顔をすればいいのか分からない。そんな凛に何を思ったのか、「はあ」と深いため息が聞こえてくる。

「君は、本当によく人にぶつかるね」

 聞き捨てならない台詞せりふに反射的に顔を上げる。自分の不注意だった一回目はともかく、二回目は不可抗力だ。そう続けようとした凛の言葉をさえぎったのは彼だった。

「やっと、顔を上げてくれた。……さっきの君は巻き込まれただけだ。見ていたから分かるよ」

 男性は、凛を見てほっとしたように笑う。凛は反応に困りながらも、自分が汚してしまった男性のシャツを視界のはしに認めてはっとした。

「汚してしまって、本当にごめんなさい」

 凛がまずするべきは謝罪だ。こうして正面から見ると、べっとりとついた汚れはハンカチでぬぐった程度では取れそうにない。クリーニングでも落ちるか微妙なレベルのそれに『弁償』の二文字が頭をよぎるけれど、すぐに自分の経済状況も思い出す。
 コーヒーを買ってしまった今、帰りの電車代を抜かせば今の凛はほとんど無一文だ。

「あの、連絡先を教えて頂けますか?」

 男性は目をしばたたかせると、形の良い唇のはしを上げてにっこり笑った。

「驚いた、逆ナン?」
「違います!」

 まだ人との距離感がつかめていないと言っていたけれど、この何とも言えないノリは彼自身のもののような気がする。

「シャツ、弁償させてください。ただ、今は手持ちが少なくて……後日改めておびしますので、連絡先を教えて頂けますか?」
「気にしなくていいよ。俺よりも君の方が心配だ。シャツもスカートも大分汚れている。時間があるようなら、君の服を買いに行こう。もちろん、お金の心配はしなくていいよ」
「そんな、助けて頂いただけでも十分感謝しているんです。それに、見ず知らずの方にこれ以上ご迷惑をおかけするわけにはいきません」
「……見ず知らず、ね」
「あの、何か?」
「ううん、こっちの話。でも、俺がいいって言っているのに、君もなかなか頑固だね」

 あまりの言い草にたまらず口を開きかけた凛に、男性はくすりと笑って続けた。

「『長篠ながしの』」

 一拍置いた後に、それが彼の名前なのではと気づいた。

「……長篠さん?」

 凛が名前を呼べば、長篠は「そう」と満足そうに頬をゆるませる。

「これで『見ず知らずの方』じゃなくなったね?」

 言葉遊びをしているわけではない、と言い返す凛を、長篠はなぜか楽しそうに見つめる。
 その熱心な視線に、凛はそっと目をらした。この抜群に整った顔立ちに対する耐性など持ち合わせていない。

「……私の顔に何かついていますか?」

 このタイミングでこの人からも『ブス』なんて言われたら、さすがに立ち直れない。
 しかし長篠の答えは予想の斜め上を行っていた。

「駅で会った時も思ったけど、本当に可愛い顔だなあと思って」

 一瞬、自分の耳を疑った。しかしその直後に感じたのは苛立いらだちだ。

「……バカにしたくせに」
「俺が、君を?」
「『そんな格好』って言いましたよね」

 覚えがないと言わんばかりの態度に、思い出させるよう凛は少しだけ強い口調で言った。
 凛とて、好きでこんな格好をしている訳ではないのだ。誰もが見惚みとれるだろう長篠と、みすぼらしい凛。そのあまりの違いにうつむきかけたその時、「違うよ」と穏やかな声が凛の動きを止めさせた。

「そういう意味で言ったんじゃない。……でも、そっか。だから、あんなに怒ってたのか」

 確かにそれもあるが、一番は図星ずぼしを指されて恥ずかしかったのが理由だ。

「さっきも言ったけれど、君は可愛いよ。だからこそ、それを隠すような格好をしていたのを不思議に思って。薄化粧も清楚せいそでいいけど、君はもっと自分のせ方を知っているはずだ」

 よどみなくつむがれるめ言葉にからかいの色は微塵みじんもない。何より、凛のことを知っているかのような口ぶりに驚かずにはいられなかった。凛と長篠は今日が初対面のはずだ。

「……以前、どこかでお会いしたことがありますか?」

 駅で感じた妙な既視感きしかん。見つめる凛に対して、長篠はやはり薄く微笑んだままだ。

「それ、やっぱりナンパにしか聞こえないけど。君のお誘いなら、喜んで受けるよ?」
「……いいです、もう」

 若干けむに巻かれたような気がしないでもないが、凛は疑問を呑み込んだ。

(そうよね。こんなに目立つ人と会っていたら、覚えているはずだもの)

 昔、会社関連のパーティーで会ったことがあるのではと思ったが、やはり気のせいだったようだ。
 気を取り直し、改めて連絡先を聞こうとすると、にこやかにこちらを見つめる長篠と目が合った。

「――決めた」
「な、なにをですか……?」

 今の凛に誠意はあるが、お金はない。いったい何を求められるのだろうと不安な凛とは対照的に、長篠の顔は妙に晴れやかだ。

「……っと、その前に。そのままじゃコーヒーの跡が目立つから、これを着て。俺ので悪いけど、ないよりはましだと思うから」

 長篠は自分の着ていた薄手のこんのカーディガンを脱ぐと、さっと凛の肩に羽織はおらせた。
 突然の行動に目を丸くする凛の手をそっと取って、長篠はベンチから立たせる。

「おびの方法。お金は必要ないよ。――君の身体一つあればね」

 含みのある言葉に思わず固まったその隙に、長篠は凛の手を引いて歩き出す。

「ちょっ、長篠さん⁉」

 身体一つ、だなんて冗談じゃない。凛は慌てて両足に力を込め、抵抗をこころみる。しかしその行動すら予想の範囲内とでもいうように、長篠は余裕の表情で振り返った。

「大丈夫、こんな昼間から変なことをする趣味はないよ」

 それなら今すぐ放してください、と言い返す凛に対して、長篠は悪戯いたずらっぽく微笑んだ。

「大人しくしてくれないとまたお姫様抱っこするけど、それでもいい?」

 今度こそ凛は言葉を失った。ある種、緊急事態だった先ほどとは違い、ここは真っ昼間ののどかな公園である。人の往来こそほとんどないものの、少し歩けば高級ブランド店がのきつらねる商業通りに出てしまうこの場所で、横抱きにされたら目立つどころではない。
 凛の片手はきゅっと握られている。この様子では、長篠がみずから手放すつもりはなさそうだ。
 答えにきゅうする凛をさらに追い込むように、長篠はゆっくりと一音ずつ言葉を続けた。

「『おび』。してくれるんだよね?」

 じいっと凛に視線を向ける長篠の雰囲気は言葉とは裏腹に柔らかい。ヘーゼルの瞳に見つめられると、それだけで鼓動が速まる気がする。この人が、凛を傷つけることをするようには思えなかった。

「……私にできることでしたら」
「君にしかできないことだ。――さあ、行こう」

 やはり、長篠は凛の手を握ったままだ。握り返すことこそしないものの、凛はひとまず抵抗することを止めた。

(不思議な人)

 隣を歩く長篠はとても機嫌が良いように見えた。
 公園を出てすぐに商業通りへと入った凛と長篠だが、すれ違う人は皆、一様に二人を目に留めた。
 やはり服の汚れが目立つのだろうか。凛は、借りたカーディガンの前を片手できゅっとつかむ。
 しかし、すぐにそれは勘違いであると悟った。
 人々が――主に若い女性が見ているのは凛ではなく、長篠だ。
 すらりと長い四肢ししを持つ長篠は、凛より頭一つ分以上背が高い。
 ショーモデルが本業であると言っても何ら違和感のない体形。羽織はおっていたカーディガンを脱ぎ、サマーシャツ一枚となった長篠の上半身は、見事なまでに引き締まっている。
 肩同士が触れ合うほど近くにいるからこそ分かる。うっすらと盛り上がった胸部はたくましく、ゆっくりと歩く足運びは実に優雅だ。
 抜群に整った顔立ちも、きたえられた体躯たいくも、その全てが長篠という男を魅力的に見せていた。

「この店だよ」

 長篠の進行方向からもしやとは思っていた。しかしいざ店の前にやって来ると、今までとは別の意味で緊張した。高級店が建ち並ぶ通りの中でも、この店は格が違う。
 欧州のとある王室の御用達ごようたしとしても知られるこのブランドは、数年前日本に初出店した際、各メディアで大きく報じられたものだ。
 元々はスーツ専門店でありながら、近年ではカジュアルブランドも展開し、そのどちらも成功させている。
 おびのために連れてこられた先は、想像以上の高級店。今一度、凛の頭に口座残高がよぎる。

(だめ。絶対、ムリ!)

 すぐに帰って日雇いバイト先を探そう。しかしそれだって、シャツの弁償には一体何日働いたらいいのか――

「……何を考えているのか大体想像がつくけど、ここで君に何かを買わせようなんて思ってないからね?」

 青ざめる凛の隣で長篠は笑いを噛み殺すと、躊躇ためらいなく凛の手を引いた。長篠が一歩足を踏み出すと、気づいた店員によって内側から扉が開かれる。

「長篠様、いらっしゃいませ。ようこそお越しくださいました」
「さっそくで悪いけど、彼女に似合いそうなスーツ一式を何点か、合わせて小物も見せてくれるかな」
「かしこまりました。何かご希望の点はございますか?」
「フォーマルなものと、普段使い用の両方を。――ああ、そのダークグレーのスーツ、いいね。サイズもちょうどよさそうだ」

 長篠がすぐ近くにあったレディーススーツに視線をやると、店員はすかさずそれを手に取った。

「インナーはホワイトのシフォンブラウスがあればそれを。まずはそのスーツを試着してみて、その間に俺が色々と見させてもらうよ」
「承知いたしました」
「長篠さん!?」

 テンポよく進む会話の内容に驚き、凛は慌てて二人の間に割って入る。しかし長篠はそれを無言で流し、右腕を凛の腰に回すと有無を言わさず店の奥にある個室――恐らく試着室だろう――へいざなった。

「どうぞ、お嬢様?」

 冗談とはいえ、その呼び方は洒落しゃれにならないからやめてほしい、とか。
 なぜ私のサイズがわかるのか、とか。そもそもなぜ、自分の服が選ばれているのか、とか。
 そんな当たり前の疑問を凛が聞く間もなく、「いってらっしゃい」と試着室の扉が閉められたのだった。


 ――どうして、こんなことに。
 問答無用で試着室に入れられた凛のもとには、次から次へと洋服が運ばれてきた。
 仕事で使えそうなスーツやインナーはもちろん、私服で着られそうなブラウスやスカート、ワンピース。試着している間も、扉の外からは、長篠の「これもいいね」「ああ、それも」とやけに明るい声が聞こえてきた。さすがにパーティーで着るようなドレスが手渡された時には、「お願いですからもういいと伝えて下さい!」と女性店員に懇願こんがんした。そして、今。

(これが、私?)

 鏡の中には、身体のラインにぴったりと沿った品のあるダークグレーのスーツを着た一人の女性が映し出されていた。女子大生や面接官に鼻でわらわれた野暮やぼったい凛はどこにもいない。
 一見お堅い印象を与えるジャケットからは、ホワイトのシフォンブラウスがのぞき、柔らかな雰囲気に見せる。少し動くとふわりと揺れるフレアスカートは、凛の細身ながらも女性らしいシルエットをよく引き立てていた。きっちり一つ縛りにしていた髪の毛は、「こちらの髪形もお似合いですよ」と女性店員がハーフアップにしてくれる。バレッタはもちろん、店側が用意したものだ。
『高級ブランド』の洋服は過去に数えきれないほど着ていたし、むしろ普段着だった。もちろん、スーツを着たことも何度もある。
 しかしそれはいずれも『働く』ことなど何も知らない、無知な子供の頃の話だ。
 まだお世辞にも立派な社会人とは言えないものの、こうして『大人』の自分が改めて、きちんとしたスーツを着ている。それだけで、心なしか表情まで明るくなった気がした。

(……シンデレラみたい)

 今の凛は、舞踏会に行けるようなドレスもガラスの靴もいていないけれど。
 そんな、小さな女の子みたいな想像をしてしまうくらい、鏡の中の凛は鮮やかな変身をげていた。

「――着られた?」

 不意に扉の外からかけられた声とノックの音に、びくん、と肩が震える。

「はい、大丈夫です!」

 今の今まで自分の姿に見惚みとれていたことに気づき、凛は慌てて返事をした。すると、「開けるよ」という言葉と共に扉はゆっくりと開かれた。
 最初に、綺麗な白シャツが視界に入る。長篠も着替えを済ませたようで良かったと安堵あんどしたその時、瞳を大きく見開く彼と目が合った。食い入るような長篠の視線。彼は、それこそ頭のてっぺんからつま先まで、凛の全身を見渡していた。

「……長篠さん?」

 彼が選んだダークグレーのスーツは我ながらとてもよく似合っていると思ったのだが、勘違いだったのだろうか。不安に思って小首をかしげる凛に、長篠ははっと我に返ったように目をしばたたかせ、「……ごめん」と小さく言った後、

「――綺麗すぎて、見惚みとれてた」

 と、とろけるように微笑んだのだ。その瞬間、凛の頬に熱がともった。

(な、この人何を言って……!)

 顔が熱い。心臓がドクン、ドクン、と痛いくらいに鼓動を刻み始める。
 それは、今日出会った時から彼が見せたどの笑みとも違った。まるで恋人を見つめるような――凛のことが愛しくてたまらないとでも言うような、チョコレートみたいに甘いその笑顔。

『可愛い』
『綺麗』

 お嬢様時代にうんざりするほど聞いたそれは、凛にとっては挨拶くらいの意味しか持たなかった。
 それなのに今は違う。長篠の言葉一つに、こんなにも動揺してしまう。

「――うん、いいね。本当によく似合ってる」

 本当に、やめてほしい。これ以上言われたらきっと、凛の心臓が持たない。

「そのスーツだけでなく、他の服や小物もぜひ使ってくれると嬉しい。どれもきっと、君に似合うはずだよ」

 これには別の意味でぎょっとした。

「そんな、頂けません!」
「どうして?」

 それはこちらのセリフだと言いたいのをぐっとこらえ、凛は「頂く理由がないからです」とはっきりと告げた。凛が弁償の為に長篠のものを購入するならいざしらず、自分がこんなにも高額なものを「はい、ありがとうございます」と受け取れるはずがない。しかし、長篠は引かなかった。

「受け取ってもらわないと困るな。だってもう、購入済みだから」

 凛は、長篠の後ろに立つ店員をばっと見る。店員は、「後ほどお届けいたしますので、ご住所をお教え願えますか?」と実ににこやかな笑顔を凛に返した。

「今日彼女が着ていた物も一緒に送ってね」
「かしこまりました」

 店員は綺麗な一礼をすると試着室を出ていった。扉は開いたままといえ、個室に二人きり。その状況にわずかに緊張しながらも、凛は再度長篠に説明を求める。
 服を汚された、いわば被害者が汚した張本人に代わりの服をプレゼントするなんて話、聞いたことがない。

「『頂く理由がない』か。理由ならあるよ。これは、俺のせめてものおびの気持ち。朝、君にぶつかった時、『そんな服』なんて失礼なことを言ってしまったからね。だからこれは、その謝罪の意味も含んでる」
「私からあなたへのおびは?」
「君が俺の選んだ服を着る。俺はそれを見て目の保養ができる。それで十分だよ」

 こうも感覚が違うと、もはや何も言い返せない。しかし、与えられるものを「ありがとう、頂くわ」なんてあっさり受け取ることができたのは、過去のことである。
 タダより高いものはない、と昔の人はよく言ったものだ。
 長篠と過ごしたわずかな時間で凛が彼について得られた情報は、ほんのわずか。
 本人の言葉を信じるなら、最近日本に帰国したばかりのハーフのイケメン。そしてお金持ち。
 それだけだ。

「……やっぱり、受け取れません」
「困ったな。それだと、せっかくの素敵な洋服が無駄になってしまう。残念ながら、俺に女装の趣味はないしね」
「なら、これが似合う素敵な女性に贈って差し上げて下さい」
「俺は今、そうしたばかりだよ」
「ですからっ!」
「『素敵な靴は、持ち主を幸せな場所にいざなってくれる』」

 長篠は凛の言葉をさえぎると、穏やかな声のトーンで話し始めた。

「俺の好きな言葉の一つだ。有名だから、君も一度は聞いたことがあるんじゃないかな?」

 確か欧州のことわざの一つだった気がする。戸惑いながらもうなずくと、長篠はそう、と微笑んだ。

「それは、服にも共通すると思うんだ。もちろん、一番大切なのは服を着るその人自身。でも、その人に似合う服は持ち主に自信を与えてくれる。あるいは、新しい魅力に気づかせてくれる。それって幸せへの一歩だと俺は思うけど、君はどう?」

 確かに素敵な言葉で考え方だ。しかし長篠が言わんとしていることが、凛には分からない。

「さっき、俺に『受け取れない』ってはっきり言った時。君は背筋を伸ばしてまっすぐ俺を見ていた。とても凛としていて、綺麗だったよ。こぼれたコーヒーを片手にうつむいていた時の君とは、大違いだ」

 長篠はゆっくりと右手を上げる。大きな手のひらがそっと凛の頬に触れた。凛は、なぜか動くことができなかった。不思議な色合いの瞳に、とらわれる。

「小さく縮こまっている君も可愛いけど、自信たっぷりに言い返す強い君の方が、俺は好きだな」
「長篠さ――」

 熱を持った親指が唇をなぞり、凛の顔に影がかかった、その時だった。
 まるで触れ合いを引き止めるかのように、大きな着信音が試着室に響く。
 凛は、はっとしてすぐに一歩後ずさる。長篠はほんの一瞬、着信音に苛立いらだったように眉根を寄せると、「ごめんね」と短く断って、ズボンのポケットからスマホを取り出した。

「はい。……ああ、ごめん。まだちょっと――」

 電話をする横顔に、凛ははあ、と深い息をついた。
 ――まだ、胸がドキドキしている。

(……キス、されるかと思った)

 それほどまでに長篠の距離は、近かった。キスなんてまさか、と思う自分と、もしかして、と思う自分と。いったい今日だけで長篠にどれだけ驚かされたのか、もはや数えきれない。頬に残る熱を何とか引かせようと呼吸を整える凛の前で、長篠はどこか焦ったように会話を続けていた。

「分かった、だから悪かったって。ああ、すぐに戻るから。悪かった、じゃあな」

 電話を終えた長篠は肩をすくめて苦笑した。

「――タイムリミットみたいだ。もう戻らないと。駅まで送ろうと思ったのに、ごめん」

 ほんの一瞬、残念だと思った自分に内心驚きながらも、凛は「分かりました」とうなずいた。
 凛の方に彼を引き止めなければならない理由はない。しかしやはり、購入済みという洋服の始末についてはもう一度物申さなければ。そうして口を開きかけた凛を止めたのは、同じく長篠だった。

「ストップ」

 柔らかな人差し指が強制的に凛の唇を封じる。

「おびは済んだし、洋服は君の物。どうしても納得できないなら、次に会った時に俺のことを名前で呼んで。それで今回の話はチャラだ」

 聞いたのは苗字だけで名前なんて知らない! 視線で抗議する凛を長篠はふっと目を細めて見下ろすと、そのまま空いた左手で凛の右手をすくう。
 ――その後の動きは、まるで映画のワンシーンを見ているようだった。
 ちゅっと、柔らかな感触が手の甲に落とされた。物語の騎士が姫君に忠誠を誓うかのごとき、その仕草。目を見開いて固まる凛を長篠は上目遣いで見つめた。

「またね、凛」

 甘いささやきと柔らかな余韻よいんだけを残して、彼は去っていった。

「……名前」

 凛は長篠に一度も名前を名乗っていない。しかしその事実に気が付いた時にはすでに遅い。凛は仕方なく、新しいスーツを着て自宅へと帰宅したのだった。
 その夜。畳に敷いた煎餅布団せんべいぶとんに横になった凛は、今日一日で起きたことを思い出し、身もだえしてころころ転がっては青ざめていた。何度かそれを繰り返すとさすがにむなしくなってきて、同時に一気に眠気が訪れる。本当に、色々なことがあった一日だった。
 面接に落ちて、歩きスマホの男性に絡まれて。そうかと思えば信じられないほどたくさんの洋服を買い与えられ、キスをされた。
 なぜ、彼は凛を知っているのか。『またね』とはどういう意味なのか。
 分からないことばかりで悩みは尽きない。しかし、身体も心も大分疲れていたらしい。
 翌日、服と小物の配達を告げるチャイムが鳴るまで、凛は熟睡したのだった。


 ――凛の採用を告げる電話が鳴ったのは、それから数日後のことである。


   Ⅱ

『LNグループ』

 イギリスに本社を置く老舗しにせ化粧品メーカーは、世界的にも名の知れた外資系企業である。
 女性なら誰しも一度は耳にしたことがあるだろう化粧品の有名ブランドを数多く持っており、長篠に似たモデルがイメージキャラクターを務めるグロスも、この会社が発表したものだ。
 その日本支社の面接を凛が受けたのは、今から一ヶ月前――長篠と出会い、別れたあの日である。
 あの時はまさか、LNグループに採用されるとは思いもしなかった。
 英語が堪能たんのうであること、お茶やお花など日本の伝統芸能に明るいことが採用理由の一つだったと、後に面接官の斉木は教えてくれた。
 履歴書が通過しただけでも驚きだったのに、まさかの大企業に、まさかの就職。
 そして右も左も分からない凛が配属されたのは、総務部秘書課だった。
 秘書課の業務内容は多岐たきわたる。社長を始めとした役員のスケジュールやアポイントメントの管理、書類の翻訳ほんやく……と、サポート全般と言っていい。こまごましたことを上げればきりがないのだが、新入社員の凛の主な仕事は、先輩社員のサポートだ。
 書類の翻訳ほんやくを手伝うこともあれば、お茶を入れたり、電話を取ったりすることもある。
 一般企業と少し違うのは、社内を飛び交う言葉に日本語と同じくらい英語が多いことだろうか。
 正直、慣れないことばかりで初めのうちは大変だったけれど、それ以上に『忙しい』毎日――誰かに必要とされる毎日は、楽しくてたまらなかった。そして、七月最終日。

「籠宮さん」

 時刻は十七時半。終業時刻の訪れと共に、向かい側のデスクから声をかけられた凛は、ゆるみかけていた表情を慌てて引き締めた。

「はい!」
「お疲れ様、もう上がる時間よ」

 入社して一ヶ月。凛にはまだ残業するほどの仕事はなく、定時出勤・定時退社を厳命されている。
 無駄な残業は徹底排除が大前提。周囲を見れば、凛以外の社員もちらほらと帰り支度を始めている。しかし、対面の先輩社員――奥平裕子おくひらゆうこは、まだ仕事が残っているようで、「疲れたあ」と肩を回しながら凛を見ていた。

「そういえば、今週金曜日の夕方は空いてる?」
「はい、空いています。会議ですか?」
「ううん、飲み会のお誘いよ。場所は、あなたが前に行きたいと言っていたイタリアン。どう?」

 奥平とはすでに何度か食事を共にしていたが、話題が豊富な彼女と過ごす時間はとても楽しかった。

「ぜひ、ご一緒させてください!」
「良かった。あ、今度こそあなたには出させないからね。いい加減、先輩の顔を立てることを覚えなきゃ」

 奥平はふわりと笑った。その柔らかな表情に凛は、同性ながら一瞬見惚みとれる。
 今年三十四歳を迎えるという奥平だが、自分より十歳も年上だとはとても思えない。
 スッキリとした黒髪ショートカットに真っ赤なルージュ、ホワイトのパンツスーツ。すっかり『あこがれの先輩』となった彼女は、新入社員である凛の指導係だ。

「おーい籠宮さん! ぼうっとしちゃって、大丈夫? 疲れちゃったかな?」
「い、いえなんでもありません、失礼しました!」

 からかうように目の前で手をひらひらと揺らされて、凛は慌てて立ち上がる。
 まさかあなたに見惚みとれていました、なんて答えるわけにはいかない。凛の直立不動の姿勢に、奥平は一瞬目を丸くした後、けらけらと笑い始めた。

「あーもう、籠宮さんやっぱりいいわあ。ほんっと可愛い、大好き」

 凛の方こそ、とびっきりの美人なのにそうやって大口を開けて笑う奥平が大好きだ。
 初めての女性の先輩がこんな風に素敵な人で本当に良かった、と思ったその時、奥平の隣に一人の男性が並んだ。

「なんか楽しそうな会話してるな、俺も入れて」
「斉木室長」

 斉木とおる。きちんとプレスされた白シャツに青のネクタイがキマって見えるその人は、凛と奥平の直属の上司である。

「あら、室長。おかえりなさい。出張お疲れ様でした」
「ありがとう、奥平。あー今回は疲れた」
「室長が弱音を吐くなんて珍しい。その様子だと、新社長と相当やりあったみたいですね?」
「……まあ、な」

 先日、LNグループはトップ――イギリス本社に在籍する会長の交代にともない、大規模な人事異動を発表した。九月一日付で日本支社にも国内外から新しい人員が配属となるらしい。
 それもあって斉木を始めとした社員たちは、せわしない日々が続いていた。

「久しぶりに会ったけどあいつ、変わってなかったよ。綺麗な顔して厳しいことばんばん言ってくる」
「早く会いたいわ。私もあの子に会うのは久しぶりだもの」

 これに凛は驚いた。斉木は比較的砕けた態度を取っているけれど、社長を「あいつ」呼ばわりするような人ではないと思っていたからだ。それに、奥平まで「あの子」呼ばわりするなんて。

「あら、ごめんなさい。斉木室長、ちゃんと説明してあげないと。籠宮さんが驚いてますよ」
「ああ、そうだよな。九月から来る新社長、実は俺と奥平の昔からの知り合いなんだ。籠宮さんも会ったら驚くよ、きっと。中身はともかく、見た目は相当なイケメンだからな」

 俺と同じくらいには、とおどける斉木に凛はくすりと笑った。

「でも、帰ってきて美人の部下同士が笑っているのを見ていやされたよ。俺、この部署で良かった」
「あら、めても何も出ませんよ?」
「本心だからね」
「はいはい、ありがとうございます」

 奥平と斉木は同期ということもあってかなり気安い関係らしい。二人はこの後も残業をするようだが、終業時間後の課内の雰囲気は日中に比べて比較的穏やかで、他の社員の表情も心なしか明るかった。

「でも、室長のおっしゃることも分かります。この部署の皆さん、綺麗な方ばかりですものね」

 秘書課すなわち会社の華。ここLNグループ日本支社においてもここの女性のレベルは総じて高い。
 それに加えて一般的なイメージである『女性間のドロドロ』とは無関係なのが幸いだった。


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