初恋・ビフォーアフター

結祈みのり

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1巻

1-3

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 女性陣は、奥平を筆頭にさっぱりとした人が多い。仕事内容と同じくらい人間関係が不安だった分、この職場環境は願ってもないものだった。

「籠宮さん、他人事みたいに言うけど、あなたも十分可愛いわよ?」
「ふふ、ありがとうございます。奥平さんにそう言って頂けると、お世辞でも嬉しいです」

 働き始めてまだ間もない凛の生活は、相変わらずかつかつで、流行はやりの服を買う余裕もまだない。
 しかし意識は、少しずつ変わってきていた。

『さっき、俺に「受け取れない」ってはっきり言った時。君は背筋を伸ばしてまっすぐ俺を見ていた。とても凛としていて、綺麗だったよ』

 あの言葉に、凛は気づいたのだ。
 ――服が安っぽいから、籠宮家の娘だから、落ちても仕方ない。
 自分は、いつの間にかそうやって理由をつけて、逃げ道を探していたのではないか。
 だからこそ凛は、お嬢様としての傲慢ごうまんさではなく、今の自分にできる見せ方を意識した。
 背筋を伸ばして、名前の通り、『凛』とするように。

「……お世辞じゃ、ないんだけどね」

 きょとんと首をかしげる凛の前で、同期二人組はそう言って苦笑した。

「――っと、そうそう、飲み会ね。予定が空いていてよかったわ。あなたの歓迎会をしようと思っているの。メンバーは、私と室長と籠宮さん」
「……私の?」

 奥平は悪戯いたずらっぽく微笑んだ。

「気づいてる? 試用期間は、今日で終わり。明日からあなたは正社員よ」
「明日からも改めて、よろしくな!」
「――っはい!」

 笑顔で並ぶ二人に向かって、凛は大きくうなずいたのだった。


   ◇―*◆*―◇


 あの日長篠が選んだ服は、今も部屋の中に大切にしまってある。
 六畳ろくじょう一間ひとまの畳のアパートには、クローゼットなんてお洒落しゃれなものはない。
 代わりに凛は、百円ショップで買った突っ張り棒を使って押し入れの中に簡易収納スペースを作っている。これまでは、そこに数少ない私服と古着のリクルートスーツが並んでいるだけだった。
 しかし、今は違う。押し入れの中には、一人暮らしを始めてから購入した服の倍以上の洋服があった。
 パーティードレス、サマーニットにスカート、ワンピース。そして、あのダークグレーのスーツ。
 それらは皆、届けられた状態のままだ。スーツ以外は一度も袖を通していないし、タグも切り取っていない。しかしふとした時に眺めては、あの日の出来事を――長篠の顔を思い出す。
 その度に凛は、白昼はくちゅうを見ているような感覚におちいった。
 きっと、もう会うことはないだろう人。それなのに「またね」と意味深な言葉と強烈な記憶を凛に刻み付けたあの人は、いったい何者なのだろう。
 夢を見ていたようだ、と思うたびにスーツを見ては、あれは現実だったのだと思い知る。
 凛は人差し指でそっと自分の唇に触れた。
 今もはっきりと覚えている。凛よりも大きな手のひらが頬に触れたこと。
 抱き上げられた時の温かさも、とろけるように甘い言葉も、熱のもったヘーゼルの瞳も――凛の唇をそっと抑えた、人差し指も、皆。長篠のことを考えると、それだけで心臓がきゅうっと苦しくなる。ドキドキして、なのに切ないような不思議なその感覚。


「――それ、どう考えても恋よね?」

 え、私いま、中学生の恋愛相談を受けているの、違うわよね? 
 冗談っぽく尋ねる奥平の瞳は、楽しそうにキラキラと輝いている。仕事中はクールな部分が目立つが、業務後や、今のような昼休みに見せる素の奥平はたまに子供のように無邪気だ。
 そのギャップがまた素敵だな、と内心思いながら、凛は持参したお弁当のはしを置く。
 今日のお弁当は小さな塩おにぎりと、保冷ポットに入れた野菜スープ。この二年間で料理の腕も随分と上がった。社員食堂にはバランスの取れたメニューも用意されているけれど、凛はこれで十分だ。

「ドキドキするって、恋以外の何物でもないと思うけど。その人とは知り合って長いの?」
「えっと、その……これは友達の話なんですけど」
「その文句って、大抵自分の話なのよね」

 うっ、と言葉に詰まる。長篠との出来事を詳細に話すつもりはなかったけれど、彼を想う時に生じる感情を持て余していた凛が頼ったのは、やはり奥平だった。
 第三者に話を聞いてもらって客観的に考えてみたかったのだ。一人きりで冷静になるのは、難しすぎた。

「まあいいわ、続きをどうぞ?」
「……男性が、あまり親しくない女性に服を贈る理由を知りたくて。あと、奥平さんなら頂いたものはどうします?」
「その人との関係性にもよるわね。今現在親しくなくて、今後もそうなるつもりがないなら、私なら売るかしら」

 一流ブランドの品。未使用でタグはそのまま。なるほど確かに良い値段になるだろう。決して生活にゆとりがあるわけではない凛だが、その考えは全く思い浮かばなかった。

「その様子だと、売る予定はないと。なら当然捨てるつもりもないのよね。なら、使えばいいじゃない。そのままにしておくのはもったいないわ。今度の歓迎会に着ていく服が決まらないって言ってたわよね? 当日、いくつか持っていらっしゃい。昼休みに選んであげる。腕が鳴るわー!」

 奥平は美味しそうにハンバーグをどんどん平らげていく。その細い身体によく入るものだと感心しながら見ていると、彼女と目が合った。

「籠宮さん、教えてあげましょうか? 男性が女性に洋服を送る意味」
「……意味、やっぱりあるんですか?」

 凛がきょとんと目をしばたたかせたと同時に、奥平の、赤いルージュを引いたつややかな唇がを描いた。

「――脱がせたい服を、贈るのよ」

 その仕草にドキリとして目を泳がせた途端、今度こそ奥平は声を噛み殺して笑い始めた。

「籠宮さん、もしかして今まで異性と付き合ったことないの?」

 正直にうなずくと、「さすがお嬢様」と奥平は納得したようだった。他の誰かに言われたらいい気分のしない呼び方も、奥平が言うと全く嫌味に聞こえない。

「『元』お嬢様ですよ」
「お嬢様だったのは否定しないのね?」
「呆れちゃうくらいに馬鹿で我儘わがままな、ですけどね」

 わざとらしく肩をすくめる凛に、奥平もまた悪戯いたずらっぽく唇のはしを上げる。

「斉木室長から『籠宮家のお嬢様を採用した、指導を頼んだよ』って言われた時は、いったいどんな生意気な子が来るかと思ったけど、実際あなたに会って驚いたわ。想像と全然違うんだもの」
「それは、いい意味でですか?」
「あなたに接する時の私の態度を見ていたら、分かるでしょ?」

 はい、と凛は微笑んだ。確かに、間違いない。奥平がいるから会社が楽しいと思えるほど、彼女は本当によくしてくれている。

「……彼氏がいたことがない、かあ。確かに今どき珍しいわよね。じゃあ、初恋は? この際、子供の頃でもいいから。ああ、でも幼稚舎から大学までずっと女子校だったのよね。それじゃあ出会いもないか」

 奥平の言う通り、同世代の異性がいない学校では、出会いはないに等しかった。
 会社の付き合いで参加した集まりやパーティーには異性もいたが、『自分は選ばれるのではなく選ぶ側』と思い込んでいた凛が恋をすることはなかった。

「……昔、一人だけ『好きだな』と思える人がいました」

 そんな中、唯一の例外があった。もう十年以上昔、子供の頃の話だ。

「お相手は?」
「うちで働いていた女性の子です。屋敷の離れに住んでいて、母の代わりに私の面倒を見てくれていて……だから、彼女の息子と過ごす時間も多かったんです」

 相手は籠宮家で働く使用人の子。その当時凛は小学生で、相手は中学生だった。
 綺麗な顔をした男の子だった。いつも笑顔を絶やさないその子は、凛がどんな我儘わがままを言っても意地悪をしても、注意こそすれ決して怒らない。
 ご機嫌取りをする男の子しか知らない凛にとって、その子の態度は初め、とても新鮮だった。
 しかしそれはすぐ、『面白くない』という感情に変わる。
 貼り付いた笑顔の裏側にひそむ本音は無関心だ。柔らかく微笑みながらも凛を見ていない男の子。それが、子供の凛には面白くなかったのだ。
 だが成長するにつれて、その感情は自然と恋心へと変わっていった。
 ――この子の素の顔が見たい。作ったような笑顔ではなく、自分にだけ見せる顔が見たい。
 恋心はどんどん空回からまわりして、可愛くないことばかり言ってしまう。
 照れ隠しに意地悪をして、ひどいことを言って。それでもやはり、彼は笑っていた。
 いつか絶対、この人を振り向かせてみせる。しかし、幼い凛の初恋は呆気あっけなく終わりを迎えた。
 ある日突然、彼は姿を消したのだ。彼の母親もまた、一緒に。


「――なんていうか、本当に子どもだったのね」
「……もう少し、素直になれたら良かったなって、今なら思います」

 もしもあの時に戻れるなら、まずは謝罪したい。意地悪なことをしてしまってごめんなさい、と。

(もう、色々と遅すぎるけど)

 無意識に暗い表情になる凛に、「大丈夫よ」と奥平は言った。

「何事にも遅すぎるなんてことはないわ。それに昔はともかく、今の籠宮さんをその子が見たらきっと、褒めてくれるはずよ」

 私が保証するわ、と奥平はウィンクをしたのだった。


   ◇―*◆*―◇


「――それじゃあ改めて。乾杯!」

 斉木がさかずきかかげるのに続いて、凛と奥平もまた「乾杯」と声を上げた。
 今宵の歓迎会会場は、会社の最寄り駅から徒歩十五分ほどの距離にあるイタリアンレストランだ。
 大通りから路地を少し歩いたところにひっそりとたたずむこの店はまるで隠れ家のようで、凛は一目ひとめで気に入った。店内に置かれたグランドピアノからかなでられるクラシックのBGM。壁には時代を感じさせる外国人俳優のモノクロのポートレートが飾られていた。
 斉木が選んだ食前酒は、白のスパークリングワイン。仕事終わりの今、冷えた炭酸が喉を伝う感覚が最高に気持ち良い。数年ぶりのお酒の味は、いろんな意味で身体にみた。
 そんな気持ちが表情に表れていたのだろう。凛がグラスを置くと、対面に座る奥平と斉木が笑いを噛み殺すように口元を震わせている。

「籠宮さん、実はけっこうイケるクチ?」
「強いかは分かりませんが、お酒は好きですよ?」
「分からないって? もしかしてどれだけ飲んでも酔わない、とか」

 まさか、と凛は首を横に振る。

「飲めばそれなりに酔いは回りますよ。ただ、二日酔いにはなったことがないだけで」
「十分強いと思うけど。ちなみにどんなものが好き?」

 ワインやカクテルは昔よく飲んでいた。ビールや日本酒はあまり飲んだことがないが、興味がある。凛は酒の種類には明るくないが、飲むのは総じて好きだ。

「――だって。飲み仲間ができて良かったな、裕子」

 突然の名前呼びに、なぜか凛の方がドキリとする。一方、斉木の隣に座った奥平は、瞳を輝かせて満面の笑みを浮かべていた。

「今度、美味しい居酒屋に連れて行ってあげる! 赤ちょうちんがあって雰囲気がいいのよー。お酒が美味しいしつまみも美味しいの」
「え、その店知らない、俺……」
「だって言ってないもの。徹に教えたら行きつけにするでしょう。嫌よ、そんなの。私だってあなたと飲みたくない時もあるの」

『裕子』『徹』。二人が仲の良い同期なのは有名な話だ。しかしこんな風に名前で呼ぶ場面は初めて見る。凛の向かい側に並んで座る二人の距離感や気安さは、業務中とはまた違っていた。

「あの」

 呼びかけると、二人は同時に凛の方を向く。

「もしかしてお二人は、お付き合いされていたり……?」

 そのシンクロ具合、テンポの良い会話。「裕子」と奥平の名を呼ぶ時の斉木は、見たことがないほど優しい表情をしていた。

「一応、ね。まあ、付き合ってはいるけど、半分は腐れ縁みたいなものよ」
「裕子とは大学時代に、留学先で出会ったんだ」

 二人は母校こそ違うものの、語学留学のために渡ったイギリスで知り合ったという。
 偶然にもホームステイ先が同じだった二人は、遠い異国の地で距離を縮めていった。

「お伽噺とぎばなしに出てくるお城みたいなお屋敷でね。洋館っていうのかしら、薔薇園ばらえんはあるし、お休みの日にはパーティーもあったり……とにかく色んなことが新鮮だったわ」

 ホストファザーは会社経営も行っており、非常に多忙な人だった。そんな中、年の近い彼らの息子とは自然に仲良くなっていったのだ、と奥平は語る。

「そのホスト先の息子が、新社長。本当にイケメンだったの。年下じゃなかったら危なかったわね」
「恋人がいる前でそんなことよく言えるな?」
「あら、だって本当のことだもの」

 奥平はいつも以上に饒舌じょうぜつだ。うっすらと頬に朱を乗せて悪戯いたずらっぽく微笑む姿は、実に色っぽい。斉木は、そんな恋人の軽口に「ひどいなあ」と言いながらも、可愛くて仕方ないと感じているのが伝わってきた。

(いいなあ)

 仕事中は頼れる大人の女性。しかし今の奥平は、可愛らしい女性そのものだ。公私ともに支え合う二人の姿はとてもまぶしく、そして少しだけうらやましく凛の目に映った。
 イギリス。留学。海外。たったそれだけの言葉で、思い出してしまう人がいる。
 彼の選んだ服を今日初めて着たからだろうか。この一ヶ月の間で最も強く、長篠のことを思った。
 ――今の凛を見たら、長篠はどんな顔をするだろう? 
 たった一日、それもほんのわずかな時間を過ごしただけの人。それにもかかわらず、今日に至るまで彼の印象が薄れる気配は一向になかった。
 初めはなんて失礼な人かと思った。しかし彼に出会ってから少しずつ、凛の毎日は動いている。
 就職し、慣れないながらも働き、そして素敵な先輩と出会うことができた。
 それだけではない。凛は、誰かと食べる食事がこんなにも美味しいなんて久しく忘れていた。
 美味しいお酒を飲んで、他愛たあいのない話をして――何気ないはずのそれは、今の凛にとってはとても貴重なものだ。

(……長篠さん、か)

 もう会うことはないだろう、凛に幸運を連れて来てくれた人。そして、もう一人。
 奥平が留学時代を語る間、凛には長篠の他に思い浮かべる人がいた。
 彼女と違って、凛には昔を懐かしむような幼馴染おさななじみは存在しない。
 いたのはただ、幼い恋心から来る傲慢ごうまん我儘わがままをぶつけてしまった少年だけだ。

(……今頃、何をしているのかな)

 叶うならばもう一度だけでいいから会いたいと思う。その一方で、彼が実際に目の前に現れたら慌てて逃げ出してしまいそうな気がした。

「――っと、電話だ。悪い、すぐ戻る」

 思いがけない連絡なのか、着信画面を見た斉木は一瞬目を見開いた後、静かに席を立った。

「大変そうですね」
「今、人事異動前で上も下もバタバタしているから、仕方ないわ」

 おかげで会社で会うのがデートみたいなものよ、と奥平は肩をすくめた。

「でも、驚きました。お二人がお付き合いされているの、全く気付かなかったです」
「公私のけじめはしっかりつけないとね。まあ、アレコレ言ってくるような子は今の部署にいないと思うけど、バレると色々面倒だから。中身はあんななのに、あの人それなりにモテるのよね」

 確かに、と凛は思った。斉木は飛び抜けてイケメンという訳ではないが、すっきりと整った顔立ちはさわやかで、笑うとえくぼができるのが素敵、と部署でもひそかに人気がある。
 仕事の有能さは、三十四歳で室長の役職にあることで立証済みだ。もちろん厳しい面もあるが、部下の面倒見がいいところも人気の理由の一つらしい。

「私は、いいんですか?」
「私、人を見る目はあるつもりよ。多分、徹も」

 奥平と斉木。彼らとの付き合いはまだ一ヶ月と短いものの、凛にとってはすであこがれの先輩と上司だ。
 そんな二人にこうまで言ってもらえるのは本当に嬉しいし、ありがたい。
 その後すぐ、斉木が戻って来た。

「おかえりなさい。仕事?」
「あー……うん、まあそんなとこ」

 難しい案件でもできたのだろうか。再び席に着いた斉木は、なんとも微妙な表情をしている。困ったような様子の彼は、一瞬ううん、と悩んだ後、「ごめん!」と凛に対して突然謝罪した。嫌な予感がする。そして大抵、こんな時の予感は外れない。

(正社員取り消し? それともクビ? どっち!?)

 裁判官の判決を待つ心境の凛にもたらされた言葉は、予想外のものだった。

「もう一人ここに増えてもいいか? ……ってかもうすぐ来ちゃうんだけど」
「徹、まさか」
「そのまさか。――社長が来る」

 ……社長!? 

「す、すみません! 私失礼した方がいいですよね?」

 秘書課に在籍する凛は、当然社長とも面識がある。あちらが凛の存在を把握はあくしているかは定かでないが、お茶を出したこともあれば、少し世間話をしたこともあった。
 今月末をもってイギリス本社に栄転する社長は、六十代半ばの気の良いダンディなおじさまである。しかしいくら人が良いとはいえ、したの凛の歓迎会にまで顔を見せるほど暇な人物ではない。

「あ、社長って、新社長のことだよ」

 新社長。二人から見て年下の、超イケメン。年齢は、確か二十九歳。
 LNグループ現会長の末っ子であるその人は、凛と五歳しか変わらぬ若さで社長に就任することになった。
 仕事のできる人物で、その上容姿端麗たんれいとも噂で聞いている。
 奥平を筆頭に、普段はあまり異性の話題が出ない秘書課で、珍しく先輩たちが色めき立っていた光景を覚えているから間違いない。そう。名前は、確か――

「ああ、来た。――葉月はづき!」

 ドクン、と鼓動が跳ねた。
『葉月』。それが、新社長の名前。男にしては珍しい部類ではあるけれど、特段驚くような名前でもない。
 凛の動揺はきっと杞憂きゆうに終わる。新しい上司に失礼のないように挨拶をすればいい。
 そう、思っていたのに。

「いきなり悪かったね、徹。裕子も、久しぶり」

 背後から響いた聞き覚えのある声に、固まった。

(そんな、まさか)

 あり得ない。一瞬頭に浮かんだ考えを即座に捨て去り、凛は振り返る。
 ――ヘーゼルの瞳と、目が合った。

「……久しぶり、凛。それとも、こう呼んだ方がいいかな?」

 あの日、あの時と同じ声で、顔で、その人は微笑んだ。

「――『お嬢様』」

 なんで気づかなかったのだろう。
 止まり続けていた恋が、十数年ぶりに動き始める予感がした。


   ◇―*◆*―◇


 凛が小学生の頃、その親子はある日突然、籠宮家にやって来た。
 娘に興味を持たない実母に代わって凛の面倒を見るために雇われたその人は、ふわふわの砂糖菓子みたいな雰囲気の女性で、凛は一目ひとめで好きになった。そして、もう一人。

『初めまして、葉月です』

 ――なんて、綺麗な男の子だろうと思った。
 詰襟つめえりの学ランと短い黒髪が似合う年上の男の子は、固まる凛の前にしゃがみこむと、はにかむように微笑んだ。

『……っいや!』

 差し出された手を叩き落としたのは、他ならぬ凛自身だ。
 ほんの一瞬見惚みとれてしまった自分。それに気づかれたら、と思うと途端に恥ずかしくなったのだ。
 驚きに目を見開く彼とその母親を前に、顔を真っ赤にした凛は、高ぶる感情のままに叫んだ。

『さ、触らないでよ! 汚い、貧乏が移ったらどうするの!?』

 その後の一連の流れを、凛は忘れない。葉月の顔が強張ったのはほんの一瞬だった。一切の表情を打ち消した彼が代わりに浮かべたのは、貼り付けたような――人形のようにきれいな笑顔だった。

『これからよろしくお願いします、「お嬢様」』

 照れ隠し、なんて言い訳にもならない、あり得ない暴言。しかし彼は、怒らなかった。
 その後の凛は、葉月の母親を本当に慕っていた。
 いつも優しい彼女だけれど、凛が度を過ぎた我儘わがままを言うとそっとたしなめてくれる。
 多分、凛が最も素直でいられるのは、彼女といる時だったと思う。
 だからこそ、彼女と実の息子である葉月のきずなの強さを見せつけられるたびに、自分はどうしてもその中に入れないのだと悲しくて、腹立たしくて、いっそう彼に対してひどい態度を取ってしまった。

『いつもヘラヘラして気持ち悪い。何がそんなにおかしいのよ』
『あなた、父親がいないのよね。ああ、かわいそう』

 世間知らずの子供だったから。笑顔を崩したかったから。自分の方を向いて欲しかったから。
 ――どんな理由を並べても、言い訳になんかならない。
 それくらいひどい言葉と我儘わがままを、凛は言い続けた。それでもやはり彼は、人形のように整った顔に微笑を浮かべるだけだった。
 葉月に「お嬢様」と呼ばれるのが嫌いだった。でも、名前で呼んでほしいなんてお願いするのはプライドにさわったし、そもそも凛が彼に何かを頼むなんてこと、考えもしなかったのだ。

(一度くらい、素直になってみようかな)

 共に過ごし始めて数年。凛は、ひそかに決心した。
 自分も少しは大人になって、意地悪をするのも控えよう。
 いつまでも子供みたいにツンケンしているのは格好悪い。
 学校から帰宅するまでの車内、凛は速まる鼓動を抑えられず、終始ドキドキしっぱなしだった。ミラーに映る顔は真っ赤だったし、運転手に体調の心配をされてしまうほどに緊張していたのだ。
 ――しかし彼が凛を名前で呼ぶことは、ついになかった。
 二人が突然姿を消したあの日から、何度彼を想っただろう。
 考えれば考えるほど後悔ばかりが押し寄せる。
 しかしいくら凛が泣いても、癇癪かんしゃくを起こしても、彼が凛の前に姿を現すことは二度となかった。
 凛が癇癪かんしゃくを起こすたびに笑顔でたしなめてくれた葉月の母も、共に消えてしまったから。

(もう、知らない。あんな人たち、大っ嫌い!)

 会いたくて、声が聴きたくて――謝りたかった。でも思い出すほど心は痛くて、辛かった。
 だから凛は、自分の気持ちにそっと蓋をして、心の奥底にしまい込んだのだ。
 たまに考えることはあっても、時の流れと共に過去の物へと変わっていく。
 しかし、会社が倒産して、今までの自分のあまりのひどさを反省して――長篠と出会って、凛は少しだけ変わることができた。もしもう一度だけ会えたなら、今度こそ葉月に謝ろう。
 きっと、そんな日は来ないだろうけど。
 そう、思っていたのに。


「……『久しぶり』って、二人は知り合いなの?」

 奥平は目をしばたたかせる。その隣では、斉木もまた驚いた様子で対面の二人を――固まる凛と、そんな彼女を流れるようなエスコートで椅子へとみちびく葉月を眺めていた。

「個人的にちょっと、ね」
「いやいや、ちょっとって何だよ。どうしたら新社長が新入社員と『個人的に』親しくなる機会があるんだ?」
「それは……ね?」

 葉月はごく自然に凛の隣に座ると、意味ありげににこりと笑う。
 長篠が葉月で、葉月が長篠。その上彼は、奥平と斉木の昔馴染なじみで、新社長だという。ダメだ、意味が分からない。
 人間、キャパシティーを超えると本当に思考が停止するのだと初めて知った瞬間だった。

「お嬢様」

 不意に耳元でささやかれて、凛の肩がびくんと震える。

「……俺たちの関係、二人に話してもいい?」

 低くかすれた声に凛の頬は赤く染まる。どこからそんな声が出るのか――ただ質問されているだけなのに、甘いカクテルのような葉月の声に、胸の高鳴りが収まらない。

「以前、俺は彼女を――」
「待っ……」
「ナンパしたんだ」

 同じ屋敷で暮らしていた。我儘わがままだった凛に散々いじめられていた。その過去を暴露ばくろされるかと思っていた凛は、椅子から中途半端に腰を浮かしかけたところでピタリと停止する。はっと隣を見れば、作戦成功とばかりに余裕たっぷりに微笑む葉月がいた。
 ――やられた。
 明らかにこちらの反応を楽しんでいる姿に、凛の身体から力が抜ける。そんな事情など知らない斉木たちは、呆れたように葉月を見てため息をいた。

「ナンパって何やってるんだよ、お前……。大切な新人をたぶらかすのはやめてくれ」
「そうよ。せっかくいい子が入ってきてくれたんだもの。変なことしたら承知しないわよ」

 年上の友人らに一気に責められた葉月は、大げさに肩をすくめた。そんな仕草さえさまになっている。

「冗談だよ。会社の近くで男に絡まれている彼女がいたから、少し手助けをしただけ。その後、俺の買い物にも付き合ってもらったんだ」

 ね、お嬢様? そう、葉月は凛に同意を求めた。

(ナンパなんて、嘘ばっかり)

 あの日の葉月は、全て凛のために動いていた。助けてくれたのは本当。そして買い物の件も、彼の服を汚してしまったのは凛なのに、あんなにもたくさんの洋服を贈ってくれた。

「その様子じゃ、よっぽど楽しかったんだな」
「もちろん、最高の時間だったよ。せっかくのお嬢様との買い物中、徹に強制的に呼び出されるまではね」
「……ああ。だからあの時、あんなに機嫌が悪かったのか」
「そういうこと」


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