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憂鬱からの解放

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 那月吉良なつき きら

誰もが知っているであろう存在にいつしか俺はなっていた。

今日も雑誌の取材6件、テレビの収録1件、撮影4件、打ち合わせ2件。

過密スケジュールで朝から晩まで仕事をこなしていた。いつものように。

「那月さん次入りまーす」

撮影の現場スタッフから声が掛かる。


10代の頃からこの世界にいるからな。

青春時代に世間でいう普通の経験ができなかった。

恋愛して、制服デートして。

未だに憧れみたいなものがある。

でも、この世界で生きていくということはそういうことだと悟った。


なにもかも犠牲にして、その分、普通に生きていたら体験できないようなことも沢山経験させて貰った。

業界じゃ有名な人と会ったり、連絡先を交換したり、食事に行ったり。

グループとしてステージに立ったり、大歓声を浴びたり。


大勢のスタッフやカメラに囲まれて、世間が求める「俺」を築き上げてきた。

近いのに、遠い存在。

そんな日々に嫌気がさしていた。

「あの、吉良さん!」

……はあ?気安く話掛けてんじゃねぇよ。
こっちはてめーの名前も知らないのに。

なんて、嫌な自分が顔を出す。

そんな感情を押し殺して、もう条件反射となった表情を浮かべて声を掛けられた方へと対応した。

*

やっとの思いで今日の仕事は終えた。

俺はいつも気分転換のために、車を走らせて家路に向かう。

午前3時。

いつもと違う道を通って帰ったら、木々に囲まれた中、ポッと明かりが灯る店が見えた。

夜遅くまでやっているカフェのように見受けられた。

なんだか妙に気になって、車を停めて入ってみることにした。

ちょうど温かい飲み物が飲みたい気分だった。

こんな時間までやっているなんて珍しい。

少し入り組んだところに位置していて、人目につきにくい場所にある。俺にとって最適な場所だった。



「いらっしゃいませ」

扉を開けて店の中へと入ると、カランコロンと鈴の音が鳴った。

カウンター越しに20代前半くらいの若い女性が温かく笑顔で出迎えてくれた。

暗めの栗色の髪をひとつに束ねたストレートヘア。
肩までの長さくらいまであって、清潔感があった。
ぱっちりした二重に、くるんと綺麗に上がった睫毛。
少し茶色掛かった瞳が印象的だった。


一目見て、可愛いと思った。
決して顔のパーツが整っているだけじゃない。
その笑顔の温かさといい、なにか惹きつけられるものが彼女にはあった。


運命?

直感的にそう感じた。

…って、なに考えてんだ、俺。

すぐに冷静さを取り戻した。

第一、名前も知らないのに。

…疲れてんのかな。

こんなこと考えるなんて、バカみたいだ。

「オリジナルブレンドコーヒーひとつで」

注文した。

早く帰って、風呂に入って寝よう。

「ありがとうございます」

レジでお会計を済ませて、テイクアウトのカップに入ったコーヒーを受け取った。

「お疲れ様です」

彼女のその笑顔が営業スマイルだってことくらい分かっている。

それでも心に沁みた。

……飢えてんのかな、俺。


車に戻って、カップの蓋を取る。
コーヒーの香りが鼻をかすめる。
ひと口飲むと、香ばしいかおりと程よい酸味、バランスの取れた苦味が広がった。

ホットコーヒーで身体を温めて、今度こそ家路へと向かった。
心まで温まった気がした。



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