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第15話 魔法使い

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「お父さんは、“魔法使い”だったらしいんです」

 ――?

「は――?」

 お父さんが魔法使い……? ファンタジーやメルヘンじゃあるまいし、そんなことあるだろうか? いやそれよりも、情報源を礼香は『お父さんの友達』と言っていなかったか……だとすると何かの聞き間違いとか或いはそのお父さんの友人がかなりファンタスティックな物言いをする海千山千の可能性だってなきにしもあらずだろう――彼女を騙して利益のあった人物――いや、考えすぎか――?

「おくち、開いてますよ」

 もごもごと礼香は言った。耳まで真っ赤になっているにも関わらず俺の目の中にある感情を探るように、長い睫の下にある瞳の虹彩が揺れていた。

「あ、ああ――。もっと、細かく説明して貰ってもいいか? そうだな、最初はその――お父さんの友達っていうのは? ちょっと急に聞き慣れない単語が出てきたんで、脳みそが追い付いてないみたいだ。別に疑ってるわけではないんだけど……」

 そう言い終えた辺りで、礼香の視線は少し上を向いてそっと俺から目線が外れた。

「私が、しづるさんだと思い込んでた人のこと、です……。あれは何年か前のことでした。私がいつも通りに三咲浜でお祈りをしてた時、暗い砂浜の少し向こう側に、黒くて大きな人影があったんです。長い髪を後ろで束ねた、声の高い男の人でした。私、最初に気が付いた時はびっくりして、石を落としちゃって。それで真っ暗な中でその男の人が私のことに気が付いたのか、『何か落としたのかい?』って言ったんです。それで、私はお父さんの石を落としたって話をしたんですけど、そしたらその男の人はそのまま動かないまま踵で軽く砂浜の濡れた地面をくしゃっと蹴った後、こう言ったんです。『そのまま左に一歩、後ろに半歩下がった砂の中』って。それで石は本当にそこにありました。お礼を言ったら、『気にしないでくれ』って言って波打ち際を歩いてどこかに行ってしまったんです。それが初めて、お父さんの友達だって人にあった時のことです」

「その人とは何度も会ってるのか」

「はい。でも、一回も顔を見たことすらないんです――いつも暗い波打ち際で、じいっと海の向こう側にある地平線を眺めてはぼうっと立ち尽くしてるんです。けどいつもいるから、時々お話ししたんです。その人、優しくってなんでも静かに聞いてくれました。ある日、いつもなら私から話しかけるのに、あっちから話しかけてきてこんなことを言ったんです。
『その石、どこで拾ったんだい』
 私はお父さんに貰ったから、これはお父さんから貰ったものです、って答えたんですけど、そしたらその人はこう言いました。
『それはね、持っている人間も扱える人間も限られているものだ。人間の叡智を結集しても同じものは作れない。オーパーツ、アーティファクト、アトリビュート――言い方は数あるが少なくともそんなものを持っている人間とは一人しか出会ったことがない。そいつの名は――御薗仮那という』
 その名前を聞いた時、私本当にびっくりしたんです。だって、その名前は私のお父さんの名前だったから。名前しか覚えてないお父さんを知っている人がいて、そしてその人が私の隣にいるって思ったら、本当に奇跡にしか思えなくて。それで私はびっくりしてその人は誰で、お父さんが今どこにいるか知ってるかを聞いたんです。
『御薗仮那の古い友人だよ。君はじゃあ、彼の娘か。彼とは別れてしまっているようだけれど、心配はしなくていい。彼は生きている。言われた通りにしていれば、きっといつかどこかで会えるだろう。その石を決してなくさないように。それが君と彼の最も重要な繋がりになってくるから』
 そう言われて、私、とっても安心したんです。今までお父さんの思い出も、なにもかも全部朧気で、本当は全部全部全部、私が思い込んでいるだけでそんなものなくって、最初から私は天涯孤独で生まれてきて、その寂しさで狂って、勝手に妄想してただけなんじゃないかって、恐くて恐くて。でも、その人が私が私だと思っていたもの――こういうのを、存在っていうのでしょうか――それを肯定してくれたんです」

「礼香ちゃんのお父さんは御薗仮那って名前で、その名前を三咲浜にいたその人は知ってたのか。で、事情を聞けば君のお父さんの友人を名乗った、と」

「はい。その人が、お父さんのことを少しだけ教えてくれました。
『御薗仮那は“魔法使い”だ。――君のお父さんは魔法使いだ』
 そんなの、信じられませんよって私笑ったんですけど。そしたらその人、ちょっと卑屈そうに俯いて笑って……まあ、そうだよなって。で、聞いたんです。あなたは誰なんですかって、もう一度。すると、珍しく煙草に火を付けて一服してから。
『“なりそこないの魔法使い”だよ。君のお父さんみたいな本物の魔法使いにはなれなかった。結局何もできなかった、ただの弱虫だ』
 って本当に悲しそうに言って。でも、私はその人にとっても救われて、嬉しかったんです。それまで逢った誰よりも、私の存在そのものを知っていてくれた人。運命みたいに感じたんです。だから、そんなことありませんよって。石を見付けてくれた時、魔法使いみたいでした、って言ったら静かに頷いてました」

「そうか――」

 だからあそこまで俺のことをじっと観察していたのか……てっきりものすごく訝しまれているのかと自分の人相を疑ったものだが、ここまで聞けばようやっとその全貌が見えてきた。

「それっきり、三咲浜にその人は来なくなって。もう会えてないんです。でも、最後別れ際にこの石のもう一つの使い方、教えてくれたんです。しづるさん、ちょっとカーテンを閉めて電気を消して貰ってもいいですか?」

「……ああ」

 言われたままに病室を暗くする。お互いの顔が薄暗くなり、どこか室内が静かになったようだ。
 礼香は石の縄を解き胸元に寄せて、小さく呼吸を繰り返しながら瞼を粛と下ろし薄目を開けて、リラックスした姿勢を保っていた。
 すると奇妙なことに礼香の手元にある石は、プリズムの内側で屈折する微細な粒子のような複雑な光を放ち、暗い壁にプラネタリウムのような模様を紡ぎ出し始めた。

「……これは」

 蒼暗い夜の漆黒にグラデーションのかかった馬蹄形の闇、その上に砂糖を零したような光の渦が蜷局を巻いている。夏の大三角、その左下のカシオペア座、地面に沈むペガサス、真上にはりゅうとヘラクレスが睨み合って並んでいる――。

「夜空、か――」

 信じられない、という言葉すらも出ないままに俺はその異様な光景に呼吸を忘れて夜空を見つめていた。ただの石、だったはずだ。例えば中にライトを仕込んでおけば、こんな風に発光させることもできるのだろうか。いや、これはただ光っているわけではない。宇宙にある闇――暗黒の無限、その深遠にある虚無さえも表現している。ならこれは……超自然的なものなのか。

「はい、そうです。この石のもう一つの使い方は、こうして記録した夜空を映し出すことができるっていうことです。別れ際に、その人が一度だけやって見せてくれました。それを覚えてて、見よう見まねで真似っこしてたらできるようになったんです」
「本当に……魔法みたいだ」

 信じられない。いや、信じるしかないのかもしれない、けど、信じられない。

「私も、そう思います。でも本当なんです。冬にしたければ、冬の夜空を呼び出せば映せますし、いつかの夜空を思い浮かべれば、それで呼び出すことだってできるんです――でも、あの人はもっと明確に映し出すことができました。壁なんてなくてもです」
「すごいな……」

 それしか言えなかった。余りに現実離れした光景過ぎて、脳みその処理が追い付いていないのは明らかだった。けれど――本当なのだ。彼女の父親は魔法使いで、それを肯定する人がおり、そしてこうして……御薗礼香彼女自身もまた、尋常ではない力を有しているのだから。

「ふう……」

 彼女が一つため息を吐くと光は静かに収まっていき、病室は再び薄暗くお互いの顔が見えないくらいになった。
 闇に俺と礼香の姿が浮き上がった。

「本当に、あの人じゃないんですね」
「ああ、俺は魔法なんて使えない。ただの人間なんだ」

 手早くカーテンを引くと、目に陽光が突き刺さった。

「くう……。眩しいな」
「そうですね――まだこんな時間なんだ」
「朝から色んなことがあったものな……俺も気分的にはもうお昼の三時くらいの気持ちだよ」
「そういえば……悠里さん、遅いですね」
「そうでもないよ。アイツは自由人だからな。ふらっと出て行ったら暫く帰ってこなかったり、かと思ったら気が付いたら隣に居たり、よくわかんないヤツなんだよ」
「意外、ずっと一緒にいると思ってたのに」
「いやまあ、年数で見ればずっと一緒にいるって言っても全然違和感ないんだけどな。細かいスパンで見ると実はそうでもない」

 違う人と一緒にいて全く関わり合いのなかった時期もある。悠里が矢継さんに連れられて海外にいた時期だってある。そして――俺の中では、今も記憶の水底に沈んで深い瑠璃色の深海に埋めてある確執もある。本気で恋心を抱いていたかも知れない――いや今となってはあんなのを恋愛感情だとは言えないような感情だけれど――時期もある。鈍色の記憶、考えればどこまでも俺の人生は悠里ありきで、そして同時に――悠里は、俺の心の鏡でもあった。

「そうなんですか――。でも、羨ましいなあ」
「長くなりすぎると面倒なだけだよ。助かりはするけどさ、アイツは人使いが荒すぎるし、なにより……」
「なにより?」
「俺のことを信じすぎてる」
「ふふっ……」
「笑い事じゃないよ。こっちはそのせいで随分荷が勝ちすぎてる」

 一つため息を吐いて、ベッドの端に腰を下ろす。
 俺は、才能も努力する力も並大抵の人間かそれ以下だって自覚していた。その俺を頼る悠里は――決してそうじゃなかった。アイツは毎日のように同じことを繰り返し、研鑽し、それに一喜一憂することができた。目の前の挫折を怖がらず、自分の目的のために邁進し続けることができる強い心を持っていた。目的地などなくとも、己の理想に向かって進み続けられる愚か者と、一々足を止めて振り返ってしまう凡人。挫折しながらでも笑顔を絶やさず、必死に前に進み続ける悠里はきっとどこかで報われると確信があった。けれど俺は、そうじゃない。失敗を怖がって、後ろを向いて、叫びそうになりながらにじり寄るように風を避けて進んでいく。どちらが最後に遠くまで行けるだろう? そう考えた時、俺は最後まで悠里を導けないに違いなかった。――悲しき凡人の性。俺は悠里の慕うおじさんのようにはなれない。本当にそう思い始めていた。その熱量、専門性、探究心、どれをとっても俺には足りなかった。いつまでも、悠里は俺のことを頼ってくれるだろう……けれど、その時に俺が悠里を助けてやれることなんてなくなってしまったら?――きっとそれでも俺のことを信じて、言うとおりにしようとするに違いない。そして失敗して、『悠里ちゃん、ま~た失敗しちゃったよ』なんて誤魔化して笑うに違いない。けれどそんな現実が存在してしまったら、俺は耐えられないに違いなかった。

「不安、なんですか?」

 知らず表情が曇ったのか、礼香は俺を気遣うように聞いてきた。

「――そんなことないよ。ただ、一緒にいる時間が長ければ長いほど、見てはいけないものに気が付いてしまうってだけでさ」
「私も、ちょっとわかる気がします。蕾、なんでもできるいい子だったから。お勉強も運動も、力仕事もお買い物もお料理もできたから。私なんか居なくたって、きっと一人でも暮らしていけるって。でも、それでも蕾はずっと私に付いてきてくれたんです。『お姉ちゃんと一生一緒にいるって、俺もう決めてるんだ。守ってあげるから』ってずっとずっと。でも、私はきっと蕾と一緒に居続けたらいつかあの子のお荷物になっちゃうなって思うとちょっと苦しかったんです。蕾のことが大好きで、一緒に居たくて、でもそうしたらきっと蕾は幸せにはなれないだろうな――って。だから、蕾が家出した時、心のどこかで安心したんです。もう、蕾のこと何も心配しなくっていいんだなぁって。いなくなって悲しくて、どうしようもないのに安心してて。訳がわからなくなって。自分はなんて酷いお姉ちゃんなんだろうって」

 唇をぎゅっと噛みしめて、礼香は必死に呵責に耐えているようだった。
 礼香の髪が白いアネモネの花弁のように揺れて、外の陽炎と被って見えた。

「蕾くん――か」

 俺は、そろそろ話さねばならないのかも知れない。そう思い始めていた。
 彼がどこにもいないということを。
 家にも、どこの病院にも、町中にも、あるいはこの世界の中にも。
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